暗い世界だった。
闇に覆われた世界だった。
何もない。意識しか存在しない……そんな世界だった。
その事に違和感はなかった。
ここはそういう世界なのだから。
同時に自分がここにいることにも不自然を感じなかった。
なぜならば、当然だからだ。
自分がここにいることも、この世界のありようも……全て当然のこと。
だから、
『世界は決して優しくはない。……そうだろう?』
突如響いた声に、驚くこともなかった。
煎餅布団に横たわりながら、横島はぼうっと天井を見ていた。よれよれのシャツにトランクスだけの、自堕落な姿で。
天井に何があるわけでもないが、木目ぐらいはあった。ただ見ているだけよりはいいだろうか。何とはなしに数え始める。
百を超えたあたりで不毛だということに気が付いた。しかし他にすることが特にない。ならば何もしないよりはましだろう。
再び木目を数え始める。
「あ、さっきまで数えていた数、忘れた。……まあ、いいか」
最初から数えればいい。
時間はたっぷりあるのだ。
高校をほとんどお情けで卒業させて貰ってから、既に半年が過ぎていた。
大学へは進まなかった。受験すらしていない。かといって何か職に就いているわけでもない。美神除霊事務所も卒業を機に辞めた。
高校三年の二学期が始まった頃、進路相談で担任の教師に受験をしない事を伝えた。教師は少しだけ驚いた表情を浮かべた後、納得したように頷いたもんだった。
「そうか。そう言えばお前GS免許を持っているんだったな。先生はGSのことは詳しく知らないが、その免許を取るのに大変な才能と努力がいることは聞いている。随分と危険な仕事のようだけど、横島が自分で考えて決めたなら口を出す筋合いはない。……ただな、余り無理はしないように。身体には気をつけろよ?」
そして曖昧に頷いた横島を、担任の教師は眩しそうに見た。劣等生の肩書きにふさわしい生徒が、自分の才能を見いだしそして開花させ、新たな道を歩もうとしている……その教師にはそう見えたのかもしれない。
しかし実際には違った。横島はGSになる気はなく、今では美神所霊事務所すら辞めてただ無為な生活の中にいる。担任の教師が横島の進路の根拠としたGS免許も、今では失効してしまっていた。師匠である美神令子から、結局合格をもらえぬまま事務所を辞めたからだ。
その事に後悔の念はない。元々GSになりたかったわけではなく、免許を取ったのも単なる流れだ。明確な意志の元、何か目標を持って取ったわけではない。執着などあろうはずもなかった。
とんとん、と不意に扉が叩かれた。随分と控えめな叩き方だった。
この部屋のチャイムは、横島が入居する前に壊れてしまっている。だから訪問者は扉を叩くしかない。しかし一口に扉を叩くと言っても、叩き方にはそれぞれ色というものが出るものだ。
この叩き方には覚えがあった。横島は視線を扉へ向けると霊視を開始。扉の向こうに霊体が浮き上がる。肉体という器によって形成された霊体は、彼の想像通りのシルエットを描いていた。
おキヌだった。
彼女はもう一度控えめに扉を叩くと、やはり控えめに声を掛ける。
「あの、横島さん……」
それはとても小さな声だったが、十分に聞きとることができた。扉が薄いこともあるが、それ以上に声に含まれた霊気が言葉を横島に届けるのだ。
随分と拙いが、言霊の一種である。そしておキヌがそんなものを用いるということは、横島がこの部屋にいることを確信しているに他ならない。
しかし横島は動かなかった。応えなかった。
ゆっくりと視線を天井に戻すと、再び木目を数え始める。
「あの、食事ちゃんと採っていますか? その、もし良かったら何か作りますけど……」
ビニールのこすれる音が扉を通して聞こえる。既に食材を買い込み、準備は万端なのだろう。
しかしそんなもの、横島には必要ない。
確かに最後に何かを食べたのは、随分昔のことだったような気がする。水すら飲んでいないから、純粋に飲まず食わずでどれほどの時を過ごしているのだろう。横島自身、それはもうわからない。
しかし取り立てて何か食べたいとも思わない。飲みたいとも思わない。空腹など感じてはいないし、乾きも特にない。
ただこの煎餅布団に横たわっているだけの自分に、そんなものは必要ない。
横島はおキヌに声を掛けることもなく、ただ天井の木目を数えていた。
やがてその数が数百を超えようとするころ、扉の向こうから気配が消えていることに気づいたが、横島は些末ごととすぐさま忘れた。
世界は優しくない。
理不尽が横行し、幸福などという言葉は空しいだけ。
どれほど恵まれていようと、幸せとは限らない。
どれほど望もうと、手にはいることはない。
そして脳裏に浮かんだ最悪の考えは、やがて現実となって目の前に現れる。
世界は優しくない。
しかしそれが当然のことなのだ。
ただその事を、人間だけが忘れているだけだ。
『だが、お前は思い知っただろう?』
声に頷いた。
夜になった。
木目は数百を数えていた。何度も何度も数え直しをしたから、数百。実際には数万を数えているだろう。
既に日は落ち、アパートの部屋は夜の闇に覆われていた。街灯の光すらこの部屋には届かない。
真っ暗な部屋の中、横島は相変わらず天井だけを見つめていた。
ふと、ルシオラのことを考えた。
彼女の復活が不可能になったと知ったのは、いつのことだったか。
唯一転生という形で示されていた可能性は、ある日突然否定された。横島自身の霊気構造と彼女の霊気構造が完全に融合を始めたからだ。
考えてみると当然だったと横島は思う。いくら元々はルシオラのものとはいえ、今は横島の中にある横島の霊気構造に等しい。いつまでも独立したまま存在しているなどと考えたのがそもそもの間違いなのだ。
かくして、ルシオラの復活は成し得なくなった。同時にこの身体も、人のそれとは異なったものに変異した。
それ以来、横島はこうしてただ無為に過ごしている。
不意に枕元で呆れたような声が上がった。
「まだ生きとったか。いい加減にせんと、ほんまに死ぬで。毎日毎日、心配する身にもなってみい」
視線を動かすと、そこには貧乏神がいた。
霊体である彼は物理的な影響をほとんどうけない。壁抜けなどはお茶の子さいさいだ。とはいえ、ここへ来るのは自らの意志ではあるまい。小鳩の願いがあるからだろう。
憎まれ口を聞くのは、発破を掛けているからの他ならない。
「ほっとけよ。関係ないだろ」
「わいにとっては正直そうやな。あんさんが死のうがどうなろうが、気にするほどのもんでもない。でもな、ほんきで心配している奴もいてるんやで?」
「しらんよ、そんなもん」
応えて、横島は再び天井に視線を移す。暗闇に覆われていても、夜目が利く横島にとってはまるで真昼のようだ。はっきりと天井の木目は見えた。
これで幾度目か数えるのもあほらしいが、横島は天井の木目を数え始める。ただそれだけが目的とばかりに。
貧乏神は天井に向かってしまった横島の目をしばし見つめた。そしてその目に宿る光を見た後、大きな溜息をつく。
そしてそのまま、壁をすり抜けて帰っていった。
希望という言葉がある。
しかし希望は絶望という言葉と対になっている。
そして絶望は希望よりも多く存在し、僅かな希望も些細なことで絶望に変わる。
世界は絶望で満たされている。
では、絶望に囚われてしまったならば、どうすればいい?
再び歩き出す? それもいいだろう。
しかしそう出来ない人間もいる。ならば、どうする?
安易な答えは、死だ。しかしそれすら選べない者は?
『一つになれば良い』
それも一つの安息かもしれない。
扉の向こうに、気配を感じた。
今の時刻が何時なのか、彼は知らない。時計は以前感情にまかせて壁にぶつけた時に壊れて、そのままだ。しかし特に不便はなかった。飲まず食わず、そして眠らずとも死なない身体に、世界から離れてしまった心。時間は既に意味を無くしてしまっている。
横島は扉に視線を向けた。おキヌの時と同じように霊視をすると、予想していた通りの輪郭が浮かび上がった。
彼女はただ立っていた。声を掛けることもなく、扉に手を掛けることもない。ただそこに佇んでいた。
彼女に事務所を辞める意向を伝えた時、彼女は何も言わなかった。ただ静かに一つ頷いた。全てわかっている……彼女はそんな目をしていた。
してみると確かに彼女はわかっていたのだろう。全てがもう、手遅れだと言うことに。だからこそおキヌのように手を差し伸べようとはしない。小鳩のように背中を押そうともしない。
でも、見捨てようともしない。毎夜毎夜こうして訪れるのは、ただ見守っているのか。
それとも……。
『最期を看取ろうとしているだけかもしれない』
「そうだな」
その声に驚くことはなかった。これまでにも幾度も掛けられた声だ。
生きることに目的を無くし、自分の存在にすら意味を感じなくなり、かといって己の存在は容易には消えない。そんな時、この声は横島の元へ来た。
天井付近に一冊の本が浮かんでいた。漆黒の本だ。闇に同化しそうな本だ。見ていると、身体の芯が冷たくなるような本だ。
宙に浮かぶ本はぱらぱらとめくれた。中身は表紙よりもなお闇色だった。ただ塗りつぶされた黒だけがあった。一枚一枚、全てが黒く染まっていた。
『一つになろう。我らはお前だ。お前は我らだ。一つになれば、全てが終わる。ただ見るだけのものになる。ただ教えるだけのものになる。世界から一歩離れ、関わらずに済む』
「それは、いいな」
相変わらずその本はぱらぱらとめくれていた。その一枚一枚を横島は見ていた。一枚一枚に魂が宿っている様を、人に在らざる目はしっかりと捉えていた。
やがて終わりが来た。全てのページがめくれたのだ。しかし本が閉じることはない。何かを待つようにしてそのまま宙に浮かんでいる。
「ああそうか」
横島は理解する。
「そこが、俺の居場所なんだな」
安らかとすら言える表情が横島の顔に浮かんでいた。
その身体が変異を始める。人に在らざる身だ。人以外の姿になるなど、造作もない。
「――っ! ――くんっ!」
扉の向こうで何かが聞こえた。
気にしなかった。
……やがて、その本のページ数が一ページ増えた。
『はははっはははは』
いくつもの同じ声が重なった笑い声が、誰もいなくなったアパートに響く。
「横島くん! 横島くんっ!」
どんどんと扉を叩く音に横島は目覚めた。時計を見ると既に針は昼が近い事を示している。
止むことなく叩かれている扉に視線を向けると、彼は立ち上がった。
「おっとと」
ふらついた。頭が重い。寝ぼけてでもいるのだろうか。
横島は頭を振ると、よたよたと歩く。
「へーい」
扉を開くと令子が立っていた。
「あれ、美神さん。どうしたんすか?」
横島を見た令子はそのまま顔をこわばらせると、そのまま横島を凝視する。
「……えと。なにかあったんすか?」
横島はもう一度訊ねた。
令子は一歩足を踏み出すと、そっと横島の胸に額を寄せた。
「……嫌な予感がしたの」
「え?」
「たぶん、霊感だと思う。横島くんが、遠くに行っちゃうような気がしたの……」
きゅっと横島のシャツを握る令子を、横島は見下ろした。
やがてその顔に、染み出すように笑みが浮かぶ。
「不安になって、慌てて来ちゃったんすか。美神さん、かわいいーっすね!」
横島はにやけながら令子の背中に両手を回そうとして、しかしその手が届く前に令子が横島を突き飛ばした。
「わたたたた」
しりもちをついた横島を、顔を赤くした令子が見下ろした。
「ば、ばかっ。調子に乗るな!」
明らかに照れているとしか思えない言葉と共に、令子は勢いよく扉を閉めた。
が、立て付けの悪いぼろアパートの扉は、きちんと閉まらずに跳ね返ってくる。慌てて令子は身体を押しつけるようにしてしっかりと閉める。
横島にとってはその行為も何もかもが愛らしい。
「早く着替えてきなさいよ! ご飯食べに行くわよ! おなか空いてるんだから!」
扉越しの怒鳴り声は、照れ隠しとしか思えなかった。
苦笑しつつ、横島は立ち上がる。
可愛いお姫様を待たせるわけにはいかない。さっさと着替えようと、横島は部屋を振り返った。
その時だった。一冊の本の姿が、横島の目に飛び込んできた。
それは漆黒の本だった。闇色の本だった。どこまでも黒く、背筋が冷たくなるような本だった。
その本を目にした瞬間、横島は硬直した。悪寒が身体の奥底から沸き上がる。恐怖に叫び出したくなる。全身から汗が噴き出る――。
身を震わせた横島の脳裏に、昨夜見た夢が稲妻のように奔った。どうして今まで忘れていたのか……。
思わず一歩後ずさった。喉が鳴る。瞬きすら出来ず、本を凝視する――。
「ちょっと、横島くん! 遅い!」
背後から響いた声に、はっとした。振り返ると半ば開いた扉から令子の顔が覗いている。
「何してんのよ。早くしてよ。……ん?」
唇をとがらせていた令子の目が、睨むようなものに変わった。
「……横島くん。その本、何かしら?」
「こ、これは……」
指さされて、どもりながら横島はその本に目を向ける。
「……へ?」
とぼけたような声をだして、横島は目を瞬かせた。
令子の指さすその本は、ちょうど枕元にあった。昨日勢いで買ってしまったSM関係の本。全体的に黒く装飾されているが、それだけだ。どこをどう見ても漆黒などではない。闇色でもない。
半眼のまま令子は言った。
「ふーん。横島くんって、そんな本も読むのねー。へー」
「あ、いや。これは勢いっちゅうかなんちゅーか……」
あたふたしながら釈明しようとする横島を、令子はじぃっと睨んだ。
そしてしばしの間をおいて、やがて言う。
「……私、そんなのやーよ?」
「わ、わかってます。普通が一番ですよね」
「うん。普通がいい……って、ば、馬鹿。何言わすのよ!」
あっという間に茹で蛸になった令子が、力任せに扉を閉めた。大きな音がアパートに響く。
と思ったら、すぐにまた開いた。
「早く着替えてよねっ!」
茹で蛸状態のまま一言残して、今度こそ扉は閉まった。
「………」
横島は閉じた扉を見つめていた。やがてその顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
彼は胸に手を置いた。そこにはじんわりと心が温かくなる温もりがあった。令子が残していった温もりだ。……先ほどまであった重苦しい感覚は、既に横島の元には無い。
横島は枕元に置かれる本を見た。漆黒の本ではない。闇の本でもない。どう見てもSMの本にしか見えないそれを確認して、何かを否定するように首を左右に振る。
忘れよう。横島はそう思った。先ほど見たものが現実だろうと、単なる夢だろうと、自分には関係ない。
なぜなら、自分には彼女がいる。なんだかんだと自分を心配し、共に同じ道を歩いていこうと誓い合った恋人がいる。
もしもあの本が実在するとしても、自分には必要ない。あの本と自分の人生が交わることはない。自分が、あの本の一員になることもない。
それだけで十分だった。それで全てだった。
「……さて、着替えなくちゃな。また怒らせちまう」
枕元の本をけっ飛ばすと、横島は部屋の中に干されている洗濯物に手を伸ばした。
カーテンの隙間からは目映いばかりの太陽の光が差し込んでいる。外は晴れているようだった。きっと気持ち良いぐらいの快晴だろう。
「今日は、どこにデートに行こうかな」
呟きつつ、横島は着替え始めたのだった。
あとがき
このまま突っ走りましょう。
次話は今週中になんとか。