――依頼番号――
06-0113。
――依頼日/締切日――
2006年08月21日/無記入。
――作成者名――
愛子。
――依頼者情報――
氏名、小竜姫。生年月日、無記入。性別、女。職業、妙神山修行場管理人。住所、某県妙神山修行場。連絡先、***-***-****。携帯連絡先、無記入。電子メールアドレス、無記入。
――依頼内容――
除霊、未チェック。霊障の解決、未チェック。異種族問題、未チェック。サポート、未チェック。その他、チェックあり。
長野県の戸隠山にて、”天岩戸”に閉じ込められた神族複数名の救出。および、関連した敵対的存在の捕縛か撃破。
――概要――
魔族アシュタロスによる108の霊的拠点の消滅以降、全国各地で復旧作業が進んでいたが、復旧に予想外の遅延が発生。それが原因となり、神族の管理する結界その他に複数の不具合が確認される。
現在、調査チームが組織され、事態の解決を図っているとのことだったが、2006年08月12日未明、戸隠山に派遣されたチームから連絡が途絶えた。
再度、別の調査チームが向かったところ、”天岩戸”の使用痕跡を発見。周囲には、わずかばかりの魔力反応が検出される。
問題の”天岩戸”は、現在反転して堅固な檻となっており、内部から開くことが非常に困難である。
なお、神族上層部の決定により、神族の直接的介入は禁止とされている。
以下、関連資料。
1、資料:戸隠山について。2、資料:天岩戸について。3、資料:古事記および日本書紀の関連記述抜粋。4、長野県の霊脈・霊山地図(発行:日本GS協会)。5、全国霊的状況レポート(06年度版)。
――作業報告:スケジュール――
記入日付、2006年08月24日。
記入者氏名、横島忠夫。参加メンバー、横島・カオス・マリア。
06/08/22:戸隠山に向かって出発、昼前。現地到着、夕方頃。
06/08/23:作業開始、朝一。作業終了、夕方より前くらい。
――作業報告:内容――
戸隠山中で、天岩戸捜索を開始。マリアが山頂付近で、不正な反応をキャッチ。山頂に向かう途中、魔族ダイダロスの強襲を受ける。横島が天岩戸内部に吹き飛ばされ、マリアが後を追って天岩戸に突入。魔族ダイダロスは、カオスが爆殺した。特殊能力は、眷属を召還する。氷を使う。弱点は、たぶん熱とか火とか? 動機は、天岩戸を守ってた神族の結界に綻びがあったから、以前より目を付けていた天岩戸を触ってみたくて結界を破壊。偶然、近場に神族がいたので天岩戸を使ってみたらしい。横島、天岩戸から脱出するために奥の手6つ使用。マリアと天岩戸から脱出するも、カオスによって魔族は倒され、結界もすぐ解除された。なお、神族の調査チームは、結界解除後に無事生還した。
――作業報告:追記事項――
天岩戸:クノッソスの大迷宮と同じで、無限に空間を生成する大結界。現在、内外が反転しており、内部からの脱出に無限空間が発生する。戸隠山の山頂付近に存在。今後は天岩戸を利用されることのないよう、神族が結界を張って厳しく取り締まるということ。
――完了確認:署名欄(依頼者)/署名欄(所長)――
小竜姫/横島忠夫。
■ 今そこにある明日 転章 ■
―― A turn of speed !! ――
八月二十四日。戸隠山での依頼作業が完了した横島忠夫、ドクター・カオス、マリアの三人は、既に東京の事務所へと戻ってきていた。
前日の深夜、愛子に出迎えられて事務所に帰還した横島忠夫は、一旦自宅のマンションへ戻り、朝方にまた出勤した。事務所内に住み着くドクター・カオスとマリアは、そのまま研究室と銘打った一室で休息を取り、こうしてまた、横島霊障対策事務所の平凡な一日が始まる。
その日、最初に掛かってきた電話は、美神令子からのものだった。
「……ねぇ、横島クン。”赤い糸”、って言えばわかる?」
「す、すんまへ~ん。あれには、深い事情があったというか、やむにやまれずというか――って、やっぱりアレ、美神さん達のところにいってましたか」
「まぁね。とにかく、手が空いたらで良いから、こっちに説明しに来なさい。それと、おキヌちゃんが、今日はうちで夕飯食べていかないかって」
先日の説明と夕食の約束を取り付けて、令子からの電話は切れた。
その後、昼過ぎまでは電話が鳴ることもなく、横島はあーだこーだと言いながら、前回の報告書を書き上げる。愛子は事務作業を着々と仕上げていき、カオスは相変わらず妙な発明、マリアは最近読み始めたシリーズ物の小説を手に時間を過ごした。
昼過ぎに何件か新規の依頼が入り、横島や愛子はその対応に追われる。そんな中、小竜姫が事務所に姿を見せ、とりあえず横島のセクハラと、愛子の迎撃、さらなるセクハラと、神剣による仏罰が行われた。
すっかり恒例となった一連のやり取りを済ませて、横島は前回の依頼に対する報告を始める。大体の事情を把握した小竜姫は、横島に苦言を呈してから、報酬を支払い、帰っていった。
「気の緩みが生み出す危険は、そうではない危険よりも遙かに手強く、容易に自らの命を危機に晒します。横島さん。あなたのそういった所は、ある部分では長所なのでしょうが、もっと状況をわきまえることを覚えないと、いつか取り返しの付かないことになりますよ」
「……面目ないっす」
「あなたに何かあれば、きっと悲しむ人がたくさんいます。ご両親や友人。美神さんや、おキヌちゃん。愛子さんも、もちろん私だって。ですから――」
「タダちゃん、かんどー!!」
最後にもう一幕、どたばたの騒動を引き起こしてから。
午後五時半になると、横島霊障対策事務所は終業時刻となる。次回の作業予定を確認してから、愛子達に見送られ、横島は美神令子除霊事務所へと向かった。
高校時代からすっかり見慣れた懐かしい建物は、既に横島が独立して二年が経過したというのに、あの頃とまったく変わらない姿で横島を迎えてくれる。
『お久しぶりです、横島さん。オーナー達が、リビングでお待ちです』
玄関のチャイムを押すよりも早く、人工幽霊壱号によって開かれた扉をくぐって、横島は令子達がいるというリビングに足を向けた。近づくに連れ、空腹を刺激する良い匂いが漂ってくる。
「ちわっす。横島忠夫、美味い晩飯のご相伴にあずかりに参りました!」
「いらっしゃい、横島クン。とりあえず、座ってて。まだ夕飯の準備、終わってないのよ」
令子の指示通り、夕飯の準備が出来るまで、横島は高級な皮のソファーに腰を下ろして待った。リビングの様子は、多少模様替えをした程度で、ちょくちょく訪ねてくる横島から見れば、あまり変わった印象もなかった。
しばらくすると、おキヌがキッチンから料理を持って姿を見せる。
「お仕事、お疲れ様でした。横島さん。もうちょっと待ってて下さいね。今、ご飯、運んできますから」
「ああ、いいよ。おキヌちゃん。俺も手伝おうか?」
「大丈夫ですよ。美神さんも手伝ってくれてますから。横島さんは、テーブルで待ってて下さいね」
にっこりと微笑んで、テーブルに料理を置いたおキヌは、再びキッチンへと戻っていく。立ち上がってテーブルに着いた横島は、おキヌ達に申し訳なくも思いながら、しかし、邪魔をするくらいならと黙って待った。
令子とおキヌは手際よく次々と料理を運び、二人が何度かキッチンとテーブルを往復すると、あっという間に豪勢な夕食がテーブルの上に並んだ。
パチンと両手を合わせて、「いただきまーす」と元気よく響く声。
「はい、召し上がれ。今日はたっぷり作ったんで、いっぱい食べて下さいね」
「うおおぉ~!! こりゃ旨い、こりゃ旨い!!」
「……あんた。もう十分稼いでるはずなのに、なんでそう、いつもガツガツしてんのよ。あ、ちょっと! それ、私が作ったのよ!! 時間かけて作った高級料理を、丸飲みすんなーー!!」
おキヌにお代わりをついで貰ったり、令子から殺気とお叱りを受けたりしながら、横島は幸せな夕食の時間を過ごす。
腹も膨れて落ち着いた頃になると、おキヌに淹れて貰ったお茶を飲みながら、先日の一件について令子から横島に説明が求められた。”赤い糸”、天岩戸、小竜姫の依頼。話題は転々としながらも、付き合いの長い令子とおキヌには、その説明で十分に事足りる。
「――あんたらしいと言えば、らしいけど。はっきり言って、プロ失格よね。仕事中に油断した挙げ句、何の役にも立たなかったなんて」
「まぁまぁ。美神さんだって、失敗しちゃうことはあるじゃないですか」
説明がひとしきり終わると、今度は令子からの説教が始まった。おキヌがそれとなくフォローしてはくれるものの、令子の辛辣な言葉は横島にグサグサと突き刺さる。横島自身も前回の失敗に思うところがあったのか、自覚していたために反論も起こらない。
「……うぅ、やっぱり、わいはあかん子なんや。おかんは、何かにつけて『あんたはやれば出来る子や』って言うてたけど、あんなん嘘やったんやーー!!」
「まさに関西人の母親って感じの台詞よね~、それって。でもさぁ、私、いつも思うんだけど、あれほど無責任で根拠のない言葉って――」
「み、美神さん! そんなことありませんよ。横島さんは、やれば出来る人です。今までだって、いっぱい頑張ってきたじゃないですか」
”おがーん”と泣いて騒いで、ザクっと無慈悲に苛められて、力いっぱい優しく慰めて貰う。
横島は独立以後、様々な困難に突き当たり、こうして支えられながら乗り越えてきた。
「まぁ、失敗を糧として、精々頑張りなさい」
「横島さんなら、絶対に大丈夫です! ずっと横島さんを見てきた私を、信じて下さい」
令子に叱咤され、おキヌに激励され、横島は不甲斐なかった自分を反省しながら、次もまた自分らしくやっていく決意を固める。
楽しい夕食の時間は、令子やおキヌの話に話題を展開しながら、まだまだ夜更け近くまで続いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
無機質な事務用机の上で、けたたましく電話のベルが鳴る。ガチャリと受話器を取って、職員が対応する。すると、また別の机の上で、リンリンと喧しく鳴り始める電話のベル。
学生達が夏休みに入ってからは、電話のベルが鳴るペースも一層上がっていた。オフィスに残った職員だけでは、手が足りなくなることも少なくない。
――八月も、もう終盤。甲子園野球も終わって、残すところ後六日で九月になろうというのに、まったく子供達というのは元気なものだ。
西条輝彦は、再び鳴り出したベル音が止まったことを確認して、ゆっくりと煙草を吸い込んだ。
このオフィスは、ICPO(国際刑事警察機構)超常犯罪課――通称、オカルトGメン――の日本支部、第一拠点である。現在、日本全国に七つの拠点が存在するオカルトGメン日本支部。その中心となっている総本部が、東京の一等地にビルを構えた、この場所だった。
子供達が一斉に夏休みに入った七月下旬から、学校の始まる九月初頭までは、日本のオカルトGメン職員にとって、もっとも多忙となる時期である。海や山、プールに夜遊び、子供達ばかりではなく、大人達まで羽目を外して遊び回る夏という季節。水難事故や軽犯罪が多発し、あちこちで冷たくなった被害者が、世の無常を恨んだ霊障を起こす。
しかしながら、これらの事件に一般の警察では対応が出来ないのだ。ひったくりを捕まえることは出来ても、水難事故で死んだ浮かばれぬ霊を成仏させてやることは出来ない。
オフィス内を見渡した西条の視界に入ったのは、本来この場に勤める職員の半数程度。残りの職員達は、そういった事件を解決するために日本全土を飛び回っている。西条自身も、様々な仕事に追われ、既に二日近くも眠っていなかった。
”カキン”と音を立てて、もう一本、煙草に火を付ける。このS.T.Dupont製のライターは、欧州では数少ない高級ライターの製造を本業とするメーカーの品だった。クラシック・ライター有数のブランドとして名高いS.T.Dupont社製の品は、子気味よく鳴る”カキン”という音がなによりの特徴だった。
紫煙を吸い込んで、西条は目頭を押さえた。今日は朝方から、煙草と珈琲以外を口にしていない。昨夜遅くに夜食を取ったことは覚えているが、何を食べたのかは既に仕事の知識に埋もれていた。
「西条管理官。少し休憩なさった方がよろしいのでは?」
管理官という役職は、ICPOという組織にあっても上級管理職の肩書きとして存在し、日本警察においては警視と同格の扱いを受ける。ただし、オカルトGメンの管理官というのは、日本警察における警視正と同格とされ、現場指揮に混乱を招かぬよう特別な配慮がされていた。
「そうもいかないよ、ピート君。今、僕が休んだら、誰が代わりに仕事をしてくれるんだい?」
話しかけてきたのは、ピエトロ・ダンピール。半人半吸血鬼の青年は、オカルトGメンに就職するまで、聖職者の下で修行をしていたという変わり種だった。
「ですが、過剰労働で良い結果が出るとは思えません。昔、唐巣先生だって――」
「あー、うん。ものすごく休みを取りたい気分になってきたよ。でもまぁ、それでもね、僕がいま休むわけにはいかないんだ」
ピートの師であった唐巣和宏の髪を思い出し、西条は苦笑を浮かべる。だが、ピートの進言はきっぱりと断った。ピートは不満そうにしていたが、こうまでハッキリと断られては、これ以上なにかを言うことは出来ず、頭を下げてから自分の仕事へ戻った。
「だったら、私が代わりをして上げるわ」
ピートと交代するように声を掛けてきたのは、美神美智恵だった。現在では、オカルトGメンの顧問として勤務しており、頭の固い上層部を押さえ、西条に現場指揮を託すなど、あらゆる面で辣腕ぶりを発揮している。
別室にて仕事をしていたようだったが、話を聞くに、どうやら西条とピートの掛け合いが始まる頃にはオフィスにいたらしい。
「今の貴方は働き過ぎです。大体の仕事なら私にだって引き継げるはずだし、もう何日も寝てないんでしょう?」
もう四十代を半分過ぎたというのに、目を見張るほどの若さと美貌を持つ美女は、毅然としながらも、弟子の心配をする顔を覗かせる。
「いえ、先生のお手を煩わせるほど、疲れ切ってはいませんよ」
「別に気にする必要はないわよ。頭の固い上層部の連中とやり合ってばかりじゃ、私だってつまらないもの」
「しかし、美神顧問。顧問に仕事をして貰わなければ、僕達現場の人間も自由に動けない。硬直した現在の組織構造の中で、本当に助けを求めている人々を救う柔軟性が持てているのは、顧問のご活躍のお陰なのですから」
気遣いの言葉に、西条は頑として譲らなかった。にこやかな表情の中に鋭い眼光を混ぜて、自分の領域に干渉するなと釘を刺す。
スッと表情を消し、美智恵は無言で西条を睨み付けた。何かを探っているかのように、冷徹な仮面の下で注意深く相手を観察する。
「……そう、わかりました。貴方がそこまで言うなら、今日のところは引き下がりましょう。でも、これ以上の無理をするようなら、強引にでも休息を取らせます。これについて、異議は認めません」
「西条輝彦、了解しました」
やがて折れたのは、美智恵の方だった。厳しく意見した後、美智恵は肩を上下させて呆れを見せながら、西条に一冊のファイルを手渡す。
「それから申し訳ないんだけど、上からの圧力が掛かっちゃってね。優先してやって貰いたい仕事が出来たの」
ペラペラと中をめくり、西条は美智恵の持ってきたファイルに目を通す。
「バチカンから指名手配されている悪魔が、先日、日本に上陸したという情報が入ったわ。詳しくはそのファイルに書いてあるから、仕方ないけど優先的に処理して頂戴。見た限り、今、動けそうなのはピート君とあと数人くらいね? もし足りないようなら、フリーのGSを――」
「その必要はありませんよ、先生」
ファイルを閉じ、まだ話をしていた最中の美智恵に目を向ける。驚いた様子の表情は、西条をして”してやったり”だった。
「どうして? まさか、貴方自身が動くつもり?」
「いえ、それは流石に無理です。僕が今、身動きも出来ないくらい仕事を抱えているのは、先生だってご存じでしょう?」
「だったら、私が令子のところにでも――」
「結構です、と申し上げました。それに、このファイルは少し情報に誤りが多いようですね。まぁ、書き換えるほど時間を掛けているうちに、片が付いているでしょうが」
「西条君、私にもわかるように説明して貰えるかしら?」
「既に手は打ってある、ということですよ。先生。では、僕は自分の仕事に戻りますので、先生もご自身のお役目を果たされて下さい」
美智恵に向かって立ち上がって礼をし、西条は振り返ることなく会議室へと消えた。
「ピート君、ちょっと打ち合わせたい内容があるんだ。会議室へ来てくれ」
その後ろ姿を見送る形になった美智恵は、瞳の奥にチラチラとした何かを宿らせながら、黙って自身に与えられた一室の扉を開いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
成田国際空港は、国内線でこそ東京国際空港(通称、羽田空港)に及ばないものの、航空旅客数は日本第二位、航空貨物取扱量は日本最大という第一種空港である。
都区内にある羽田空港より利便性が悪いが、東京に発着する国際線のほとんどは、成田空港を利用しており、国際線から国内線への乗り換えでは便利が良い。
成田空港の国際線出口から姿を見せた黒ずくめの男は、そのまま真っ直ぐ第一ターミナルへ移動し、搭乗手続きを済ませてから、第五サテライト二階の国内線入口に向かった。
搭乗予定のゲート番号を気にしながら歩くと、目的地で片手を上げている男を見つける。
「この暑いのに、相変わらずその格好か」
「俺のスタイルなんでな。ほっとけ」
軽薄そうな顔をした男は、黒ずくめの姿に呆れたとばかりに肩をすくめ、「ほれ」と缶コーヒーを投げつけてくる。受け取った男は、ようやく黒い帽子を脱いで、缶コーヒーのプルタブを押し下げた。
「弓さんは?」
「まだロンドンだ」
「今度はロンドンかよ。世界中飛び回って、ご苦労なこったなー」
「性分だ。お前こそ、カオスの爺さん達はどうした?」
「今日は、別の仕事が入ってたんだよ。そっちに行って貰った」
空港のアナウンスが、搭乗予定の便の出発三十分前を告げる。付近で待っていた客達は、次々と開放されたゲートに流れ込んでいった。
黒ずくめの男と軽薄そうな男は、その人混みから離れた場所で立ち止まったまま話を続ける。再び搭乗を勧めるアナウンスが流されると、二人の男はようやく搭乗ゲートを抜けた。
「ビジネスクラスか。あいつに手配して貰ったことを考えると、素直に喜べんなー」
「旦那なりの気遣いだろう? どっちにせよ、経費で落ちるんだろうし」
「オカルトGメンの金は、国民の血税だぞ。俺達の血と汗と涙の結晶が、道楽公務員に使われてると思うと納得がいかん」
スロープを抜けると、フライトアテンダントに席の場所を説明される。片方の男は愛想良く礼を言い、黒ずくめの男は軽く頷いて座席へ移動した。
ビジネスシートに腰を下ろすと、アナウンスが目的地と到着予定時刻の説明を始め、しばらくもすると航空機がゆっくり地面を滑走し始めた。
「横島。お前、西条の旦那からどこまで聞いた?」
「はっきり言って、まだ何にも聞いてない。依頼があるから、とりあえず渡したチケットの便に乗れ。詳しくは、相棒から説明を受けろってさ」
「そうか。ところで、お前、どうかしたのか?」
「なにがだ?」
「スチュワーデスの姉ちゃんに飛び掛からない」
航空機が、滑走路を加速し始めた。窓の外の景色が一気に流れ始め、かすかな重力と共にグンと機体の浮かび上がる。
「……前の仕事で、つまらねーミスをしたんだよ。仕事の方は、カオスがすっきりさっぱり片を付けてくれたけどな」
「ほう、面白そうな話だな。聞かせろよ」
「アホぬかせ。依頼の話をするのが先だろうが」
「いいじゃねぇか。どうせ目的地までは、まだ長いんだ」
急角度で空へ登る航空機が、雲を突き抜けて安定体勢に入った。アナウンスが流れ、シートベルト着用ランプが消える。
「つまんねー話だぞ?」
「俺は単純だからな。つまらなかったら、すぐに忘れる」
「……わりーな、雪之丞」
「ダチの愚痴を聞くくらい、別に何でもないさ」
窓の外に目を向けて、雪之丞は無言で先を促した。
そんな変わらない親友の姿に、横島は苦笑を浮かべながら――
「その前に、スッチャーデスさーん! ウォーター、アンド、キスミー、プリーズ!!」
「全然元気じゃねーか!!」
――とりあえず、照れ隠しのナンパから始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
”ピンポーン”と、チャイムの音が鳴る。
パソコンの画面から視線を上げると、時計の針は丁度三時を示していた。
黙々と事務作業を続けていた愛子は、誰もいなくなった事務所内を見回してから、溜息を一つ吐いて玄関口へと向かった。
横島霊障対策事務所には、現在のところ、愛子一人しか残っていなかった。所長の横島は朝早くから単独で仕事に向かい、ドクター・カオスとマリアは都内の除霊作業へと昼前に出ていった。
(仕事っていっても、事務作業ばっかり。いつも私は留守番なんだから……)
自分に戦うための力がないことは、愛子自身が誰よりも知っていた。それでも、学校に通っていた頃のように、仲間達と一緒に何かをやり遂げる充実感が欲しかった。
(無理な相談だっていうのは、わかってるんだけどね)
いまだ超一流には届かない発展途上の事務所。愛子までがここを空ければ、急に入る依頼や新規顧客を取り逃がすことになりかねない。それに地味な書類仕事といっても、愛子の努力が事務所を支えているのは、紛れもない事実。
しかし、頭では分かっていても、愛子はやはり釈然としないものを抱えていた。誰もいない事務所、なにより横島忠夫がいない事務所。それは愛子にとって、覚めた夢の後のように寂しさだけが残る風景だった。
”ピンポーン”と、再びチャイムの音が鳴る。
「あ、いっけない」
パタパタと走って、慌てて玄関の扉を開ける。不用心かも知れないが、愛子とて立派な妖怪だ。もしも不審者と出会せば、そのまま異界送りにして窓から叩き出す程度のことは出来る。
「お待たせいたしました。何かご用でしょうか?」
「こんにちは、愛子さん。お菓子の差し入れ、如何ですか?」
玄関の前に立っていたのは、見知った顔だった。流れるような黒髪、優しく清楚な顔立ち、落ち着いた物腰。少しだけ首を傾げて、氷室キヌが微笑んでいた。
「クッキーを焼いてきたんです。上手に焼けたんですよ」と言うおキヌに、愛子は喜んで歓迎の意を表明した。すぐに事務所内へ入って貰い、来客者用のソファーに座るよう勧める。
「ああ、おキヌちゃんが天使のようだわ! もう一人で退屈しちゃって、退屈しちゃって。ね、ね、よかったら一緒にお茶飲まない? せっかくクッキー持ってきてくれたんだし、二人一緒の方が楽しいに決まってるわ!」
「うーん。じゃあ、少しだけお邪魔しちゃいますね」
「お三時に仕事をサボってするお茶会。青春……じゃないけど、OLって感じだわ~」
苦笑するおキヌを尻目に、愛子は鼻歌交じりで紅茶を入れて、葉が蒸し上がるの待ちながら、たわいもない話題で盛り上がる。紅茶の葉が程良く蒸し上がると、二人分をカップに注いで、お手製クッキーに舌鼓を打った。
「さっすが、おキヌちゃんよね~。こんなに美味しいクッキー、もう売り物に出来ちゃいそうだもの」
「ふふっ、ありがとう御座います。喜んで貰えて、私も嬉しいです」
おキヌがお菓子の差し入れを持ってくることは、今までにもわりと頻繁にあった。愛子もその時に彼女と深く知り合い、あっという間に仲良しになった。器量好し、性格良し、料理の腕も良し。同じ女として、おキヌのことをどれだけ羨ましく思ったことか。
「あ~あ、私もおキヌちゃんに料理を習おうかしら?」
「そんな。私なんかより、美神さんの方がずっとお料理、上手なんですよ」
「でも、横島君がいつも言ってるもの。どんな料理より、おキヌちゃんの料理が一番好きだって」
「……もう。横島さんったら」
それでも、妬みなんか気にならないほど、愛子はおキヌのことが好きだった。飾らない性格はなにより安心できて、純朴な素直さは同性の愛子から見ても抱きしめたいと思ってしまう。照れて真っ赤になったところなど、まるで少女のように可憐だった。
カップの紅茶がなくなると、もう一杯だけと言っておキヌを引き留め、愛子は少し多めのミルクを使って紅茶を淹れた。蒸らしすぎた紅茶の葉は、渋みが強くて、愛子もおキヌもあまり好きではなかった。
二杯目の紅茶をまったりと味わいながら、ポロリと愛子が愚痴をこぼした。別に愚痴を言うつもりではなく、本当につい口が滑ったという様子だった。
元来、世話焼きであるところのおキヌとしては、そんな様子の愛子を放っておくことなど出来ない。
「私で良かったら、話だけでも聞かせて貰えませんか?」
そんな言葉が出るのは、極自然なことだった。
愛子の抱えている不満は、かつておキヌ自身も抱えていたソレと同じだった。ただ待っているだけ。隣に並ぶ力のない自分は、ただ待つことしか出来ることがない。それが悔しく、悲しく、寂しい。
「我が儘を言ってるのは、わかってるんだけどね」と無理に苦笑する愛子の姿は、おキヌにとって、まるで昔の自分自身のように思えた。
まだ横島が美神令子除霊事務所に在籍していた頃。最前線で活躍する横島と令子の姿を、ただ後ろから見守ることしか出来なかった自分。
横島の背中を犬塚シロが守り、二人で斬り込んでいく姿を見送るしかなかった自分。タマモが敵を引き付け、横島との一瞬のコンビネーションで倒す姿を見つめるしか出来なかった自分。
思い起こされるのは、そんな無力な自分の姿だった。
「一番辛いのは、誰だと思いますか?」
だからこそ、愛子の気持ちがわかるからこそ、おキヌはハッキリとした口調で言った。彼女らしい慈愛と母性を浮かべた笑顔で。
「一番辛いのは、きっと待つしか出来ない人だと思うんです。大切な人が、傷付いているかも知れない。何か理由があって、帰ってきてくれないかも知れない。それなのに、自分は待っていることしか出来ない。これって、すごく辛いことですよね」
かつての自分自身の姿を顧みて、昔の自分に語りかけるように。
「でも、だから逃げちゃうんですか? 必死に歯を食いしばって、勇気を振り絞って、大切な誰かは頑張っているかも知れない。それなのに、待つのが辛いからって逃げちゃうんですか?」
違う。本当は、こんなことを言いたいわけじゃない。けれど、きっとこれは必要なこと。
「一番辛い役目を他の人に押し付けて、大切な人の帰ってくる場所を放り捨てて、任されたことから逃げちゃうなんて、私は卑怯だと思います」
「おキヌちゃん……」
「だから、本当はすごく不安で、怖くて、悲しくて、寂しくて、辛いですけど。私は、歯を食いしばって、勇気を振り絞って、待つことを選びました。一生懸命頑張って、大切な人を信じ抜こうって。きっと大丈夫、きっと帰ってきてくれる。きっと、必要としてくれてる。だから、帰ってきたその時は、最高の笑顔をプレゼントするんだって」
おキヌ自身、厳しい言葉だったと自覚している。それでも、大切な友人が悩んでいるなら、自分の出した答えが何かの役に立つなら、嫌われても言うべきことがあると思った。
「ごめんなさい。愛子さんが言いたかったこととは、もしかしたら違っちゃってたかも知れません。それに、勝手に私の意見を押し付けるようなこと言っちゃって……」
長々と話して、喉はカラカラだった。目の前の紅茶に手を伸ばしたいが、嫌われたかも知れない自分では、出された紅茶さえ口にする資格がないように思えた。
おキヌは俯いて、グッと握り締めた両手に目をやる。語ったことは本心だったが、おキヌ自身がどれほど実現出来ているというのか。責められても、返す答えは持ち合わせていない。
ただ、似た境遇の愛子を放っておけないという自分勝手な理由で、彼女を傷付けたことは事実だろう。おキヌは、言わずにはいられなかった自分を、激しく後悔した。
「――ううん。さっすが、おキヌちゃんだって思ってたところよ。考えたら、おキヌちゃんって私よりも年上なのよね。三百年も幽霊やってたんだもの。だから、何て言うか、お母さんから叱られるっていうのは、こんな感じなのかなって思っちゃった」
顔を上げたおキヌの視界には、少し照れながら笑う愛子の姿があった。「喋りすぎて喉渇いたでしょ? ほら、紅茶飲んで」と勧められて、紅茶を一口、喉に流し込む。それだけで、まるで生き返ったように感じた。
「ほんっと、私もまだまだ未熟よね~。たまに横島君にそう言われることがあったけど、おキヌちゃんと比べられてたんじゃ仕方ないか」
「えっと、あの、本当にごめんなさい!!」
「いいの、気にしないで。ほら、座って座って」
思わず立ち上がって頭を下げたおキヌに、愛子は笑いながら続ける。
「もう、せっかく娘の気分を味わってたのに、これじゃすぐ逆転してお母さんになったみたいじゃない」
「でも、その……」
「本心を言っちゃうとね。おキヌちゃんの言ってたこと、私も心の何処かで感じてたと思うの。自分なんて本当は必要ないんじゃないか、とか。でも、おキヌちゃんに言われて、目が覚めた感じだわ。必要がないなら、始めっからここにいたりしないし。ここにいるなら、私は私の役目をしっかりこなさなきゃダメよね!」
「愛子さん」
「だけど、実はショックだったのは、もう一つの方だったりするんだけどね」
少し寂しげで、反面、清々しい笑顔を浮かべた愛子は、ジッとおキヌの姿を見つめる。”ボーンボーン”と、事務所の壁に掛けられた古時計が、四度、音を響かせた。
「あっ、もう四時!? ごめんね、おキヌちゃん。長々と引き留めちゃって」
「いえ、私の方こそ、色々とすみませんでした。それで、あの、もう一つの方っていうのは?」
「うーん、内緒。また今度、二人きりのお茶会をする時に教えて上げるから」
愛子に言われるがまま帰る準備を整えたおキヌは、不在中の事務所メンバーによろしく伝えて欲しいと残して、横島霊障対策事務所を後にした。
去り際に愛子が呟いた言葉は、風に溶けて、おキヌの耳には届かなかった。
『ホント、私じゃ敵わないみたい。失恋も、青春よね……』
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――フライング・ダッチマン。この”彷徨えるオランダ人”という意味の言葉は、世界最古の幽霊船を指し示す言葉として、今もなお語り継がれている。
幽霊船の船長は、海の悪魔に呪われており、七年に一度のみ上陸を許されていた。そして、上陸した際に永久の愛を誓う女性と出会わない限り、幽霊船は永遠に七つの海を彷徨い続ける運命にあるという――
伊達雪之丞がロンドンで仕事をしていた際、助手の弓かおりから奇妙な噂を聞かされた。噂と共に手渡されたイギリスの新聞”タイムズ”に目を通すと、確かにその情報が載っている。
「風向きとは逆に進む船って、エンジン積んでりゃ出来て当然じゃねぇか」
「違いますわ。その船は、エンジンなんて積んでいませんでしたの。それどころか、いつ沈んでもおかしくない難破船のようなのに、港に寄るどころか風とは逆向きに進んで、海へと出て行った。――どう?」
「ゴーストシップ、幽霊船か」
ヨーロッパでは、比較的メジャーとされる幽霊船。オカルトGメンが業界でも屈指の実力を誇るイギリスにあっては、すぐさま除霊の対象とされて殲滅されるはずだった。
しかし、別ページで”タイムズ”はオカルトGメンが返り討ちにあったと小さい記事を載せ、いくらも時間が経たないうちに雪之丞の携帯電話が鳴った。電話の相手は、日本にいる西条輝彦。内容は、退魔の依頼だった。
『イングランドのオカルトGメンを撤退させるほどとなると、単なる幽霊船とは考えられない。情報が封鎖されて、僕もタイムズ以上のことは知らないが、対象はフライング・ダッチマンだと思って間違いないだろう』
「バチカンからも賞金が掛けられてる幽霊船か」
『雪之丞君、くれぐれも油断しないでくれ。フライング・ダッチマンは、単なる幽霊船じゃない。バチカンから指定された、歴とした悪魔なんだ』
「悪魔の船ってことか。面白そうじゃねぇか」
西条からの依頼を引き受けた雪之丞は、すぐに弓かおりに準備を整えさせて、フライング・ダッチマンの捜索を開始した。
伊達退魔事務所は、海外でも結構な知名度がある事務所である。
日本GS協会所属のゴーストスイーパー二人で構成されたこの事務所は、主な拠点が世界中を探しても存在しない。
一応日本に事務所を構えてはいるが、実際のところは各地を転々としながら、飛び込みの退魔依頼を引き受けたり、指名手配を受けた賞金首を狙うバウンティハンター的な存在として、仕事をした各国で評価されている。
既にイギリスで何度も仕事をしていた雪之丞達は、イギリスのオカルト業界でも名前が通り始め、雪之丞独自の裏ルートで情報を集めることは造作もなかった。
イギリス最西端の地、コンウォールのランズエンドから更に南西方向へ二十八マイル。五つのメインアイランドと、百五十以上の無数の島々からなるシリー諸島。
その孤島群の中の一つに、かつて海賊が財宝を隠したとも言われる無人島が存在する。そこが、雪之丞達の目的地であった。
クルーザーを調達し、雪之丞達は無人島へと向かった。フライング・ダッチマンは、七年に一度しか上陸することが出来ない。しかし、ここ七年の間に上陸したという情報はなかったが、上陸しなかったという確証もなかった。
最悪、クルーザーから幽霊船に飛び移って戦闘を行うことも視野に入れ、雪之丞は弓にクルーザーの運転を任せて、無人島に近づいた。
船の上で待つこと三日。
暗い雲が空を覆い隠し、嵐が来たかのように波が大きくなり始めた。
そして、フライング・ダッチマンが、海中からその姿を現したのである。
「な、なんですの!? これが、フライング・ダッチマン……」
「ほう、幽霊船に取り憑いた大王イカの悪霊みたいなもんか」
雪之丞の洩らした言葉は、的確にフライング・ダッチマンの姿を表現していた。
ボロボロになった幽霊船の船体。しかし、その船体は幽体などではなく、しっかりと物質化している。また、船体に開いた穴からは、光る巨大な目がはっきりと敵意を示し、海中から水しぶきを上げて浮上したのは、八本の巨大な長い足。幽霊船のマストのようだったのは、さらに長い二本の触手だった。
「かおり! 離れて見てろ!!」
長い触手が振り下ろされるより早く、雪之丞の指示が響く。弓はすぐさまクルーザーのエンジンを吹かし、フライング・ダッチマンの触手の範囲から逃げようとする。
一本は、水柱をあげるほど激しく海面を打った。振り下ろされたもう一本の触手は、クルーザーの真上で止められていた。
「わざわざ手を差し伸べてくれた礼は、そっち行ってからしてやるよ」
魔装術を展開した雪之丞は、受け止めたフライング・ダッチマンの一撃を物ともせず、強力な霊波砲を放って触手を吹き飛ばした。
間髪入れず、サイキックソーサーを足場に、空中を駆け抜ける雪之丞。残りの八本足が次々に振り下ろされるが、それら全てを躱してフライング・ダッチマンに着地を決めた。
だが、フライング・ダッチマンをイカの悪魔だと考えた雪之丞は、船上に辿り着いてから間違いを悟った。フライング・ダッチマンの上には無数の亡霊が存在し、彼に向かって一斉に攻撃を仕掛けてきたのだから。
魔装術の身体能力と装甲を頼りに、雪之丞は獅子奮迅の活躍で亡霊に立ち向かった。十匹を倒し、二十匹を倒し、残りを数えようとすると、絶望的なまでの数に考えを放棄した。
雪之丞がフライング・ダッチマンに辿り着いてから、弓もクルーザーから援護を仕掛けようと霊体ボーガンや霊波砲を放つが、それらは全てイカ足に遮られていた。近づきすぎると、長い二本の触手に狙われ、遠すぎても援護の攻撃が届かない。
それどころか、フライング・ダッチマンから亡霊が砲弾のように放たれ、躱したところで亡霊達は海上を滑るように追い掛けてくる。
「じょ、冗談じゃありませんわ!!」
弓の実力を持ってすれば、亡霊の一体一体は問題ではなかった。しかし、クルーザーを破壊されては意味がない。刻一刻と逃げ場を失いながら、弓に出来たのはクルーザーを無事に守り通すことだけになっていた。
「ちっ、キリがねぇ」
船上の雪之丞は、紙を吹き飛ばすかのように亡霊達を倒していく。時々、思い出したようにイカ足の攻撃が降りかかるが、時に躱し、時に受け止めながら、本体へのダメージを積み重ねていく。
「こいつで、どうだ!?」
埒があかないと判断した雪之丞が、渾身の霊力を振り絞って船体を真下に殴りつける。一見して、木製のような甲板は貫いた。だが、その先でギョロリと雪之丞を見つめる巨大な目玉は、全くダメージを受けた様子もなく、突然イカ足で甲板上を水平に薙ぎ払う。
「ぐっ!」
数十以上の亡霊と共に、雪之丞に激しく振り払われた足が直撃した。それは魔装術の装甲によって受け止められたが、雪之丞を思い切り海上へと弾き飛ばした。
空中で体勢を立て直し、雪之丞は再びサイキックソーサーを足場に、フライング・ダッチマンを睨み付ける。
ここまでやり合ってみて、負けるとは思わなかったが、逆に勝つための手段が思い浮かばない。
振り返ってみると、亡霊達に追い立てられながら、戦闘を繰り広げるクルーザーの影が目に入る。
雪之丞は決断した。
「かおり! 先に逃げろ!! 俺もすぐに追い掛ける!!」
弓の逡巡する顔を思い浮かべながら、クルーザー後方に高出力の霊波砲を撃ち込み、雪之丞はフライング・ダッチマンに向けて空を駆けた。
フライング・ダッチマンを退治すること自体は諦めた。しかし、伊達雪之丞の名に賭けて、何もせずにおめおめと引き下がることは出来ない。
船上に着地する直前、足場にした複数枚のサイキックソーサーを船室に向かって飛ばす。着弾と同時に爆風が船上を覆うが、雪之丞はそれに怯まず船の内部に特攻した。
フライング・ダッチマンの内部は、予想していた通り、まるで生き物の臓器のようだった。緑とも赤とも付かぬ色の粘膜とヒダ。そこに肉で出来た扉のようなものが存在する。
雪之丞は迷わず霊波砲を撃ち込み、粘液と血にまみれたその扉の内側へと潜り込んだ。
扉の先は、おそらく元の船長室だったのだろう。木製の机や海図、タンスなども見受けられる。そして、椅子に座したまま屍と化した船長の躯も。
雪之丞が船長の死体に近づこうとすると、突然、激しい重圧に襲われた。船長室そのものが軋み始めている。脱出しなければ危険だと、雪之丞の本能が告げていた。
やむを得ず、雪之丞が脱出を図ろうとするその時、動かぬはずの死骸が何かを指さした気がした。雪之丞はすぐさまそれを掴むと、魔装術の硬度を最大まで上げてフライング・ダッチマンの内部から脱出した。
船外に出た途端、怒り狂ったかの如く、巨大なイカ足が雪之丞目掛けて縦横無尽に振り下ろされる。その一つを利用して、雪之丞はサイキックソーサーを足の真下で爆発させた。イカ足のスピードに乗って、さらには爆風を利用して雪之丞は一息に宙を飛ぶ。
雪之丞がフライング・ダッチマンから十分な距離を取ったところで、タイミング良く控えていた弓の運転するクルーザーが視界に入った。
「陸まで行けば、あいつは追って来れないはずだ。逃げるぞ、かおり」
着地と同時に指示を出し、雪之丞は、遙か後方から追い掛けてくるフライング・ダッチマンに注意しながら、今後の対応に思考を飛ばした。どこで、どうやって、アレを叩き潰すかと。
そして、雪之丞は日本へと向かう。もっとも頼りになる相棒のいる国へ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「なーんか、おかしいのよね……」
手作りクッキーの差し入れに行ってくると言うおキヌを送り出し、一人、美神令子除霊事務所に残ることとなった令子は、前回、西条から依頼された事件の内容を思い返しながら呟いた。
オカルトGメン絡みであるからして、非公式な依頼というのは珍しくもなかった。また、ここ最近では西条から直接依頼を受けることが少なかったとはいえ、美智恵と西条のセットで現れて依頼を押し付けられたのは初めてではない。
「でも、なーんか、おかしいのよねぇ……」
しかし、令子は納得が出来なかった。何に納得がいかないかと訊かれても、明確な答えは今のところ存在しない。存在はしないが、令子は自分の勘を信じていた。
西条輝彦と横島忠夫の不仲は、もはや公然の秘密であり、二人を知る誰もが口を揃えて同じことを言うだろう。もっとも、よりよく二人を知る人物ならば、なんだかんだで似たもの同士であり、本気で相手を嫌っているわけじゃないと知っている。
それでも、西条輝彦という男を少しでも知っていれば、彼が公私混同をする人間でないことも知っている。必要があれば、普段嫌っている相手にでも頭を下げることが出来る。西条輝彦とは、そういう男だった。
その西条が横島に依頼を持っていくつもりだった以上、依頼の内容は西条輝彦の”奥の手”であるGS横島忠夫への依頼であるはずだ。
(ようは、前回の仕事が私のところに来たのは、西条さんの本意ではなかったってことね)
GS美神令子は、西条輝彦の”奥の手”ではない。それは決して、彼女の実力がGS横島忠夫に劣るというわけではなく、令子自身が美智恵の”奥の手”であったことが原因の多くを占めている。
いくら霊的戦闘で世界トップクラスより、さらに頭一つ二つ抜きんでている横島とはいえ、除霊の総合力ではまだまだ令子に敵わない。
そんなGS横島忠夫が、西条輝彦の”奥の手”であるのには、戦闘力以外にも理由があった。つまりは、それが今回、令子の一番引っかかっている部分なのである。
西条輝彦の”奥の手”は二つ。そのどちらもが、大きな派閥に属していない。日本GS協会とも、オカルトGメン日本支部とも、強い結び付きがあるわけでもない。
(その辺が、関係してそうよね)
美神の家系は、六道家との繋がりを深く持っている。また、母親の美智恵はオカルトGメン日本支部の顧問であり、六道家は言わずもがな、日本GS協会にもオカルトGメンにも影響力を持つ大家。
しかしながら、横島忠夫は美神令子の弟子ではあっても、その急成長ぶりから派閥に巻き込まれるより早く、独立して活動を再開してしまった。日本GS協会が声を掛けても、彼はそもそも誰の味方もしない。オカルトGメンが引き抜きを掛けようと、彼は退屈な面倒事を嫌う。
神族や魔族と深い繋がりを持っているだけに、横島忠夫を強制的に派閥に巻き込むことはリスクが高すぎる。敢えて言うならば、横島忠夫は美神令子派閥の人間である。
だが、独立させた今、令子からの指示に横島が従う必要は何処にもない。令子が強制するつもりは、全くないのだから。
横島忠夫は、彼の判断だけで物事を決めることが出来る。それが出来るように、令子はあらゆる手段を尽くして動いた。
そして、同じく西条輝彦の”奥の手”である伊達雪之丞は、そもそも誰ともどんな権力とも馴れ合うことがない。本物の一匹狼は、いつだって独自の判断で敵と味方を決めるのだ。
彼らは、他の何者の意志にも影響されず、自分の判断で物事を決めることが出来る。だからこそ、あの二人は無派閥という派閥を作り上げているのだ。西条は、あの二人に協力を投げかけているに過ぎない。
(つまり、前回の依頼はママの差し金ってわけよね。西条さんが私に依頼したのは、やむを得ずって感じかしら)
ならば何故、西条は令子に依頼を持っていきたくなかったのか。理由はいくつか考えられるが、令子がピンと来るようなものは一つしか存在しない。
(ママ……ね)
西条の真意は未だはっきりとしないが、あの時、ソファーで笑っていた美智恵の顔が令子の脳裏を過ぎった。依頼を持ってくるだけなら、西条一人でも十分に事足りたはずなのだから。
――それから数時間後、おキヌが美神令子除霊事務所に戻ってきてから、令子は一人、隣に建つビルに足を向けた。即ち、オカルトGメン日本支部のオフィスへと。
「はぁーい、ママ。お仕事、ご苦労様ね」
「令子? 珍しいわね、あなたがこっちに来るなんて」
美智恵の仕事場は、顧問専用の個室だった。十二畳ほどの広さを持ち、部屋の壁を飾るのは絵画と書棚。応接用のソファーとテーブルが中央に、美智恵用のデスクは部屋の奥にある。壁に掛けられた時計は、午後五時半を少し過ぎたところだった。
扉を軽くノックして、返事を聞く前に中へ入った令子は、デスクから顔を上げた眼鏡スタイルの母親を見やった。
美智恵はまだ仕事中だったらしく、デスクの上には様々なファイルと書類が並んでいる。サイドデスクでは、今し方まで使われていたであろうキーボードとマウス。その様は、まさに大企業の役員クラスといった風情だった。
「それで、わざわざママに会いに来てくれた理由は? まだ仕事中だから、急ぎの用事じゃなければ、後にしてくれないかしら。仕事が終わってから、幼稚園に寄って、その後にあなたの事務所へ行くから」
眼鏡を外し、目頭を手で押さえながら美智恵が言う。その姿に苦笑しながら、令子は「大丈夫、すぐに帰るから」と答えて、用件を簡潔に口にした。
「うちの馬鹿の邪魔、しない方がいいわよ?」
「……何のことかしら。いいえ、建前は必要ないわね。令子、あなた、何を知っているの?」
瞬間、冷徹な仮面のように美智恵の顔から感情が消えた。瞳の奥で、青白く灯った炎が令子を睨み付ける。
(この反応。やっぱり、ママは何か知ってる)
言った令子は、何も知らなかった。知らなかったからこそ、知るために美智恵を訪ねたのだから。
「こないだの依頼。西条さんが本当にやむなく、私のところへ持ってきたと思ってるんだったら、何も言うことはないわ。でも、そうじゃないなら、とりあえず一言、言っておこうと思ってね」
まずは令子が手札を切る。たった一枚にして、もっとも真実味を持ったカード。
(ママを相手に、どこまで情報を引き出せるか。一つ、腕試しといきましょうか)
脳裏に”うちの馬鹿”を思い浮かべながら、令子は余裕の笑みを作ってみせた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
フライング・ダッチマンは、七年に一度だけ上陸することができ、上陸した地域に壊滅的な被害を及ぼす。また、海上で他の船を襲うこともあり、年間で数隻の船が沈められている。
だが、上陸の際に現れる場所は不規則だった。ある時はヨーロッパ、ある時は南アメリカ、上陸の目撃例はそれこそ全世界に散らばっている。
歴史が古いだけに、その理由は様々な憶測を集めた。キリスト教で七という数字は、七大天使、七つの大罪など、特別な意味を持っている。だからこそ、フライング・ダッチマンも七年というキリのいい期間でしか、上陸することが許されていないというわけだ。
この何とも適当な推論は、わりと早い段階で肯定されていた。
「その根拠が、ソレだったってわけか」
ポツリと洩らした横島は、雪之丞の手に握られた古びたコンパスに目を向けた。今にも壊れてしまいそうな――むしろ壊れているかのようなコンパスは、フラフラと針が揺れて、一定の方向を指し示さない。
「通常、コンパスは常に北へ向く。だが、こいつは違う。どういうわけか、ゆっくりと時計回りに針が回転してやがる」
雪之丞の言葉通り、コンパスの針はゆっくりと円を描いていた。
「その針が止まった時、フライング・ダッチマンの上陸するポイントが指し示されると。でもって、針は七年ごとに加速度を増して回転する。針が止まるまでは、また七年の時間が必要になるわけだな」
何故、七年という期間なのか。その理由は、まだ解明されていない。フライング・ダッチマンの伝説すら、かなり差異の多い曖昧なものでしかないのだから。
コンパスのことにしても、過去にフライング・ダッチマンとやり合ったエクソシストが、命懸けでコンパスを手に入れ、当時の科学者達と検証した結果でしかない。
文献によれば、フライング・ダッチマンが上陸した翌日から、コンパスの針は急速度で回転を始め、その後、緩やかに加速度を落としていったとある。それを計算してみると、丁度七年後に回転する加速度がゼロになるということだった。
もっとも、コンパスはエクソシスト達が入手して間もなく、検証の結果が判明するより前に、突如としてエクソシスト達と共に姿を消した。彼等の消息はその後も不明であり、後に残されたのは破壊された家の残骸だけだった。
「んで、雪之丞。お前はわざわざ、そのコンパスをフライング・ダッチマンから奪って、弓さんに簡易結界まで施して貰って、はるばる日本に持って帰ってきたわけか」
「俺達だけじゃ、ちょっとばかり手こずったんでな。西条の旦那に相談して、こっちでケリ付けることになった」
ニヤリと笑って、雪之丞は漆黒の海に目を向ける。港でクルーザーをレンタルして、横島達はただひたすらに南へと船を走らせていた。
雪之丞の持つコンパスは、既に回っている。つまり、フライング・ダッチマンはもう七年ごとの上陸を終えているのだ。世界中の何処かで、幽霊船に襲われた地域が壊滅しているかも知れない。
「雪之丞、勝算はあるのか?」
「なに、叩き潰すだけなら、俺とお前がいりゃあ十分だ」
「なるほどな。それで、そうしない理由はなんだ?」
「コンパスと一緒に借りたものがあるんだよ。まずは、そいつを返してくる」
「哀れな船長に合いの手――もとい、愛の手をってか。俺は時間稼ぎしてりゃあいいんだな?」
「お使いが終われば、後は二人一緒にお片づけってところだ」
話は終わったとばかりに、雪之丞が手にしたコンパスの簡易結界を破壊する。”パキン”と甲高い音を立てて、コンパスを包んでいた簡易結界が消えた。
同時に、海面がにわかに慌ただしくなってくる。波が高くなり、風が強く吹く。月も見えない曇り空は、激しい雨を降らせ始めた。
横島がクルーザーの自動航行機能を設定し、すぐに戦闘準備を整えると、解放されたコンパスの霊気を辿るようにして、海中からボロボロの幽霊船が姿を現した。
「イカの癖に、なかなか良い鼻してるじゃねぇか」
「俺の美女センサーと比べれば、まだまだ反応が遅いけどな」
「言ってろ」
瞬間、魔装術をまとった雪之丞が、宙に跳び上がって弾け飛んだ。空中でサイキックソーサーを展開し、足場にすると同時に爆発させた衝撃で推進力と変えたのだろう。横島はそれと察して、肩をすくめた。
「装甲が頑丈なやつは、いいよな」
しかし、負けてばかりはいられない。横島もサイキックソーサーを足場に、フライング・ダッチマンへ向かって宙を駆けた。
一足先にフライング・ダッチマンへと着地した雪之丞は、甲板上の亡霊を吹き飛ばしながら、目的地である船長室を目指す。途中、何度かイカ足の薙ぎ払いを躱し、連続霊波砲をぶち込んでフライング・ダッチマンの内部へと進入する。
雪之丞の目的は、簡単だった。船長室へ向かい、コンパスと共に借り受けたものを返すだけ。生物の胃の中のように収縮し、激しい酸の雨を降らせる空間を抜け、雪之丞は魔装術の装甲を頼りに目的地へ進んだ。
一方、甲板に辿り着いた横島は、”栄光の手”を両手に展開して、亡霊達の相手をしていた。四方八方から迫る亡霊に伸ばした霊波刀で斬り付け、近距離にいるモノは鋭い霊波の爪で切り裂く。
巨大な八本のイカ足が、横島を狙って甲板上を縦横無尽に暴れる。それを人間離れした回避力で、横島は躱す、躱す、躱す。
魔装術のような強固な装甲を持たない横島では、あの強烈なイカ足の一撃を貰えば戦闘不能は避けられない。しかし、紙一重というには無理がありすぎても、十分な余裕を持って横島は回避を続けていた。
「ちゅーか、俺よりも亡霊どもの方が、えらいダメージ受けとるよーな気がするな」
横島はイカ足の攻撃を、理不尽な回避力で躱している。が、甲板上を埋め尽くさんばかりの亡霊達は、見事にイカ足の一撃一撃によって海上に放り出されていった。
「まぁ、これだけ数がいるんだし、どうせ浮遊霊やら悪霊を集めて作った亡霊だろうからな。縛り付けている核を叩き潰せば、勝手に成仏してくれるか。いや、してくれると決めた。アフターサービスは、西条の野郎に押し付ける!」
拳を握り締め、力一杯宣言した横島は、すっかり綺麗になってしまった甲板で立ち尽くす。イカの足の攻撃は、しばらく来なかった。
「……えっと、この際、イカの足でも良いからさ。ツッコミが欲しいというか、GSのオチとしては反応が必要というか、無反応はいやじゃーー!!」
叫んだ横島の声に反応したわけでもないだろうが、その絶叫と共に、長い二本の触手が高く高く振り上げられた。
「やばっ!!」
空気を切り裂く唸りを上げながら、高く振り上げられた二本の触手が甲板上に振り下ろされる。幽霊船そのものを真っ二つにしかねない、そんな破壊力を秘めた触手が迫る。
『盾』
咄嗟に生み出した文珠は、横島の頭上に巨大な霊気の盾を出現させる。フライング・ダッチマンの内部には、まだ雪之丞がいるのだ。あの触手が振り下ろされることは、阻止しなければならない。
「くぉおんの~~!!」
激しい触手のインパクトが、『盾』を通じて横島の身体に伝わってくる。ズシンと骨まで響き、ヒビどころか砕け散りそうな感覚があった。それでも、横島は必死で左手を添え、『盾』を支えるように右手を持ち上げていた。
フライング・ダッチマン自体を破壊しかねない衝撃は、内部に潜り込んだ雪之丞にもしっかりと伝わった。突如として船体が大きく揺れ沈み、雪之丞のいた船長室がギシギシと悲鳴をあげる。
「こりゃあ早く戻った方が良さそうだな」
衝撃で崩れた壁に目をやって、雪之丞は素早く用事を済ませて脱出を試みる。船長室から借り受けたコンパスを返し、もう一つ勝手に持ち出したものを添える。
――それは、手紙だった。
『愛するアンナへ。君はまだ元気でいるだろうか? 不甲斐ない私のことを、ちゃんと待っていてくれるのだろうか? (中略) この航海が無事に終わったら、きっと君を不自由させないだけのお金が貯められる。必ず迎えに行くよ。私には君が必要なんだ。だから、もうしばらくで良い。私を待っていて欲しい』
1620年、デンマークのコペンハーゲンにある港を出航した”フライング・ダッチマン号”は、大西洋をわたり、チリのヴァルパライソを目指していた。しかし、ホーン岬付近で嵐に巻きこまれ、乗組員もろとも波間に消えた。
伝説では、その理由に様々な説が囁かれているが、神の忠告を無視して岬を通過しようとしたところ、神の怒りを買ったという説が有力である。
だが、今となっては幽霊船になった理由など、あまり関係がない。イカの悪魔に取り憑かれたフライング・ダッチマンの船長室に、船長の躯と共に一通の手紙があった。
その手紙を読んだ男は、偶然にも情に厚く、また不器用な男だった。
だから、その古びた手紙の代わりに、最近の機器でコピーされた同じものを持ってきた。本物の手紙は、いつか自分が本当の宛先に届けてやろうと思って――
ズガンと、再び強烈な衝撃が船長室を襲う。壁の板はほとんどが剥がれ落ち、天井や床も崩れ始めている。雪之丞は軽く頬を緩めて、フライング・ダッチマンの内部から脱出を図った。
船長室の外は、臓器のように蠢いていた。既に、入ってきた当初の形は維持していない。だが、そんなことは問題ではないと、雪之丞は真上に向かって思い切り霊波砲を放った。
直後、足の真下でサイキックソーサーを爆発させ、その衝撃を利用して跳ね上がる。次々にソーサーを足場として出現させ、それを踏み抜く前に炸裂させてさらに上へ。
そして、雪之丞がついにフライング・ダッチマンの内部から脱出を果たすと、薄く光った何かにぶつかって甲板上に落っこちた。
「……雪之丞。お前、俺より美味しいところを持っていくんじゃない!!」
「やかましい!! 大体、なんで空中にあんなでっかい盾、浮かべてんだ!!」
「なんでも何もあるかい!! この状況見りゃあ、一目瞭然だろうが!!」
甲板上にいた横島に言われて、雪之丞がグルリと周囲を見渡す。
「さすが俺のライバルだな。あれだけいた亡霊どもを、一匹残らず倒しちまうとは」
「そこか!? 見る所はそこなのか!? もっとズーンとドーンと、見るもんがあるやろ!!」
横島と雪之丞目掛けて、巨大な触手がまた高く高く振り上げられる。
「で、横島。どうする?」
「用事はもう済んだんだろ。だったら――」
横島は文珠を解除し、今まで触手の衝撃から船体を守っていた『盾』が消失する。
「――後は、叩き潰すか」
唸りを上げて、二本の巨大な触手が甲板の二人に向かって振り下ろされる。
しかし、それは目標を捉えること叶わず、フライング・ダッチマンの甲板上に真っ二つにして、イカの悪魔の胴体に叩き付けられた。
ボロボロと音を立てるように、甲板から崩れ始める船体。そこに、遙か上空から降り注ぐ霊波砲の雨あられ。
巨大な八本足を使って防御しようと、二本の触手だけを残して霊波砲にイカ足を向ける。
『剣』
だが、八本あったはずの足は、豆腐を切るが如く、圧倒的に高出力な霊波刀で切り捨てられた。防御姿勢も整わぬ間に、霊波砲の全弾がフライング・ダッチマンの胴体に直撃する。
「雪之丞!!」
そして、横島の叫びと同時に、雪之丞の全力を込めた巨大な霊波砲が、フライング・ダッチマンに向けて放たれた。
『凍』
表面がどれほど柔らかくとも、固まってしまえば砕けるだけ。
力が悪魔の核まで届かなければ、核ごと粉々にしてしまうだけ。
「冷凍のイカだって、とことん固めりゃあ割れちまうからな」
声にならない轟音を響かせて、イカの悪魔は粉々に砕け散った。
自動航行機能を設定したクルーザーは、横島達の戦闘区域から数百メートル離れた場所で、円を描くように旋回していた。
目的を達した横島と雪之丞は、疲れ切って海面に浮いたまま、クルーザーが近くを通るタイミングを待っていた。ソーサーで宙に浮き続けるには、霊力を使い続ける必要があり、『飛』の文珠を使うほど急いでいるわけでもない。
「あー、夏の海はいいなぁ。夜でも、ちっとも寒くない」
「ところで、お前、着替えは持ってきたか?」
「……いざとなったら、文珠の『乾』でも使うか」
「いや、『飛』を使いたくなくて、こうやって海面を漂ってるんだろうが」
「そーいや、そうだったな」
くだらない雑談を続けながら、二人は夜空を見上げていた。
なぜだか、帰りを待っていてくれる人達の顔が浮かんだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――ポーン。八月二十六日、午前零時ニュースをお知らせします。
八月二十五日深夜、国際刑事警察機構、超常犯罪課日本支部の西条輝彦さんが、何者かによって銃撃され、都内の病院に運び込まれました。
銃撃のあった深夜、西条輝彦さんは自宅に帰る途中で、自宅マンションの数十メートル手前の道路で狙撃された模様です。現在、警察とオカルトGメンによって現場検証が行われていますが、まだ狙撃犯などの新しい情報は入ってきておりません。
なお、被害者の西条輝彦さんは、集中治療室に運び込まれたものの、まったく予断を許さぬ状況とのことです。
それでは、次のニュースを――
■ 今そこにある明日 転章 ■ <終>
―― A turn of speed !! ――
<あとがき>
野島 大斗です。
今回は場面転換が多く、もしかしたら読みづらい構成になっていたかも知れません。
かなりの情報量を盛り込んでおりましたので、もし読みづらいと感じられましたら、未熟な腕では扱いきれなかったということで、どうぞご容赦下さい。
また、フライング・ダッチマンの伝説ですが、諸説諸々ありまして明確なものがわかりません。このお話の中では、あのような伝説であったと解釈していただけると幸いです。
日付につきましても、2006年の箇所はわかりやすさを優先した結果です。年からの逆算は、ご容赦下さいませ。
次で、最後の一章となりました。また作成に時間が掛かってしまいそうですが、最後までお付き合いいただけましたなら、大変嬉しく思います。
それでは、ご感想を下さった皆様へお返事を。
>にゃら さん
ご感想、ありがとう御座います。
美神さんとおキヌちゃん。特におキヌちゃんを書くのは、私にとって非常に難しい作業なので、大好きだと言っていただけると、とても嬉しく感じます。次で最後となりましたが、また大好きだと感じていただけるように頑張りたいと思います。
>普段ROM専 さん
ご感想、ありがとう御座います。
伝説上の糸玉と同様に、迷宮に入る前から横島君と繋がっていた糸、というのを考えてあのアイデアになりました。面白かったと感じていただけるのが、やはり作者冥利に尽きます。最後まで、お付き合いいただけると幸いです。
>kamui08 さん
予想して既に振りかぶっていた者と、後の先を取る必要があった者の差ということで、納得していただけると嬉しいです。横島君と二人の縁はとても強いものとして描いておりますので、このまま途切れない縁であってくれればと思います。また次回、楽しんでいただけるように精進いたします。
ご感想、ありがとう御座いました。
>秋桜 さん
前作は出来る限り、原作に近い世界観を考えておりましたので、そう言っていただけますと嬉しいです。カオスは私にとっても扱いが難しいキャラですが、横島君と組んでいる以上、またきっと活躍してくれることだと思います。次が五年後の世界で最後の物語、楽しんでいただければ幸いです。
ご感想、ありがとう御座いました。
>柳野雫 さん
ご感想、ありがとう御座います。
前作と前々作の感想で、見事に章ごとのコンセプトを言い当てていただき、個人的に感無量です。カオスはもっと活躍させたかったのですが、私の力量ではあれが限界でした。その点も次回への意気込みとしまして、楽しんでいただけるように努力したいと思います。