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「DAWN OF THE SPECTER 18(GS+オリジナル)」

丸々&とおり (2006-12-24 08:40)
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開演のベルが鳴り響き、ざわついていた客席が静まり返る。
低い音をあげながらモーターが作動し、円形の舞台がゆっくりと沈降していく。
観客が固唾を飲んで見守るなか、地下に降りた舞台が再び浮上し始めた。
台座に乗って現れたのは、女性だろうか、巫女服を着ている。
白と朱の衣装に身を包み、羽衣を纏うその姿。
出で立ちと同じく古風な長く、艶のある美しい黒髪がこれほど似合う女性もそうはいまい。
そう、舞台に立つのは現在世界で最も名の知れているであろうGS――――氷室絹である。


「おキヌちゃん……すごく綺麗になってる。」


階下で湧き起こる観客達の歓声をよそに、一見したタマモがほうと溜め息をつく。
時の流れは皆に平等なのだと、タマモは改めて実感した。
成長したのは自分だけではないのだ。
おキヌは四年前のまだあどけなさの残る少女の顔立ちから、穏やかな笑みに張りのある厳しさと優しさを湛えた淑女へと成長していた。
凛々しくもありながら、それ以上に、温かく包み込むような慈愛を見る者に感じさせる。
実の所、タマモは『現代の聖女』などという呼び名は大仰だと思っていたのだが、こうして見てみるとそれも的確な表現だと深く頷いた。


「あれがネクロマンサーの笛……?
いや、しかしあれはどう見ても別物にしか……」


東堂が呟き、眉をひそめる。
おキヌが胸元に抱く白銀のオカリナに気付いたのだろう。
それは、東堂が知るネクロマンサーの笛とは似ても似つかぬ物だった。


――――確かに、笛が昔と違う。けど、そんな事より……あれは本当におキヌちゃんなの?


初めは懐かしさのあまり気付かなかったが、次第に心の奥底から嫌な物が沸き上がるのを抑えられなかった。
横目でシロの方を窺うと、同じように、何か言いたげな顔でこちらを見ている。
どうやら同じ違和感をシロも感じているようだ。

舞台の上ではおキヌが挨拶をしており、言葉を区切るたびに割れるような歓声が客席から上がっていた。
まるでお祭り騒ぎだが、当のおキヌはちょっと困った顔で微笑んでいる。
コンサートなどいくらも開いていると聞いてはいたが、いつまでたってもこういう場は苦手なのだろうか。
それこそおキヌらしくはあるし、昔、タマモやシロが無茶な献立を要求するたびに浮かべていた、困っているような悩んでいるようなお馴染みの表情。
それを見たタマモとシロは、直感的にあれはやはりおキヌなのだと確信する。
となると、今もなお拭えないこの違和感は――――?


「歓声が、やんだ……?」


上の会場から響いていた歓声が不意に静まり、横島は訝しげに天井を見上げる。
初めはコンサートが開始したためかとも思ったが、この静けさにはどことなく異常を感じていた。


「早いとこ用事を済ませて、席に戻った方が良さそうだな。」


シロとタマモなら何が起こっていようと平気だとは思うが、対霊ジャミングを掛けた施設でもあり、万が一という事がある。
傍にいてやりたいと思うのは当然だろう。

この先の突き当たりを曲がれば目的の場所に到着する。
舞台とは逆方向のこちらは警備も配置されておらず、周囲に人の気配はない。
一気に駆け抜けようとした時、前方の床に何かが落ちている事に気が付いた。

無視して通り過ぎようと思ったが、何故か目をそらすことが出来ない。
それどころか、横島の足は己の意に反して立ち止まってしまう。
どうやら、通路に落ちているのは雑誌のようだ。
表紙が目に入った途端、横島は驚愕のあまり大きく叫んだ。


「こ、これはッ!!」


雑誌の表紙は、ブロンドの若い女性がギリギリの格好で載っており、誰が見てもポルノ雑誌なのは明らかだ。
昔の高校生の頃ならともかく、今の経験を積んだ横島なら、それほど食指が動くとは思えない。
だが横島は床に座り込み、信じられない物でも見るかのようにその雑誌を見下ろしている。


「もはや裏の世界では伝説となった……
発売後、半日も経たずに回収処分となった超過激ポルノ雑誌、ニューヨーク・ヘヴン!
あの時手に入れそこなったお宝に、まさかこんな所でお目にかかれようとはッ!」


何故、そんな物がここに落ちているのか。
そんな当然の疑問も、今の横島の頭には浮かばない。
歓喜の声を上げ、躊躇せずに雑誌に飛びついた。

だがその瞬間、不意に周囲の空間から鉄の鎖が現れ、横島の体に巻きついた。
抵抗する間もなく、横島は鎖で簀巻きにされ、床に転がされていた。
冷やりとした廊下に頬が触れたあたりで、ようやく事態を理解する。


「ぐぇッ……罠かよ……!
だが、こんな鎖なんぞで俺を止めれると思うなよ……!」


何時の間にか、床に落ちていた雑誌は消えてしまっている。
横島は知らないが、これはタイガーが仕掛けておいた捕獲用の罠だった。
近付いた者に、その人物が最も欲している幻覚を見せ、油断した所を捕獲する。
相手の欲望に訴えかける性質のため、仮に頭では罠だとわかっていても、思わず手を伸ばさずにはいられないのだ。
対霊ジャミングは作動しているが、雪之丞とタイガーの霊波は事前に登録されているため、ジャミングの影響は受けない。

芋虫のように身をくねらせながら、先程のように指先に霊力を集めて鎖を断ち切ろうと試みる。
だが、この鎖は現実の物ではなく、強力な暗示により横島の心が作り出している幻覚だった。
そのため、切ろうと思って切れる物ではなく、霊力は鎖をすり抜けてしまい手応えが無い。


「や、やべぇ……目的地はもう見えてるってのに、このままじゃ捕まっちまう……!」


焦る横島の視線の先には楽屋があった。
横島はその部屋をおキヌが使っているかどうかは知らなかったが、そこで間違いないと踏んでいた。
何故なら、その部屋がこの建物の中で一番上等な部屋だったからだ。
単純極まりないが、銀一もライブの時はその部屋を使っていたと聞き及び、そこで間違いないだろうと目星をつけていたのだ。

鎖から抜け出すべく渾身の力を込めるが、鎖はまるでビクともしない。
横島がもがいていると、ガチャリと楽屋の扉が音を立てた。
誰もいないと思っていたのだろう、横島の顔がさっと青ざめる。
罠に掛かってなければ逃げるなり顔を隠すなりできるのだが、今は完全に無防備なのだ。

せめて美神であって欲しい。
切に願う横島だったが、扉が開き顔を覗かせたのは見知らぬ少女だった。
蒼い瞳にライトブランのストレートヘア。まるで西洋人形のように見えなくも無い。
逢った事は無い筈だが、その少女と目が合った瞬間、既視感のようなものが横島の脳裏をよぎった。

真夏だというのに丈の長い冬物のコートを羽織り、見知らぬ男が目の前に転がっているというのにその表情は揺るがない。
その独特の雰囲気に、横島もどう話しかければ良いかわからず少女の出方を窺うしかなかった。
そもそも、この少女がおキヌの関係者なのかという事すら、今の横島にはわからないのだ。


「警備を呼ばないと……」


少女はポツリと呟き、横島に背を向けようとする。
今通報されれば即行で逮捕されるのは間違いない。


「ちょ、ちょい待った!俺は怪しい者じゃないんだってば!!」


必死で身体をくねらせ、横島が少女の注意を惹こうと精一杯のアピールを試みる。
だが少女は特に表情も変えず、首を傾げるだけだった。


「どこをどう見ても、怪しい。」


当然の返答に、横島もそりゃそうかと苦笑いを浮かべるしか出来ない。
だが、少女が足を止めた今の間に釈明しなければ、本当に警備に通報されかねなかった。
誰が仕掛けたのかはわからないが、これほど厄介な罠を仕掛けられる相手なのだ。
術式の内容を分析するのは苦手だが、この術からは何処と無く黒魔術の臭いがする。
もしも捕まれば何をされるかわかったものではない。


「キミ、名前はなんていうの?
俺は横島忠夫っていうんだけど、おキヌちゃんや美神さんから俺の事、聞いたりしてないかなぁ。」


おキヌ達の関係者だろうとヤマを張り、精一杯の笑顔で話しかける。
見たところ12,3歳程度の子供に媚びるようで悲しかったが、今はそんな事を言ってる場合ではない。
速やかにこの少女と友好的な関係を築かなければ、待ち受けるのは破滅の二文字だった。


「……横島忠夫。」


感情が無かった少女の顔が、横島の名前を繰り返し、少し変化する。
喜怒哀楽という類のものではなく、興味が湧いたようだ。
どうやら、横島忠夫と言う名前は知っているらしい。


「昔、そういう名前の男と一緒に仕事をしていたと、聞いた事はある。」


「そう、そうなんだ!
俺と美神さんとおキヌちゃんは仲間なんだよ!」


だから怪しい者じゃないよーと精一杯アピールしているのだが、それでも少女の表情は明るくならない。
コツコツと静かに足音を響かせながら横島に歩み寄り、じっと見下ろしている。


「だけど、あなたがその『横島忠夫』本人だという確証が無い。
もしかしたら、名前を騙っているだけなのかも知れない。」


「な、なんちゅー事を言うのかッ!
素直じゃない子供はカワイクないぞッ!?」


予想外の言葉に、思わず本音が出てしまった。
気を悪くしたのか、少女はくるりと背を向け部屋に戻ろうとする。


「あぁ!嘘です、待って下さい!
財布の中の免許証で本人だって証明できるから、行かないでー!」


両手が自由なら縋り付いていただろう。
それ程までに必死な横島だが、少女は横島を見下ろし、冷たく言い放った。


「そんな物を信用するとでも?」


「なら、どないせえと言うのかッ!?」


取り付く島も無い少女の対応に、横島も素で答えてしまう。
また機嫌を損ねてしまうのではないかと一瞬焦ったが、少女は気にした様子も無く横島に向き直った。


「簡単な事……あなたの魂を見せてくれれば良い。
もし、あなたが本当に横島忠夫だというのなら、魂を見ればすぐにわかる。」


その言葉に、今まで愛想良く振舞っていた横島の視線が鋭くなる。
対霊ジャミングの影響下では、霊圧を探知するのも困難だ。
だが横島の動物的な直感が、本能に囁きかけていた。


「……お前、人間じゃないな。」


険しい顔の横島とは対照的に、無表情に少女は答える。


「ええ、その通り。私はシルキィ・フローズン。
マスターの従者を務めさせて頂いている。」


すぐにその名前が意味する所を察し、横島が苛立ち混じりに吐き捨てた。


「ふざけた名前を名乗ってんじゃねぇ……!」


「マスターの名を頂いたの。良い名前でしょう?」


それには答えず、横島は床に転がったままシルキィを睨みつける。
対霊ジャミングの影響下にありながら、横島の霊圧が警戒するように膨れ上がっていく。

人ではないからといって、敵対する存在とは限らない。それは横島が誰よりも知っている。
だが、無防備な状態で転がされているというのに、正体不明の相手を警戒しないほど呑気ではなかった。
そもそも、人の根幹を成す『魂』を要求するような相手に、いきなり心を開けという方が無理な話だ。
だがそれを気にするでも無く、シルキィは膝をつき、横島の頬にそっと手を添え囁いた。


「どうする?このまま放っておけば、罠の発動を察知したGSに捕らえられてしまう。
発動してからの時間を考えれば、もうあまり時間が無いと思うけど。」


諭すようなシルキィの言葉を無視し、横島は霊力を練り上げ高めていく。
どうやら自力でこの罠から抜け出す事を選んだようだが、対霊ジャミングの影響下でそれが成功するとは思えない。
頑なな横島の態度に、シルキィがもう一度声をかける。


「安心して良いわ。私が人に害を及ぼす事は絶対に無い。
魂を見ると言っても肉体から取り出す訳でもなく、ただ覗かせてもらうだけ。」


信用できるかと言わんばかりに、なおも横島は霊力を高めようとする。
シルキィの次の言葉を聞くまでは――――


「『何があろうと決して人に危害を加えない』……それが美神令子と交わした誓約なのだから。
一度交わした誓約に逆らう事はできない。GSの横島忠夫なら、それくらい理解できると思うけど?」


その名前を聞いた途端、横島の集中が途切れた。
横島を説得しようと熱弁を振るうでもなく、ただ淡々とシルキィは言葉を重ねる。


「美神令子の性格は知っているでしょう?
あの女が、マスターの傍に危険な存在を置くと思う?」


二人の間に沈黙が流れる。


「それで……本当に信用してくれるんだな?
俺が、横島忠夫本人だと納得すれば、この罠を解除してくれるんだな……?」


それを破ったのは横島の呟きだった。
その声に先程までの力強さは無く、諦観の色が濃く浮かんでいる。


「もしもあなたが横島忠夫本人なら、マスターはお逢いする事を望まれるだろう。
マスターの御意志は何よりも優先される。――――これで満足?」


「好きにしろ……別に減るもんじゃねーし。」


舌打ちし、横島がそっぽを向く。
シルキィは横島の顎に指をかけると、くいっと自分の方を向かせた。
横島の黒い瞳を、感情の読めない蒼い瞳が覗き込む。


「同意したな。」


一段低い声が漏れた。
気づいた横島が一旦取り下げようとするが、声が被さる。


「不安がるな。すぐに済む……」


シルキィが静かに目を閉じた。
焦りもだえる横島だったが、ゆっくりと開かれたその双眸に思わず目を見開く。
湖畔のような蒼い瞳は灼熱の溶岩の如き真紅の輝きへと変化し、妖艶な光を宿していた。
身体ごと吸い込まれそうなその妖しい煌きに魅入られ、目を逸らす事ができない。
突如、横島の視界が暗転した。


『なあ、忠夫。いきなりで悪いんだが、父さんはナルニアという国に赴任する事になってな』

『ナルニア?聞いた事無いけど、どんな国?』

『良い所だぞー。緑もたくさんあるし。ちなみにこれが資料な。』

『ちょい待て。緑があるっつーか、緑しかないじゃねーか!こんな所に住めるかー!』


――――な、何だこりゃ


『時給……250円!』

『喜んで働かせて頂きますオネーサマ!』


――――知った光景がグルグルと回って


『あのー、成仏ってどうやったらいいんでしょうか?』

『ふーん。良かったら私の所で働かない? ちゃんとお給料もあげるわよ。』


――――もしかして、走馬灯ってやつか?


『う、動くなッ!』

『だが、何時までもこのままという訳にもいくまい。世界を取るかルシオラを取るか、良く考えて選ぶのだな。』


――――違う……これは俺の記憶。


『人間なんて大ッ嫌い!』

『き、狐が女の子に化けた!?』


――――やめろ


『連れてってくれないなら、ここで粗相してやるでござる!』

『よさんかいッ!』


――――やめろ……!


『忠夫、明日の夜の予定空けとけ。話があるから。』

『げッ!もう予定入ってるんだけど。あ、そういや、ローレンス先生から連絡あった?精子も提供したし、そろそろあの話も動きだすんだよな?』

『……大事な話だ。絶対に来い。良いな?』


――――やめろッ……!


『本気で来なさい。手を抜いたら怪我じゃすまないわよ。』

『マジでやるんですか?こんな事しなくても、俺が美神さんに敵わないのはわかりきってるってのに。』

『……かもね。でも、最後に弟子の成長をこの目で見届けておきたいのよ。』

『え、最後って……?』

『話はもう終わり。それじゃあ行くわよ!』


――――ぁぁぁぁぁぁあああああああああああああ!!


「――――ふむ。マスターに劣らず、なかなか珍しい魂を持っているな。
魔族の魂混じりの人間など初めて見た。」


意識を取り戻すと、シルキィが顎に手を当て頷いていた。
その双眸はもとの蒼い瞳に戻り、先程の妖艶な雰囲気は影も形も無い。
さらに言葉を続けようとしたその時、横島がシルキィの胸倉を掴み、壁面に叩き付けた。
約束通り、既に横島の拘束は解除されている。


「この、野郎…………!」


左腕でシルキィを壁に押し付け、右腕を振り上げた。
その声は怒りに満ち、歯を剥き出して荒い息を吐いている。
振り上げられた右腕から、まるでジャミングなど作動していないかのように、高出力の霊力で形作られた刃が顕現する。


「ふふふ……魂を見られて逆上したか。
その刃を振り下ろしたいのなら、好きにすれば良い。
だが、こんな場面を見られて、弁解できると思うのか?」


魂を見る――――それは即ち、その人間が歩んできた人生を見るという事。
事前に説明がされていなかったというのに、承諾してしまったのは横島の落ち度だろう。
だが今の横島は、冷静に道理を考えられるような精神状態ではなかった。
いきなり一方的に記憶を引きずり出され余すことなく覗かれるのは、心のレイプといっても良い。

横島の腕を振り解こうとするでもなく、相変わらず淡々とした口調で語りかける。
一方、廊下の向こうからは、何者かがこちらに向かっている足音が響いて来ていた。
ぎりと歯を軋ませると、シルキィを押し付けていた手を離し、霊波刀も霧散させる。


「取り敢えず、警護の男は適当に誤魔化しておくから、そこの楽屋に隠れていれば良い。
マスターが戻られるまで、まだまだ時間がある。折角ここまで来たのだ、直接渡してくれた方がマスターも喜ばれるだろう。」


先程の横島の行動を責めようともせず、背中の荷物に目をやりながら、楽屋へと迎え入れる。
横島は何か言おうとしていたが、こちらに向かっている警護から逃れるため、渋々と楽屋へと入っていった。


「そろそろ挨拶も終わるようだが、あの楽器はどうするのでござろうか。
……もしや、ただの飾りなのか?」


広い舞台の上は多種多様な楽器群で埋め尽くされている。
だが現在舞台の上にあるのはおキヌの姿のみ。他に奏者の姿は見あたらない。

舞台を見下ろすシロの疑問をよそに、おキヌは胸に抱くオカリナをそっと口元に運んだ。
オカリナに息が吹き込まれた瞬間、ざわついていた会場がしんと静まり返った。
澄み切った笛の音がアリーナに響きわたる。

耳に響くというより、身体全体に沁み込むような音色。
その楽曲は柔らかく優しく、まるで子守唄の如く聴く者の心を穏やかに平らかにしていく。
静まり返った会場を歌声にも似た笛の音が包み込んでいき、やがて溶けていく。

演奏が始まれば会話を慎む。それは当然のマナーだ。
だがこの会場に詰め寄せた、興奮した五万人もの観客の全てが律儀にそれを守るとはとても考えられない。
しかし観客達は皆一様に惚け口を開き、舞台上のおキヌを見つめている。


「綺麗な……笛の音……」


「何と暖かい……まるでおキヌ殿の腕に抱かれているような……」


それはこのBOX席も例外ではなく、シロとタマモが目を瞑り溜息をついていた。
音楽というものは本来、情緒的な律動で心に訴えかけるものだ。だが、おキヌの笛の音は違う。
その音色は心ではなく魂を直に揺さぶり、聴く者の精神をトランス状態へと導く。

肉体や精神という外殻を持たない霊体とは違い、生身の人間の魂に干渉するのはそう簡単な事ではない。
魂を操る、それが高度な技量を要するのはなにより人間という形態を維持するプログラムそのものを操るに等しいからだ。
ガルーダの雛のように、発達していない未熟な精神の持ち主ならともかく、人間が相手では肉体そのものもそうだし、理性や感情、経験が防壁となる。
だが、警笛のような単純な音しか出せなかった昔の物とは違い、今使っているオカリナ状の笛には音階が設けられていた。

元来、音楽というものは、生物に様々な影響を与える力を持っている。
幼児の脳の成長を促したり、植物の成長を早めるなど、無意識の内に肉体に影響を及ぼす。
また、脳内で発生したα波が精神の緊張を解きほぐしストレスを解消するなど、精神に与える影響も大きい。
おキヌはリズムと音階――つまり音楽――で構成された楽曲に、霊力を込めた音波を乗せる事で、あらゆる者の魂を強制的に開放する力を持たせていた。
このコンサートの『魂を癒す』という謳い文句は、誇張などではなく、全く純然たる事実だった。

無論、誰にでも出来る事ではなく、ネクロマンサーの笛を使える条件を満たしていなければならない。
相手の苦しみを理解し共感する感受性。どんな相手の苦しみでも分け隔てなく受け入れられる度量。
そして何より、その感じ取った苦しみを心から癒してやりたいと思える心の持ち主でなければならない。
生身の人間を相手にそれが可能なのは、今現在世界でおキヌただ一人だけだった。


「え……何、この感じ……?」


「霊の……気配……?」


まどろんでいたシロとタマモだったが、不意に多数の霊の気配を感じ取った。
重いまぶたを押し上げ舞台を見てみると、舞台の上はドライアイスでも焚いたのか蒸気のようなものが溢れ出していた。
おキヌは膝下あたりまで立ち込める白煙を気にもせず、霊力を込めながら笛を吹いている。

おキヌの独奏だった筈が、何時の間にか他の楽器の音も混ざり始める。
タマモ達にだけ見えるのか、一般客にも見えているのかは定かでない。
だが、一人また一人と壇上に増えいく霊達は、それぞれに楽器を手に取り小編成を成し、やがて大規模な編成に、おキヌの笛と一体化していった。
一人の指揮者が振る棒によって全くことなる演奏を生み出す事がオーケストラの醍醐味であるなら、さながらおキヌは笛の音によって全体を調律し楽曲をより透明感あるものへと変貌させていく。
時に穏やかに、時に激しく、しかし演奏はますます伸びやかに浮き立ち、響き渡る。
魂に直接届く音の奔流は不愉快どころか陶然とした、まるで羊水の中で穏やかに眠っているかのごとく安心感を皆々に与えていた。


――――Requiem aeternam dona eis Domine(主よ 永遠の安息を彼らにお与え下さい)


気づけば楽団とおキヌの間に整然とコーラス隊が並び、鎮魂歌を歌い始めた。
ゆっくりと、心からの想いを声に乗せて発せられる歌声は高揚感を確かな物としていく。
引き込まれていく気持ちとは裏腹に体の力は抜け、ただただ聞き惚れるのみ。
混声四部合唱のオーケストラとなった音色は大きなうねりとなって会場を包み込む。目を開けることすらかなわず、まぶたを閉じた人たちはもはや位置も距離も関係なく、壇上のオーケストラと一体となっていく。
最初に体が、次に心が、そして魂の境目すら溶けだしていくようで、もはや自分がどうなっているのかすら判然としない。


シロとタマモが徐々に薄れ行く意識の中で見たのは、おキヌを取り囲み楽器を奏でる楽団と、オペラのように声を震わせる合唱団。
平穏と温もりに包まれ意識を失いつつある観客達は、突如白煙の中から現れた一団に疑問を抱けるような状態ではなかった。
しかし鋭い超感覚を持つシロとタマモだけは彼らの正体を感じ取っていた。


――――et lux perpetua luceat eis(そして 絶えざる光で照らして下さい)


突如舞台に現れた楽団。
彼らは、既に命を失った筈の存在。
ある者は大霊障。ある者は戦争。またある者は自然災害。
彼らは命を落とした場所も時代も、全てバラバラだった。


――――Te decet hymnus, Deus, in Sion(神よ シオンではあなたに賛歌が奉げられます)


一度は悪霊となり霊団と化した彼らは、おキヌの力により解放されていた。
しかし彼らは他の解放された霊達と違い、そのまま成仏する事を選ばなかった。
音楽への想いを捨て切れず、この世に留まる事を望んだのだ。
その願いは生と死を繰り返す、この世界の理である輪廻転生に逆らう行為。


――――et Tibi reddetur votum in Jerusalem(そして エルサレムの地で誓いは果たされます)


だが、おキヌは彼らを受け入れた。
世界の理は無論おキヌとて理解していた。
しかし彼女自身、浮遊霊の時に美神に受け入れてもらった故、同じ立場の彼らを見捨てる事など出来よう筈も無かった。


「レクイエム……素晴らしい……素晴らしい音色だ……」


シロとタマモと違い、東堂はクラシック音楽にも造詣が深い。
その彼の長い人生を振り返っても、これほどの演奏を聞いた覚えは無かった。
旋律に霊波を乗せる霊体ならではの演奏は生身の人間には出せない迫力を持っていた。


――――Exaudi orationem meam(私の祈りを聞き届けて下さい)


既に観客達は目を閉じ、旋律に身を委ねていた。
彼らはとうに思考能力を失い、眠るように椅子に身を沈めている。
合唱隊の歌声はさらに熱を帯び、楽器の旋律と相まって一層高まっていく。


――――ad Te omnis caro veniet(全ての肉体は あなたの元へいくでしょう)


いかん……意識が……
激しい旋律が津波のように押し寄せ、シロは意識を手放しそうになる。
どれ程心を打つ音色であろうと、それだけで意識を失う事は普通ではありえない。
にも拘らず、まるで眠りにでも落ちるかの如く、シロの意識は安らぎと共に深く深く沈んでゆく。


――――Requiem aeternam dona eis Domine(主よ 永遠の安息を彼らにお与え下さい)


あれ……あの光は何だろう……
シロ同様、意識を失った筈のタマモがふと疑問に思う。
見渡す限りの闇の中、前方に小さな光が見えていた。
まるで引き寄せられるように、前方の光に近付き、光が大きくなっていく。


――――et lux perpetua luceat eis(そして 絶えざる光で照らして下さい)


意識だけが光の中に飛び込み、急速に身体が感覚を取り戻していく。
光が収まり、徐々に視界がハッキリとするのに伴い、他の五感も働きを取り戻す。
街の喧騒、車のクラクション、行き交う人々の話声。
開けた視界の先の光景に、タマモはぽかんと口を開けてしまう。


「え、えーと……私はさっきまでコンサートに居たわよね……?
それが、何でこんな所に? しかも夜だった筈なのに何時の間にか夕方に戻ってるし……」


今タマモが立っているのは、美神所霊事務所と看板が掲げられた建物の前。
とうに日は暮れていた筈なのだが、空に浮かぶ夕陽が鮮やかに街を彩っていた。
まるで導かれるように、タマモは目の前の扉に手を掛ける。

ぎいと響く懐かしい扉の軋みを耳にしながら、階段を上がり居間へと向かう。
階段を上がるその姿は、成熟した女性のものではなく、まだ幼さの残る少女なのだがタマモは気付いていない。
自分の体の変化にも気付かぬ程、タマモは階段の先から聞こえる賑やかな談笑に心を奪われていたのだ。
ふわりと漂う夕飯の香り。扉から漏れる暖かい光。居間で交わされる、何でもないようなお喋り。
それらは既に失われた筈だった。だが今この瞬間、目の前にそれがある。

タマモは震える指先で扉のノブに触れるが、それを回す事ができない。
扉を開けてしまい、そこには何も無いという事実を確認するのが怖くて仕方がないのだ。
ノブを握ったまま立ち尽くしていたのだが、突然向こう側から扉が開かれた。

不意に支えを失い、よろけながらタマモは部屋に足を踏み入れてしまった。
告げられるであろう事実を恐れ、耐えるようにタマモはぎゅっと目をつぶる。

だが、彼女を待っていたのは小さな衝撃。
コツンと軽く頭を叩かれ、思わず目を開けてしまう。


「何をボーッとしてるのよ、あんたは。
さっさと入って来ないとせっかくのご飯が冷めちゃうでしょ?」


腰に手を当て、自分を見下ろしていたのは亜麻色の髪の女性。


「遅っせーぞ、タマモ!
こっちは昼から何も食ってないってのに、お前が帰るのを待っててやったんだからな!」


腹を立てた言葉とは裏腹に、テーブルに力無く突っ伏す飢えでやつれた少年。


「駄目よ、タマモちゃん。遅くなるのならちゃんと連絡してくれないと。
なかなか帰って来ないから、皆心配してたんだよ?」


ホッと胸を撫で下ろしている、エプロンを着けた優しそうな少女。


「まったく、狐は団体行動が出来ないから困ったものでござるよ。
さ、早くテーブルについて皆にあやまるでござる。」


ちょっとした優越感に浸っている銀髪の少女。
普段よく怒られるのは不器用な彼女なのだが、今日は立場が逆なのが嬉しいのだろう。


『お帰りなさい、タマモさん。
あまりオーナー達に心配をかけてはいけませんよ。』


無機質だが、何処と無く温かみのある人口幽霊の言葉。


それらは既に失われてしまった筈の繋がり。
どれほど取り戻したいと思っても叶わなかった過去の温もり。
一人一人の言葉と姿を噛み締めていたタマモだったが、小さな嗚咽が漏れ始めた。


「――ちょ、ちょっとタマモ?」


「あー、美神さんがタマモ泣かせたー。
そんなに強く殴るなんて、美神さんは鬼だなぁ。」


「ち、違うわよ!そんなに強く叩いてないってば!
だ、大丈夫? そんなに痛くしたつもりは無いんだけど、痛かった?」


意外すぎる反応に亜麻色の髪の女性がわたわたと慌てふためいていた。
妹の世話をしながら覚えたのか、頭を撫でてやったり肩を抱いてやったりと、幼児をあやすように慰める。
そうしてタマモに触れる女性は暖かく、珍しく慌てている女性をからかう少年の言葉は懐かしく。
今この瞬間、彼らは確かにここに存在し、自分と共にあるのだ。


――――みん、な……皆ッ……!


堰を切ったように感情が溢れ出し、タマモの頬を熱いものが濡らしていた。
失って初めて、その大切さに気付く事がある。タマモにとって、この日常こそが何物にも代え難いものだったのだ。
心配されるのも昔は鬱陶しいシガラミだと思っていた。自分は一人でも平気なのだと思っていた。

だが、実際はそうではなかった。彼らと離れ離れになった時、タマモは彼らが居てくれたからこそ何の心配もなく過ごせていたという現実を、否応無く突き付けられた。
タマモにとって、彼らこそが心から信頼できる家族だったと、失って初めて理解したのだ。
耐えるようにむせび泣いていたのが、今では声を上げて泣きじゃくっていた。
タマモのただならぬ様子に、他の面々も心配そうに駆け寄ってきたが、タマモは今まで堪えてきた寂しさを埋めるように只々泣き続けていた。


朝靄が立ち込める中、シロは佇んでいた。
濃く漂う緑の香り。遠くから聞こえる野鳥のさえずり。踏みしめた足に感じる大地の感触。
シロが意識を取り戻すと、そこは山深い森の中だった。

懐かしい空気と景色。
そして、目の前にある、丁寧に作られた木造の屋敷。
もう随分と戻っていなかったが、すぐに此処が何処なのか気がついた。
此処はシロの故郷の犬神の里。そして目の前の立派な屋敷はシロの生家だった。
屋敷をぐるりと取り囲む土壁には、幼い頃に自分がつけた傷が幾つも刻み込まれていた。


「夢……?
いや、それにしては感覚が鈍っておらん……」


先程まで夜だったのが、何時の間にか日の出前の早朝になっていた。
さらに距離にして何百キロとあるはずの場所に一瞬で移動していたのだ。
普通なら夢か幻だと思う所だが、犬神の超感覚がこれは現実だと囁いていた。
理解できない状況にいきなり放り込まれ、シロは困惑していた。

だが、不思議と危機感や警戒心は湧き起こらなかった。
この場所が懐かしい故郷という事もあるが、何故かシロの心は安らいでいたのだ。
ここには危険は存在しないと、本能で感じ取っていた。


「もう長い間、帰ってなかったでござる……」


藁葺の屋根を見上げながら、ふと田舎っぽいと感じてしまい、思わず苦笑いを浮かべる。
何時の間にか、自分にとってはコンクリートの建物が当たり前になってしまっていた。
立派に人間社会に順応しているという事なのだろうが、故郷に佇む今はそれがどうにも申し訳なく感じた。

恐らく里の誰かが手入れしてくれていたのだろう、放置していた割には屋敷に痛んだ様子は無かった。
たまにはちゃんと掃除でもしてやろうかと屋敷の門扉に手を掛けようとした所で、不意に何か気配のようなものを感じた。
シロが振り返った先には、木々の間から、離れに建てられた道場が見えていた。
生前、里一番の剣術の使い手だったシロの父親は、その道場で里の若者達を相手に剣の指南をしていたのだ。

まだ幼かった頃、病に臥せり死に瀕していた自分のために、片目を失いながらも薬を手に入れてくれた父を、シロは心から尊敬していた。
幼いながらも父の稽古を受け、剣術の基礎を築いていたからこそ、今日の自分があると思っていた。
何かに導かれるように、木々の間をくぐりながら道場へと近付いていく。


「しかし、よくよく考えてみれば……先生に稽古をつけてもらった覚えは無いでござるなぁ。」


師と仰ぎつつも、横島に剣術の指導を受けた覚えは殆ど無かった。
今思い返してみれば、初めて出逢った時、剣術に関しては自分の方が既に上だっただろう。
あの時自分に足りなかったのは霊波刀の出力だったが、結局それに関してもまともな指導を受けたとは言い難い。
良くも悪くも横島の霊能は特殊過ぎる為、他人に教授できる類の物ではないのだから、仕方が無いと言えばそれまでだが。

そこまで理解していながらも、シロがこれからも横島を先生と呼ぶ事に変わりは無いだろう。
それは惰性や馴れ合いでは無い。シロが横島に惹かれたのは、その心の強さによるところが大きかったからだ。
犬飼の事件の後、しばらくあの事務所で一緒に暮らしている内に、横島が霊能に関して素人だという事はすぐにわかった。
だからこそ驚いた。ただの素人があの犬飼を相手に戦い抜いたのだ。それは普通に考えれば有り得ない事だった。

人間離れしたタフな精神。子供ながらに、それはシロの憧れだった。その憧れが恋心に変わろうとは、あの時は想像もしていなかったが、現実はかくのとおりだ。
この時、ふとした疑問がシロの脳裏をよぎった。文字通り、命を懸けて横島があの事務所で働いていた理由は何だったのだろうか。

日々の生活のため――――?
勿論それもあるだろう。

GSになるため――――?
否、それはあの時点ではまだ考えていなかった筈だ。

美神令子のため――――?
それは


そこまで考えた時、チクリと胸に疼きにも似た痛みが走った。
余計な想像をしてしまい、頭を振って追い払おうとする。
昔は昔だ。今は自分が彼と共に在るのだから、余計な想像はしない方が良い。

懐かしい白い土壁と頑強に作られた扉。道場の周辺にまばらに生える草花。
そのどれもが幼い頃の記憶のままだった。

父に追いつこうと、夢中で剣を振っていたあの頃。
まだ人間達と交流も無く、幼い自分にとって里の仲間だけが世界の全てだった。
その中でも一番大きな存在は、やはり父だったろう。

思い起こせば、不器用な人だったと思う。だが、それ以上に強く優しい人だった。
生まれる時に母を亡くし、男手一つで育てられたせいか、何時の間にか里一番の腕白になってしまっていた。
同じ年頃の男の子と喧嘩しても、平手で打ちのめしてしまう自分を見て、父はよく何とも言えない表情を浮かべていた。
強く成長していく娘を誇って良いのか、それとももう少し淑やかにするよう窘めるべきなのか。
きっとそんな事を考えていたのだろう。

それでも結局は誇らしげに胸を張る自分の姿に、諦めたように苦笑しながらその大きな手で頭を撫でてくれた。
自分は、そうやって父の温もりを感じるのが大好きだった。


そう、あの温もりが――――


シロの頬に一筋の光が走り、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは無意識の感情の発露。

慌てて手の甲で目元を拭うが、涙は止まるどころか後から溢れ出し、視界を曇らせる。
そして、流れる涙に引きずられるように、亡き父への想いがシロの胸に込み上げる。
肩を震わせ、しゃくり上げそうになるが、ぐっと歯を噛み締めて堪えた。
涙を流す姿など、父は喜ばないだろうから。


「拙者は……泣かない……
父上のように、強くあろうと決めたのだから……」


泣いている姿を見せて天国の父に心配をかける訳にはいかない。
犬飼を討ち、父の葬儀を済ませた後、自分はそう心に誓った。
だから、どんなに父を喪った哀しみが大きくても、泣き崩れる訳にはいかないのだ。

上着の袖で乱暴に目元を拭い、少しばかり強引に涙を拭き取る。
強く擦ったので少々目が痛かったが、おかげで涙も無理矢理に止める事ができた。
そのまま道場に背を向け立ち去ろうとした時、ふと違和感に気付いた。

父が亡くなり、もう使われなくなった道場の扉には閂がかけられていた筈だ。
だが、今はその閂は外され、道場は自由に出入りができるようになっていた。
妙だと思い周囲を見渡すと、外された閂が近くの草むらに埋もれていた。

誰かが中にいるのだろうか?
主が不在の道場を、無断で使用するような輩が里にいるとは思えない。
だが、小さな童が悪戯に忍び込んだのかも知れない。
もしそうなら、お灸を据えてやろう。

自分も、小さい頃はよく悪戯をして大人達に叱られたものだ。
もし童がいたならば、ゲンコツの一つで許してやろうか。

そんな事を考えながら、シロは道場の扉に手をかけた。
案の定、扉は錠が外されており軽々と開いてしまった。
早朝の道場にはまだ日が殆ど差し込んでおらず、少々薄暗い。

大方、童達が剣術の真似事でもして遊んでいるのだろうと思ったのだが、それとは少し違っていた。
童の姿こそ無かったが、代わりに何者かが道場の真ん中で胡坐を組んで瞑想していたのだ。
背を向けているので正体こそ判らないが、その広い背中と結われた髪が、その者が年長者である事を示していた。
縄張り意識の強い人狼族が、勝手に他者の領域に侵入するなど通常では考えられない。


「何者かッ!?
此処を犬塚家の領域と知っての事か!!」


思わずシロも声を荒げ、不審な侵入者を威嚇する。
此処は亡き父との思い出の場所。それを他者に踏み荒らされるなど、到底許せる事ではない。
シロの気迫にさらされても、侵入者は慌てる事も無く、すっと胡坐を解いて立ち上がった。


「ああ、勿論知っているとも。」


低く、穏やかな声。
男はしっかりとした足取りで、シロの方に歩いて行く。
入り口の扉から差し込む光により、徐々に男の姿が明らかになる。
その姿に、シロは息を飲み口元を押さえる。


「――――立派になったな、シロ。」


自分を助けるために天狗と仕合った時に受けた刀傷。
片目を失って尚、その腕前は里随一と謳われた男。
もう、思い出の中にしか存在しない筈の男。


「父、上……?」


見紛う筈も無い姿が、そこにあった。

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