今夜のアリーナ周辺の道路は、警備のために関係車両以外は進入禁止となっていた。
その厳重な警備は、交通『整理』と言うより『封鎖』と呼んだ方が正しいだろう。
一台の車が封鎖されている方面へ向かおうとすると、警戒心を露わにした警官達に取り囲まれた。
皆、防弾プラスティック製の盾を構え、どんな事態にも対応できるように気を張っている。
「今日はこの方面は終日通行止めだ。関係者以外の通行は禁止されている。」
相手を萎縮するためだろう。横柄な態度で警官の一人が車の中を覗き込んだ。
その警官の態度に運転席の男は呆れたように首を振る。
男の態度が気に障ったのか、警官の眉間に皺が寄り表情が険しくなった。
「通行許可証を持ってないのなら、さっさと引き返してもらおう。
いや、ちょっと待て。あんたの顔、どっかで見たような気がするな……一応身分証を検めさせてもらう。」
もしもここで男が免許証の提示に難色を示そうものなら、それを理由に色々と難癖をつけるつもりなのだろう。
だが運転席の男は素直に懐から黒い手帳を取り出し、横柄な警官へと手渡した。
それを開いた警官の表情が一変する。
「し、し、し、失礼しましたッ!」
真っ青な顔で慌てて男に手帳を渡し、姿勢を正し敬礼する。
男は冷や汗を流している警官に、気にしなくて良いからと手を振り車を発進させた。
だが、そのまま走り去る前に一度停車し、先程の警官に声を掛ける。
「これは今夜のコンサートの警備だと思うが、妙に物々しいね。
何か異常事態でもあったのかい?」
ホッとした所にいきなり声を掛けられ、警官は哀れな程に動揺していた。
背筋をピンと伸ばし、敬礼の姿勢のまま声を張り上げる。
「ハ、ハッ!
特に何かがあった訳ではありませんが、先日パトカーへの進路妨害及び破壊工作を行った者がおりまして!
それに良く似た車両が本日の昼頃確認されたために、特別警戒態勢であります!」
男はふむと頷き周囲に目をやる。
アリーナ方面の検問だけでなく、アリーナ周辺のパトロールも行われているようだ。
「そうか……いや、御苦労様。警備の方を続けてくれ。」
今度こそ走り去って行った車を、警官は敬礼の姿勢のまま見送る。
視界から外れた所でようやく安堵したのか、力無く地面にへたり込んでしまった。
その憔悴しきった様子に、同僚が何事かと近寄ってきた。
「おいおい、どうしたんだ。今のヤツは何者だったんだよ?
もしかして、偉いさんにでも失礼かましたのかぁ?」
楽しそうにニヤニヤと笑う同僚に、警官は苦々しい表情で先程の男の事を説明してやる。
それを聞いた同僚も、先程の警官と同様に真っ青な顔で飛び上がった。
「マ、マジでか!?
あのICPOの捜査官だったのか!?」
「ああ、間違いない……手帳も確認したしな。
どっかで見た事あるって、当たり前じゃねぇか……一時期あれだけテレビに出てたんだから。
くそ……俺のバカ……網走にでも飛ばされちまったらどうしよう……」
うな垂れる警官に、同僚も気の毒そうな視線を送るしかなかった。
「や、やだなぁ、おキヌちゃん。
シロとタマモだよ。あいつらも来てるんだよ?」
何かの冗談かとも思ったが、おキヌはおどけているようには見えない。
ただ純粋に、知らない名前に首を傾げているのだ。
「……横島君、ちょっと外まで来なさい。
おキヌちゃんはシルキィとゆっくり休んでてね。」
先程の雪之丞と相対した時と同様、美神が横島の腕を掴み、楽屋の外へと強引に連れ出す。
横島が出て行く時に少し残念そうな顔をしながらも、おキヌは素直に頷き、ハーイと元気良く美神に返事を返していた。
外に連れ出された横島は、戸惑いを隠せない。
「おキヌちゃん……?」
横島は誰に聞くでもなく、呟く。
「おキヌちゃんは……いや、あのおキヌちゃんがそんな事するはずもない……」
美神に手を引かれながら、何とか先程のおキヌの態度を理解しようと努力したが、到底無理な話だった。
「……一体どういう事です、美神さん?」
楽屋から角を一つ曲がったフロアの端。
美神に原因を確かめようと、しかしどうしても大きくなってしまう声が、貸し切りのフロアに響く。
「何なんですか、さっきのあのおキヌちゃんは? 一体どういう事です!?」
横島は自身の声に驚かされた。
だが、先ほどのおキヌの態度は、いかな年月が過ぎたとはいえおキヌの物とは思われない。
思いたくもない。
事務所の仲間を忘れたフリをするだけでも悪質だというのに、それがフリではないとなると冗談では済まされない。
「一体……どうしたってんです……?」
それまでは押し黙り横島と顔を合わそうとしなかった美神が、ぐっと横島の胸元を掴み黙らせる。
横島のシャツを掴む指先は、込められた力のせいで真っ白になり、その肩は微かに震えていた。
そして顔を上げ横島の瞳を捕らた、美神の瞳に浮かんでいたのは、紛れもなく深い悲しみだった。
「馬鹿な事を言ってんじゃないわよ……おキヌちゃんが……おキヌちゃんが、シロとタマモを忘れたフリをすると……アンタは本気で思ってんの……!?」
肩を震わせる美神の姿に、横島も自身の軽率な発言に気付いていた。
おキヌがそんな薄情な真似をする女性ではない事など、横島とてわかりきっていたのだ。
れなら、先程の態度は何だったというのか?
「あの娘は……おキヌちゃんは……本当に憶えてないのよ……
それも、あの二人の事だけじゃない! 彼女は日本で過ごしてた頃の――いいえ、それだけじゃない!
あの娘は最近の記憶でさえ、もう殆ど憶えてないのよッ!!」
怒りをぶつけるように、美神は横島を壁に押しつけ一気にまくしたてた。
その言葉の意味が理解できない横島は、どう反応すれば良いかすらわからず、ただ立ち尽くしている。
暴発した感情に引きずられたのか、美神の瞳から一筋の光が零れた。恐らく本人の意に反したものなのだろう、美神は乱暴に拳で涙を拭った。
涙を見た横島は、咄嗟に美神の肩に手を回し、慰めるように胸に抱こうとする。
だが、美神の肩に手が触れる寸前、思い留まり手を下ろしていた。
「何でですか……どうして、おキヌちゃんがそんな事になっちゃったんですか……?
さっきだって、別に全然元気そうだったじゃないですか……昔と同じおキヌちゃんだったじゃないですか……」
いきなり残酷な結果だけを押し付けられても理解できない。理解したくない。
横島でなくとも、そう思っただろう。
「私も最初は気付かなかった……異変に気付いたのは三年くらい前……
アジアのとある国を訪問した際に、トラブルに遭遇したのよ……それがきっかけだったわ……」
それは横島もニュースで聞いた覚えがあった。
「それって、もしかしておキヌちゃんが誘拐されたって事件ですか?
たしか報道だと、特に何事も無く解決した、って話でしたけど。」
美神は力なく首を振る。
マスコミへの情報は操作されていたのだ。
本当は、そんな簡単な話ではなかった。
「いいえ……それは事実とは違うわ。
何があったかを言うつもりはないけど、その後しばらくおキヌちゃんは塞ぎこんでたのよ。
殆ど他人と話そうともせず、ただ毎日淡々と慰霊をこなしていたわ。」
アーレ・ルギア解放戦線との一件は、たとえ相手が横島でも、決して明るみに出せるような話ではなかった。
「それがある時を境に、急に元気になったの……私も気になっておキヌちゃんと話をしてみたわ。
色々と聞いてみても、どうにも話が噛み合わなかったのよ。おかしいと思ったら、やっぱりそうだった……
おキヌちゃんの記憶から、その一件が完全に抜け落ちてたのよ。」
横島は困惑した表情で、話の続きに耳を傾ける。
「不安になって、色々と質問してみたの。そしたら、その一件だけじゃなかった。
彼女の記憶には、その時すでに様々な欠落した部分があったのよ。
アーレ・ルギアの一件が契機になったのか、それともその前から記憶の喪失は始まっていたのか……それはわからない。
確かなのは、慰霊をこなすごとに彼女の記憶は失われていったという事実だけ……」
「ちょ、ちょっと待って下さい!
その言い方だと、原因がわかってるみたいじゃないですか!」
慰霊をこなすごとに記憶が失われる。確かに美神はそう言った。
おキヌの記憶喪失の原因が慰霊にあると、そう言ったのだ。
「原因は……そうね、わかってるわ。
慰霊によるネクロマンサーの能力の酷使……それが私の結論よ……」
目を伏せたまま、ポツリと呟かれた美神の言葉。
「――――それが」
その言葉に、今度こそ横島の感情は爆発した。
「それが原因だとわかってるなら、すぐにやめさせろよッ!
アンタが傍にいて、何でこんな事になるまで続けさせたんだ!!」
今まで、こんな乱暴な言葉使いを美神にした事はなかった。
だが今の横島はそんな事に気を回せるような状態ではなかった。
「止めたわよッ! 私は何度も止めたわ!!
でも、私が何回言ってもやめようとしてくれなかったのよ!」
「だったら、力ずくでも何でも良いだろうが!
アンタがその気なら、何とでも出来た筈だろ!?」
思わず横島の口から出た追及の言葉。
だが、それに返されたのは、美神の身を切るような叫びだった。
「私にはもう力なんて無いのよッ!!」
その叫びに、横島もハッと口を押さえた。
先程までの激情は完全に影を潜め、今の横島の瞳に浮かぶのは後悔の感情だけだった。
美神への今の言葉は、それ程までに軽率だったのだ。
「金や権力でどうにか出来るのなら、とっくにそうしたわよ!!
でも無理だったのよ! おキヌちゃんの後ろ盾は国連なのよ!?」
霊力を失った美神が、たとえ攻撃向きの能力ではないといえ、一流の霊能力者のおキヌを力でどうにかするのは無理な話だった。
そしてどれだけ美神に財力があったとしても、それは個人レベルの話だ。
国連を相手に、おキヌの任を解くように脅迫するなど不可能な話だった。
もしもおキヌの任が解かれる事があるとするなら、それは本人が申し出た場合のみだろう。
だが、おキヌはそれを望まなかったのだ。
「あいつらはおキヌちゃんに慰霊を続ける事を要求した!おキヌちゃんもそれを望んでた!!
私が何を言っても『皆さんのお役に立ちたいから』って頑として聞き入れようとしなかった!!
しまいには私を解任してでも続けるって言い出したのよ!? 私に何が出来るって言うの!?
私に出来る事は、せめて傍でおキヌちゃんに危険が及ばないようにする事くらいだったのよッ!!」
一気にまくし立て息を切らせた、美神の荒い吐息だけが静まりきった廊下に木霊する。
向かい合う二人は口を開く事も無く、ただじっと立ち尽くしていた。
息を整え、美神が小さく呟く。
「だから……あの時、逢わないでって言ったんだけどね……
素直に言うこと聞く性格じゃない、か。」
「……すいません。
でもきっとこの性格って、美神さんに似たんじゃないですかね。」
二人は力無く笑い合うと、休戦を申し出るかのように肩を落とした。
全ての演奏が終了し、感動の余韻をたっぷりと楽しんだ観客達も、徐々に席を立ち始めていた。
上階のBOX席では、意識を取り戻したシロとタマモがまだソファーに腰を下ろしている。
飲食物のサービス等が受けられるためBOX席はかなりくつろげる空間となっていた。
そのためか、まだ席を立つものはいなかった。
「むう……先生に何かあったのであろうか。結局姿を見せなかったでござる。」
心配そうに携帯をチェックするシロ。
だが横島からのメールや着信は入っていなかった。
そわそわと落ち着かない様子のシロに、タマモが呆れたように呟いた。
「ほっときゃ良いのよ、あんなヤツ。
どうせそこらで女の子でも口説いて――――あ、嘘、冗談だってば!」
軽口を叩いたつもりだったのだが、シロの目が座っている事に気付き慌てて取り消す。
恐らく、内心ではシロも同じような事を考えていたのだろう。軽口をあしらう余裕が無いようだ。
しかし先程の不思議な体験を思い出したのか、皺の寄った眉間から力が抜け、穏やかな表情へと変わる。
「……タマモ。」
天井を仰ぎつつ、タマモに声を掛ける。
シロの表情の変化から、タマモも相手が何を話そうとしているか察していた。
「うん……私も見た。」
そうか、とシロが小さく呟く。
だがそれ以上は口を開かず、二人は押し黙ったまま天井を見上げていた。
「ずいぶん長話だったんですねぇ。ちょっと待ちくたびれちゃいましたよ?」
もう、と頬を膨らますおキヌ。
だが別に怒っている訳ではなく、ちょっとした抗議のつもりなのだろう。
すぐに機嫌を直し、楽屋に戻ってきた横島に寄り添って嬉しそうにしている。
「おキヌちゃん……悪いけど、もうあまり時間が無いの。
そろそろここを出ないと、記者会見に間に合わなくなっちゃうわ。」
腕時計を確認し、美神が申し訳無さそうに告げた。
コンサートの後はこれからの日程を発表するための記者会見が予定されているのだ。
しかし、おキヌせっかく横島と逢えたのにまだ殆ど話もしていない。
珍しく美神の言う事を聞かず、わがままを言う。
「えー、そんなのズルいですよぉ。美神さんばっかり横島さんとお話しして。
せっかく久しぶりに逢えたんだし、私だってもっとお話ししたいです。」
横島の腕にしがみつき、恨めしそうな目で美神を見やる。
横島としては自分に隠れるようにしているおキヌを可愛らしいと思いつつも、果たしてどちらの味方をするべきか。
「ちゃんとお仕事はスケジュール通りに進めないとダメなの。
そんなワガママ言ってたら、たくさんの人に迷惑がかかっちゃうんだから。
おキヌちゃんもそんな事したくないでしょ?」
うー、とおキヌが上目遣いに美神に懇願するが、こればかりは譲ってくれないようだ。
マスコミだけが相手なら多少待たせておけば良いのだが、記者会見の後は国の役人との打ち合わせが控えていた。
さすがに彼らを待たせる事は出来ない。
「えーと、おキヌちゃん。別にもう逢えないって訳じゃないんだし、また今度にしようよ。
確か、しばらく日本にいるんだよね?また逢う機会はきっとあるって。」
その言葉とは裏腹に、もう横島はおキヌと逢うつもりはなかった。
何もおキヌと逢うのがイヤなのではない。それどころか、自分だってもっとおキヌと話をしたい。
だが、少なくとも、今は逢わない方がおキヌのためだと思ったのだ。
そして、それとは別に、横島は内心恐怖を感じていた。
もしも次に顔を合わせた時、おキヌが自分の事を忘れていたら。
先程のシロとタマモの名前を出した時の反応をされたら。
きっと自分はどうしたら良いかわからなくなってしまうだろう。
「いーやーでーすー!
二人だけお話しして、私だけのけ者なんてズルいです!」
珍しく頑なな態度のおキヌに、どうしたものかと美神は頭を抱える。
すると、それまで黙って事の成り行きを見守っていたシルキィが進み出た。
「美神令子、私が代理で会見に出席するわ。
マスターの能力の使用が不要であれば、私でも充分に対応できる筈よ。」
その提案に、苦い表情を浮かべる美神と対照的に晴れやかな笑顔を浮かべるおキヌ。
だが、横島は冷たい視線をシルキィに浴びせ、疑わしそうに問い掛ける。
「お前が代理だって?
訳のわからんヤツが代理じゃ、誰も納得しねーだろ。」
美神とおキヌは、横島の表情に浮かぶ冷徹な視線に言葉を失う。
横島のそんな視線は、昔事務所で一緒だった頃、一度も目にした事が無かった。
「あ、あの横島さん……シルキィが何か悪い事でもしちゃったんですか?」
怯えたようにおずおずと横島を見上げる。
その泣き出しそうなおキヌの表情に、横島は自分の表情の険しさを初めて自覚した。
慌てておキヌを安心させようと笑顔を浮かべる。
「い、いや、何でもないよ!
ちょっと気になっただけだし!」
取り繕う横島をよそに、シルキィは目を瞑り、何やら人の耳では聞き取れない詠唱を開始していた。
すると詠唱に合わせ、シルキィの身体が徐々に変化し始める。
透き通るライトブラウンの髪は、艶のある漆黒の髪に。
紺碧の瞳も、茶色がかった黒い瞳に。
おキヌの胸辺りまでしかなった身長が、おキヌと同一の身長へと。
幼かった顔立ちも、成熟したものへと変化していく。
急激な骨格の変化、と言うより、まるでビデオの早送りで成長の過程でも見せらているのかと錯覚しそうな程、その変化は滑らかで自然だった。
幼い少女の姿から成熟した女性へと成長したシルキィを前にし、横島は最初に感じた既視感の正体を知った。
シルキィのあの幼女の姿は、おキヌを模倣したものだったのだ。恐らく、おキヌの幼い頃の姿は先程までのシルキィの姿と瓜二つだったのだろう。
詠唱が終わる頃、双子以上に似通った二人の女性が並んでいた。
片方がロングコートを着ているので、そちらがシルキィだと判別は出来る。
だが、それが無ければ――それこそ、同じ服でも着ていようものなら――まず外見からの判別は不可能だろう。
「後はマスターの衣服をお借りすれば大丈夫でしょう。
些事は私に任せ、マスターはどうかその者との逢瀬をお楽しみ下さい。」
「そんな、声まで変わって――――って、おいおいおい!」
シルキィの変化に絶句していた横島だったが、シルキィの次の行動に思わず声を上げてしまう。
着替えのためにロングコートをおもむろに脱ぎだしたシルキィだったが、その下には何も着用していなかったのだ。
きめ細かな美しい白い肌と、形の良い乳房を惜し気もなく晒している。
もう自分は女性の裸に免疫が無い、初心な少年では無い。
だが、今のシルキィの取っている姿が問題だった。
どういう状況か気付き、真っ赤になったおキヌが慌てて横島の目を塞ぐ。
今のシルキィの姿は爪先から頭のてっぺんまで自分と同じなのだ。
「わーーーーーッ!見ちゃダメです横島さん!絶対に見ちゃダメですからね!!
シルキィも、急に脱いだりしちゃダメ!」
「マスター?
どうかされたのですか?」
「良いから早く着替えてーーー!
横島さんも指の隙間から見ようとしちゃダメーーー!」
見てはいけないと思いつつも、やっぱり見たい横島だったが、おキヌの全力の防御により阻まれてしまったのだった。
「さて、それでは私は次の予定が控えているのでね。そろそろ失礼させて頂くよ。
君たちはまだ残るのかね? もし良ければ都心まで送ってあげられるが。」
席を立つ東堂が、まだ残っているシロとタマモに声をかける。
ここから通常の手段で都心まで戻ろうとすれば電車を利用するしかないが、混雑しているのは間違いない。
だが許可証を持つ東堂ならば交通規制に引っ掛からないため、車で移動する事が可能だった。
「どうする、シロ? 正直、私は満員電車苦手なんだけど。」
送ってもらえるのなら是非そうしてもらいたいタマモだったが、シロは難しい顔で考え込んでいる。
結局、未だに横島から何の連絡も無いのだ。勿論姿も見せていない。
「うー、拙者はもう少し待つでござるよ。」
やれやれと肩をすくめると、タマモは相棒の意志を尊重し、東堂の誘いを丁重に辞退する。
「せっかくだけど――ですけど。私達は遠慮させて頂きます。」
慣れない敬語を使おうとし、話しにくそうなタマモに東堂が微笑みかけた。
「君達に人間の文化を強制しようとは思わんよ。
あまり目に余るような言動では問題があるが、多少の言葉遣いに目くじらを立てるつもりは無いのだからね。」
それでは良い夜を。
穏やかな表情のまま背を向け、東堂は去っていった。
「ふぅん……まともに会話したのは今日が初めてだけど、変な人間だったわね。」
「自分達の非を認められる、大きな御仁であったな。
タマモも、あのような傑物の下で働くのなら安心でござろう?」
二人は東堂の印象として、唐巣神父と似ているが別の種類の懐の深さを感じていた。
GS協会という組織を率いる事ができるだけの器は持ち合わせている、というのが二人の共通の感想だった。
だが違う感性を持つ二人は、それぞれ別の何かも感じ取っていた。
――――あの老人、穏やかなだけじゃないわ。何か抱え込んでるわね。それも、とびきり重たい物を。
タマモは東堂が何かを隠していると感じていた。
誰にでも隠し事の一つや二つはある。だが、そういう日常的なモノではない。
何か重厚なモノを少しずつだが着実に積み上げていくような、そういう無機質なモノ。
あくまで直感なので細かい内容はわからないが、その中身は決して穏やかなモノではない。
研ぎ澄まされた妖狐の第六感がそう嗅ぎ取っていた。
――――演奏が終わった後の東堂殿の様子は妙であった。拙者達のように感動の余韻に浸るといった訳でもなく、まるで期待通りの結果を示した実験でも見るかのような。あれは何を意味していたのか。
演奏が終わり、シロは亡き父との交流に胸のつかえを降ろしたような心境だった。
タマモを見てみると、普段の澄ました顔は何処へやら。ハンカチで顔を隠し、精一杯流れた涙を隠そうとしていた。
そしてその時に、タマモの隣にいた東堂の姿も目に入った。
東堂も自分たちと同様、涙を流し感動の余韻を噛み締めていた。
だが、その瞳には別の光も宿っていた。自分達の、悔いのある過去に対する満足とは違う。
それは、未来に待つ期待。シロにはそう感じられた。
と、その時、シロが握っていた携帯電話が震えだした。
ようやく横島から連絡が来たのかと、喜び勇みつつ画面を覗き込む。
届いたメールを開き、本文を読み進めていたシロの目がスッと細くなった。
突如、弾けるような音が響き、タマモが何事かとシロの方に目をやる。
「せ・ん・せぇ・の……」
シロの握力により、ディスプレイに亀裂が入った携帯を握り締めワナワナと肩を震わせていた。
沸々と湧き上がっている相棒の怒りを感知し、タマモが同情交じりの視線を向ける。
「バカーーーーーーーーーッ!!」
遠吠えのように叫ぶシロの携帯には、横島からのメールが表示されていた。
――――すまん、シロ。急用が入っちまったから今日は会えそうにない。この埋め合わせは必ずするから、ごめんな。
アンタって本当に男見る目が無いわね。
内心そう呟きながら、荒ぶるシロを横目に、タマモがやれやれと首を振っていた。
「うわぁー、コレ横島さんのバイクなんですか?」
アリーナの裏手の関係者専用駐車場の外で待機していたおキヌが歓声を上げる。
本来、出入りには厳重な本人確認が必須なのだが、美神が既に警備に手配していたので二人はフリーパスだった。
「ああ、免許取ったんだ。車も良いけど一人で行動するならバイクの方が便利だからさ。」
嬉しそうに手渡されたヘルメットをかぶるおキヌの姿に、横島は罪悪感を覚える。
元々、シロを乗せるために用意した物だったのだが、世の中思った通りにはいかないものだ。
「それじゃ、行こうか。おキヌちゃんはどこか行きたい所ってあるの?」
おキヌは私服に着替えていたので、ある程度なら人目がある所でも大丈夫かもしれない。
何とかタンデムシートに跨り、横島の腰に手を回しながら、おキヌは考え込む。
日本に戻ってきたのは久しぶりなのだ。年頃の女の子なら買い物や遊べる所を選ぶのだろうが、おキヌは違った。
「どこでも良いですよ。横島さんと二人っきりになれるところなら……」
自分の背に頭を預け、幸せそうに微笑んだりしているのだ。
横島でなくとも、それじゃあ二人きりになれる場所に……と良からぬ事を考えてしまっても無理はない。
――――おキヌちゃん、無防備すぎだってば。くぅ、頑張れ俺! 今夜だけは煩悩を制御するんだ!
しかし二人だけで出歩く条件として、絶対におキヌちゃんに手を出さない事を誓わされていた。
当然の処置として簡易誓約書にまでサインさせられたので、もしも手を出そうものなら契約の神であるエンゲージに寿命の半分を持っていかれかねない。
据え膳食わぬは男の恥、を信条としている横島とて、流石に寿命の半分は痛すぎる。
横島が日本に戻ってきて、まだ一月程度しか経っていない。
だが横島の溢れんばかりのバイタリティにより、既に関東一円のデートスポットは完璧に把握していた。
横島は自分のデータベースの情報と、今自分たちが置かれている状況を照らし合わせ、ベストの場所を思案していた。
「……どこに行くか、なあ。
通行パスがあるから通り抜けられるとはいえ、今は混雑してるだろうからお台場から抜けるのは時間かかるし、遠くまで行ったら約束時刻まで戻ってこれないし。
都心に出れば人も多いからなあ……」
お台場からは新橋、川崎、もしくは千葉の新木場あたりに抜けるルートしかなく、いくら私服でわかりづらいとはいえ、人の多い場所は危険でもあった。
かといっておキヌを連れて二人きりになれる場所はありそうもなかったし、仮にあったとしても、とてもデートの雰囲気を醸せる場所でも無かった。
「あ。」
「どうしました?」
おキヌが肩越しに問いかける。
横島は自分の思いつきを確かめるようにセルを回し、エンジンに火を入れた。
「すぐ側に、良い所があったよ。そこに行こう。
急ぐ物でもないけど、しっかりつかまってて。」
「え、あ。はい!」
おキヌは、腰に回した手に力を込める。
力の入った腕を横島は何度か軽く叩く。
数瞬後ろを振り返っておキヌと目線を交わし、アクセルを静かに開けて走り出した。
記者会見が行われる都心へと戻る車の中。
護衛の車を前後に、一台の軽自動車が速すぎず、遅すぎもしない速度で道路を走っていた。
それは一見すればただの軽自動車にしか見えないが、バズーカ砲の直撃にすら耐えうる完全防弾仕様に加え、エンジン部分にも大幅な改造が加えられた特別製。
ハンドルを握る美神は先程の横島との会話を思い返していた。
互いに感情をぶつけ合った直後。
不毛なやり取りになるのを避け、二人は苦笑いで休戦に応じあった。
話題を変えようと、横島が先程から抱いていた疑問を投げかけた。
「……美神さん。『アイツ』は一体何なんですか。」
「『アイツ』って?」
突然の話題の転換に美神が首を傾げる。
久しぶりに顔を合わせているというのに、前置きの無い質問では何を指しているのかわからない。
「アイツですよ……おキヌちゃんの使い魔とかいう……」
シルキィの事か。
だが、妙に横島の口調に棘があるのが気になる。
おキヌが戻るのを待つ間に何かあったのだろうか。
確かに、シルキィはおキヌには恭しく接するが、自分への対応はぞんざいな事が多い。
それなりに長く顔を合わせている自分にも懐かないのだ。初対面の相手に友好的に応対するとはとても思えない。
「横島君はずっと楽屋にいたのなら、おキヌちゃんの演奏を聴いてないのね。
実際に一度聴いてみたらわかると思うけど、あれだけの効力を発揮するにはシルキィが造った特別製のネクロマンサーの笛じゃないと――――」
「そうじゃなくて!」
説明の言葉を、突然強い口調で遮られた。
敵意と呼べる程に厳しい言葉に、思わず美神はびくりと身体を震わせてしまう。
「俺が聞きたいのは、アイツは信用できるのかって事です!」
本当に何かあったのかもしれない。
そうでなければ、横島のこの敵意の理由がわからなかった。
「人外だから信用できない、なんて事は決してないわ。
そんな事、わざわざ私達が確認するような事じゃないでしょう?」
人狼のシロ。九尾の狐のタマモ。吸血鬼のピート。
今は姿を消しているが、かつて共に戦った神族や魔族の面々。皆、信頼できる仲間だ。
それに何より、アシュタロス事件で出逢った彼女も人ではないのだから。
「違うんですよ……俺には、アイツが信用できるとは思えない……」
何があったのかは知らないが、頑なにシルキィを否定する横島の態度に、次第に美神も苛立ちが募ってきた。
少なくともアーレ・ルギアの一件の際、シルキィは自分の身体を犠牲にしてでもおキヌを守り抜いた。
四年前、何も言わずに姿を消したというのに、突然現れて口出しするのは筋違いだ。
「横島君。何も知らないのに口出しするのはやめて。
シルキィはおキヌちゃんの事を第一に考えて行動しているわ。
たとえその動機が私達には理解できないものだとしても、私はシルキィを信用しているの。」
魂の輝き云々という話は美神も聞いていた。
それは、とても自分達人間の価値観では理解できるものではなかったが、おキヌに忠実なのは確かなのだ。
無論美神とて最初から信用していた訳ではないが、アーレ・ルギアの一件の後は考えを改めていた。
だからこそ、新しく用意した誓約書に誓約し直す事で、多少の自由は許可していた。
だが、結局はその与えられた自由すらも、おキヌのために活用する事が大半なのが現状だった。
「アイツはシロやタマモとは違う。アイツは人間を、物か何かとしか見ていない。
そんな奴が信用できるんですかッ!?」
――――パシィッ!!
感情に任せ、美神の平手打ちが振りぬかれていた。
美神の手の平がジンジンと熱を持っていたが、横島の頬を捉えてはいない。
横島は反射的に手の甲で防いでいた。
「もう、やめて……自分の事しか考えてない人間やゲスな人間なんて山ほどいるじゃない……!
それに比べたら、シルキィの方がよほど信頼できるわ! 少なくとも、私達は信頼しているの……!」
あっさりと防がれた事で、美神は自分の無力さを再び痛感していた。
横島もそれを感じているのだろう、反射的だったとはいえ、防いでしまった事を悔いていた。
せっかく先程の話題から外れたというのに、またも嫌な空気になってしまった。
「……わかりました。美神さんがそう言うのなら、俺もアイツを信用します。
色々と知ったような事言ってしまって……すいませんでした。」
素直に頭を下げる横島に、美神も気まずそうに目をそらす。
「わかってくれれば良いのよ。シルキィが変わってるのは確かだし。
さ……そろそろ戻らないと、おキヌちゃんが心配するわ。」
「ねえ、シルキィ。」
助手席に座り、景色を眺めているシルキィに声をかける。
中身はシルキィだが、その外見はおキヌと全く見分けが付かない。
もしも入れ替わっていると事前に知っていなければ、美神とて見分ける事は不可能だろう。
シルキィは、本来肉体を持たない精霊に近い存在だ。だが、それではおキヌに同行するのは困難だった。
各国を巡る際、いくら世界的に有名なおキヌといえど、正体不明の人外を連れての入国は難しいのだから。
そのため、付き人としての仮の姿を使うと共に、もしもの時にはおキヌと入れ替わる影武者の役目も同時に担う事になった。
アーレ・ルギアでの事件の失敗は、身内の裏切りのせいで入れ替わる余裕がなかった事だった。
「どうしたんですか、美神さん? シルキィならここにはいませんよ。」
小首をかしげ、不思議そうな顔をするシルキィ。
声といい、仕草といい、完全におキヌそのものだ。
おキヌになりきっているシルキィに、美神はやれやれと溜め息をつく。
「この車には私とアンタしかいないんだから、今は演技しなくて良いのよ。
ちょっと、横島君の事で聞きたい事があるんだけど。」
暖かく、穏やかな雰囲気だったおキヌが、何処と無く無機質な雰囲気へと変化する。
「横島忠夫がどうかした?」
雰囲気が変化したのと同時に、僅かに声のトーンが低くなっていた。
全く同一の肉体でも、やはり内面によって微妙な差異が出るのだろうか。
「楽屋でおキヌちゃんが戻るのを待つ間に、何かあったの?
アンタ、かなり嫌われてるみたいよ。」
へえ、と興味無さ気に相槌を打つ。
わかってはいたが、シルキィはおキヌ以外の存在など眼中に無いのだ。
「別に大した事はなかったわ。気になるのなら横島忠夫に直接聞いてみたら?」
実に素っ気の無い受け答え。
もしもこれがおキヌからの質問なら、あった事を一字一句漏らさずに伝えかねないというのに。
流石にここまでわかり易いと、突っ込む気すら起きない。
美神はもう一度溜め息をつき、話を仕事の件に切り替える事にした。
「シルキィ、これからの会見の内容は把握してるわね?
基本的に記者への応対は私がするから、アンタは愛想良く座っててよ。」
「私がマスターの記憶と同期しているのを忘れた?
マスターと同じように振舞う事など、造作も無いわ。」
外の景色に目を向けたまま、振り返ろうともしない。
別に反目しているとか、シルキィは美神の事を嫌っているとか、そういう話ではないのだ。
ただ単純にシルキィは美神に対して『興味が無い』のだ。
だが、会見で失敗すればおキヌへの損害になる以上、シルキィは完璧に役目を果たす筈だ。
記者会見とその後に控える役人との打ち合わせ。先程のおキヌになりきっていた姿なら何の問題も無いだろう。
相変わらず何を考えているのかさっぱりわからないが、その点だけは美神は確信していた。
「わー、近くにこんな砂浜があったんですね!」
「同じお台場の中で申し訳ないんだけど、さ」
「ううん、ここで十分です。大きな橋も、向こう岸の夜景も、とっても綺麗」
雲の代わりに、空には街の明かりが漂う。
様々な明かりの下には、数え切れないほどの人々が行き交っている。
その対岸のお台場、海浜公園ではおキヌと横島が二人きりで散策していた。
ベイブリッジにほど近くキーTV局や大型商業施設が隣接するこの公園は、普段なら人で賑わっているが、コンサートが開催された事もあって、今日は警備上の都合で閉鎖されている。
二人はパスを使用して公園に入り散策しているが、図らずも貸し切りとなった砂浜に、二人の足跡が浮かび上がる。
この公園は普段、なぜか潮の香りがあまりしないが、今日は南風が潮の香りを運ぶ。
一息する度に、波のさざめく音も繰り返し聞こえてくる。
「……喜んでもらえれば。」
心から喜んでくれているおキヌの姿を見れたので、横島もまんざらではなった。
アリーナは台場の端と正反対の位置にあり、バイクで走れば10分もかからない。
タンデムを楽しんでも良かったのだが、横島はおキヌと話す時間を取った方がよかろうと考えた。
横島は今のおキヌがいったいどうなってしまっているのか、再確認しておきたかった。
自分の目の前をゆるやかに歩く後ろ姿は、自分の記憶の中とあまり変わってはいない。
楽しかった事務所での生活、そこから抜け出てきたかのように。
そう。
まるで時間が止まったかのように、彼女は変わりなく見えた。
「どうしたんです?」
先を歩いていたおキヌが、はたと振り返る。
その顔は何の疑いも抱いてはおらず、純粋な笑顔だけが浮かんでいた。
横島は視線をそらすかのように、浜辺の店先にあった自販機に歩み寄ってコーヒーを買った。
「ほら。」
取り出した缶コーヒーを投げ渡した。
おキヌが胸に構えた手元にすぽんと収まると、彼女は驚きの声を上げる。
珍しくも無いだろうにと横島が思っていると、おキヌは本当に嬉しそうに呟いた。
「わぁ……横島さん、覚えててくれたんですか?」
「え?」
目に付いた物を買っただけだったのだが。
横島は記憶を辿っても、思い出せない。
でも、彼女は何かを覚えているらしい。
シロとタマモの事は忘れているのに?
いぶかしがる横島を、おキヌの嬉しそうな声が遮った。
「これ、昔お食事作りに行ったときに。
お礼だ、って言って渡してくれたのと同じコーヒーですよ。」
「……そうだったっけ?」
「そうですよ。
もう、相変わらず忘れっぽいんですから。」
ロマンチックだと思ったのに、そうおキヌが悪戯っぽく呟く。
横島は苦笑いを返すばかりだが、コーヒーを開け、乾きを覚えた喉を潤す。
海辺のひんやりした空気が、喉を通るコーヒーと一緒になって熱気を冷ましていく。
それはおキヌも同じな様で、潮風を涼しそうに受け、笑っていた。
あまり長くもない砂浜をゆっくりと歩いていると、横島は声を出しそうになるほど驚く。
ニューヨークで壊した自由の女神像があるではないか。
サイズこそ比べものにならないミニチュアだが、間違えようもない。
先ほどの何倍かわからない程の苦笑いを浮かべると、またワイバーンが出てきやしないだろうなと、つい周りを見渡してしまう。
「何をきょときょとしてるんですか?」
「え? あ、いやぁ。
……自由の女神様には、ちょっとした思い出があってね。」
「横島さんも外国にいたんですか?」
いなくなっちゃった後の事を聞かせてくれませんかと、おキヌが問いかける。
少しばかり考えて、横島は砂浜に腰を下ろした。
「じゃあ、ちょっと話をしようか。」
「はい、私もお話ししたいことが、たっくさんありますからっ!!」
「んでさ、ってあれ? おキヌちゃん?」
肩口には、おキヌの小さな頭が寄りかかっている。
それほど長話でも無かったはずだが、いつの間にかおキヌが寝入ってしまっていた。
「無理もないか。あれだけの規模のコンサートの直後だもんな。」
実際にコンサートを見れた訳ではないが、シルキィの話していた内容から、どういう物であったか大体の想像はつく。
だが、何万人という観客に影響を与えようとすれば、どれほどの霊力の放出が必要なのか。
それは常人を逸脱したレベルだと思われるが、横島自身、あくまでイメージでしかなかった。
そして、いくら特別製のネクロマンサーの笛を触媒にしているとはいえ、それだけの霊力を放出したのだ。体力を消耗しない訳が無い。
そんな状態のおキヌを美神が任せた、というのは信頼されているからなのか、それとも何かを期待しているのか、はたまた別の狙いがあるのか。
逡巡していると、横島の耳に聞こえてきたのは密やかな寝息。
くうすう、安心しきって横島に体を預けている。
先ほどにしてもそうだったが、この無防備さは相変わらずで、横島を可笑しくさせる。
「変わったんだか、変わってないんだか……」
世界各地を巡る中で記憶の殆どをを失ってしまったとしても、やはりこの女性はおキヌその人に違いない。
横島がそう確信出来るほどに、おキヌは昔と変わらぬ姿で、ゆったり静かにもたれかかっていた。
「美神さんが言ってた、誘拐事件ってのがどんなもんだかわからないけど……」
もしかしたら、また昔みたいにやっていけるのかもな。
4年という月日が経ち、もう昔に戻ることは出来ないとはいえ、また新しい形でスタートを切れるのかもしれない。
そうさ。
美神さんがいて、おキヌちゃんがいて、シロもタマモも。
世界各地に散らばってしまっても、お互いどこにいるかさえわかっていれば、いつだって会える。
会えさえすれば、おキヌちゃんだって少しずつ良くなっていくさ。
肩に感じる暖かさは、確かなものなのだから。
「全く、世界に冠たる聖女様がこんなとこでぐーすか寝てるなんてさ。」
おキヌの髪を梳くように、なで上げる。
しとやかな髪も、昔と変わらずにはらと落ちた。