その日、横島霊障対策事務所は、珍しく平和とは真逆の様相を呈していた。
「まったくもう! 横島君、いい加減に懲りたらどうなの!?」
自らの本体である机を持ち上げ、いまだ肩で息をついているのは机妖怪の愛子だった。
本来、多少厳しくとも性格自体は良識的で、”青春”を合い言葉に”清く正しく美しく”を地でいくことの出来る彼女である。が、ムキになって怒る様は、某除霊事務所の女所長をさえ彷彿とさせる。
とばっちりを恐れたドクター・カオスは、マリアを伴って事務所内に勝手に作った研究室へと避難済み。
そして、事務所の所長であるはずの横島忠夫は、色々と懐かしさを感じる惨劇に少しばかり満足しながらも、玄関口で真っ赤な血の海に沈められていた。
「あの、この振り上げた神剣はどうすれば……」
「はぁはぁ。小竜姫様も、もうそれ仕舞って下さい」
愛子に言われるがまま、恐縮したように神剣を鞘に収めるのは、妙神山修行場の管理人――小竜姫その人であった。
赤いショーットカットの髪、若々しい顔立ち、健康的で瑞々しい肢体。学校妖怪からOL妖怪に転職した際、容姿もそれなりに成長させた愛子と並ぶと、ほとんど同年代のお友達にしか見えないという小竜姫である。
いきすぎた男の浪漫を体現する男なら、小竜姫が事務所の扉を開いた瞬間、手を握って口説き始め、撃墜・血塗れのお約束コースを演じてしまうのは自明の理というものだった。
「で、小竜姫様。今日はどんなご依頼っすか?」
愛子がお茶請けを用意しに給湯室へ姿を消し、ややも時間が経過したところで復活した横島の第一声。『小竜姫様! 相変わらずお美しい!』とか言いつつ、飛び掛かったことなど忘れたかのように、営業スマイルを浮かべて応対用のソファーに腰を下ろす。
「……ほんっとうに、変わりませんね。横島さん」
自分が訪れる度、必ずと言っていいほど同じ反応を繰り返す横島に、小竜姫は何とも言えない表情を作るほかなかった。
■ 今そこにある明日 承章 ■
―― Undertake anything ! ――
「”天岩戸(アマノイワト)”? それって、あの日本神話で有名な?」
「はい。天照大神(アマテラスオオミカミ)が引き籠もったという、あの”天岩戸”のことです」
来客用のソファーに腰を下ろし、愛子の持ってきたお茶請けを一口摘んでから、小竜姫は今回の来訪目的――即ち、横島霊障対策事務所への依頼について話を切り出した。
「確か、アレっすよね。弟の素盞鳴尊(スサノオノミコト)がどーしようもない不良で、ちょっとヤケになった姉ちゃんが”天岩戸”に逃げ込んだっていう」
「そうです。それで――」
「それで困った他の神様たちが、自分から外に出てくるように、その岩戸の前で飲めや歌えの大宴会。さらには踊りの女神様がストリップショーまで……ぐっ、ち、ちくしょ~!! なんで、俺はその時、その場にいなかったんだ!? 女神様の裸! しかも、スッポンポンを拝める絶好のチャンスだったのに!?」
会話の途中、突然ソファーから立ち上がって事務所の窓を開き、「裸の女神、カムバーック!!」などと騒ぎ出す横島。
小竜姫はズキズキと頭痛を感じながらも、にっこりと引きつった笑顔を浮かべる。
「よ・こ・し・ま・さん!? 私は、非常に真面目な話をしているのです。そういった冗談は、また別の機会にでも――」
「また別の機会にでも、『私が貴方だけの裸の女神になってあげるわ』と言いたいわけですね。わかりました、それ以上は何も言わなくて構いません。もうボク達の間に言葉は不要だ。さぁ、めくるめく桃色の世界へ!!」
「仏罰です!!」
次の瞬間、いつの間にか小竜姫の腰に手を掛けていた不埒者に対し、神速の居合い抜きが遠慮なしに繰り出された。
「もうそろそろ、真・面・目・に話を聞いて貰えますか!?」
「りょ、りょーかいです……」
ボロボロになりながら、どうにか復活を果たした横島に、ようやく小竜姫の口から依頼の詳細が語られる。
それを端的に言えば、”天岩戸”に閉じ籠もった神族の保護だった。
神と魔のデタントは、現在、調和ある対立を繰り返すというスローガンを持って進められている。そのためには、片方の勢力が決定的に有利な状況を作ってはならない。いわゆる茶番劇として、神魔は勝ち負けのない小競り合いを続ける必要があった。
「で、今回、”天岩戸”に閉じ籠もった神族ってのは、その”決定的に戦況を左右する”ようなヤツなんですか?」
「いいえ、違います。ですが、問題なのは、”天岩戸”の使われ方なのです」
日本神話において、天照大神の”天岩戸隠れ”は非常に有名な事件である。
天照大神は、太陽の神として祀られる神。その太陽神が岩戸に隠れてしまっては、地上に一切の光が差さず、世界は闇に閉ざされる。
そこで、様々な神たちが己の能力を駆使して、豪勢かつ盛大な宴を岩戸の前で行った。天照大神が自ら興味を持ち、”天岩戸”を開いてくれるタイミングを待つために。
結局、天照大神は彼らの思惑通り、自ら少しだけ岩戸の扉を開き、待ち構えていた力自慢の神たちによって扉を押し開かれ、”天岩戸”から出ることを余儀なくされた。
天照大神が地上に戻ると、世界は再び太陽の光を取り戻した。そして、岩戸の前に集まった神たちは、もう二度とこんなことが起きぬよう、一番力自慢の神に命じて、”天岩戸”を思い切り遠くへと放り投げさせた。
”天岩戸隠れ”事件は、こうして幕を閉じたのである。
「しかし、放り投げられた”天岩戸”は、壊れたわけでも壊されたわけでもありません。それどころか、地上に落ちた拍子に内と外が逆になって、現在では途轍もなく堅固な檻となってしまったのです」
一連の話を終えた小竜姫は、難しい表情を崩すことなく、そっと湯飲みを口に運んだ。話疲れて渇いた喉を潤し、横島の顔に理解の色が浮かぶまで黙って待ち続ける。
「ようするに、”天岩戸隠れ”ってわけじゃなく、”天岩戸”に閉じ込められた神族の救出が、今回の依頼ってわけっすね。しかも、どーゆーわけか、それには魔族が関わっていたと」
横島の理解は、小竜姫の想像以上に早かった。さらには、状況の推察にまで鋭いところを見せる。
(成長したのですね、横島さん。それとも、美神さんの影響でしょうか)
こちらが話していない内容にまで、簡単に見透かして探りを入れてくるあたり、小竜姫は彼の元上司の姿を重ねて苦笑してしまう。
「”天岩戸”には、最近まで神族の張った強力な結界があったために、魔族によって悪用されることはありませんでした。ですが、その結界はもう存在しません。下級魔族による一部神族の監禁、今すぐに神魔のデタントを崩壊させるほどの問題ではありませんが、今後、もし高位の神族がそのような目に遭えば、デタントを揺るがせる大事になる可能性があります」
再び、厳しい顔で小竜姫は言う。
「可能性の段階では、私自身が直接動くことも叶いません。横島さん。危険な仕事ですが、引き受けて貰えますか?」
横島の答えは、決まっていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『オーナー、お客様です』
昼下がりの午後。美神令子除霊事務所では、本日の除霊作業は休みとばかりに、二人掛かりで書類仕事を片付けている最中だった。
所長用のオーク製デスクで頭を悩ませていた美神令子は、建物そのものでもある人工幽霊壱号から声を掛けられて顔を上げる。
「新聞の勧誘とか、国営放送の取り立てとかなら、そのまま帰って貰って。こっちは、今それどころじゃないのよ」
「み、美神さん。それはちょっと、あんまりですよ。私が出ましょうか?」
苦笑を浮かべながら、同じく書類作業に掛かりきりとなっていた氷室キヌが、手を止めて右隣の令子の反応を窺う。
横島独立の際に行われた事務所内のレイアウト変更は、彼女にも自分専用のデスクを用意する結果となり、おキヌのデスクは令子の机と横に並んで位置していた。
「いいのよ、おキヌちゃん。あーゆーのはね、下手に構うと付け上がっちゃうんだから」
「でも、もしかしたら、違うかも知れないじゃないですか。人工幽霊、お客様って誰?」
『美神美智恵様と、西条輝彦様です』
「ママと西条さん!?」
令子は慌てて中に通すように指示を出し、その慌てぶりを目にしたおキヌは、クスクスと笑いながらお茶の用意をしに席を立った。
建造物の二階に位置する事務所の応接室は、令子とおキヌの机、来客者用のソファー一式と応対用の同じ物が用意されている。しばらくして二階の扉がノックされると、令子が返事を返すよりも早く、美神美智恵と西条輝彦が扉を開けて入ってきた。
「勝手に入るわよ、令子」
「やぁ、突然すまないね。令子ちゃん」
「西条さん。もう私もそれなりの年齢なんだから、ちゃん付けは止めてくれない?」
いまだに昔の呼び名で呼ばれた令子は、苦笑いをしながら席を立った。
二十五にもなった女を相手に、流石に”ちゃん付け”はないだろうと令子は思う。しかし、自分のことを鑑みるに、おキヌのことを相変わらず”おキヌちゃん”と呼んでいる以上、なかなか癖というのは直すことの出来ないものらしい。
建前上、お客様の二人は来客用ソファーに座らせ、自らは向かいとなる応対用のソファーに腰を下ろす。
「それで、わざわざ二人揃って来た理由は何かしら?」
「単刀直入に言えば、あなたへの依頼よ。詳しくは西条君が話してくれるから、私はあなたを渋らせないための保険みたいなものね」
ホホホと笑う美智恵は、既に今年で四十を幾らか超えたはずなのに、変わらずの若さを保っている。一方の西条も、そろそろ三十代に入ったかという頃合いのはずだが、腰まである長髪は昔のままだった。
「すまないね、令子ちゃん。本当は横島君に依頼するはずだったんだが、彼は今、小竜姫様の依頼を受けて事務所を空けているらしいんだ」
「それで代わりに、うちに来たってわけね。ええ、知ってるわ。さっきおキヌちゃんが、横島クンからメールを貰ってたみたいだから」
その名前が出たところで、丁度、お盆に紅茶と手作りクッキーを乗せたおキヌが戻ってきた。三人分の紅茶を入れて、最後に自分の分の紅茶を用意し、おキヌも令子の隣へと腰を下ろす。
「どうぞ。今日のクッキーは、すごく上手に焼けたんですよ。遠慮なく、食べて下さいね」
おキヌは清楚な笑みを浮かべながら、二人にお手製のクッキーを勧めた。二十一になった彼女は、すっかり大人の女性へと変貌を遂げ、その古風な性格もあってか、若々しいのに物腰は年齢以上に落ち着いたものだった。
「ありがとう。とっても美味しいわ、おキヌちゃん」
「で、西条さん。その依頼ってのは、どんなものなの?」
「ああ、この資料を見てくれ。これは最近、GS協会から提出された資格保有者への依頼の斡旋状況なんだが――」
「本当ですか? ありがとう御座います。このクッキー、上手く焼けたら、横島さんのところへ差し入れに行こうと思ってたんです」
「なによ、これ。全然、斡旋なんて出来てないじゃない。おまけに、こっちの。これって斡旋した依頼の完了状況でしょう? 半分以下って――」
「あら、若いって良いわねぇ。おキヌちゃん、もうすっかり横島君の通い妻みたいよ?」
「問題は、これだけじゃないんだ。こっちは完了した依頼の報告書なんだが、ほとんど同じところの名前ばかりだろう。しかも、その内容が――」
「もう、からかわないで下さい。それにそんなこと言ったら、美神さんが怒っちゃいますよ?」
「ちょっと! これって、ほとんど偽造じゃない!? 毎回、相手が同じなんてわけないし、対処法もおのずと変わってくるはずなのに。所々が違うってったって、やってることが――」
「いいのよ。別に彼、令子と付き合ってるわけでもないんでしょ? まぁ、彼を義息子にするのも悪くないんだけどね。まだ希望もいることだし」
「そうなんだ! つまり、ひのめちゃんに歪んだ情操教育を施して、横島君にけしかけるという計画が裏で動いて――」
”ダン!”と机を叩いて、おキヌに訴える西条。
「そこ! 仕事の邪魔すんな!!」
令子の苛々が爆発するのは、もはや時間の問題だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
長野県、戸隠山。
遠くは九州の高千穂峡近く、”天岩戸”があったとされる宮崎県から、力自慢の神によって放り投げられた岩戸が落ちて出来たと言われる山である。
鋸歯状の鋭鋒が続く荒々しい山容と、東西がほぼ垂直に落ちる痩尾根を持つ戸隠山は、毎年、登山者の墜落死などが確認され、非常に険しい山としても知られている。
小竜姫からの依頼を引き受けた横島は、事務所に愛子だけを残し、ドクター・カオスとマリアの二人を連れて長野県へと出発した。
東京から高速道路に乗って、中央道、長野自動車道、上信越自動車道を経由し、信濃町インターチェンジから県道36号をひた走る。
目的地である戸隠までは、およそ5時間ほどで到着した。
「それで、小僧。小竜姫の依頼はわかったが、おぬし、”天岩戸”とやらについて、どれほどの知識を持っておる?」
「さぁな、ぶっちゃけると何も知らん。日本神話にある内容くらいは知ってるが、正直、それ以外はそこらの一般人と変わらねーよ」
「ほう。それで、よくこの依頼を受けたものじゃな」
「しゃーねーだろ。小竜姫様からの依頼だったし、知識が足りないなんて、俺の場合はいつものことだ」
宿泊予定だった戸隠観光ホテルにチェックインし、荷物を落ち着けてから、横島達は今後の方針について検討する。わざわざ和室で押さえた一室は、窓から戸隠山を観察することもでき、当座の拠点としては最高のロケーションと言ってよかった。
マリアが備え付けの電気ポットから湯を注ぎ、急須に三人分のお茶を用意する中、横島とカオスは窓際の椅子に腰を下ろして、”天岩戸”という存在への話し合いを続ける。
「でまぁ、知識が足りない分、俺の直感に基づく推測を話すとだ――”宇宙の卵”ってのでどうだ?」
「ほほう。何故、そう思った?」
「んなもん、力自慢で山を一つ、ここまで放り投げられるほどの神様がいたんだぞ。にも関わらず、岩で作った扉一つ開けられないなんざ、おかしな話だろうが。おまけに、内側からなら簡単に開けられても、外側からじゃあ絶対に開けられない。この”絶対に開けられない”ってのが、ミソだな」
「なるほどのう」
「神様に絶対なんてことがあるのかは知らんが、もし”宇宙の卵”みたいなヤツであれば、どれだけ力自慢の神様がやったって、外側からじゃ、その力は全部――って、爺ぃ! てめー、なに和んでやがる!?」
自信満々で話していた横島が目を向けてみると、マリアから湯飲みを手渡されながら、「平和じゃの~」などと言い出しそうなボケ老人が一人。
「ドクター・カオス、お茶請けも・どうぞ」
「おお。すまんな、マリア」
「人の話はちゃんと聞けと、教わらんかったんかー!? 俺がこんだけ真面目にやっとるちゅうのに、お前は――」
「横島・サン、お茶が・入りました。どうぞ」
勢いに任せてカオスの胸ぐらに手を伸ばし掛けた横島だったが、絶妙の間合いで掛けられた声に振り向くと、そこには畳の上に正座しながら、急須からお茶を注ぐマリアの姿があった。
普段同様の洋服を着たマリアだが、なぜだか妙に和室に馴染む。むしろ和室というより、畳に馴染んでいるようにさえ見える。
その姿が、なんとなく色っぽい気もして、妄想と煩悩高まる横島だった。
「それで、じゃ。結論から言えば、おぬしの推測は完璧なハズレじゃな」
「爺さんの態度から予測は出来てたけど、その根拠は?」
「”宇宙の卵”というのは、あのアシュタロスが作り上げた代物じゃ。しかも、あの戦いの後、神魔族によって完全回収されるほど危険な、な。じゃが、”天岩戸”とやらは、現にこの地にあるわけじゃろう?」
「……まーな。納得はしたけど、一応聞いとく。ちょっと前までは結界が張ってあったって、小竜姫様が言ってたけど、それは考慮のうちに入らないのか?」
「ならば何故、”宇宙の卵”は全て回収された? あれも結界を張っておけば良かろうに」
「いやー、ほら、アレがある場所とかを人間に見られたからとか?」
「おぬし、神や魔が張る結界を舐めとるじゃろう。その程度のこと、問題にならんわい」
「へぇへぇ、俺が悪ぅござんした。結構いい線いってたと思ったんだけどなー」
降参しましたとばかりに、両手を上げて悔しがる横島。そんな横島の様子を観察しながら、カオスはニヤリと笑みを作った。
「だが、じゃ。おぬしの推測――いや、直感は根本的なところでは間違っておらん」
今度は自分の番だと、カオスは話し始める。
「”天岩戸”とやらが、外部からの力を全てシャットアウト出来るのは事実じゃろう。あの”宇宙の卵”の原理を利用した、魔体のバリアーと同じくな。さらに言えば、概念的なモノで考えれば、おぬしの推測は正解になる」
「……つまり、”天岩戸”は結界だったって?」
横島の考えは、こうだった。
――”宇宙の卵”と同質の何か。つまり、空間を隔離し、外部の影響を直接受け付けない特性を持った何かが、”天岩戸”という存在であると。そして、それらの特性は、まさに横島が様々な形で目にしてきた結界と一致する――
「そうじゃ。もっとも、結果として”宇宙の卵”と似た現象を起こすだけで、仕組みとしては全くの別物じゃろうがな」
「爺さん。勿体ぶらないで、結論だけ教えてくれよ」
「せっかちじゃのう。ただでさえ知識が足りんくせに、話くらいはしっかりと聞いたらどうじゃ?」
「どーせ、美神さんが聞いたってわからんような、専門用語満載のややこしい説明を始めるつもりだったんだろうが。そんなもん、読者様が読んだって混乱するだけで、一向に話が先に進まん! とゆーわけで、とっとと結論を教えてくれ」
「まったく。――ラビリュントス(迷宮)じゃよ」
「クレタのクノッソスか!」
――クノッソス。かつてエーゲ文明の前半期、地中海に浮かぶクレタ島に建設されたのが、クノッソス宮殿という建造物だった。宮殿の地下には、無限に広がるラビリュントス(迷宮)が存在すると言われ、現在もなお、その大迷宮は発見されていない――
横島の驚愕を、カオスは心地良く感じていた。知識者ゆえの満足感ではなく、その一言で全てを理解したであろう横島の成長を思って。
まだまだ知識量の少ない若者である。同年代の頃の美神令子とは比べるべくもない。
しかし、彼の持つ直感という才能は、数々の経験と高いレベルの霊能に裏打ちされた立派な論理回路だ。必要な情報さえ与えてやれば、知識のレベルまでには理解が及ばずとも、直感として正しく全てを理解する。
ましてや、彼自身が既に持つ知識に訴えかけたなら、それは容易に情報や直感という代物から、彼自身の新たなる知識へと姿を変える。
「即ち、大結界じゃな。結界内へ入ろうとする者は、すべからく無限に広がる迷路へと迷い込む。同じ道は一つとして存在せず、来た道を戻ったとしても、それは別の道へと繋がっている。クノッソスの大迷宮と同じじゃよ」
「入って出るだけならまだしも、その中にいる誰かを連れ出すなんてことは、不可能だったってわけだ。で、結局、古事記や日本書紀なんざ人間が書いたものだから、力自慢の神でも”開けられなかった”と表現したんだな」
「扉をくぐっても目的を達成できぬなら、神のみならずとて最初から扉なぞ開かんわい。特に人間は目で見えるもの以外、そう簡単には理解できんからのう。中へ入れぬのならば、扉を開くことが出来ないと考える。そして、それこそが、絶対に開けぬ”天岩戸”だと解釈したわけじゃな」
立ち上がって、横島は窓から見える戸隠山を見据える。この山の何処かに、神族を迷い込ませた日本のクノッソスがある。当然、その事態を引き起こしたであろう魔族と共に。
「明日には、戸隠山に入ってみるか。でもって、今日はここで泊まり。つまり、マリアに添い寝をして貰える絶好のチャンス!! ついでに、風呂も一緒に!!」
「迎撃・モード、起動・します」
「……やはり、アホだのう」
しかしながら、横島が五体満足で翌日の太陽が拝めるかは、かなり微妙なところだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
深夜のオフィス街。ポツンと時代から取り残されたように佇む廃ビルは、バブル全盛期の建築ラッシュにより建てられ、以後、大不況に飲み込まれた日本経済から、多くのモノと共に捨てられた過去の負債となっていた。
地上げにより高騰した地価は、不動産業者に坪単位で土地を切り分けさせる口実となり、同時に地下の霊脈にも幾らかの影響を残した。それが繰り返され、大不況のあおりを受けた人間達の負の想念を受け続ければ、悪霊の巣となる廃ビルも多々存在する。
「おキヌちゃん!!」
令子の声に反応し、おキヌは素早く不思議な形状の笛を口元に当てる。
”ピュルルル”と澄み切った高音が辺りに響き渡り、優しき想いの籠もった霊波が、立ちはだかっていた悪霊達を極楽へと導いていく。これが世界でも両手の数さえいないとされる、超一流のネクロマンサーの力だった。
『グゴガガガガ……・』
「美神さん、あのヒト……!?」
おキヌのネクロマンサーの笛でも、成仏させることが出来なかった悪霊。それはつまり、力づくで退治するしかないほど自我を失い、現世への激しい怨みと憎しみに囚われているということ。大切にしていたであろう思い出さえも、全てを失ってしまったということ。
「そういう相手には、遠慮なんて必要ないでしょ! この美神令子が、極楽に逝かせてやるわ!!」
悪霊が反撃に出ようとする出鼻を挫くように、令子の投げた破魔札が悪霊の真下で爆発する。瞬間、令子の振りかぶった神通棍が鞭のようにしなって、爆風にあえぐ悪霊を真上から叩きのめした。
「いっちょ上がりっと。じゃあ、おキヌちゃん。さっさとトンズラするわよ。いつまでもここにいたら、GS協会ご指名のゴーストスイーパーが来ちゃうわ」
「は、はい。でも、良かったのかなぁ……」
「おーっほっほっほ! 他人の仕事を奪って、弱っちい悪霊しばき倒すだけ。西条さんも、良い依頼を持ってきてくれたわよねぇー」
それで報酬が貰えるのだから、高笑いが止まらぬ令子だった。
おキヌはまだ気の毒そうな顔をしていたが、そんなものは今の令子にとって目に入らないも同じこと。強引に彼女の手を引いて、元悪霊の巣であった廃ビルから脱出し、愛車のシェルビー・コブラを事務所に向かって走らせた。
美女二人を乗せたシェルビー・コブラが、夜の首都高をハイスピードで駆け抜ける。横島独立以来、その助手席にはおキヌが座っていた。
「うぅ、美神さーん。本当に良かったんですかぁ?」
「良いに決まってるじゃない。なんて言ったって、オカルトGメンからの依頼なのよ。そりゃまぁ、非公式な依頼だったとしても、責任は向こうが取ってくれるはずだし」
あの日、西条から聞かされたGS協会の不正取引疑惑。その情報の出元が令子に明かされることはなかったが、まだ証拠不十分ながら十分な説得力はあったと彼女は考えている。
今回の除霊は、GS協会が誰かに斡旋したはずの除霊作業であった。その斡旋先をオカルトGメンが調査しつつ、令子が先回りをして除霊作業を片づける。これでGS協会の反応を窺いたい、というのが西条からの依頼だった。
「……ねぇ、美神さん。訊いてもいいですか?」
「なーに?」
「どうして、この依頼を引き受けたんですか?」
おキヌの一言には、どれだけの意味が込められていただろうか。令子はそれを正確に汲み取って、敢えて疑問という形で投げ返した。
「横島クンのところに行くはずだった依頼だから、と答えたら満足かしら?」
「そーゆーことじゃないです。でも、ただ美神さんが、横島さんの負担を減らそうとか、西条さんに恩を売ろうとか、そんな単純な理由だけで引き受けたんじゃないって、そう思っちゃって。上手く言えませんけど」
俯くおキヌの表情は、深刻に「私の知らない何かがあるんじゃないですか?」と訴えていた。
「――おキヌちゃんも、成長したわよね。昔、まだ会ったばっかりの頃とは大違いよ」
「それを言ったら、美神さんだってそうですよ。ずっと素直になったと思います、時々ですけど」
おキヌが、クスッと笑う。
「はいはい、降参」
「運転中だから、両手は上げられないけどね」と続けた令子の表情は、優しげに笑っていた。
「ねぇ、おキヌちゃん。西条さんは最初、横島クンに依頼するって言ってたじゃない?」
「そうでしたね。でも、横島さんがいなかったから、美神さんのところへ依頼を持ってきたって」
「西条さんにとって、GS横島忠夫は有数の”奥の手”よ。西条さんの性格は、おキヌちゃんだって知ってるでしょ?」
――西条輝彦。オカルトGメン日本支部の、実質上のNo.2。美神美智恵が上層部を押さえ、西条輝彦は現場を掌握する。オカルトGメン日本支部は、肩書きがどうあれ、このようにして動いているのが現実だった。
そして、西条輝彦は本人曰く、ノーブレス・オブリージ(貴族の義務)をモットーとしている。力ある者は、力がある故に、弱者の盾とならなければならない――
「あの西条さんが、わざわざ”奥の手”を切ってきた。つまり、真意が何処あるのかは定かじゃないけど、西条さんだけじゃ手に負えないと判断したってことよ。それこそ、今日みたいな仕事は、もう一つの”奥の手”を使った方が、ずっと効率的だったっていうのにね」
「もう一つの”奥の手”って、雪之丞さんのことですよね」
「ええ。その辺を考えてみても、どうもきな臭いのよ。私は、西条さんにとっての”奥の手”じゃない。もちろん、おキヌちゃんもね。だったら、どうして私のところへ依頼を持ってきたのか」
「……疑ってるんですか?」
「……まーね。ともかく、あの馬鹿が厄介事に巻き込まれてるのは、ほぼ間違いないわ。だったら、私やおキヌちゃんが一枚噛まなくて、どうするって言うのよ?」
「ふふっ。”私達はいつも一緒です”、ですよね」
首都高のライトが、二人の視界を点滅しては消えていく。
周囲の車のテールランプが、星のように瞬いては、通り過ぎていく。
光と闇と、音と風に揺れながら、二人の美女は同じ男の顔を思い浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
戸隠山は、いわゆる岩山である。木々が鬱そうと茂った柔らかい地表を持つ山ではなく、ゴツゴツとした固い岩肌があちこちに露出し、ところによってハーケンでさえ刺さらないような場所まで存在する。
緑に包まれた山というイメージはなく、岩山にどうにか木々が浅く刺さっているといったところか。強い風が吹くだけで木々は倒れ、岩は崩れ、頂上に近づけば、足場ごと崩落することも珍しくない。
「こりゃー、妙神山ほどとは言わないが、結構おっそろしいところだな」
サバイバル慣れした横島でさえ、こんな言葉を洩らすほどだった。
――翌朝、朝早くから戸隠山に入った横島達三人は、マリアの霊体センサーと霊体探知機・見鬼くんの反応を頼りに、”天岩戸”の捜索を開始していた。
数時間を掛けて山を歩き回り、ついに頂上付近に近づいた頃、マリアの霊体センサーに”無反応”という反応があった。訝しんだカオスはマリアに詳しく問い質し、戸隠山の頂上から東側に掛けての断崖絶壁が、霊体センサーの波長を吸収して反射してこない事実を発見した。
魔族の襲撃に気を引き締めながら、横島達は頂上を目指す。そして、山頂手前の”蟻の戸渡り”という難所で洩らしたのが、先ほどの横島の言葉だった。
”蟻の戸渡り”とは、別名”蟻の刃渡り”とも称されるほどの場所で、その名の通り、渡る者を”縦にした日本刀の刃の上を歩く蟻”のような気持ちにさせる。
左右はもはや斜面というよりも断崖絶壁、視界を遮るものは何もなく、人間一人が真っ直ぐ立つ足場もない。細長く鋭利な岩山に跨って、ジリジリと前へ進んでいくしかない場所だった。
「あー、一言いいか?」
「ふむ。どうした、小僧?」
「なんで俺だけ、こんな登り方せにゃーならんのだ!?」
やむなしに教科書通りの進み方をしていた横島は、真横でマリアに抱えられながら、空を飛んでいるカオスに叫んだ。
「なんじゃ。おぬし、年寄りに若者と同じことをせいと言うのか?」
顔色一つ変えることなく、宙ぶらりんになったカオスが言う。しかし、横島が不満なのはそこではない。そこではないのだ。
「こーゆー時こそ、マリアの見せ場だろう!? この断崖絶壁の岩山の形。そう、これはまさに雄大な自然に作られた大スケールの三角木馬! この悩ましくも仕方のない形を前に、恥ずかしげな美女が大股を開きつつ、微妙にイヤーンでアハーンな場所をこすりながら進んでいく!! ちょっとこの話、サービス足らんのとちゃうか!?」
雄大な大自然に響く、横島の涙の大絶叫。直後、マリアによって思い切り投げ飛ばされた横島が、戸隠山の頂上に顔面から着地を決めるのは、もはや確定した未来だと思われた。
――しかし、現実は違う。
すさまじいスピードで投げ飛ばされた横島は、突如として、上空に出現した魔族の砲撃を食らい、大爆発を引き起こしながら戸隠山の東側へ弾き飛ばされた。
「――ッ! ゆけ、マリア!!」
「横島・サン!!」
カオスを抱えたまま、マリアは脚部ロケットの出力を最大にして、さらにロケットアームを横島の吹き飛んだ方向へと放つ。空気を壁を何枚も突き破り、どうにかアームが横島の足を掴んだとき、敵であろう魔族から第二波の攻撃が浴びせられる。
「ブロック!!」
カオスを庇って背中で攻撃を受けたマリアは、その衝撃ゆえにさらに加速して、剥き出しの岩肌に向かって吹き飛んだ。それでも、マリアは必死にロケットアームのワイヤーを引き戻す。
急接近する岩の壁。逆噴射を掛けても殺しきれぬ衝突スピード。
「マリア、わしを離すんじゃ!」
「ノー、危険・です!」
「このわしに危険などないわい。それは、お前が一番よく知っておろう」
「……イエス、ドクター・カオス。ご武運・を」
ふっ、とカオスから重力の感覚が消えた。空中に投げ出され、その身一つで大地に急降下していく。
質量の低下したマリアは、岩壁への激突スピードを幾分相殺することは出来たが、依然、そのコースは岩壁へと向かっていた。
『引』
グンと何かに引っ張られる感覚を感じ、マリアの身体は物理法則を逸脱した動きで向きを変えた。そのまま別の方向へと引っ張られ、いきなりマリアの姿が空中で消える。
カオスは、生身で落下しているにも関わらず、その様子をしっかりと両の目で捉えていた。マリアが消える直前、空間が微妙に歪んだ瞬間を。
(ほう、やはり発動したか。”天岩戸”とやらが)
腰元に手をやり、ぽちっとボタンを押す。すると、急スピードで落下していたカオスの身体が、不意に空中で停止した。慣性の法則に逆らい、重力に逆らって、不条理にも生身で空中に立ち止まる。
「なるほどのう。おぬしの目的は、”天岩戸”を発動させることにあったということじゃな」
独り言のように、カオスが言葉を洩らした。
「なかなかに興味深いことをして見せてくれる」
その反応は、また突然だった。
カオスの目の前。たった今まで何もなかった空間に、天使のような白い羽を持つ魔族が出現する。
「その魂の色は、記憶にあるぞ。小汚い錬金術師」
「随分久しいのう。――魔族ダイダロスよ」
空中に制止したまま、カオスに名を呼ばれた魔族は、楽しげに笑って見せた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……サーチ。ドクター・カオス、ロスト。横島・サン、ロスト」
そこは、不思議な空間だった。
周囲には何も見当たらない。物理的にも、霊的にも一切何もない虚無。
光さえ存在しない真っ暗闇の中、マリアは何か固定された足場に立っていることだけを理解した。
いまだ戻すことの出来ぬロケットアームのワイヤーは、漆黒の闇の中へと続いている。だが、ワイヤーを引き戻しても引き戻しても、一向にアームと掴んだはずの横島の姿は見えない。それにも関わらず、横島の足を掴んでいる感覚は、確かにマリアの手にあった。
「理解・不能……」
視覚の制御をサーモグラフィから赤外線に切り替え、マリアの持つ全てのパターンを試してみる。
闇、闇、闇。
視覚に反応するものは皆無。聴覚や嗅覚を試してみても、マリアのセンサーに引っかかるものはなかった。音もなく、臭いもなく、誰も気配もない。
一歩、足を踏み出してみる。そこに感じる、確かな足場の感触。
残った手をあちこちに振ってみる。触れられるものは、何もなかった。
「……………………」
マリアの持つメタソウル(人工魂)は、不安という感情を溢れさせている。行動ロジックをいくら解析しても指針が立たず、適切な行動を取りたくとも何をすればいいのか判断出来ない。
それでも、彼女は自らのアームがあるであろう場所を目指して、真っ直ぐに歩き始めた。
グッと握りしめると、確かに感じ取れる横島の感触。
「――ッ!?」
不意に、妙な感覚が走った。
「解析中。文字と・認識・します。――イ・ヤ・ン・バ・カ・ン」
「出来れば、繋げてもう一回」
「イヤン・バカン」
「おおー! も、もうちょい感情を込めて!」
「イヤ・ン、バカ・ン」
「ぐはっ!? い、いやーんと伸ばして欲しい気もするが、こう、片言で言われるのもグッと来るような? ああ、俺はどうすればいいんだ!?」
「……横島・サン、セクハラ・厳禁・です」
「い、痛い! マリア、痛い!! ぎゃー、足が握り潰される~~!!」
いつの間にか、どうやって現れたのかも、マリアには理解できなかったが、とりあえずは制裁を加えるべきである。
ギューっと力一杯、マリアは横島の足を握りしめた。
いまだ姿の見えない横島の悲鳴は、この不思議な空間であっても、マリアの聴覚に異常なほど大きく響いた。
「横島・サン。どうやって・マリアの・側まで・来たの・ですか?」
「いやー、俺もさ。この”天岩戸”にいきなり放り込まれた時は焦ったんだけど、マリアのロケットアームがしっかりと足握っててくれたからな。合流は簡単だったよ」
しっかりとお互いに手を繋ぎ、横島とマリアはこの不思議な空間を歩いていく。
お互いに視覚として相手を認識するには、余程近くまで近づかない限り出来なかった。よって、繋いだ手の感触と聞こえる声だけが、相手の存在を知らしめてくれる。
「答えに・なって・いません。回答を・求めます」
「こいつが答えだ」
横島は繋いだ手に、小さな珠を滑り込ませる。
「文珠・ですか?」
「そう、俺の奥の手。ここに放り込まれた時、マリアに『引』の文珠を使ったんだ」
しかし、マリアを横島のところまで引き寄せられず、文珠の効果は持続したままだったと横島は続けた。そのまま文珠の力を頼りに、横島はこの不思議な空間をひたすらに走り、不安に怯えるマリアを見つけたのだった。
「普通に声を掛けようとも思ったんだが、足をギュッと握ってくるマリアが可愛かったもんで、つい悪戯心が……」
たははと笑った横島は、すぐに真面目な表情に切り替えて、ここからの脱出方法について頭を捻らせる。
なにせ、ここは大結界”天岩戸”の内部。人間とは桁違いの力を持つ神族でさえ、自力での脱出が不可能という空間だった。
日本神話を思い返してみても、天照大神が自ら結界を解除する以外、天照大神を”天岩戸”から出す方法がなかった。
(さーて、どーしたもんかなぁ)
常識的に考えれば、ここからの自力脱出は不可能である。横島とて、その程度のことはすぐに理解した。しかし、それではマズイのだ。
(カオスの爺さんが頑張ってくれたって、魔族相手に一人ってのは分が悪いだろうしなぁ)
小竜姫曰く、内と外が逆転した今の”天岩戸”なら、カオスが外側から結界を解除することは可能である。
だが、あの場にはもう一名、横島達を”天岩戸”に叩き込んだ魔族がいたのだ。結界解除の妨害は必至だろう。それどころか、カオスがその場で殺されてしまえば、横島達はここに完全に閉じ込められてしまうことになる。
(すると、やっぱり自力で脱出して、カオスと一緒に魔族を倒すのが理想なんだよな)
「横島・サン?」
黙り込んだままの横島に不安を覚えたのか、マリアが声を掛けてくる。
その瞬間、横島の類い希なる直感は、この”天岩戸”から脱出するための解法を見出した。
自身の持つ少ない知識と、アンバランスなまでに多い経験と、カオスから与えられた情報。
過程を知り、結果を推し量り、事実を認識する。それが<知識>と呼ばれる思考回路であり、知識は、自覚した上での理解と再現性を伴ってこそ知識と言える。
そういった意味での横島の知識は、美神令子などの超一流どころか、俗に言う一流のゴーストスイーパーとしてさえ、少ないと言えるかも知れない。
しかし、横島は<知識>を使って生きている人間ではない。彼は煩悩の申し子、本能によって生きる人間。ならば、横島が使っているのは、<知識>ではなく、<本能>そのもの。
己が経験に基づき、無意識に自身の知識と情報を重ね合わせ、仕組みが分からずとも直感によって判断を下す。それが<本能>、横島の持つ根本的な思考回路。
だから、彼は時として、誰もが思いつかないような手段を用い、想像も出来ない結果だけを引き起こす。
それはまるで、彼の霊能そのもの。
どれほど不条理でも結果だけを導き出す、横島忠夫の持つ奇蹟の霊能。
「マリア、ここから脱出するぞ!」
その名を――
「出ろ、文珠!!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
四方八方。カオスと相対した魔族の攻撃は、まさに全域から襲い来ると言っても過言ではなかった。正面から来たと思えば、死角となる上下からも同時に攻撃される。右に躱せば、左と後ろからの追撃を食らう。
カオスは中空を駆け回りながら、それら全てを完璧に避けていた。齢千歳を超える老体とは思えぬ敏捷な動きで、相手魔族にさえ予測も付かぬ方向へ突如として弾け飛ぶ。予備動作もなしに高速で移動し、いまだ一撃とてダメージを貰っていない。
「――ほれ。どうしたんじゃ、ダイダロスよ。そんな生ぬるい攻撃では、このドクター・カオスに一撃たりとも当てることなど叶わんぞ?」
「……おのれ! この私を愚弄するか!?」
「愚弄などしとらんよ。わしは、ただ事実を語っておるだけじゃ。九百年前とは、まるで立場が逆転したのう」
「あの時、貴様を殺しておくべきだった。そうしていれば、これほど不快な思いをすることも――」
「”たら、れば”などという仮定を口にした科学者ほど、愚かな生き物はこの世にないぞ?」
いくら攻撃を続けても無駄と察した魔族は、攻撃の手を止め、時間稼ぎだと気付きつつも、空中に浮かぶカオスを睨み付ける。
「九百年前は、大した力もない錬金術師だった貴様が、たったそれだけの時間で私に楯突けるようになったとはな。気に入らんが、褒めてやろう」
「なんの。おぬしの方こそ、昔より弱くなったのではあるまいな?」
「貴様ぁ!!」
「ほれ、言うじゃろう? 年寄りの冷や水、腹壊すと。そうか。おぬし、下痢でもしとったんか~。いやー、わしにも経験があるがな、あれはなかなかキツイ――」
「この死に損ないの老いぼれめ! 八つ裂きでも飽きたらぬ。来世へ向かうことすら出来ぬよう、魂すら滅してくれるわ!!」
「ふん、どっちが老いぼれじゃい。おぬしこそ、まだわしが若々しい美青年時代から、そのムサイ髭面は変わっておらんではないか」
激昂すると同時に、再び魔力の雨あられをカオスに向かって放つ魔族。一方で、醒めた表情のまま冷静に回避運動を起こすカオス。
「この私に、いつまでも同じ手が通じると思うな。行け、イカロス!!」
怒声と共に魔族が召還した眷属は、人間の子供くらいの大きさで、やはり天使のような羽根を生やした姿だった。
「貴様が意図的に磁場を操り、重力の影響をキャンセルしていたことなど承知済みだ。今度は、こちらがその磁場を利用してやる」
呼び出した眷属とでカオスを挟み込み、魔族ダイダロスは魔力による氷の網を編み上げていく。
カオスも当然回避を試みるが、広範囲に渡る魔力の砲撃はいまだ止んでおらず、あっという間に逃げることも出来ず、網の中へと閉じ込められた。
「小汚い錬金術師め。このまま、ジワジワとなぶり殺しにしてくれる」
絶対零度に近い氷の檻に閉じ込められ、磁場を利用した弾かれるような移動術は封じられた。しかし、カオスの表情に焦りは微塵もない。
「そう言えばな。おぬしと出会い、這々の体で逃げ帰ったずっと後の事じゃ。わしも、二つ名なんぞというものを頂戴してのう。その小汚い錬金術師という呼び方、改めて貰えるとありがたいんじゃが」
「そんなこと、知ったことか。今度こそ、私の手で死ぬがいいわ!!」
「――そうか。ならば、おぬしこそ、この”ヨーロッパの魔王”の力、思い知るがいい!!」
全方位からの魔力の砲撃が始まるのと同時に、カオスの両手に紋様が浮かび上がる。
かつて、横島達に見せたことのある胸の五芒星。だが、手のひらに浮かび上がったのは、微妙に形が異なる六芒星だった。
カオスに向かって、一斉に迫り来る魔力の塊。
「大気中の分子を超高速で衝突させれば、一体どうなるか知っておるか?」
右手を上に、左手を下に、何かを挟み込むようにしてパチンと両手を噛み合わせる。
「特定の量子波として、複数の分子が原子に分解される。その結果、振動を起こした原子力エネルギーは――」
ニヤリと壮絶な笑みを浮かべ、カオスは両手を解放する。
「膨大な熱量となり代わり、超高熱の見えぬ爆弾となるんじゃよ!!」
視力で見ることの叶わないエネルギーの塊。
それは、周囲の大気に揺らぎをもたらせつつ、氷の檻ごと魔力の波動を一瞬で飲み込んだ。
――閃光。
本来、透明に発光していたエネルギーが、魔力や氷といった不純物と混ざり合い、様々なスペクトルを持った光に変わって炸裂する。つまり、圧倒的な熱量を放射しながら、白く激しく爆発する。
「馬鹿な!? この魔界の炎すら及ばぬ熱量、私の身体が……溶けて……」
白き爆発の後、その場に残っていたのは、黒いマントを翻して立つドクター・カオスの姿ただ一つ。
「もっとも、わし自身の霊波で作られた波動エネルギーなど、相互干渉させて打ち消すことなど造作もないことじゃがな」
塵すら残さず消滅した魔族を確認し、カオスは思い出したかのように呟いた。
「――ふむ。そーいえば、ギリシアのダイダロスの伝承では、息子のイカロスだけが太陽光によって翼を溶かされ、墜落死したんじゃったな。じゃが、太陽光の熱量を見誤れば、伝承でも同じことになっておったかも知れんのう」
”天岩戸”の解除方法を探っていたカオスの目の前に、空気中から浮かび上がったかの如く、真っ赤な糸が出現する。その片方は遙か彼方へと続いており、もう片方はマリアが消えた空間の歪みを現出させながら、結界の中の方へと繋がっていた。
カオスが空間の歪みに近づいてみると、チカチカと点滅する六つの珠がある。
「ふはははは、はーっはっはっは! やはり、あの小僧は面白いわい!」
ドクター・カオスは、ひとしきり高笑いを上げると、眼前の赤い糸を辿りながら”天岩戸”の内部へと姿を消す。
大結界の生み出した空間の歪み、幾重にも展開されている無限迷宮。だが、無限であるにも関わらず、それら全てを繋ぐ赤い糸は、今、確かにカオスの目の前にあった。
不条理だろうが非論理的だろうが、それは即ち、結界の根源へも繋がっている糸。外部からこの糸を伝っていけば、結界を解除することの出来る何処かへと辿り着ける指標。
原理を解明することなく、理屈も理由も考えず、あの神話の英雄を気取った若者は、ただ本能で答えを導き出したのだ。
(あやつも、小僧くらいにあるがままを受け入れておればのう……)
かつて、若かかりし”ヨーロッパの魔王”を完膚無きまでに叩きのめした魔族は、最後の最期まで論理と知識にこだわり続けた。
いまだ伝説に残る大迷宮を作っておきながら、たった一人の英雄に崩されたプライドを守るため、わざわざ極東の島国にまでまかりこした工匠。
デタントの崩壊よりも、神族に目を付けられる危険よりも、新たに触れた知識を試したいという研究心に負けた科学者。
(別に良いではないか。全てを解き明かすことだけが、わしらの存在意義ではなかろう。本能をすら、理解すれば良い。わからぬことを、わかれば良い。これが、わしの答えじゃよ。懐かしき、我が、心の師匠よ)
若きあの日に憧れた、伝説の名匠はもういない。いつかは彼の域にまで辿り着きたいと、クノッソスの大迷宮を研究し続けた日々は、既に遠い過去のものだった。
出会いと敗北。そして、九百年の年月を超えた邂逅。
「……おっと、これはなかなか難易度の高そうなパズルじゃのう」
”天岩戸”を解除することの出来る何処かへと辿り着いたカオスは、面白い玩具を見つけたとばかりに笑った。如何に難易度が高くとも、”ヨーロッパの魔王”に解けないパズルはないのだから。
――クノッソスの大迷宮は、クレタ王ミノスの息子を幽閉するために、工匠ダイダロスが作ったと伝承されている。
ミノスの息子は人身牛首という怪物で、ミノスは息子を大迷宮に幽閉し、代わりに男女七人ずつの生け贄を九年ごとに捧げさせた。
だが、三度目の生け贄に英雄テーセウスが自ら志願し、ミノスの娘であるアリアドネの協力を得て、怪物を倒し、脱出不可能と言われた大迷宮から生還する。
アリアドネはテーセウスとの一時の恋に落ち、彼が迷宮から無事戻ってこられるように、銀の糸玉を渡していたのだった。片方を彼女が持ち、もう片方を彼が持つ。
テーセウスが大迷宮から生還出来たのは、この恋する乙女の糸玉のおかげだった――
『恋』『女』『縁』『紡』『赤』『糸』
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
”バタン”と扉を閉めて、たった今、西条が美神令子除霊事務所の応対室から帰った。もちろん、令子への報酬である小切手を残して。
目を¥マークにして喜ぶ令子を尻目に、お茶の後片付けをするおキヌは何とも複雑だった。
昨夜の除霊は、如何なる理由があろうとも、他人の仕事を奪い取るような依頼だった。挙げ句、西条からの報酬には色を付けて貰ったというのだから、良心的な彼女の心はズキズキと痛んでしまう。
「さーて、じゃあ今日もバリバリ稼ぐとしましょうか。おキヌちゃん、私は除霊道具のチェックをしてるから、何かあったら呼んで――」
そんなおキヌの気持ちを知ってか知らずか、令子は別室に向かって歩き出す。
「って、なによ、これ!?」
「み、美神さん! こ、これ、いきなり赤い糸が!?」
と、突然、空気中から浮かび上がってきたかのように、二人の目の前に真っ赤な糸が出現した。
ピンと張った糸の先を見てみると、片方は令子の右手小指に。もう片方は事務所の壁を貫いて、遙か遠くへと伸びているように見える。
「あの~、私の指にも……」
「へっ? おキヌちゃんも?」
言われて見てみれば、確かにおキヌの右手小指にも赤い糸が繋がっている。どうやら、この糸は途中から二つに分かれて、それぞれ令子とおキヌの小指に繋がっていたようだった。
「美神さん。これって、一体何なんでしょう?」
「私が知るわけないでしょ? ただ――」
「ただ、なんですか?」
「こーゆー訳の分からないトラブルを持ってくる奴なら、嫌っていうほど知ってるわね……」
「あ、あは、あはは……」
あまりにも心当たりがありすぎる言葉に、おキヌとしても空笑いをするしかない。
「とにかく、あの馬鹿が帰ってきたらすぐにでも、この訳の分からない状況の説明をさせなきゃね。――ったく、運命の赤い糸じゃあるまいし」
「……でも、そうだとしたら、私は嬉しいです」
そっと小指を胸に抱いて、おキヌは赤い糸の繋がる先を見つめる。
呟いた令子の表情も、言葉とは裏腹に何処か嬉しそうだった。
■ 今そこにある明日 承章 ■ <終>
―― Undertake anything ! ――
<あとがき>
野島 大斗です。
前回は、初投稿ということで気が気ではありませんでしたが、温かく迎えていただけ、大変嬉しく思っております。
さて、今作では、読者様にとって色々不明点が多いことかと思います。特に、小竜姫の依頼が結局どうなったのか? 直接活躍しなかった横島は? どうしてカオスが強いのか?
カオスに関しては、このお話上の仕様としか申せませんが、その他については次回に後日談を描く予定です。なお、横島君の文珠は、現時点で6つまで同時使用が出来るものとしました。
原作で時間を逆行してきた横島君の年齢が27歳、原作時が17歳。前者は文珠を14個使用でき、後者は2個しか使用できなかった。その差を考えると、22歳の時点では6つくらいが妥当かと判断した結果で御座います。
残すところ、あと二章。まだまだ作成に時間が掛かってしまいそうな状況ですが、どうか気長にお待ちいただけると幸いです。
それでは、ご感想を下さった皆様へお返事を。
>にゃら さん
ご感想、ありがとう御座います。
読みながら文章を自然に繋げていただけるというのは、書き手としまして非常に嬉しく感じる事柄です。文章が持つ魅力で、読者様の脳裏に物語が展開していけたなら、それはもう私の理想です。今後もそのように仰っていただけるよう精進していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
>kamui08 さん
楽しんでいただけたようで、大変嬉しく思っております。不明な点なども多々含んでいる今作ですが、今後、作中におきまして徐々に明かしていこうと考えていますので、お待ちいただけると幸いです。”知識”に付きましても、同様に作中の方でお答えしていければと思います。
ご感想、ありがとう御座いました。
>普段ROM専 さん
色々な観点からのご感想、ありがとう御座います。
誤字脱字等には十分注意を払ったつもりでしたので、間違いがなく、ホッと胸を撫で下ろしております。また、拙作を物語として楽しんでいただけたご様子、大変光栄に思います。序盤、情報を詰め込み過ぎた感があったのですが、多少なりともご理解いただける書き方が出来たのであれば幸いです。ご期待に添えるよう、次回作も気合いを入れて取り掛かりたいと思います。
>SS さん
力強いご感想、どうもありがとう御座います。
まだまだ粗が目立った今作でしたが、文章には伝えたい意志をいっぱいに込めたつもりでした。面白いと感じていただけた気持ちが、こちらにまで伝わってくるご感想。とても嬉しかったです。次回作でも、どうぞよろしくお願いいたします。
>秋桜 さん
原作終了から約五年後、それぞれに成長した変わらない三人が描けていたら。もしかすると、ちょっとイメージと違うキャラクターがいたかも知れませんが、作中の三人を見守っていただけると幸いに思います。
ご感想、ありがとう御座いました。
>スケベビッチ・オンナスキー さん
原作の雰囲気を残しつつ成長した、と言っていただけますと大変嬉しく思います。ストーリーの方は、「起」ということで、やや変化球気味に構成しておりました。破綻がないか不安に思っておりましたので、ご感想にあるお言葉をいただき安心できました。今後とも、精進したいと思います。
ご感想、ありがとう御座いました。
>柳野雫 さん
ご感想、ありがとう御座います。
美神さん達が迎えに来る場面は、私自身、もっと心情を書き出した方が良いのか迷ったのですが、作中の流れから二人の気持ちを汲み取っていただけたご様子。とても嬉しく、同時に安心しております。作中のおキヌちゃんの言葉通り、当たり前のように一緒にいられる三人が描けていれば幸いです。
>ダヌ さん
ご感想、ありがとう御座います。
初投稿ということで、とにかく「ツカミ」と「分かりやすさ」に配慮してお話を作ってみましたが、そのように仰っていただけると大変光栄です。まだまだ未熟者ながら、頑張っていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。