2ヶ月以上の月日が空いていた。
心底心配し、眠れない夜もあった。
最悪の可能性も、最低の可能性も、考え尽くした。
でも。
今、ここに現れた彼女は。
『いつもの彼女』そのものだった。
「美神さん!!!!!!!」
おキヌは一瞬で視界を涙にぼやけさせ、己の雇い主であり、先輩であり、姉である彼女の…美神の名を叫んでいた。
スランプ・スランプ!4 「神域の巫女」(最終楽章・そしておかしき日々は再び)
「とりあえず、悪そうなヤツだけぶっ飛ばしてみたけどー…合ってた?」
美神は牛鬼の背中をぐりぐりと踵で抉りながら、おキヌの方を見下ろして笑った。金色の雨を降らせた、見た目普通の神通棍を肩に担いで。
「みがみさぁぁぁぁぁん!!」
「ごめんねおキヌちゃん。色々話はあるんだけど、今はコイツの始末をつけちゃいましょう? といっても、私がこれ以上手を出したら料金が発生しちゃうから、おキヌちゃんが止め刺すなり封印するなりしてね」
顔を涙でぐちゃぐちゃにしている妹分に、優しくも軽い調子で美神はそれだけ伝えると、牛鬼の背中からひょいと飛び降りた。牛鬼の陰になって見えなくなったところから、金色の鞭が一条、ホール2階席の方へと伸び上がっていくのが見えた。
「事務所で会いましょ、おキヌちゃん♪」
「のわああああああああああああああああ!!」
鰹の一本釣りよろしく。美神の振るった鞭の先端に、一人の青年が巻きついていた。美神と同じく、出て行く前と全く変わらぬ姿の…
「なんで俺のめっさかっこいい登場シーンは声すら出せず、美神さんの時だけばっちり決まるんすかぁぁぁぁぁ!!?? 俺はいつまで経っても当て馬!? 雌の欲望を煽るだけ煽っておあずけ喰らう運命!? ああでも煽れるだけの空気が俺にはあるってことか! と言う事は空気垂れ流しの事務所では美神さんなんかいつも興奮しまくりでぎゃあああああああああああ鞭が! 鞭が締まるぅぅぅぅぅぅ!!!!」
…もう何から何まで変わらぬ横島忠夫、その人が。
ずるずると引き摺られていく僅かな一瞬、おキヌと目が合った横島は縋る様な目つきをした後、いつものように、おキヌの大好きな笑顔で。
口だけを「ただいま」と動かした。
不思議だ。
たったそれだけの、たった数秒の邂逅で…おキヌの心の波は凪いだ。もう、何も心配はないんだと魂が理解した。
「ショウ様、チリちゃん。神域で鬼を浄化します。準備をして下さいね」
「え、あ、おー…オレ、何だか全然分からんのじゃが…今の般若はおキヌの仲間なのか?」
「私…牛鬼より怖かったです」
美神の怒号と、烈火の如く猛々しい霊圧に当てられ、ショウとチリはおキヌの背後で震えてしまう。
そんな二人の頭を撫でて、安心し切った笑顔でおキヌは断言する。
「あの人は、私の大好きなお姉ちゃんの一人ですよ」
「氷室さん! 大丈夫ですか!?」
出て行く美神(&簀巻き状態・横島)とすれ違いに、健二が駆け寄ってきた。倒れている牛鬼の巨体に息を呑みながらも、怯えることなくおキヌの傍へ回り込んでくる。
「はい。久遠さんは?」
「ロビーのベンチに寝かせてきました。それより、どうなって…」
「大丈夫ですよ。全部終わりましたから」
おキヌはホール天井を見上げた。そこには、幽体が消えかかった一人の幽霊が漂っている。
「あの方が、きっと全てを語ってくれると思いますよ」
龍笛を取り出し、おキヌはショウチリに目配せして集中を始める。美神の鞭に打ち倒された牛鬼は、ぴくりとも動かない。一体どれほどの衝撃を受けたらこうなるのか…頑丈そうな巨体から、完全に意識を断ち切っていた。
ステージの中央に、おキヌ。
左右にはショウとチリが、それぞれの楽器を構えて静かに時を待っていた。
ピュリリリリリリリリィィィ……………………
龍笛が鳴る。追従するように、笙の柔らかな音色と、篳篥の華麗な音色とが重なり合い、ホールいっぱいに浸透していく。
健二は、その光景を見て…初めて梓の演奏を聴いた日のことを思い出していた。
その日の講義を全て終わらせ帰路についていた当時の健二は、微かに聞こえてくるピアノの音色に興味を惹かれ、音の出所へと足を向けていた。
近づくにつれその音色は色を重ね、妙味を増し、健二の足を忙しなく急かし立てる。
気が付くと、健二は講堂のピアノを演奏している梓の前に立ち尽くし、涙を流していた。どうして泣いているのか、どうやってここまで来たのか…全く分からないままに。
どれだけ時間が経ったのか…健二が再び我に返ると、演奏は終わり、演奏者である梓が不思議そうに健二をじっと見つめていた。
健二は脱兎の如く逃げていた。涙を拭くのも忘れて。
(あの曲は…久遠くんの剥き出しの心だったんだ。俺は…彼女の見た目にも、内面にも一目惚れしちまってたって事か…)
今、おキヌ達の演奏を聴く健二の目からも、涙が溢れていた。
と、健二の傍らを、白い人影が横切っていく。
「久遠、く…!」
「しー、ですよ健二さん」
桜色の唇に人差し指を当てて微笑む梓は…もう幽霊ではなかった。まだ少しふらつく足取りで、ステージへと向かっていく。
「ああ………お帰り、久遠くん…本当に……本当に…………っ!!」
感慨極まって、声を押し殺して。
健二は、心の底から歓喜の涙をとめどなく流し続けた。
牛鬼が放っていた邪気が、瞬時に消し飛ぶ。
霊力と音楽の同期連携技『神域』。ホール全体に反響して展開された浄化領域は、不浄のもの一切をその身に包み込んでいく。
牛鬼の体も、光が纏わり付いたかと思うと、音もなく浄化され消えていった。
(久遠さん…これが、私の答えです。私の考える、音楽の姿…)
おキヌはステージに上ってきた梓に、己の答えを。音楽とは何であるのかを自分なりに考え、様々な人の助力を得て辿り着いたこの龍笛と…隣で一生懸命に演奏する兄妹とで。
久遠梓の問いに対する、氷室キヌの答えを…精一杯に楽しんでみせた。
梓は、無言でピアノに向かうと鍵盤の蓋を開き、手の感触を確かめるように2、3度握って開いてを繰り返してから、徐に弾き始めた。
三管の調べに、ピアノの旋律。一見相容れない和洋の音色が…融合していく。
どちらかがどちらかに併せるわけでもない。
ほんの一瞬、おキヌは驚いた表情を浮かべたが、本当に一瞬だけで。
ごく自然に、2つの『音』は『音楽』として結合し、昇華していた。
それは当然の姿かも知れない。
極めて陳腐な言い草だが。
健二は、その言い草が真実である事を、確かに感じていた。
『音楽に、国境は無い』のだと。
「いやー、素晴らしい演奏だったッス! 俺感動したッス! やっぱ久遠さんのピアノは心に響くなぁー!」
演奏が終わって、梓と健二の抱擁といった微笑ましいイベントも終わり。
ステージには元気いっぱいな様子の若い男の幽霊が、拍手を繰り返し梓とおキヌへ送っていた。
「神域には…霊的治療の効果もあるんですね。損傷した霊体を癒すほどに強力な」
神域によって浄化されたホールはとてもリラックスできる空間に変化していた。一同はステージに車座になって座り、チリはおキヌの膝上を確保している。
ショウは何故か梓の膝上にいた。隣の健二が、口元を引き攣らせています。
「で、結局、君が誰だか俺には判らないんだがー…本当に会ってるのか?」
「そりゃもうもちろん。恐れ多くも久遠さんの体を拝借していたころは、記憶が曖昧で初対面ぽい反応をしちゃいましたけど」
いや失礼しましたッス、と男は健二に頭を下げる。彼は、制帽を被った姿の幽霊だった。律儀にその帽子を取っての仕草に、健二はあれ、と何かを頭の片隅に引っ掛ける。
「…健二さん。私、あの夜のこと全部思い出しました。この方は、私の命の恩人です」
「ええ!? 本当かい!?」
「いや……俺は、そんなんじゃないッス。寧ろ逆ッス…」
制帽を被りなおした男は、帽子のつばを深めにして、浮かべている表情を隠した。
「……その帽子……どこかで見たなぁ…どこだっけなぁ……」
健二はまじまじと男の制帽を見つめ……目を、見開いた。
「おおお思い出した!!」
思わず立ち上がって大声で叫ぶ。
「送迎を頼んでいたタクシー会社のものだろう!! ってことは君は、あの夜久遠くんを迎えに来たタクシーの運転手!!??」
「たくしーとは何じゃ? 梓」
「タクシーというのは、お金を払うと目的地まで運んでもらえる車のことですよ」
「ほうほう。それは便利なものじゃのう。梓、オレも乗ってみたい!」
「あらあら…ショウ君は健二さんの車に乗ったのでしょう?」
「ショウ様ショウ様。宮下さんの話の腰を折っちゃ駄目ですよ。空気読めない子って言われちゃいますよ?」
「いえキヌ姉様、それはもとからですので…」
一人盛り上がる健二を尻目に、残りのメンツはひそひそと頭を寄せ合って会話していた。
健二、絶句。
「くーおーーんーーーくーーん…俺、それなりに大事な話をしていたと思ったんだけどな」
「この子、可愛くて。思わず」
「………とにかく、君…ええと名前は? 「田中ッス」…田中さんはあの夜のタクシー運転手だった。…ってことは、もしかして」
気を取り直して話を進める健二。田中と名乗った幽霊は、俯いてその先を続けた。
「俺は、久遠さんの大ファンで。九音堂は山ん中にありますから、他の連中があんまり来たがらないのをいいことに、マネージャーさんからの連絡があったときには、可能な限り俺が市内から出張ってきてたんスよ」
「そう、だったのか…」
「で、あの夜も……俺は九音堂の裏口で待ってました。全然苦痛じゃなかったッスよ。憧れの久遠さんを乗せられるんですから。真夜中だってへっちゃらです!」
「そういってもらえると…私も嬉しいです」
「まぁ、あの時は…窓を開けた久遠さんが突然マネージャーさんにキ「うわああああああああああああああああああ!?」……おろ、もしかして秘密の関係でした?」
健二は真っ赤になっておキヌを見るが、目をまん丸にして大声にびっくりしている彼女の様子を見て、細く長いため息をついた。
「…それはいいですから。問題の、その後のことを教えてください。…凡その見当はついてますが」
「………はい。久遠さんを乗せた俺は、街に戻る途中の山道で……急カーブ手前に吹き溜まっていた落ち葉にタイヤを取られて…」
崖下に、転落しました。
そう搾り出すように話した田中は、肩を震わせて後悔しているようだった。誰にも、掛けられる言葉は見つからない。
「あの時、私は疲れて眠ってしまっていて…崖肌にぶつかる衝撃で目が覚めて。何が起こっているのか分からない内に…また意識を失ってしまったんです」
梓は車座の中央でうなだれている田中に、頭を下げた。え、と田中がそんな梓に戸惑いの声を上げた。
「でも…その一瞬だけでも、私覚えてます。田中さん。あなたが咄嗟に私を庇ってくれたから、私は軽傷で済んだんです。その節は本当に助かりました」
「や…止めてください! 俺の不注意が起こした、俺の責任の事故なんですから! 貴女を……とても苦しい目に遭わせて…! 地獄に落ちろってんだ、俺なんか!!」
「いや、田中さん。君は命を懸けて久遠くんを守ってくれたんだろう? 俺からも礼を言わせてください。彼女を…救ってくれてありがとう」
健二と梓は、揃って田中に感謝の念を伝える。その真摯な想いは、霊体である田中にはダイレクトに伝わっていた。目頭を潤ませ、正座した膝を強く掴んで…純朴な運転手は、想いを受け止める。
「そうじゃ、田中とやら。お主の行いは他人に誇れる立派なもんじゃ! 迷わず安らかに眠るがいいぞ!」
「……ショウ様の言うとおりです。貴方は…とっても凄い人です!」
ショウとおキヌも、そう請合う。
「皆さん……ありがとう、ございます…」
「それで、何故貴方が久遠くんの体を…?」
「…崖に生えていた木が幾らかクッションにはなりましたが、車は凄い勢いで転落していって…俺は無我夢中で久遠さんを庇って、自分のことなんかどうでもよくて。何度も何度も衝撃が襲って、一際大きな衝撃と共に…俺らは車外に放り出されました」
空中に投げ出された彼らは、更に木々にぶつかりながら、ようやく地面へ転がり出た。
「俺は朦朧とした意識の中、久遠さんを抱えて歩きました。方角なんて適当でした…全身を熱が覆っているような感覚で…頭もぐるぐるしてましたし」
…きっと田中の怪我は、痛みを訴える段階を超えてしまっていたのだろう。彼の梓への想いが足を、体を前に進めたとしか考えられない。おキヌは強く目を瞑って、その光景を脳裏から追い出した。あまりにその想像が痛くて、辛くて…
「久遠さんの体のことが心配で、何度も声を掛けようとしました。でも、喉が痛くて喋れなくて。落とさないように担いで歩くのが精一杯でした」
「田中さん…」
「川を見つけて、ほとりに久遠さんを横たえたところで…俺は急激に眠くなって、倒れてしまいました。でも久遠さんのことが本当に心配で心配で…気が付いたら、倒れている俺の姿を俺自身が眺めていたんです」
不思議だったッス、と田中。おキヌは笑うことも出来ず、膝上のチリをぎゅっと抱き締めて俯いた。
田中が幽霊となった経緯は、どこを切っても梓を助けるためのものだ。他人を助けたいと思う気持ちが、彼を現世に留まらせた。
なんて凄いんだろう、人間って。おキヌは人の心、魂の強靭さに敬意を覚える。
「キヌ姉様…? 泣いていらっしゃるの…?」
チリが頭上を見上げて聞いてくるのに、おキヌは黙って首を振った。
「俺は久遠さんを抱え上げようとして、触れないことに気づきました。で、自身が幽霊だってことが分かって。倒れてた自分の体が、もうどうしようもないくらいぶっ壊れてしまってるのが見えていたので、戻りようもなくて」
どうして、田中はこう淡々と話せるのだろう。
「何とかしようと周囲を見回したら…何だか力強い光を感じて。誘われるように近づいたら、注連縄の張られた大木を見つけて。この力があったらなんとか出来るかもと思い、木に触れたら…何かが体内に入り込んできて。どんどん力が湧いてきたんです」
「それがきっと、あの牛鬼の封印だったのですね…効力も薄れていて、田中様の接近に乗じて封印を破ったのでしょう」
「弓家の封印と違って、脆いもんじゃのう…」
「そうして久遠さんの元に帰ったら…彼女の体から魂が抜けているのが理解出来たんです。たぶん、牛鬼? ですか。アレが入ったせいで霊感が強くなったんスね」
「恐らく久遠様は、事故の衝撃で幽体離脱を……」
「幽体になった久遠さんは、九音堂に舞い戻っていたんですね…凄い。そこまで強い想いを、変質しないで純粋に保ち続けられるなんて…奇跡みたいです」
田中は、ぽん、とそこで手を打った。
「いやもうピーンと来ました! こりゃ、俺が久遠さんの体を拝借して、山を降りるしかないと! 我ながら名案でしょう? ちょっと恥ずかしかったッスけど、久遠さんに体を重ねてみたら、ぴたっと入ることに成功して。あー、でも、失敗だったんスよね。久遠さんの体の記憶と、俺の記憶が…」
たはは、と田中は笑っている。おキヌは視線を合わせることも出来ない。この事件で最も辛い目に遭ったのは…紛れもなく彼なのだから。一緒に笑ってあげることが慰めでしかないのが、辛い。
「ごっちゃごちゃになって、記憶が曖昧になったんスよねぇ…あれは誤算でした」
どこに向かえばいいのか。
何をすればいいのか。
混乱する中で、田中は自らの遺体の側に落ちていたタクシー会社の制帽を、何故か手に取り被っていた。まるで、自分が自分である証明をするかのように…
「でも、頭の端っこのほうに…何かを届けて、音楽を聴かなきゃっていう意識はありました。それに、よく分からない強くてどろどろした力も…」
「牛鬼じゃな。あ奴も音を喰ってなんちゃらとか言うておったしのう。偶然利害が一致したからこそ、お主は魂を喰われずに済んでいたのやも知れぬ」
「ラッキーッス! 山ん中10日間くらい彷徨って生きてたのもラッキー! いやいや神様ってのは見てるもんスねぇ」
「10日!? 君、よくもまぁ久遠くんの体で…」
「私、線は細いんですけど、胃腸は強いんですよ」
「そういう問題!?」
「いやー、助かりました。久遠さんが思った以上にタフだったお陰で、生還できました! 川のほとりで座り込んでたら、オカルトGメンの人にも出会えたし…俺って強運!」
おどけて敬礼してみせる。梓は…困ったように微笑むと、自分も敬礼で答えた。ショウも真似をしている。
…おキヌにはもう、耐えられなかった。
「ふ、ふ、ふええええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!!!!!」
話の中盤から静かになっていたおキヌの、突然の号泣。残り一同は呆然と、泣き続けるGS見習いの少女に注目するしかなくて。
「なん、で! こんな、に、こんなに、頑張った田中さんが、一番頑張った貴方だけが! 一人だけお亡くなりになってるんですか!? なんで、田中さんは笑っていられるんですか!? 田中さん、だけ、もう終わりだなんて、何でですか!?」
確かに、梓も健二も、おキヌだって…この事件で傷を負った。悲しい思いをした。苦しくて辛かった。
でも、『生』と『死』では比べ物にならない。田中の未来は、もう閉ざされたのだから。
おキヌは許せない。これが田中の運命だったなんて、認めるわけにはいかない。
だから、もうどうしようもなくて、彼女は泣いた。泣きながら、
「責任者出て来てくださぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!! うわああああああああああああん!!!!」
「キヌよ落ち着け!? 神を呪うても無駄じゃから! オレも渾身の呪を何度空に向けて打ち込んだことか!」
「私も、神様を恨んだことがあります…リュウ兄様を酷い目に遭わせる彼の存在を…」
……残酷な、神を呪った。
「氷室さんはお優しいッスねぇ…見ず知らずの俺のことを、そこまで思ってくれるなんて。いやぁ、男冥利に尽きるッス!」
泣きじゃくるおキヌの前で田中は照れくさそうに笑い、でも、と続けた。
「俺は神様に感謝してるッスよ。大事故だったにも関わらず、久遠さんに大怪我を負わせずに済んだんですから! こりゃあ奇跡ッス! 神の御力ッス!」
「たな、か、さん……」
ぽん、とおキヌの頭に半透明の手が載せられた。
「だから、もう泣かないで下さい。俺は満足してますから! 憧れの久遠さんとお近づきになれたし……それに…!」
田中は、何だかとても晴れ晴れとした笑顔を浮かべて梓を…梓の全身をささっと見て。
「……色々…見せてもらったッスから!! 山での水浴びとか! 病院の清拭とか! そりゃもう色々と!!」
「ちょっと待てええええええええええ!!!!???」
健二の絶叫が間髪入れずに轟きました。
「俺は本望ッス!!!!」
「あらあら……そりゃそうですよね。入院中、お風呂だって入ったでしょうし」
「いいいいいいいのか久遠くんそれでええええ!?」
せいしきってなんじゃ、と首を傾げるショウを抱えて、梓は健二に非難めいた視線を送った。え、と健二の動きが止まる。
「何を言ってるんですか、健二さん! 田中さんは私の命の恩人ですよ? 裸の一つや二つがどうしたと言うんですか!」
「理性が許しても気持ちが! 俺の大切な何かが許さないんだぁあああ!!!」
「あ、あの…」
一気に話の中心から遠のいていったおキヌの涙も、そりゃ乾きます。
「氷室さん、というわけで…俺はもうなんの未練もありません!」
「ああああああ…いいのか本当にこれで!? 俺は、俺はぁぁぁぁぁ…」
「男がうじうじと…梓、こいつがそんなにいいのか?」
「はあ…確かに優柔不断ですけど。いつまで経っても名前で呼んでくれませんし」
「照れ屋さんなんですね。宮下様は」
「ああああああああああああああああ…」
…確かに。
生と死の垣根は、遥かに高いのかもしれない。
でも、こうして…生者も死者も、付喪神も関係なく笑い合っている姿を見たら。
おキヌにもなんとなく分かった。
ゴーストスイーパーの仕事は、きっとこういう場を生むためにあるのだと。
死を悼む気持ちは大切で、生を実感する心も大切。そして、最も大切なのは生死関係なく、『何かを大事に想う心』だった。
言葉にすると簡単なのに、なんと遠回りが必要な答えだろうか。
「さあて、俺はそろそろ行かないと駄目みたいッス。氷室さん、お願いしてもいいでしょうか? ばちーんと一発、いい曲でお願いしますよ!」
こうして、自身の死を受け入れ。天へ昇る事を望んだ田中を…おキヌは祝福しなければならない。
それが、霊と対話できる全ての存在が為さねばならぬ責務だと。
「……はい! では…」
「氷室さん。私にやらせてくれませんか? 田中さんの成仏のお手伝いを…」
「え、でも…これは久遠さんでも無理じゃないのかな、なんて…」
おキヌは梓のお願いを聞いて、少しだけ悩む。幽霊時のあの霊圧…九音堂が増幅したとはいえ、ネクロマンサーの笛を圧倒した能力が脳裏を掠めていた。
微笑む梓は、膝からショウを下ろすとピアノへ向かい、ぽぉーん、と一音だけ鳴らした。
「うひあ!? 何だかこそばゆかったッス! ピアノの音が背筋を撫でていったみたいで…」
「え!? 久遠さん…霊体に音楽で干渉を…?」
「氷室さんの笛を最初に聞いたとき…私、言いましたよね? あなたの笛の音が私のピアノに似ているって。私は、氷室さんの笛に『楽しさ』が無くて『お願い』ばかりが伝わってくる…そんな印象を受けました」
話しながらも、梓の指運が奏でていく旋律は、九音堂の効果もあってか徐々に霊気を孕んで増大していく。
「私のピアノもそう。私の想っている事を伝える『道具』にしてしまっていたんです。音を楽しむ心が…欠けていた」
「おおおお……俺、久遠さんのピアノで成仏できるのか………幸せ過ぎるッス! 最後の最期でこんな…俺のために演奏してくれるなんて!!」
「先ほどの氷室さん、ショウ君チリちゃんとの合奏がヒントになりました。私なりの、レクイエムを…田中さんに捧げたいと思います」
九音堂に鳴り響く、主の旋律。
存分に、九音堂は答える。
ただ、レクイエムと呼ぶにはあまりに明るい。あまりに…優しい。
健二は驚愕していた。
今までの梓の演奏には必ず存在していた、音の威圧感がない。体を鷲摑みにされて、魂ごと揺り動かされるような感覚が消えている。
代わりに染み入ってくるのは、労わりと慈しみの想い。天国へ昇る魂を祝福するかのような、優しくもどこか切ない、梓の祈り。
「私に氷室さんの真似は出来ませんけれど、心を伝えるだけなら…」
田中の体を包むように、光の柱が見えた。旋律の優しさに涙をぼろぼろと零す田中は、両手を膝に添えると、深々と眼下の一同に向かってお辞儀をした。
「俺、本当に素晴らしい人生だった、って…神様に言ってやるッスよ。だから、皆さん…特に氷室さん。もう泣かないで下さいね! 尻を蹴飛ばす勢いで、俺みたいな魂を天国に送ってあげてくださいッス! マネージャー…いやさ宮下さん。久遠さんを幸せにしてあげてください。これ、最期のお願いってことで!」
「ああ……絶対守るよ」
天井付近にまで上昇した田中は、それを聞いて安心したような笑顔を浮かべ…
光の中に、消えていった。
梓のピアノはゆったりとテンポを落とし、ゆるやかに静かに…
九音堂を中心に起きた全ての事件を…
柔らかな『音楽』の中に、終曲させた。
夕暮れ。お客を呼び寄せんとする景気と威勢のいい声が、あちこちから聞こえていた。安いのはサンマや夏野菜らしい。
九音堂を出た後、おキヌ達はいきつけの商店街へと送ってもらっていた。
相当疲れていたのだろう梓は、助手席に座ったころから健二の肩に寄りかかって眠っている。
「やっぱり、超一流のGSは違いますね…俺、氷室さんを尊敬しますよ」
「当然じゃ! キヌはオレが認めた退魔士! オレ諸共に崇め奉るが良いわ! わっはっはっは!」
「兄様…恥ずかしい」
「私は…まだまだ未熟者です。それより宮下さん、久遠さんを大切にしてあげて下さいね。これから大変だと思いますけど」
「当然です。今後のことは久遠くんと相談して決めますが…音楽活動を再開したら、氷室さん、是非聴きに来て下さい」
眠る梓を起こさないように、そっと窓から右手を差し出して、健二とおキヌは握手を交わした。いつぞやは出来なかった分、しっかりと。
「それでは、またいつか。本当にお世話になりました、これからのご活躍にも期待していますよ」
「お元気で、宮下さん。久遠さんも…」
走り去る車にお辞儀をして、感謝の想いを口には出さずに呟いて。
「さて! お夕食の材料を買って帰りましょう、ショウ様チリちゃん!」
「おう! オレは昨晩食べたはんばーぐが良い! 言うのは二度目じゃけど! 天上の美味とはまさにあのこと、全くもって社から出て正解じゃったわ!」
「私は…えっと…キヌ姉様にわがままを言っていいのなら…甘いものを食後に食べたいです…」
「今日は…そうだな、お鍋にしましょうか。お肉もお野菜もお魚も入れた、贅沢なお鍋に。そうだ、ステーキと油揚げもないとな。なーんとなく、みんな帰ってきてる気がします」
「う……あの亜麻色般若もおるのだったな。正直恐ろしいぞキヌよ」
「ふふ…美神さんにどうやって紹介しましょうか。私の…兄妹です、って言ってもいいですか?」
おキヌは両手に小さなかえでのような兄妹の手を、それぞれに握って。
「何を今更! キヌは家族じゃ! のうチリ!」
「はい! 大好きな姉様です!」
「うふふ…嬉しいです、お二人とも。ハンバーグもお菓子も奮発しちゃいますよー!」
両手から伝わってくる温もりに頬を綻ばせながら、暖かくて賑やかで騒々しいものになるであろう、今晩の食卓に思いを馳せた。
そして、おかしき日々は再び始まる。
おまけ。
「あの先生」
「なーにー?」
「何故僕の机に書類が鬼のように積まれているのでしょうか」
「それはねー、あなたがとっっっっっっっても大事なことを、見逃していたからよ」
「だ! だから、それは何度も謝罪を…」
「あなたが久遠梓さんを山中で保護したとき、霊体のブレや霊力の異質さに気づいていればー…おキヌちゃんを危険な目に遭わせること、なかったと思わないー?」
「ですから! 何時間もの山歩きの果てに偶然彼女は見つかったわけで! 僕も疲労困憊の極みだったわけで!」
「それに、タクシー会社の帽子。どーーーーーーーーーーーーーしてそこから情報収集を行わないのかしら? あからさまにおかしいでしょ、白いワンピースに制帽って。職務たいまーん」
「うぐっ…! それは…そういうファッションもあるんだと思って! いやですからものを考えるのも馬鹿らしくなるほど疲れてて!」
「ずーーーーっと探してた牛鬼も彼女の体内にいたんでしょー? 仮にもオカルトGメン日本支部筆頭実力者のあなたが、疲労を言い訳に霊視を怠ったなんて…」
「……人手不足を言い訳にその筆頭実力者をドサ回りに出したのは誰だと(ぼそ)」
「……(無言でにっこり)」
「……戻ってきた令子ちゃんに九音堂の場所を教えて、ヘリの手配もしたじゃないですか」
「……(無言でにっこにこ♪)」
「……ちゃんと、田中氏の遺体も見つけたじゃないですか。事故の事後処理も全部済ませたじゃないですか」
「……(無言でにっこりんりん♪♪)」
「……(無言で…汗びっしょり)」
「じゃ、西条くん? その書類片付けたら、お待ちかねのドサ回り頼めるかしら? 今度はね、きっと山じゃないわよ」
「……どちらでしょーか」
「んーと、北海道の東半分くらい?」
「範囲広っ!? 世界遺産知床にはクマが出るんですが! 釧路湿原も十勝平野も嫌ってほど広いんですが!?」
「広いわね。なんなら今すぐ向かってくれてもいいわよー? …その書類、ホントは私の仕事だし」
「せんせぇーーーーー!? 何サボろうとしてるんですか!? しかも当然のように!」
「だってひのめの顔ここ最近見てないし書類仕事ばっかりで腰も痛いしおキヌちゃんのご飯も食べたいし」
「全部私情!?」
「まあまあ、あなたがお隣に迷惑かけたのは事実でしょう? 罰ゲームだと思って、ね?」
「せめて罰則と言って下さい美神先生……ゲームって貴女…」
「じゃあしゅっぱーつ! 美智恵、お土産は毛ガニとおっきなカキがいいな♪」
「部下にたからんで下さいぃぃぃーーーーーーーーーっ!!!!」
オカルトGメン日本支部を蝕む深刻な人員不足問題は…!
なんだか楽しげなので、しばらくこのままでいいですよね。
おまけそのに。
「…健二さん」
「あ、久遠くん。起きたのかい?」
「私、これからのことを考えました…私のピアノが音楽としては欠陥品だって事を、この一件で痛感しましたから」
「……そうか。うん…俺は久遠くんの意見に従うよ。せっかく九音堂も完成して、これからって時だったのに残念だけど、さ」
「健二さん、私…」
「うん」
「ゴーストスイーパーになります」
「そうか…ってえええええええええええええええええ!?」
「健二さん前!! 前向いて運転して!」
「あ、ああ。でも何だって一体…今日のあのでかい鬼を見ただろ? あんなの相手にするんだよ?」
「もう決めましたから。私、氷室さんにネクロマンサーの才能があるんじゃないかって言われたんです。田中さんが成仏したのを見て、感じたんだそうです」
「あれか…確かに、久遠くんのピアノが変わったのは理解できたけど。だからといっていきなりGSは…」
「私も…氷室さんみたいなGSになりたいんです! 私のピアノが生音じゃないと他人に響かないのなら、いっそのこと困っている人のために奏でたいんです!」
「もう決めたんだね…分かった、分かったよ。こうなったら氷室さんに連絡して、適当な師匠を見繕ってもらって…ああそれからGS資格取得のための条件なんかも調べないとな。あと……なんだい久遠くん? 俺、なんかおかしいかな」
「健二さん、まだマネージャーのつもりですか? 私はもうピアニストじゃないのに」
「う………確かに、GSをやるのに、俺は必要ないかも知れないけれど…」
「違います! これからは、パートナーです! 一緒に肩を並べる、大事な大事な…人生のパートナーです!」
「!!!! …………それは、そういう意味で受け取っていいのかな? まさか、久遠くんからそんな積極的なこくは「だって重いですし!」………は?」
「ですから、ピアノって重たいでしょう? 私じゃ運べませんよ。殿方じゃないと、あんな大きなものは動かせません」
「ええと……何?」
「電子ピアノじゃ、私、力が出せませんから。GSをやるにはちゃんとしたピアノじゃないと!」
「あー……久遠くん? それはつまり」
「はい! 健二さんにはピアノを背負ってもらって、一緒に来てもらわないと駄目ですよね!」
「なぁぁぁぁぁーーーーーーーっ!!?? ちょ、久遠くん!? 本気で言ってる!?」
「大丈夫ですよ。アップライトピアノなら200Kgとちょっとしかありませんから!」
「おおおおいいぃぃぃぃ!!?? 十分に凄まじい数字だよそれ!?」
「え……それではグランドピアノのほうがいいと」
「久遠くぅぅぅぅぅぅん!?」
「むー…それにしても、ほんとに名前で呼んでくれませんね、健二さん」
「話を逸らすな梓ぁぁぁぁぁぁ!!!!(どさくさ紛れに)」
…二人の未来は、安泰のようです。
健二はアレだ、体力づくりから頑張れ?
おわり
後書き
竜の庵です。
最終楽章をお送りしました。別名、伏線回収編。
万人が納得いく謎解きとは…なったのかどうか。力技に頼った部分も多かったですね。悩ましい限りです。
引っ張りすぎて誰も覚えてないような伏線もありますし。
推敲しまくったつもりですが、万が一「コレどうなってるん?」的な浮いたままのネタがありましたら…伏してお詫び致します。つい最近も第2話で自縛霊と地縛霊の間違いを見つけて血涙流したところですので…
ではレス返しを。
内海一弘様 > 長いお話を読んで頂いて…感謝に耐えません。美神の登場シーンはおキヌ編を書き始めた当初から決めてあったので、書いてて爽快でした。うひゃほーい、とか。最終楽章はいかがでしたでしょうか。腑に落ちる展開だったら嬉しいですねぇ。
柳野雫様 > ほのぼの描写だけで丼三杯いける自分です。おキヌは女華姫に対してもお姉ちゃんぽかったですよねー。実は姉キャラなのかも知れません。彼女が悪口に精通してたら恐ろしいですよ? 方々で語られる黒化キヌならともかく。紆余曲折の末に今回のような結末となりましたが…楽しんでもらえれば幸いであります。
亀豚様 > シメサバ丸で人を正気に戻す事は難しいでしょう。つうかショウチリの前で包丁振り上げるのは、教育上もよろしくありません。…脳洗いも変わりないか。美神は霊力制御に成功した状態での登場であります。2ヶ月かかりましたけど! 横島もちょろっといたり。こっちは変わらず、でしたが。
SS様 > あ、そうか。GS美神の主役は美神か…横島かと思ってました。美神の登場はショートケーキのイチゴを掻っ攫うような感じですね。神域は使いどころの難しい能力になってしまって…このお話はおキヌの霊能の成長というより、人間的成長を書いたものになったので、まーいいか、なんて。
スケベビッチ・オンナスキー様 > 健二は意図的に横島に似せてます。違うのは、きちんとした恋人がいるくらい? おキヌが自分の成長を見る鏡のようになればと思いまして。脳洗浄と洗脳は似て非なるものです、とだけ言ってお茶を濁そう! 美神&横島はスポット参戦でした。キャラが強いので、おキヌが食われてしまうし。最終楽章、お気に召しましたでしょうか。過分な期待を頂いたようで…感想が怖い。ガクブルです。西条は、見えない所で地味だけど過酷な仕事をする星回りなのだと思いますな。
以上レス返しでした。皆様有難うございます。
次回は、出しどころを完全に見誤った感のある、「神域の巫女」番外編の予定です。第5楽章くらいを書き終えた後に、思いついて書いたのですが…本編との温度差に出すに出せず。出せず仕舞いは嫌なので、そっと投稿することにします。
それでは、長いお話の最後までお付き合い頂き、本当に有難う御座いました。
…いえ、SS投稿はまだ続けたいんですが。はい。
ではこの辺で。最後までお読み頂き有難う御座いました!