「う、わぁーーーーーーーーーー………」
埃っぽいその部屋に足を踏み入れた彼女の第一声は、あっけにとられたような、しっかりものの彼女にしては珍しく呆けたものだった。
「えっと…もしかして、悪い幽霊さんが襲ってきた…んですか?」
「きっぱりと生きた人間、しかも立派な大人のやった事なんだなこれが」
霊障ではなく人災と聞いて、彼女は仕事絡みのトラブルを連想した。引っ越す前の我が家にも一時期だが押しかけていた、ちょっと硬派で道を極めようかなみたいな人達との。
「何それ皮肉? 良い根性してんじゃない横島君?」
彼女の視界は見渡す限り書類とファイル、謎の箱や未開封の郵便物、何故か倒れている背の高い観葉植物等々…雑多な物で遮られている。
据わった声を発した主の姿も、少女からは視認出来ない。が、一瞬金色の光が奔ったかと思うと、少女の背後にいた少年の首に絡みつき締め上げてゴミのように廊下に捨てたため、少女には正体の察しと人災の訳に両方思い至る。
「…美神さん、お掃除出来ない人だったんですか…?」
「ぅ………………………」
くびり倒されて廊下で痙攣する横島と、黙り込んでしまった金色の鞭の持ち主…混沌の山の向こうで、赤面をそっぽ向かせただろう美神の方を交互に見つつ、少女は。
花戸小鳩は、早くも弱気になりかけた自分を奮い立たせるべく、ぱしんと両頬を叩いた。
…まあ発端、と呼ぶほど大したことではない。
「小鳩が家政婦、ですか?」
「うん、実はさー…」
花戸家の戸口できょとんと首を傾げる小鳩に、横島は言葉に出せない劣情を覚えたのだが、それは置いといて。
小鳩は横島の同級生でありお隣さんでもある、赤毛と童顔が可愛らしい少女だ。横島アイは更に彼女の特徴たる一点をしっかと捉えているが、それは割愛。
「ちょっと事情があって、今、俺のバイト先で家政婦っつーかメイド? の募集してるんだよ。短期間だとは思うけど給料いいし、学生OKだからさ。小鳩ちゃんどうかなーなんて」
おキヌが寝ぼけた冥子を連れて妙神山に旅立って2日。
その48時間で、人工幽霊一号が悲鳴を上げるほど所内は荒れ果てていた。絶対的な大きさが変わるわけでもないのに、一度美神を介した物体は嵩を増やす呪術でも掛けられるのか、部屋の至る場所をどんどん占領していき…挙句の果ての、この惨状である。
一度、おキヌという家事のプロの味を知って以来、美神のそっち方面の腕は鈍りに鈍り、彼女不在では業務にすら支障をきたす有様だ。おキヌ様々である。
「小鳩ちゃんなら、おキヌちゃんとタメ張るくらい家事の腕はあるし。もし興味あるなら…」
「小鳩もアルバイトはしたいんですけど、お母さんが許してくれるかな…」
小鳩の母は心労やら過労やらが祟ったのか、ここに越してきた当初から体を壊して臥せりがちだった。
現在では線は細いものの体調も良くなって、短時間のパートにも出られるようになっている。内職もこなしているので収入面は改善され、米や醤油を切らして難儀する事も無くなったようだ。
「行き帰りは嫌でも俺と一緒になっちまうしなあー…年頃の女の子としては、やっぱりきついか。むははは…」
横島がいつもの癖で自分を卑下し、ぴたりと動きの止まった小鳩を見て苦笑を浮かべる。ピートやその他イケメン(やや死語)が隣にいるならともかく、自分程度の三枚目がくっついていては、ナンパ避けにもなりゃしない。しかも二人きりだし。
「急にこんな話してごめんな小鳩ちゃん。他当たって…」
「行きます」
「ほへ?」
「行きます!」
「へ、あ、そう? んじゃあ、美神さんに電話しとくわ。明日のガッコ帰りにでも一緒に行こうか」
「分かりました! 小鳩頑張ります!」
…何だろう、この豹変っぷり。
横島は、背中に炎を背負い、両拳を胸の前で握り締める小鳩から発せられるオーラの強さに、思わずたじろいでいた。
(あれか、やっぱり給料良いとモチベーションって上がるんかな? 俺なんか5円上がっただけで結構嬉しかったしなー)
小鳩が横島のどの台詞に対して反応したのか、語るまでもないと思うが。
本人がすっとぼけた想像を働かせている間、小鳩もまた妄想に限りなく近い空想を展開していた。
(横島さんと一緒にアルバイト…! 行き帰りも一緒…! 貧ちゃん、これも福の神のご加護なのかなっ!? うわー、うわー、うわーっ!!)
とまあそんな訳で。
花戸小鳩は翌日、つまり今日から美神除霊事務所のハウスキーパーとして働くこととなったのである。
これにより事務所の荒廃化はストップし、おキヌとはまた一味違う小鳩の家事手腕によって、みるみるうちに元の清潔さを取り戻すまでに環境は改善された。
因みに。
形ばかりの面接の場に於いて、熾烈極まる賃上げ闘争が美神と元貧乏神の貧の間で勃発。何銭の単位にまで戦いが及んだことをここに明記しておく。
「小鳩! ワイは勝った! 来年のメーデーも楽しみにしとき!」
「似非福の神ーーっ!! あんたいつんなったら貧乏神の力抜けるのよっ!?」
「美神はん、約束違えたら…分かっとるな?」
「きぃーーーーーーーーーーっ!!」
スランプ・オーバーズ! 16
「苦行」
六道冥子と十二神将の在り方は、通常の式神使いの主従とは根底から違うものだ。
小竜姫は冥子の修行の第一段階として、まずはその在り方の改善から行うことにした。改善といっても元の在り方が悪いのではなくて、より良い方向へ誘導しようというのだ。
「さて冥子さん。貴女は普段式神を扱うとき…どんな風にしていますか?」
「え~っと………会いたい子に出てきて~ってお願いして~…出てきた子にこうして~ってもう一回お願いします~」
「………そ、そうですか」
話し方で一目瞭然だが、今の冥子は心格ではない。
小竜姫がざっと計算したところ、ミチガエールの効果は凡そ半日。霊力を過度に消耗すると心格顕現の時間が削られ、以前カオスの城で現れたような症状がノックバックする。
初日に心格冥子と話をし、修行の方向を決めた小竜姫は、薬を預かると何事も無かったかのように冥子の修行を始めた。
「いいですか、冥子さん。本来式神使いとは、命じ、従え、支配する存在。式神とは命じられ、従い、支配される存在。まずはその理を学びなさいな」
「え~…でも~、うちの子達は~…」
「うちはうち、よそはよそ! まずは、と言った筈です! 六道家の式神が一般的でないことなど私とて理解しています。貴女の場合、極めて初歩的な段階から式神について学び直す必要があるのです」
現段階では異界空間へ籠もらずとも修行は出来る。いわゆる座学の段階だ。
小竜姫達が暮らす屋敷の一室が、座学用に作られた部屋になっており、見た目は木造校舎の一室の趣である。黒板完備、机と椅子も一クラス分は揃っている。
異界入口の脱衣場といい、この教室といい…神族のセンスはどうにもレトロだ。
「知識を学び直す作業には、鈍った体を鍛え直すのと同じ効果があります。冥子さんも式神については一通り習っていますよね? 思い出して下さいね」
修行着に着替えた冥子は、最前列の真ん中に座り、は~いと行儀良く返事をした。学生時代に戻ったようで、これはこれで楽しい。
カカッと黒板に『基本』と書く小竜姫の手は滑らか。自らを一戦士と位置づけ、前線で勇敢に戦うことを信条とする彼女だが、パピリオに勉強を教えている事情もあってか、教鞭を振るう姿も様になりつつある。
「小竜姫先生~って呼んでいいですか~?」
「……お好きにどうぞ」
無愛想だが満更でもない。
小竜姫のちょっぴり照れた表情は、教育実習生が実習先の生徒に「先生!」と呼ばれた時の反応にそっくりだった。
小竜姫と冥子が授業をしている間、おキヌはというと。
「~~~~~~~~っ!! っはあっはあっはあっはあっはあっ……! この、んーーーーーーーーっ!!」
「ほらほら、しっかり押すでちゅよ~」
こちらもまた、初歩的な訓練を行っていた。
修行用の異界空間は広く、また修行の内容に応じた各種設備が点在している。
おキヌが顔を真っ赤にして相手にしているのは、彼女と同じくらいの背丈の…お地蔵様だった。パピリオがちょこんと頭に乗っているが。
「わたちが監督する以上、びしばし行きまちゅからそのつもりでいるんでちゅよ! ほらほら足が止まった! 押す押すーっ!」
「は、はいっ! んんんんんーーーーーーっ!!」
おキヌに与えられたノルマは徹頭徹尾、体力及び運動能力の向上が目的だった。
霊能と絡めるにも、今のおキヌでは基礎体力に不安があるので要領が悪い。ひとまずはフィジカル面に特化して修行を行い、バランスを調整するのだとか。
パピリオはお目付け役というか、一人では出来ない訓練の補助役だ。
「ほんとに非力でちゅねえ、おキヌちゃんは…ちょっと代わるでちゅよ」
今おキヌが行っているのは、地蔵を所定の位置まで押して移動させる、それだけのものだった。ひたすら力任せに押し続ける、およそ近代的とは言い難い内容の。
地蔵がどれだけの重さなのか、おキヌは知らされていない。しかし全力で押すと僅かに進み、少しでも気を抜くとびくともしなくなる事から、霊的な機構が働いているのではと推測出来た。
パピリオが地蔵から降りても、体感的に何の変化もないのがその証拠だろう。
「すぅーーーーー、てやああーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
肩を上下させて息を切らすおキヌに代わって、地蔵の正面に立ったパピリオは気合一閃、小さな体に力を漲らせて突貫し、地蔵を凄まじい勢いで白線の引かれたゴール地点まで、押し運んでいった。おキヌはぽかんと見送るしかない。
「んでもってもっかいてりゃああーーーーっ!!」
間を置かずパピリオは地蔵の背中側へ回り、瞬く間におキヌの前まで押し戻してきた。
「パピちゃんすごーーいっ…」
傍らで梓と並んで見学中のチリが、ぱちぱちと拍手で新しい友人を称える。パピリオはVサインで声援に応えた。
「これは全力に慣れる訓練なのでちゅ。同時に、全力を維持する訓練でもありまちゅ。戦いとは如何に己の全力を出し切るかが問題であり、限界状況の中での判断こそが…真に身につく…えっと…」
「パピちゃん…小竜姫様の受け売りなんですね?」
えへんと腰に手を当てて講釈を始めたものの、チリの指摘に軽く汗を垂らしてあさっての方を見るパピリオ。
まだ息の整い切らないおキヌは、自分が今まで除霊の現場で戦ってこれたのが、周囲の庇護あってのことだと痛感していた。
自分が守られる理由。それは自分が打たれ弱いからだ。
一流のGSがこなす仕事は、危険度も比例して高い。一発喰らえば終わる…そんな相手に立ち向かわなければいけない状況に対して、自分は余りに脆い。
チームプレイという前提があるにしろ、おキヌの位置が貧弱でいいという言い訳にはならない。寧ろ前衛が安心して動くためには、後衛こそしっかりしていなければ。
「聞いてまちゅか、おキヌちゃん?」
「ふぇ、あ、はい! もっと頑張りますね!」
大きく深呼吸をして、冷たい酸素を取り込んで。
おキヌは地蔵押しを再開した。
歯を食いしばり、慣れない力作業に意識を集中させて。
「もっと、もっと頑張らなきゃーーーっ!! このーーーっ!!」
買ったばかりのトレッキングシューズの底をすり減らし、おキヌの戦いは続…
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~はうっ…」
「あああっ?! キヌ姉様が倒れたっ!?」
「げげ!? これってパピの監督不行き届きでちゅか!?」
「私、桶に水汲んできますね!」
前途多難を地で行くおキヌであった。
六道家の式神十二神将が、その他の式神と一線を画している理由は大別して3つある。
一つは歴史の深さ。
一つは能力の高さ。
そして最後に、使役者との絆の強さ。
十二神将を使役する者…今は冥子だが、歴代の使役者は自分の半生を十二神将と共に過ごす。産まれたときから傍らに十二神将を潜ませ、次代の継承者が現れるその時まで影となり日向となって互いを支え続ける。
生まれ落ちたその時から十二神将の使い手として運命付けられるこの慣習を、他の霊能旧家は忌むべき悪習として、使役者選定方法の変更から求めてきたりもした。
強大極まる式神の継承者に、あわよくば己の家系からも名乗りを上げたい、そんな思惑もあったようである。
けれど、六道家は断固として十二神将の継承者を直系以外からは選出しなかった。どんなに非難を受けようとも、六道の血筋に十二神将を保ち続けた。
式神使い同士の決闘が式神の奪い合いという生臭い方法になったのも、霊能大家・六道家に対するあてつけの意味合いを含んでいる…そう邪推する者も現れた。
だが実際問題、当時から既に十二神将の器となれる霊力の持ち主は六道家直系の者にしか現れず、十二神将自身も強い自我を持って他筋の使役者を拒絶していたので、次第に十二神将を手に入れようという動きは鎮静化していった。
「うちって凄いんだ~……」
「何を他人事のように…」
実は歴代の十二神将使役者の中には、妙神山の門戸を叩いた者もいた。式神使いの最高峰と呼ばれている六道家だ、驚く話ではない。
小竜姫は屋敷の蔵から当時の資料を持ち出し、冥子の読経にも似た『私と十二神将 ~おうち編~』の話と照らし合わせつつ、辛抱強く十二神将の性質やその他の特徴を把握していった。
「さてどうですか、冥子さん。これで一般的な式神とご自分の式神がまるで別物だということが分かったでしょう?」
「はい~。やっぱりうちの子達は可愛いです~」
「………自覚しているのかいないのか…まあいいでしょう。貴女の最大の課題は、如何に霊力を制御し、式神を操るか。十二神将と親しく接するあまり、過剰なまでに築かれてしまった式神と貴女との関係を、一度白紙に戻します」
「えええ~~~~~~~っ!」
「異議は認めません。ですがその作業の前に貴女自身を鍛える必要があります。しばらくは、おキヌさんと同じ修行を受けてもらいますから」
「おキヌちゃんと一緒ですか~? それなら心強いわ~」
無邪気に喜んだり、ぷーっと膨れてみたり…小竜姫の目からも、冥子の幼稚さはどうかと映る。心格冥子が生まれる土壌は十分にあったのだと納得して、やれやれとチョークを置いた。
「時に冥子さん。ぶろーち? でしたか。胸飾りは持って来ましたか?」
「は~い。令子ちゃんに忘れるなって言われてましたから~」
机の中から小さな巾着を取り出して小竜姫に差し出す。ろくどうめいこ、と平仮名で刺繍がされてあったのが可笑しいやら微笑ましいやらで、思わずくすりと笑ってしまう小竜姫である。
ブローチを陽光に透かせて何かを確かめた後にまた巾着へ仕舞い、その場はそれでお開きとなった。
「冥子さんは休憩の後、おキヌさんと合流して下さいね。明日からは午前中を座学、午後からは体術の修行を行ってもらいます」
「は~い。有難うございました、小竜姫先生~」
起立~、礼~と。冥子のお辞儀はいちいち子供っぽい。
深々と頭を下げた冥子に、小竜姫も軽く会釈を返した。こちらは堂に入ったものだ。
「あ、六道さん。勉強は終わったんですか?」
廊下に出た冥子が伸びをしていると、お盆に茶碗を2つ載せた健二が通りすがった。見学者も一応修行着に袖を通しているが、健二は専ら老師相手の雑用に終始していた。
ついでに、老師のゲームの相手をしているショウの雑用も兼ねていたり。
「宮下さん~。私は冥子でいいのよ~?」
「いやいやいやいやいや…恐れ多いですよ。六道財閥のご令嬢相手に…」
「おうちはおうち、私は私よ~。さっき小竜姫先生にも言われたもの~」
若干ニュアンスは違うが、冥子に僅かでも独立意識のようなものが芽生えたのなら、結果オーライではなかろうか。美神が願っている通り、六道家の冠を失っても生きていける逞しさが、徐々に彼女の中にも育ってきていた。
「はあ…? っと、茶が冷めちまう。では修行頑張って下さい…俺、何しにここ来たんだっけなあ…」
子供と猿に茶を淹れるためでは絶対に無い、と信じたい健二だった。
冥子が異界空間へ入ったとき、おキヌは大の字になって地面に伸びていた。まともに呼吸も出来ないようで、荒い息遣いは普段の彼女からは窺えないほど苦しげだ。
「おキヌちゃん大丈夫~?」
「冥子様…もう何度も倒れてるんです、キヌ姉様…」
「頑張りすぎでちゅね、ちょっぴり」
「始めたばかりで、加減が分からないんじゃないでしょうか」
妙神山の標高は決して高くない。が、山頂の空気は当然の事ながら下界よりも薄く、この異界空間も例外では無い。体への負担は大きい。
「どんな事してるの~? 私、おキヌちゃんとおんなじ事しなさいって言われたんだけど~」
おキヌに膝枕をした梓が、無言で地蔵を指差す。その位置は、おキヌの奮闘虚しく1メートルも動いていなかった。
「あれを押すの~?」
「はい。氷室さん、凄く頑張ったんですけど…」
桶の冷水に浸してあったタオルを絞り、おキヌの額に乗せる梓。
まだ始まったばかりだが、おキヌが真剣に修行に打ち込む姿は感服してしまう。とにかくおキヌは集中力が凄いのだ。
自分もピアノの演奏なら何時間でも集中して行える自信がある。でも体力づくりの段階からおキヌほどに集中力を維持して事に当たれるか…そこまでは分からなかった。
少なくとも、集中が切れた途端に倒れるほどにはのめり込めないだろう。
「よっぽど…認めてほしい方がいるんですね」
「ヨコチマでちゅね絶対」
「ちょ、パピリオちゃん!?」
がばっと起き上がったおキヌが、慌ててパピリオの口を塞ぐ。呼吸は回復したようだ。
言わないで下さいとか今更何をとか言い合うおキヌとパピリオに、状況を把握していなかった冥子は。
(おキヌちゃんが元気で良かったわ~)
とのんきに思いつつ、地蔵の方へとことこと歩いていく。
「冥子ちゃんの監督も、パピが務めまちゅからね。小竜お姉直伝のスパルタ教育を覚悟するでちゅよ」
口論から逃れ、身軽に地蔵の頭に飛び乗ったパピリオが、冥子を見下ろして偉そうに言った。それに不快感を覚える事も無く、冥子は二人目の先生にぺこんと頭を下げる。
「よろしくお願いします~パピリオ先生~」
「先生……! これはいい響きでちゅねっ!」
修行者でも来ない限り、妙神山では一番下っ端だと認識しているパピリオにとって(鬼門は空気扱い。普段場内にいないし)、誰かにこうして教えを乞われる体験は得難いものだ。
他人に物を教えるのもまた、修行の一つである。小竜姫はちゃんとパピリオの事も考えて、監督役を許しているのだろう。視野の広さも妙神山修行場管理人には必要なスキルだった。
「じゃあ早速やってみるでちゅよ! 全力で押さないと動きまちぇんからね!」
元気一杯に地蔵の頭を叩き、ご機嫌なパピリオ。
冥子は大きく深呼吸をして、両手を前に伸ばすと…
「え~~~いっ!」
地蔵を押さんとぶつかっていき。
「ひゃうっ!?」
何故か跳ね返ってころんと転がり、後頭部を抑えて半べそをかき始めた。 一体何がしたかったのか、パピリオは勿論、その場の誰にも理解出来ない謎な空気が一帯を支配する。
「痛ぁい~~…う~…」
「えーと…? どこから教えればいいでちゅかねこの場合…」
全力云々の前に、力の入れ方、姿勢から教える必要があった。おキヌが最低限の基礎体術は学校で習っているのに対し、冥子は除霊術の全てを十二神将に委ねていたために、ほぼ素人同然の体力、体術しか持っていない。
一定以上の体力、霊力を持つことが大前提であるここでの修行に於いて、おキヌや冥子のような特殊な霊能力者は軌道に乗るまでが大変だ。小竜姫の特訓に耐えうる体力を手に入れるまでは、地道に筋トレを繰り返し体力づくりに励まないと。
「冥子ちゃん…いやさ冥子! お主はこのパピリオが一から教える必要がありそうでちゅね…! パピを師と崇め、我が教えに従うがいいでちゅ!」
「きゃあ、パピリオ先生からパピリオ師匠にレベルアップね~! 何だかその気になってきたわ~」
「パピリオちゃん、ノリノリですねー…」
「可愛いなあー、パピリオちゃん。私も入門しようかな」
どこまでいっても独特のノリから離れられない、そんな一行であった。
「んーーーーーー…これどうするかなー」
その頃美神除霊事務所では、綺麗に片付いた所長室で美神が一枚の名刺を手に、しかめっ面で椅子をギシギシと前後に揺らしていた。
柊コンツェルンCEO・柊宗一。
名刺に書かれているのはたったそれだけの、けれど世界でも極めて限られた人物にしか渡されないという、見る人が見れば卒倒もののお宝だ。
しかも名刺の裏には彼のプライベートな携帯番号までもが書かれている。
「うー…仕事の後始末やらマリアの事ですっかり忘れてたわ…」
忘れついでに、名刺そのものも小鳩が発見するまで混沌の山に紛れていました。
「絶対厄介事よねー…挨拶だけで終わるとは到底思えないわ…」
WGCA日本支部についての情報は、冥子の母が送ってきていた資料に詳しく書かれていた。当然美神も、ロディマス=柊という超VIPが支部長を務める事態を訝しく思っている。
柊財閥からすれば、WGCAなんぞは末端組織に過ぎない筈で、ロディマスのような次代の会長職を狙える立場にいる人間が所属する理由は全く無い。経済全体から見たオカルト業界のシェアはたかが知れているのだから。
「っつーかさあ、柊宗一本人が来る前に、普通はこの弟が来ない? 来日してたから、なんて阿呆な理由で足を運ぶほど、私って偉くないわよ?」
美神はオカルト業界の外でも、長者番付上位に名を残す有名人だ。宗一が一人のファンとして会いに来たと考えるのもあながち無理な想像では無いが…
「どう思うー? 人工幽霊一号~」
『私はなんとも…ただ、こちらに来られた際、柊様は極めて自然体でおられました。本当に、ただ立ち寄っただけのような』
「国産の普通車で、護衛も付けず、か。まあ護衛は付かず離れずでそこら中にいたんでしょうけどね」
各国のトップとも面識のある美神だ。手に持っている名刺の重さにプレッシャーを感じることはないが、自分よりも確実に名士で富豪で社会的成功者の存在は、どうにも気に入らなかった。
気さくな自分を演じたつもりでいるのが、更に気に食わない。全くの僻みだが。
「…面倒くさいし気付かなかったフリして連絡待とうかな」
『オーナー。いけませんよ、そのような態度では…』
「冗談よ冗談。厄介事はちゃっちゃと片付けるに限るしね。それでなくても今はいっぱいいっぱいだし」
名刺を置いた下には、六道女史から送られたもう一つの資料…ドクター・カオスに関する調査結果が無造作に広げられていた。A4用紙数枚を綴じただけの、内容と同じく味も素っ気もないものだ。
美神が冥子の教育との交換条件に提示した、カオスの素行について。六道家が調べた限りの内容が綴られてはいたのだが…その中身は皆無と言ってもいいくらい薄い。
カオスがWGCAの招聘で管轄下の研究所に赴き、何か大きな研究を行っていること。その施設には他の企業からも多くの人材が派遣され、規模的には相当な大きさに膨れ上がっていること。
美神も知る研究の一端…なのかどうか不明だが、カオスの城で喰らった霊力のジャミング装置。名前は忘れたが、あんなものを生み出している時点でGSに仇なす可能性はぐんと上がったと見ていいはず。
あの時、カオスは日本の名だたるGSの大半はもう、あのジャミング装置で無力化出来ると宣言していた。アシュタロス事変で活躍したGSを筆頭に、協会登録のAクラスGSは既に影響下にあると思って間違いないだろう。
「カオスめ…何考えてんのかさっぱりよね、全く! あたしらの邪魔してどうしようってのよ!」
アシュタロス事変以降、反デタント派の神魔族による大きな動きは無い…この前妙神山に登った際、小竜姫はそう言っていた。一応神族の情報調査官でもあるヒャクメの報告だというから…まあ、取りあえずは信じていいだろう。小竜姫というフィルターを通して信頼度も上がっている事だし。
霊力発露の阻害…もし、その技術が神魔族にも適用可能等となったら。それを未だに根強く行動しているという反デタント派に知られでもしたら…
「あーあーあーあーあー! やめやめ! 私は明るく朗らかにお金稼ぎが出来ればそれでいいの! そういうのは小竜姫様達の仕事っ!」
六道家の力でも大した事を調べられなかったのだから、当面美神に出来ることはない。冥子とおキヌが下山するのと、マリアが修理から戻ってくるのを待って、出来ればシロとタマモにも連絡を取り、万全の体制でカオスには逆襲してやりたい。
仕事も自分と横島だけで捌けるものを選んで受けて、下手に怪我をしないよう気をつけなくては。
「…しばらくはあいつと二人っきりで仕事か…いまいち心配ね。なんか調子悪そうだし…ったく、無駄に心配させるんじゃないわよ…って私が心配しなくてもいいわよね。でも今は貴重な戦力だし…悩みとかあるんなら相談を受けても…あ、慰安旅行でも…いやいや二人っきりなのよ? 私が何か誘ってるみたいじゃないそんなの…誘うって何よそれにおキヌちゃんがいないときってのもフェアじゃないし、ってだからああもう何考えてたのか分かんなくなったーーっ!?」
きいーっと髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き毟って、美神は机に突っ伏した。
「………まあ、チャンスはチャンス、なのかもね…」
誰にも聞き取れないくらいに小さく呟かれた台詞は、美神本人にしても、心の何処から零れ落ちたものなのか分からない…本音の水滴一粒だった。
「いった~~い…滲みるわ~…」
「うわ、こんなところにも青たん…あいたたた…」
妙神山修行3日目の夜。
地蔵押しの修行は二人の体が悲鳴どころか断末魔を叫ぶまで、情け容赦無く続けられた。
様子を見に来た小竜姫は『零状態の己を知れ』と…何とか生きてます状態の二人に淡々と説いて去っていった。半死半生程度では、武神の眉一つ動かす事は出来ないようである。
体力、霊力、精神力…人には様々な『力』があり、それぞれに限界がある。
それぞれの限界を知る事即ち、己の限界を知る事に値するもの。
根性論ではないが、体力が尽きても精神力で立ち上がる者は多い。除霊時に霊力が尽きても、体力が残っていれば逃走や防御に費やす事が出来る。それぞれの限界はあくまで一つの上限に過ぎず、己の限界とは全ての限界を超えた所にこそ存在する。
おキヌも冥子も、限界近くまで体を酷使した経験はあるものの、明確なボーダーラインを意識しながら動いたりはしていない。人間は思ったよりずっと頑丈で、単純な体力の限界一つとっても、指一本動かせなくなるまで疲労した経験のあるものは少ない筈だ。
「冥子さん、結局どの辺まで押せました?」
「え~っとね~…ほんのちょっとだけ~」
「私もです…」
体力というカテゴリは力の中でも分かりやすいし取っ付きやすい。そしてあらゆる力の中で最も幅広いジャンルをカバーできる要素でもある。
「あ、冥子さんって意外に……」
「なあに~?」
「いえ、着痩せするんだなーなんて…あははははは…はは…」
彼女達の全身至る所に擦り傷や軽い打撲の跡が点在している。地蔵を押す、それだけの行為で何故そんなものが出来るのか…これこそが全力で修行を行った証だ。
力を込めれば込めるほど、体は頭の制御下から逸脱し強い反動をもって、細かな傷を生むきっかけとなる。
地蔵を押す手や肩、倒れた時真っ先に着く肘や膝。指先は地蔵の岩肌を掻き、赤く擦り剥ける。
一日中続けていれば、傷だらけになって当然だ。
「おキヌちゃんほんとにお肌白~い。ぷにぷにしてい~い?」
「ひあうっ!? も、もう冥子さんっ! ヘンなところ触らないで下さい! 気にしてるんですから!」
「え~? でも私とそんなに大きさ変わらないと思うけど~」
傷ついた体を癒すには、うってつけの設備が妙神山にはある。
湯煙煙る、霊泉明神の湯。天然掛け流しは勿論の事、一般的な効能に加え霊的治療の効果も含まれる、まさに修行者殺しの極楽温泉。ここに浸かれば翌日に筋肉痛なんて残しません。地獄のような鍛錬を毎日続けられる秘密の一端が、ここにあった。
おキヌと冥子は白く濁った熱めの湯に肩まで浸かり、束の間の極楽を堪能していた。
「うー…私にとっては深刻なんです! あの人が好みを公言してる以上は、私も努力しなくちゃ駄目だから…」
「あの人って~…あ~、横島君ね~? 彼は令子ちゃんみたいなのがタイプなんだっけ~」
「あう…て、敵は計り知れない強さを持ってますけど、まだ成長の途上にある私ならっ」
「令子ちゃんこの前、またちょっと大きくなった~って言ってたわよ~」
「はいっ!? 何ですかあの人不沈戦艦ですかーっ!?」
「令子ちゃんだって若いし~」
「うう…神様は不公平です…」
冥子の衝撃告白に、おキヌは鼻の下まで湯に潜って膝を抱えた。膝に当たる感触の心許なさが、また切なさを助長する。
湯気が立ち昇っていくのを目で追っていた冥子は、夜空を見上げて目を瞠った。
「おキヌちゃんおキヌちゃん~! お星様凄いわ~」
「…ぷは。うわ、本当ですねー」
六道家も美神除霊事務所も、都会の一等地にあるため星空とは無縁だった。おキヌの実家、氷室神社なら街明かりも少ないので綺麗な夜空を眺められるけれど。
この空は別格だ。
吸い込まれるような黒曜の深さと、光の色まで異なって見える星々の瞬き。澄み切った空気と霊気が織り成す清浄なる静かな世界…
「頑張ったご褒美かしら~」
「あはは…まだまだ始まったばかりですけどね」
「そうね~…一緒に頑張ろうね、おキヌちゃん」
「はい、冥子さん」
体のだるさも、傷の痛さも今は忘れて。
二人の少女は、それぞれに想いを馳せながら満天の星空を見上げる。
都合よく星が流れたりはしなかったが、どっこい願いとは己で叶えるもの。
冥子が尊敬する彼女のように。
おキヌが心惹かれる彼のように。
彼女と彼に一歩でも近づけるよう、二人は星に願うのではなく。
星に誓うのだった。
「………」
さて、温泉には二人の他に梓とチリも浸かっていたのだが。
深さの関係で梓の膝上に座っていたチリは、ざっと全員の姿を見回すと、徐に梓の手を取って高々と掲げた。
「梓様の一人勝ちです」
「あらあら」
チリの後頭部にはふくよかで柔らかで豊かな感触が、確かな存在感でもって圧倒的勝利をこれでもかと告げていたりした。
「キヌ姉様…不憫…」
つづく
後書き
もう10日を過ぎていますが、明けましておめでとうございます。竜の庵です。
修行がようやく進められましたー…序盤もいいところですが。
このペースだと、次の展開に入るまでに話数が相当必要になる予感が。冗長にならないよう、気をつけないと。
ではレス返しです。
カシム様
今年ものんびり投稿して行きますので、どうぞよろしくお願いします。
鬼門の強さを伝えるためには、過去の栄光に縋るしかないのか…! そんなジレンマに悩みつつ、あのような冒頭になりました。実際、彼らに追い返されるレベルではお話にならないでしょうしね、妙神山は。役割的に、どうしたって噛ませ犬なのは可哀想です。
神族直轄の修行場を手がけたとなれば、建築会社としてもかなりのネームバリューを得られるでしょう。GS世界の霊障は建造物の被害も多そうですし、名を売っておけば仕事には困らなくなりそう。超必死で建てたと思います。
スケベビッチ・オンナスキー様
今年も地道に投稿しますので、よろしくお願いします。
古き良き思ひ出というやつです。美神達が最初に訪れてからケチ付きっ放しでしょうしね。
小竜姫は雑誌の煽り文句やTVの大げさな表現を、完璧に鵜呑みにしてしまう印象です。いてもたってもいられず、ちょっと思い当たることもあって…結果ああいう行動に走ったのでは。
鬼門は一流と呼ばれるクラスが全力で挑めば超えられる、と作者は考えています。道具を惜しみなく注ぎこんで、採算度外視でいけば。精霊石乱打のような。資金力もそのGSの実力の内ですから。作中でも言及しましたが、鬼門を転ばせるだけという条件下ですけど。
おキヌが勝てたのは、ネクロマンサー能力自体が極めて特殊な異能であり、鬼門側にも有効な対応策が無かったためかと。それと、鬼門のトラウマを意図せず刺激・治療する彼女の天然っぷりと。相性と運が悪い鬼門可哀想。
梓は見学中、健二は給仕中。いいのか健二それで。
内海一弘様
謎神は襲ったりしません。静かに近寄り、にやけ顔で貴方の肩をぽんと叩いて『よお同胞♪』と囁くのです。
鬼門救済キャンペーンの一環で冒頭のくだりを書いたのですが、切ないだけに。失敗でしたねー。近代に入ってオカルトアイテムも高性能になってるでしょうから、勝率も右肩下がりだと思います。心、病むくらいには。
竜蝶姉妹はまた少し堅さが取れて、パピリオの小竜姫を呼ぶ名にも変化が。今のところ妙神山が絡まないと出演機会が無いのが残念な感じです。書いてて心地よいのですが。
年明け最初の今回はいかがでしたでしょうか。またのんびり投稿でやってこうと思いますので、よろしくお願いします。
以上レス返しでした。皆様有難うございました。
次回、ブローチの(丸分かりな)謎が明らかに。下界でも動きがあると思います。
ではこの辺で。最後までお読みいただき、有難うございました!
本年もよろしくお願いします。