WGCA-JAPANは、WGCA内でも特別な位置に存在する。
それは母体である柊財閥の長、柊宗一の義弟が直接支部長に就任していることからも窺える。
日本ではかつて大きな霊障が数度発生していた。著名なところでは一匹の大妖が引き起こした東京首都機能壊滅事件や、人狼族による辻斬りから派生した、狼王フェンリル事件。ザンス国王暗殺未遂事件では、オカルト技術によるテロ事件として、一時期業界への風当たりが強くなったりもした。
そして、なんといっても過去最大の大霊障…アシュタロス事変。
公にはそのどれもが原因について言葉を濁し、一般人が真相の細部まで知ることはなかったが、オカルト事件の認知度がその都度跳ね上がったのは仕方の無いことだ。
WGCAが日本に支部を置く判断を下したのは、当然の帰結だった。日本は国土が狭い割に霊的拠点の数が多く、地脈の流れも活発だ。WGCAとしても、設立当初から日本支部の設置は検討されていた。
だが、先に紹介した霊障のどれを解決に導いたのも日本のGSであり、日本国内に於ける彼らの認知度、発言力の強さはGCの比ではない。
問題はそれだけではない。
霊能大家・六道家。
その歴史は深く、オカルトの分野に留まらない事業展開力は、柊財閥の力をもってしても、隙間に食い込むのが精一杯であった。地盤としている土地の差も出た結果だが。
様々な問題を根気よく解消していった結果、アシュタロス事変直後の、オカルト認知度最大級の頃には設置する予定だった日本支部は、ずるずると時期を逸し…今になってようやくの旗揚げと相成ったのである。
「最近の支部長…なんだか不機嫌だよなー」
「ずーっとパソコン弄ってるぜ? 目なんか真っ赤だし」
「やばいなぁ…今月の成績どうだっけ」
「え、もしかして業績日報でも睨んでるの、あれ? 最近伸び悩んでるしなぁ」
ひそひそと社員達が噂しているのも、ロディマスの態度があまりにあからさまだったからだ。
ザ・不機嫌。
ぶつぶつと呪文のように数字を唱えてはパソコン画面を睨みつけ、キーを散発的に叩いては苛立たしげに削除を繰り返す。
社員達に、彼が何をやっているのかデスクの裏から覗き込む勇気は無かった。
「貴方達…またその話? 支部長はお忙しいんだから、その分私達がフォローしてあげないと駄目よ?」
デスク間をわざと高い靴音で注意を惹き、春乃は社員達の喧騒を収める。肩を竦めて業務に戻っていく部下を見て、彼女もまた軽く肩を竦めた。ロディマスの刺々しいオーラを、いつも真っ先に浴びているのは春乃自身だからだ。
春乃は元々、柊財閥傘下のとある企業で社長秘書をしていたところを、柊宗一直々の招聘でWGCAへと派遣された、オカルト畑非出身の人間だ。
当時、既にGCは日本を除く各国で幅を利かせるようになっていて、春乃もそれまでの業務上、名前だけは知っていたが…自分が何故、そんな非科学的な業界へ異動するハメになったのか、正直不満だった。
ガチガチに緊張して訪れた柊財閥本社ビルの社長室。たかが一社員が訪れるにはあまりに雲の上過ぎる、場違いな場所で。
宗一は彼女を見るなり、彼女が内心に秘めていた疑問の全てに的確な答えを返してきた。まるで、心を覗いたかのように。
『ああ。私はテレパスだからね』
いともあっさりとプライベートな秘密を暴露した理由は、社長室にいるもう一人の人間…ロディマスにあった。彼は日本支部長就任に伴い、一つの条件を兄に出した。自分を補佐する人間についての、極めて個人的な…それこそ兄弟だからこそ可能な内容の。
『やあよろしく如月春乃君! 僕はロディマス=柊。君に補佐を頼むことになる、未来のWGCA-JAPAN支部長だ。一緒に会社を盛りたてて行こうじゃないか!』
春乃の混乱はピークに達していた。
『なるほど。ロディマス、彼女は何故自分がこの役目に選ばれたのか知りたいそうだよ。お前から説明しなさい』
『OK、兄貴。如月君、君を我が片腕に任命した理由、それは…!』
ニコニコと馴れ馴れしいこの男は、春乃をびっと指差して、叫ぶように言った。
『君が美人で有能で、腕っ節も強くてイイ性格で、日本の濃いキャラクターに負けない個性をもっている、と踏んだからだ! ついでにこんなにナイスヴァディッ!!』
ぱふ、と。
ロディマスの手が、自分のスーツの胸元に置かれたのを見て。
春乃は反射的に、身に染み込んだ武芸の奥義を激烈に炸裂させた。
『ご、合格…っ!』
そう言ってくたんと崩れ落ちたロディマスに、我に返った春乃は顔を蒼褪めさせたが。
宗一はロディマスを無視して、WGCA-JAPAN支部長補佐就任の辞令を春乃に下した。
『不肖の弟を、頼むよ』
微笑む宗一の目に、偽りは無かった。
(はー…私も物好きよね…あれから何年経ったっけ)
しかめっ面のロディマスがいるデスクに近づきながら、春乃は黄昏る。
(どうしてこんなのに付き合ってるのかしら。義務感?)
「支部長。ラボから連絡があって…ドクター・カオスがまた行方不明だと」
内心の疑問はおくびにも出さず、春乃は事務口調でロディマスに報告した。
「…彼なら、先日すっかり忘れていた用事を済ませに、異界へ行くとか言ってたよ。ついでに引越しがどうとか…」
画面から目を離さず、手も休めず。ロディマスの返事は片手間で上の空だ。
「…あの、支部長? 連絡が来ていたのならこちらにも回して頂かないと困るんですが」
「ちょっと手が離せなくてね。悪かった…ん、この間の移動をこっちにシフトすれば…おお? うんうん…」
仕事に夢中なのは悪くないけれど、周囲を疎かにされては困る。社員達の不安を解消するためにも、春乃は嫌々ながら尋ねることにした。
「先日からずっとPCに掛かりきりですけれど…一体何をなさってるんです? 少しは部下の身にもなってくれないと…」
「あー……む! これは…こうすれば……おお!? よしよし! では5箇所目を最初に持ってくる…これで…」
ほんの一瞬、春乃を面倒臭そうに見たロディマスだったが、一瞬の空白で何かを掴んだのか…血走った目を輝かせて作業を再開した。
鬼気迫る迫力に、春乃も口を出せない。…なら手よね、と肩を軽く引いて無防備な顎先に一本拳の照準を定めたその時。
「出来たぁーーーーーーーっ!! 春乃君出来たよコレ!! 我ながら完璧なタイムスケジュールッ!! 誰にも文句を言わせないパーフェクトプラン!」
春乃はその大音声に、拳から力が抜けた。春乃だけではなく、所内の全員が驚いてロディマスの方を見ている。
…そのため、対応が後手に遅れてしまったのが、彼女の不覚であった。
ロディマスの手が高速で閃き、春乃の頭を撫でていく。
「…………なんですか、コレは」
「猫耳だ! 正確にはマニーキャットの耳!」
「…………支部長がいそいそと付けておられるのは?」
「犬鼻だ! 正確にはロナルドドッグの鼻!」
春乃の頭には、ふさふさの毛に覆われた猫耳カチューシャが、装着されていた。背後の男性社員達からどよめきが生まれる。これはアリだとかいやジャンル過多だとかなんとか。女性社員の目が冷たい。
そして、ロディマスの顔にはデフォルメされた犬鼻が。だがこれにはどよめきは起きなかった。…あまりに違和感が無かったために。
春乃は肩幅に足を開き、デスクを挟んで満足げに笑う支部長へ半身に構えをとった。
「…それで、何故こんなものを私に?」
「これを見てくれ!! 僕がここ数日の作業で製作した、東京デジャブーランド&来月公開予定東京デジャブーマウンテンの全アトラクション踏破スケジュール表!! 勿論ランチにディナーの時間もとってあるから安心しなさい! 春乃君、ここ一緒に行くから準備しといてね!!」
液晶ディスプレイをぐるっと春乃に向けて、ロディマスは達成感に満ち満ちた笑顔を、人によっては魅力的なスマイルをぶつける。
しかし、春乃は呼吸を整え、丹田に力を溜めるのに集中していたため…彼の笑顔を見ることはなかった。
返事は、鋭い呼気と大気を割って流れる鞭のような一閃。
「てめえは業務時間中に何デートプラン作ってやがるんだボケがぁーーーーっ!!??」
…妄想で顔を真っ赤にした春乃の左足刀は、威力も迫力も十分だったのだが如何せん。
ぴょこんと揺れる猫耳が、全ての説得力を台無しにしていた。
スランプ・オーバーズ! 13
「再会」
妙神山登山を明日に控えて、おキヌは準備に勤しんでいた。
冥子の修行に何日間かかるのか不明でも、付き添いの身である以上、彼女を置いて下山する訳にはいかない。それに、おキヌ自身の修行も、出来れば頼みたかった。冥子との修行がある分、小竜姫も多忙とは思うが。
以前妙神山を訪れた時は、おキヌはまだ幽霊の身で…美神の荷物を抱えていたとはいえ、疲労とは無縁の登山行だった。が、今はそうはいかない。
「着替えっているのかな…確か、修行者用の服に着替えてたよね? じゃあ下着とパジャマだけ持っていけばいいのかなー」
修行場に至る道は険しい。標高こそ周囲と大差のない妙神山だが、日本随一とされる霊格は伊達ではなく、絶えず登山者を圧迫する霊圧は、霊能に長けたものほど影響を受けやすい。修行は既に始まっている。
おキヌの体力を考慮すれば、大荷物を担いでは行けない。
とはいえ、おキヌの除霊道具は極論すれば龍笛一本。オールラウンダーの美神のように、様々な道具を持ち込む必要はない。問題は、必須以外の道具の選定と、重量とのバランスだった。
荷物の選定は、GSにとってとても大事な事柄でもある。仕事の内容に合わせて過不足の無い荷造りが可能になるには、かなりの経験を必要とした。
六道女学院では、校外実習や除霊合宿といった機会を利用して、生徒達に効率的な道具の選び方、荷物の詰め方といった実用的作業のイロハも教えている。おキヌも授業の内容を思い出しながら、リュックに物を入れていった。
「美神さん、自分から言い出したクセに心配しちゃって…精霊石まで渡してくれるなんて」
お守り代わりよ、と言って美神がくれた精霊石のイヤリングは、机の上に龍笛と並べて置いてある。当日絶対に忘れないための処置だ。
「キヌ姉様、これは何です?」
おキヌの邪魔にならぬよう、ちょこんと勉強机の椅子に正座して準備の様子を見ていたチリが、丸まった袋を見て首を傾げた。
「これは寝袋。ほんとはテントも持って行きたいんだけど…」
登山道の詳細はあまり覚えていないが、道中に横になって寝られるような場所はあったかどうか。
休憩可能なスペース程度は確保出来ると思うが、流石にテントを張って夜露を凌げるほどの余裕は無かった気がする。
「私もお手伝いしたいですー…」
じわじわと増えていく荷物の量に、チリはそう進言するも。
「駄目よ。全部自力で運ばないと、特訓にならないから」
体力不足を痛感しているおキヌは、きっぱりと断った。
今回、ショウチリも妙神山登山に同行するのだが、道中兄妹には笙と篳篥、それぞれ本体の姿に戻り、荷物に混ざってもらう事にしていた。
ショウは猛然と抗議したが、転落や落石事故、遭難といった山の怖さを説く内に、納得してくれた。チリが笛を手に睨んでいたのも効果抜群だった模様。
登山自体初心者のおキヌだ。周囲に余計な気を配りながらでは、登頂すら危ぶまれるだろうし。
「あ、靴! 普通の運動靴じゃ駄目だよね…うーん…」
通学用のスニーカーと、除霊時に履いている草履…は論外。
美神ならきちんとした登山靴かトレッキングシューズを、要不要に関わらず備えとして持っているか。でもサイズの合わない靴は、登山用ではない以上に危険だと思われる。
おキヌは悩んだ挙句、買出しに出かけることにした。丁度、夕食の材料も買わないとだったし。
「チリちゃん、一緒にお買い物行こうか。デパ-トなんて行った事無かったよね」
近場の商店街で登山用品を探すのは、流石に困難だろう。
「はい! お供します!」
「じゃあ冥子さんも誘って…ショウ様も一緒にいるのかな」
冥子は研修中、ショウチリの使っている屋根裏部屋に泊まり込んでいる。本来なら通勤でも問題無いところを、冥子がイヤイヤをしてそうなった。お友達の家でお泊り会って素敵~、だそうで。
ただ、ベッドは二つしかないので…ショウは冥子に抱かれて眠るか、本体に戻るかの二択を迫られて苦慮していたようだ。
小さいんだし、チリと寝れば? という美神の提案は、何故かショウは頑なに拒んだ。どうもチリの寝相に問題があるようで、兄は達観した様子でじっと遠くを見ていたりしたが。
結局ショウは本体に戻る事を事実上の一択で採択し、今日に至っている。
「冥子様も準備している最中ですよね。兄様が邪魔をしていなければいいんですが…」
「あー…多分、大丈夫。どっちかというと…」
おキヌは今も屋根裏部屋で繰り広げられているであろう、冥子とショウの準備風景を思い、苦笑いを浮かべた。
「だーかーら! 冥子! ぬいぐるみは入れるなと言うておるじゃろうが! 嵩張るだけじゃ!」
「え~~…でも~~…」
「でももへったくれも無いわ! お主は山の怖さを知らぬのじゃ! 山は怖いぞ! 巨大な岩石が降ってきたり、一歩足を違えれば死出の道行き一直線の細き道とか! 最悪浮かばれることもなく深山幽谷を彷徨う孤独な幽霊となって…」
「きゃあああ怖い~~~!! ショウちゃん脅かさないで~~!」
「むがあああ!! 抱きつく前に準備をせい準備を! …ぬあっ!? 冥子、何じゃその漫画本は!」
「これ~? うんとね、これは両親を黒い仮面の騎士に殺された幼い兄弟が、仇を討つための旅に出るってお話でね~…」
「中身ではない! 全40巻セットなんぞを修行中のどのタイミングで読破するつもりじゃ馬鹿者!?」
「だって~…まだ全部読み終えてないんだもの~…続きが気になって~」
「こ……この娘…! 何にも判っておらん…!? ええい冥子! 受け売りじゃがオレが山の恐ろしさというもの、そして登山への気構えその他諸々をレクチャーしてやる! 心して聞け!」
「は~い」
「…どっちかというと…どっちもどっち、かな」
おキヌの想像は、ほとんど的中していたりした。
週末を控えて、街の人出は夕方近くの帰宅時とも重なってかなりのものだった。大型百貨店が並ぶ一画は特に賑わっている。
「ショウ様も冥子さんも、逸れないで下さいねー?」
チリの手を握って歩くおキヌの後ろには、冥子と手を繋いだショウがてくてくと歩いていた。
お嬢様育ちで、人込みの中を歩く事の少ない冥子は、ショウが引っ張らないとどうにも遅れがちである。ちなみに十二神将は現在、ハイラだけ残して美神が管理していた。例の薬もだ。
「うわあ…おっきなお店です」
百貨店のビルを見上げるチリの口がぽかんと開く。おキヌはくすりと笑い、背後にいるはずの二人を振り返った。
…が、二人の姿は雑踏の中に消えていた。
「な………なんてお約束な………迷子になるならお店の中に入ってからにして下さーーーーいっ!」
「キヌ姉様、大丈夫ですよ。今、念話で兄様を呼びますから」
往来の真ん中で泣きそうな声を上げるおキヌに、チリがにっこりと笑いかける。
目を瞑ってショウに呼びかけるチリを見て、おキヌは携帯要らないなあ、と感心している。兄妹間でしか使えないのに、気付かないところがまた天然ではあるが。
「えっとですね。兄様と冥子様、違うお店に入ってしまったようです。正面玄関からすぐの広間に大きなピアノが飾ってあるお店だそうで」
「全くもう…じゃあそっちに移動しましょうかー。チリちゃん、案内してくれる?」
「じゃあ…はい!」
「ん、はいはい」
満面の笑みで差し出してくるチリの手を優しく握り、彼女のペースに合わせておキヌは歩く。
目的の店は、5分も歩かない同じ通りの別デパートだった。吹き抜けのロビーに立派なグランドピアノが展示されており、そのピアノを、風船を持った冥子とショウが眺めていた。しっかりと手を繋いでいる。
「冥子さーん、ショウ様ー!」
おキヌの声に、ショウがこちらを向いて大きく手を振ってきた。赤い風船がゆらゆらと揺れている。
「あ、おキヌちゃん見て見て~風船もらってきたの~」
純真というか天然というか…冥子はショウから一拍遅れて振り返ると、左手に持った白い風船を示して子供のように微笑んだ。迷子になった自覚は皆無らしい。
「キヌの後ろを歩いておったら、冥子が突然オレを抱き上げて走り出してな。何事かと思うたら、道端で看板をもった猫が風船を配っておった。あー…なんじゃったっけ…」
「マッキーキャットよ~。来月デジャブーランドの隣に開園する、山と湖をメインテーマにしたテーマパーク…東京デジャブーマウンテンのPRに来てたの~」
これはおまけ~、と冥子は風船を突いて微笑む。確かに、風船の表面にはマッキーとマニー、ロナルドのイラストが描かれている。
周囲を見渡せば、同じような風船を持った親子連れの姿は多かった。冥子とショウも一見姉弟のようだから、違和感は無い。
「でも、一声掛けてから行ってくださいね。心配しちゃった」
「ごめんね~、でもマッキーが~」
「今後はオレが気をつけるゆえ、許してやってくれキヌ」
小さなショウがお姉さんの冥子を庇う光景は、ひどく微笑ましい。通りすがる周囲の人々の目も自然と和らぐというもの。
実際年上なのはショウで、本人もそのつもりで叱っているのだが。
「さ、それじゃお買い物に行きましょう。冥子さんも、寄り道しちゃ駄目ですよー」
「は~い。ショウちゃん行こう~」
今度は逸れないように。おキヌは両手に兄妹の手を握り、ショウは冥子の手を取る。風船は冥子が2つ纏めて頭上に浮かべていた。
…冥子は紅白の風船を見上げて思う。
今、自分の傍らに十二神将はハイラ一鬼しかいない。
けれどどうだろう、この安心感は。手から伝わるショウの温もりの、心強いことと言ったら。
…本当に自分は、あの『バージョン令子ちゃん』と代わりたいのだろうか。
厄珍の説明によると、ミチガエール-αは継続して服用することで大きな負担無く心格の矯正…つまりは理想の人格へのシフトが可能だという。
カオスの城で冥子が鼻血を噴いたのは、薬の影響というよりは霊圧の過負荷に拠る部分が大きい。薬の副作用は負荷に引き摺られて出てきたようなものだ。
横島の文珠『解』により、それまでの心格矯正効果はほぼ失われている。でも冥子の心は以前のまま…強くありたいと望んでいた。
この風船のように、二つの意志が揺らいでいた。
霊薬が生んだ、理想の自分に全てを託して消えていきたい。
今の自分のまま、誰にも迷惑をかけない強さを手に入れたい。
どちらも偽らざる本音だった。前者は不甲斐無い自分を自覚した最近になっての、強い想い。
そして後者は…
「どーした冥子? ぼーっとしとるとまた迷うぞ?」
くいくい、と手が引っ張られて冥子は我に返った。ショウが不審げに自分を見上げている。
「……なんでもないのよ~」
冥子の主観では、この子は子供。こんな小さな子に、余計な心配を掛けるわけにはいかない。…自分はお姉さんなのだから。
「お、おキヌちゃん、さ、さ~最初は何のお店に、い~、行くの~?」
取り繕うことには慣れていない。盛大にどもりつつ、冥子は必死になってショウの視線から逃れるのだった。
「う、うわっとぉっ!?」
横島の手の中で、霊気を含んだガスが盛大に噴き出してきた。
慌てて生成途中の文珠を、事務所の窓から裏庭へ投げ捨てる。そこはまだ事務所の結界の中なので、爆発しても周囲への影響は考えなくていい。
くぐもった爆発音が響いた。応接室には霊気の漏れカスが、僅かに残留している。
「うはー…久々にやっちまったよ。文珠作るのに失敗するなんて…何年ぶりだよおい」
霊波にジャミングを受けていた城での事は抜きとして。
文珠を覚えて日の浅い頃、よくやらかしていた失敗に横島は冷や汗を拭う。
所内には今、横島忠夫一人しかいない。美神はなにやら怖い顔で厄珍堂へ行き、おキヌと冥子は付喪神兄妹を伴って、明日のための買出しへと出掛けた。
横島は今日のバイトを終えて帰宅する途中だったのだが、おキヌが引き止めて今は留守番中だ。
明日からしばらくは妙神山に籠もる事になるので、英気を養うべく今晩はご馳走にする、と。ご馳走と聞いてしまえば、横島に断る理由は無い。
「シロの奴がいねえから、奪い合いになることもないしな。3日分は食っちゃる!」
週末の食事代を浮かせるためにも、食い溜めを決意する青年であった。時給は上がっているのに、身に染み付いた貧乏人根性はどうにも抜けない。
「あー…残りの文珠は…ひのふのみの…6個か。…慌てて作り置きする必要もねーな」
ごろんとソファに横になり、天井を見ながら。
横島はカオスの城での事を思い出していた。
「………惚れた女の顔した娘、かー」
あの時…医務室で美神が言った台詞だ。
「カオスの野郎、一体どんな気持ちだったんやろ…」
横島がカオスに聞きたかった事。それは、近い将来…かは分からないが、確実に自分もぶつかる苦悩についてだった。
「…………………俺の子供…………」
慎重に慎重に、宝箱の蓋をそっと開けるように…触れたくない箇所に指先が触れないよう、極めてゆっくりと言葉を紡ぐ。
薄っすらと開けた記憶の中から、未来について、それだけを取り出してまたすぐに蓋を閉じる。厳重に、厳重に。
「子供より先に嫁さんだろうが! うははは……はは」
いつものようにふざけようにも、やはり心がついて行かない。空笑いは、横島を一層虚しくさせた。
「……もっと強くならねえと駄目だなぁ…もっともっと」
霊能もそうだし、心の強さもそう。
「冥子ちゃんも頑張ってるしなぁ…おキヌちゃんも強くなったし。美神さんは元々強いし。俺だけか、全然変わってねーのは」
皆それぞれに、試練を乗り越えて強くなっている。横島だって半端ではない逆境を幾度となく突破してきたのだが、そんな自覚を彼が持っている筈も無かった。
「この間から成長してねえのに、また妙神山行くって訳にもいかんしなぁ。猿はともかく、小竜姫様に白い目で見られるのは耐えられん!!」
ソファの上で身悶えし、うっかり脛をテーブルの角にぶつけた。形容し難い激痛に声も無く震えた後、涙目でじーっと自分の両手を睨む。
「………ミチガエール、か」
一言だけ呟いた横島は、両手を見つめたまま、身じろぎもせずに佇む。その表情からは、何を考えているのか…まるで読み取れなかった。
女性の買い物は時間を食うものだ。
ショウは連れの3人がきゃいきゃいと騒ぎながら、見た目似たような鞄やら靴やらを物色していく様を、ロビーのベンチから眺めていた。
「……はぁ。オレは来んでも良かったのうー…」
大分日も傾いてきている。明日の準備だけではなく、今夜のご馳走も作らなくてはいけないというのに…おキヌは一度だけショウに缶ジュースを持ってきて、もう少し待ってて下さい、と言ったきり買い物に没頭している。
実はおキヌの選んでいるものの大半は冥子の物だったりするが。身一つ鞄一つで事務所に来た彼女に、登山装備を求めるのは酷であった。実家に戻っても準備する事に変わりは無いのなら、ここで揃えてしまっていいだろう。お財布に余裕のある冥子だから出来る判断だ。
「あーー…退屈じゃー………よし!」
一向に終わる気配を見せないおキヌ達に業を煮やし、ショウは単独行動を決意した。チリが向こうについていれば、迷子の心配も無いし。
いい加減待っているのも、逆に疲れる。ここには興味を惹くものが沢山存在するし、それらを見て回った方が楽しい上に時間の経過も忘れられて一石二鳥。
ショウは足をぶらぶらさせていたベンチから飛び降り、まずはジュースの空き缶を捨てるべくごみ箱を探した。
「うむ発見! ちゃんと空き缶専用じゃ」
ショウが休んでいたベンチとはエスカレーターを挟んだ、向かいの休憩コーナーにごみ箱はあった。そちらには大画面のTVも設置してあり、最初からここで時間を潰せば良かったかのう、とショウは唇を尖らせる。
TVの前には、ショウと似たような境遇なのだろう数人の男女が、手持ち無沙汰に画面に顔を向けていた。
その中の一人。
ベンチにどっかりと座り込み、虚ろな目をしたスーツの男に…ショウは見覚えがあるような気がした。
「む…? あ奴どこかで…」
「あら? 君、もしかしてショウ君?」
空き缶を持ったまま記憶を探っていたショウは、名を背後から呼ばれて頭上を仰ぎ見た。ぽかんと口を開けて。
「ほらやっぱり。こんばんは、ショウ君。お使いにでも来たの?」
ふわり、と。
黒髪がショウの鼻先を擽って流れる。
「お主は…」
その女性は、ショウの前にしゃがむと、開きっ放しの小さな口に人差し指を当てて悪戯っぽく言った。
「お口が渇いちゃうわよ?」
見る者を男女問わず魅了する美貌。カジュアルな格好でも、そのオーラは翳りを見せず、きらきらと輝く粒子を振りまいているようで。
「梓! 久方ぶりじゃのう!」
元天才ピアニスト、久遠梓はにっかりと笑うショウを真似て、無邪気な笑顔を見せるのだった。
「あ、ようやく帰ってきたよ…」
ついでに虚ろな目の男、宮下健二も。
「日本最高峰の霊能修行場? 凄いところに行くのねぇ」
「梓よ。お主も退魔の技を極めんと欲するならば、いつかは越えねばならぬ場所じゃぞ」
そう言って梓に突きつけたのは、長いスプーンである。
久遠梓。
おキヌがショウチリと出会うきっかけとなった、ある霊障の当事者だ。
稀代のピアニストとして一時は時代の寵児と持て囃されたが、生音に特化して研ぎ澄まされた彼女のピアノは、メディアを通すと魅力が激減する欠点が災いして、次第に人々から忘れ去られる存在となった。
それでも久遠梓の魅力を知るコアなファンは多く、リサイタルではいつも満員御礼状態だった。
しかし、不幸は彼女の門出の日に起きた。
久遠梓専用音楽堂『九音堂』の杮落としの日。
梓は幽霊となって舞台に現れた。そして、九音堂はたった一度の、幻の初回公演を最後に閉鎖されることとなったのだ。
おキヌは梓のマネージャー宮下健二の願いを受け、級友をも巻き込んで梓の救済に東奔西走し…形としては、ほぼ最良の結果を残すことが出来た。
休憩コーナーから場所を移して。
梓、健二、ショウの三人はデパート内の喫茶店、窓際のテーブル席にいた。ショウの前には大きなチョコパフェが聳え立ち、彼の口の周りはクリームでべとべとになっている。
梓はナプキンでショウの口を拭いてやりながら、GSを目指して勉強中であることや、このデパートに展示してあるグランドピアノが彼女の寄贈品で、さっきまで寄贈式典が行われていたこと等を楽しげに語った。
ショウもまた、明日から霊峰登山に皆で挑むこと、その準備でこのデパートに出向いてきた事を、スプーンを繰りながら大雑把に話す。大威張りで山の危険性を説く少年を、梓はにこにこしながら見守っていた。
「ふーん…ねえ健二さん。…健二さん?」
「…ふえ!? あ、何?」
「もう健二さん…お疲れなのは分かりますけど、せっかくショウ君に会えたんだから」
テーブルに頬杖をついて、うとうとと居眠りしていた健二の疲れっぷりは、目の下に出来ている隈の濃さからも容易に想像出来た。
「お主は何でそんなに疲労困憊しておるんじゃ? もやしっ子で都会に生きる現代人だからか?」
「もやしっ子は酷いな…」
ブラックコーヒーを啜って一息吐いた健二は、無意識にタバコを探そうとして、苦笑する。二度目の禁煙には成功しているが、ふとした仕草までは消え難いものだ。
「梓のスケジュール管理と、自分の鍛錬でちょっとね…」
久遠梓は公式にピアニスト引退を表明しているが、仕事の日程は今年度一杯は埋まっているため、それが終わるまではGS修行に専念する事が出来ない。
更には引退を知ったファンによる辞めないでくれ、という応援運動も展開されていたりするので、どうにも『ピアニスト久遠梓』の活動を区切り良く断ち切れずにいた。
「有り難いことなんだけどね。梓はもう完全に引退する決意を固めているし…僕は少しでも彼女の力になれるよう、全力でサポートするだけさ」
「面倒臭いんじゃのう、ぴあのりすとも…」
パフェ中層のチョコフレークを口に運びながら、ショウは他人事のように呟く。甘苦い食感が新鮮で、ショウの手は休む暇が無かった。
『兄様? 兄様、聞こえますか?』
「ぅおわっと!」
「? どうしたの?」
突然びくっとなりスプーンを取り落としそうになったショウに、梓は目を丸くした。
目の前の子供が、本当は200年以上を生きる人外の存在だと知ってはいるが…こうして甘いものに目を輝かせる様子を見ると、やっぱり子供にしか見えない。というか見た目よりも幼く…
『兄様! もう、また迷子ですか!』
『迷子ではないわ! 聞いて驚け! オレは今ビッグショコラパフェなる美味を食しておるのだぞ!』
『ええっ!? 何ですかそれは? 甘いもの?』
『甘いも甘い! しかも複雑な甘味の積層する姿は正にキングオブ甘味!』
『えーーーーーーっ! チリも食べたいです! 兄様どこにおられるのですか!』
念話でのやり取りは、余人には聞こえない。突然眉間にスプーンを当てて目を閉じたショウに、梓と健二は顔を見合わせて首を傾げる。
『もうこちらは買い物を終えて、先ほどのピアノの前で待ってますよ。キヌ姉様に怒られる前に戻ってきて下さい。パフェのことは後でじっくりと』
『分かった分かった。すぐに戻るから待っておれ!』
念話を終え、スプーンを猛烈な勢いで動かすと瞬く間にショウは巨大パフェの完食に成功した。思わず梓は小さく拍手してしまう。
「ご馳走様であった! 梓よ、妹とキヌがオレを待っておるゆえ、先に戻る! 今度チリにも馳走してやってくれ! ではなっ!」
「え? あ、ええ。氷室さんとチリちゃんによろしくね」
おキヌに躾けられているのか、ぱしんと両手を合わせてご馳走様を言ったショウは、電光の如く喫茶店から駆け抜け、梓の視界からも消えていった。
「元気な子ですよね、ショウ君。チリちゃんにも会いたかったなぁ」
「氷室さんにもね」
「…ねえ健二さん。確か明日明後日はお休みでしたよね?」
「ん? ああ…今週の仕事はここの式典が最後だね。スケジュール的には空白。休息も、個人的には大事なスケジュールだけど」
「…ではピクニックに行きませんか?」
「おーいいねえ。リフレッシュ、って奴だ」
梓の何気ないお願いに、何を想像したのか…健二の頬は綻ぶ。
「…じゃあ早速準備しなくちゃ。健二さん、帰りましょ」
いちいち一拍間を空ける梓の声に不審を覚える事も無く、健二はつい先日から同棲を始めた恋人の微笑みに、ただただ頷くのみであった。
…宮下健二の苦行…その開始のベルが鳴ったのは、正にこの瞬間である。
そして翌日、妙神山麓の登山道入口にて。
「な、何で…………!?」
「おはようございます、お久しぶり氷室さん」
おキヌは予想もしなかった人物の登場に、思わず背負っていたリュックを肩から落としてしまった。
「何で久遠さんが妙神山にーーーーーーーーーーーっ!?」
きっちりと隙の無い登山着姿の久遠梓が微笑むその隣で。
「え!? あの六道財閥のご令嬢…!? あ、私、久遠のマネージャーを勤めております宮下と申します。ピアニストのご用命がありましたら是非久遠を…」
同じく登山着に身を固めた宮下健二が、冥子の素性を知って反射的に営業活動を行っていた。梓は既に引退しているというのに悲しいかな、苦労人の性。登山着のポケットにすら名刺を仕込んであったのがまた…涙を誘った。
続く
後書き
竜の庵です。
閑話的な内容になりました。久遠梓の登場で妙神山修行場への道行きがどうなるか…お楽しみに。
オリキャラ率が高い作品です。今回も読み返してみると、7割近くはオリキャラ同士の絡みって…
難しいですね、オリキャラの背景を語らせたりするのは。
久遠梓というキャラは、前シリーズに登場した女性です。誰よこれ? とお思いになられた方は、そちらも読んで頂けると嬉しいです。第4話で語ってますので。
ではレス返しを。
弟子二十二号様
初レス有り難い限りであります。
キャラの内面というのは、百人百様の解釈が存在すると思います。作者のキャラ像が、二十二号様の御眼鏡に適うものであったなら、一安心ですな。どう推移していくか、見守って下さいませー
冥子の成長は慎重にやらないと、あっという間に最強キャラに…扱いのムズい娘です。
小竜姫…次回、出番があるでしょうか。頑張って悲しい未来を回避させます!(ぇ
内海一弘様
襲撃…そんな気はないですよ? うん。だからこそ性質が悪い、とも言うのでしょうかー…じゃあ襲撃でいいや! 良くないか!
美神もある意味、貧乏くじを引いているようです。精神的にもタフになっている分、下手に我慢が効いてしまうところが。冥子が起きなければ、カオスは…展開を大幅に修正するところでした。デッドエンドは想定外。プロジェクト~も出せて良かった。
冥子ネタ、もうちょっと目を瞑ってて下さい。もうすぐ出ますから。もうすぐ。
カシム様
最終回かぁ…これがフラグというヤツですね。でも書きたい事はまだまだありますので。出したいGSキャラも事件も。もうしばらくお付き合い下さい。
つっこみについてですが、作者のイメージではですね。
歩く>鼻緒切れる>つんのめる>ぺたんと女の子座り(足がM字になるあれ…って書くとなんかエロい…)になって呆然。
だったのですが、確かに伝わるわけねえ! 描写不足でした、申し訳ありません。180度回転…前転して尻餅も、絵面としては面白いなぁ。咄嗟に受身をとった感じで。
横島は所々で無理をしています。じわじわと苦悩が顕在化していく姿は、我ながら痛々しいのですが…
あくまで冥子の修行がメインですし、おキヌが出しゃばって修行を~という展開は不自然ですよね。どう転んでいくか、お待ち下さいませ。
以上レス返しでした。皆様有難うございました。
次回、天然コンビ&梓・健二が妙神山に挑みます。
テンポ良く進めばいいなぁ…
ではこの辺で。最後までお読みいただき、有難うございました!