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▽レス始

「歩む道異聞(異邦者 中編)(GS)」

テイル (2006-06-06 00:44)
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 どこまでも空を覆う灰色の雲。風は冷たいだけで勢いは無く、雪を降らせる雲を空から追いやる様子は無い。
 その雲の下、地上からは遥か上空に位置する場所に二人の少女が浮遊していた。年の頃は十代後半から二十代前に見えるが、実年齢はそれに一桁増やしてもまだ足りない。身に纏う雰囲気も人間のそれではなく、外見もそれに倣う。
 彼女たちの名は小竜姫とヒャクメといった。
「この辺?」
「ええ、間違いありません。次元震はこのあたりで観測されています。彼はこの近くにいるはずです」
「でも、見つからない……と」
「見事な穏行、といっておきましょう。普通に探したのでは、どれだけ掛かるかわかりません。あせっても仕方ありませんし、網を張って尻尾を出すのを待つしかないでしょう」
「……面倒臭いね。特に今回は事情が事情だし、気合が乗らないんだよなぁ」
「気乗りしないのは仕方がありませんよ。私も彼の気持ちがわかってしまいますし。ですが、彼がしていることは間違っていますから。加えて言うと、これは竜神王様からの勅命です。しっかりと果たさなくてはならないでしょうね」
「そうだよねえ。わかってる。仕方ないよねえ。……それじゃま、どれだけ掛かるかわかんないけど、ここで待機ってことで。寝ていい?」
「……事態が動くまで、ですよ」


「それじゃ行ってくるね、貧ちゃん」
「おお。ゆっくりしてくるんやで」
「さすがに風呂までは付いていかないんだな」
「当然やどあほ。くだらんこといっとらんと、とっとと行け」
 ずいぶんと落差のある対応をしながら、貧乏神は二人が店の中に消えて行くのを見送った。
 銭湯である。アパートに風呂がない為、ここはいつも利用している銭湯だ。そして本日利用するのは横島と小鳩である。
 当然ながら貧乏神は利用しない。女湯について行くこともない。霊感のあるものしか貧乏神の姿は見えないとはいえ、少なくとも小鳩には見えるのだ。年頃の娘が全裸の姿を見られて気にならないはずがない。それが相手がかつて自分のおしめすら替えたことがあるとはいえ、恥ずかしいことに変わりはないのだ。
 だからいつも貧乏神は店の外で待機だ。今日は下手をすると氷点下の気温だが、霊体である貧乏神にはなんの痛痒もない。むしろ今日に限っては好都合。一人で考えたいことがあった。二人が戻ってくるまで、だいたい三十分ぐらいだろうか。物思いに沈むに、十分な時間だろう。
 貧乏神は空を見上げた。雪はしんしんと降っている。街灯にきらきらと輝きながら、暗い夜空を舞い落ちる。
 アスファルトが完全に隠れ世界が白く染められても、雪は降り止む気配をみせなかった。気温は低く、風はよりいっそう冷たく吹きすさんでいる。
 電柱に寄り添うように浮遊する貧乏神のすぐそばに、雪を積もらせた銭湯の看板が立っていた。特に考えもなく手を伸ばし、雪を払ってやる。冷たさは感じるが、それが苦痛に結びつくことはない。苦痛とは身の危険に対する信号なのだ。死が果てしなく縁遠い貧乏神にとって、生まれてこのかた苦痛を感じたことはない。
『殺してやろうか……?』
 横島の言葉が耳に蘇った。貧乏神の耳から離れないその言葉。貧乏神を思考の渦に誘うその言葉……。
 その言葉を横島がアパートで言ってから、一時間ほどが経過していた。
 横島という人間が何者なのか今のところ貧乏神は知る由もない。善人か悪人かの判断もつかない。それでも今夜アパートの部屋に泊まることを貧乏神は許可した。それも小鳩が反対したにもかかわらずだ。
 ……それほど、アパートでの横島の言葉と力は、貧乏神にとって簡単に斬り捨てられるものではなかった。
(どないするべきなんやろか……)
 その身体を天より振り落ちる白雪に彩られながら貧乏神は考える。
 解りきった答えを導くべく、自分に自問する。
 その脳裏にはアパートでの横島が浮かんでいた。見たこともない霊波刀を見せながら、自分を除霊できるとしゃべる姿が浮かんでいた。

 横島が展開させた霊波刀に、小鳩は一瞬目を白黒させた。次いで横島の言葉の意味を考え中空に視線を泳がし、そして困ったように笑って見せた。
「えっと、お気持ちは嬉しいですけど……それ、無理ですよ。昔GSの方に相談したことがあるそうで、その時はっきりと言われているらしいんです。貧乏神を祓う方法はないって。貧ちゃん本人からもそう聞いているし。貧ちゃん、神様ですもん」
 自分に憑いている貧乏神は祓えない。そう話す小鳩の口調に暗さはなく、己の不幸を嘆いている様子もない。
「そんなことはないよ」
 横島は首を横に振った。
「確かに貧乏神は霊力で攻撃された場合、その攻性霊力を還流させて自身の力にしてしまう。通常の方法では除霊どころか、憑依期間を延ばす結果にすらなりかねない。これが貧乏神の除霊が不可能と言われている理由だよ」
 貧乏神は大きな器を持っている。仮にも神の端くれ、その存在の大きさだけは人間が比肩し得る存在ではない。だからその辺の力ならば全て吸収、還流することが出来る。とはいえ、除霊が本当に不可能だというわけではないのだ。霊力はどんなものでも無効化、還流してしまえるわけではない。
 なぜなら貧乏神は、神族なのである。少々在りようが異質ではあるが、神族であることに変わりはないのだ。
 そして、神族は殺せる存在だ。
「神族、魔族などと呼ばれている存在は、不老でも不死でもないんだ。生きているものは同時に死ぬものなんだよ。人間とは比べ物にならない力を持っているとはいえ、除霊できない道理はないさ」
 神や魔というのは概念存在である。存在意義において、絶大な力を持つ。
 武神ならば戦うことを。
 死神ならば魂を刈ることを。
 そして貧乏神ならば、人を貧することを。
「貧乏神の力は人に取り憑き、貧乏にすることだ。だから貧乏にする能力はもちろんのこと、取り憑き続けなきゃ話にならない。貧乏神が攻撃を無効化、吸収するのは、対象に憑依し続けようとする能力によるものだ」
 横島は霊波刀を貧乏神に突きつけた。ほのかに青く輝く霊波刀の光が、貧乏神の顔を照らす。
「だから、能力を上回る力で核を砕けば死ぬさ。そして俺の霊波刀の出力ならそれが可能なんだ。吸収、還流出来るほど甘い収束じゃない。核まで一直線に滑り込む」
 横島の唇がにぃっと弧を描き、その顔に酷薄とした笑みが浮かんだ。それは目の前の貧乏神を殺すことに、何の躊躇も感じていない表情。
 小鳩の目が見開かれた。その瞳に、強い感情が浮かぶ。
 そして、悲鳴が上がった――。

「っ!」
 脳裏に響く悲鳴。自らが上げたその悲鳴を思い出し、小鳩は目を開いた。
 目の前には白く立ち上る湯気があった。全身を温かな湯が包んでいる。シャワーの流れる音や、誰かの会話が壁に反響していた。アバートでの出来事を思い出していた小鳩に、現実感が戻ってくる。
 小鳩は銭湯の湯船の中にいた。
「貧ちゃん……どうして?」
 小鳩は呟く。
 横島は今夜、小鳩のアパートに泊まることになっていた。横島が望み、それを貧乏神が認めた為だ。ずっと横島のことを疎んでいたのに、貧乏神は掌を返したのだ。
 今小鳩にとって、一番の懸念事はそれだった。貧乏神が何故横島の滞在を認めたのか、その理由が小鳩にはわかるからだ。納得など到底出来ないが、わかってしまうのだ。
 アパートで横島は貧乏神を殺せることを説明した。そしてきっとその言葉に嘘はないのだろうし、そうすることにも躊躇はないのだろう。もしあの時小鳩が悲鳴を上げて貧乏神に抱きついていなかったら、今ごろ貧乏神がどうなっていたのかわかったものではない。
「いや、もちろん小鳩ちゃんが嫌ならそんなことはしないけどさ」
 小鳩の様子に横島があっさりと引き、その場は収まった。しかしあんなことを言われれば追い出すのが普通だ。雪が本格的に降る中、行く当てもない相手を追い出すのは気が引けるが、貧乏神の身に危険が生じる可能性を考えれば仕方がない。貧乏神は小鳩にとって家族だ。守るべき家族なのだ。
 しかしその守るべき家族が、横島の滞在を薦めた。追い出すには天気が悪すぎるなどと言い訳していたが、もちろん小鳩は信じていない。いきなり横島を引き止めた理由……そんなもの、少し考えればわかる。
「貧ちゃん……」
 貧乏神は、死ぬ気なのではないのだろうか。母親が死んでから、自らを責め続けていることを小鳩は知っている。しかしそれは貧乏神の責任ではない。貧乏神が憑くようなことをした、顔も名前も知らないような先祖が悪いのだ。
 小鳩は立ち上がった。タオルで身体を隠しながら、脱衣所に向かう。
 いつもならもっと長湯をする所だが、女よりも男のほうが風呂は早いだろう。意識して出ないと、横島と貧乏神を二人きりにしてしまうことになる。それは回避すべきことだった。二人のとき、横島が何をするかわからないのだから。例えそれを貧乏神本人が望んだとしても、認めることは絶対に出来ない。
「貧ちゃん……小鳩を一人にしちゃ、嫌だよ?」
 小さく、そして今に今にも鳴きそうな声で、呟いた。


「なにぼけっとしてんだ?」
 不意に背後からかけられた声に、貧乏神はびくりとして振り向いた。
 洗面器とタオル片手に、いつのまにか横島が立っていた。濡れた髪に血色の良い肌が目を引く。銭湯に消えてから十分と経っていないはずだが、もう出てきたらしい。
「な、なんや。早いやないか……」
「カラスの行水って奴でね。それにあんたと二人きりで話すにゃあ、今ぐらいしかなさそうだしな。小鳩ちゃんはいつもどれぐらいで風呂から上がるんだ?」
「長いときで一時間。せやけど今日は寒いから、余り待たせまいと早く上がって来るやろ。三十分ぐらいやないか?」
 貧乏神は霊体だ。暑さも寒さも関係はない。それでも自然にこのような言葉が貧乏神から発せられた。小鳩の普段の言動が窺い知れる。
「……そうか。ま、十分だろ」
 零れ出そうになる笑みを見せないようにしながら、横島は貧乏神の隣に立った。塀に背を預けると、背中越しに石塀の冷たさが伝わってくる。風呂上がりには心地がいい。
「話って言うのは、むろんアパートでのことやろ?」
「そうだよ。俺はお前がこのままでいいとは思っていないからな。除霊云々は置いておいても、なんとかしなきゃならんだろ。お前、かなり性質の悪い貧乏神みたいだしな」
 横島の言葉に貧乏神は俯いた。
「どこまで、わかっとる……?」
「金銭だけじゃなく、富を奪う……ってところまでか」
「何故そう思うんや?」
「貧乏神に憑かれているにしちゃ、小鳩ちゃんは赤貧とは言えないからな。炬燵があることに驚いたし、普通に飯も食ってる。しかもおかゆじゃなく具入りの雑炊で、しかも俺に食わせるような余裕もある。貧乏神に憑かれりゃ普通どれもあり得ない」
「それだけなら力の弱い貧乏神で通るで?」
「かなり無理矢理だな、そりゃ。貧乏神って結構神格高いんだぞ? ……いや、格と言うより質かもしれないが、貧乏神に憑かれて赤貧以外になることはないはずだ。だが、実際に小鳩ちゃんは違う。その理由を考える時、もう一つのあり得ないことに目を向けるわけだな」
「……それは?」
 横島が貧乏神に視線を走らせた。その視線を避けるようにして貧乏神が目をそらす。
 その様子を見て、横島は目を閉じた。そして閉じたまま、続けた。
「……それはもちろん、小鳩ちゃんの母親が亡くなっていることだ。貧乏神に憑かれた人間はそう簡単には死なない。死んだら貧乏神の力を受ける対象が減る。それは通常さけるべき事だ。人間の世界だってそうだろう? 死なせたら金は取り立てられないもんな」
「そうやな……。やっばり、大体わかっとんのやなぁ」
 貧乏神は大きく溜息をついた。その目には寂しさと悲しさと……そして後悔の色が浮かんでいた。
「小鳩の曾々祖父がな、ひどい金貸しでな。何人もの人間の血と、涙と、そして魂を売って金を儲けとったんや。身ぐるみ剥ぐのは当たり前。残った身体も死ぬまで扱き使ってな。年頃の若い娘なんかがいたらそりゃもう最悪や。身体と……そして心が壊れるまで滅茶苦茶にしよったもんや。本当に……最悪や。それでわいが来たんやけどな」
 貧乏神は神の一種だ。その仕事は魂の救済である。死神と違うのは、対象となる霊が金銭関係によって非業の死を遂げた者であるということだ。
 犠牲になった人間の恨み、憎しみ、絶望。そういった負の感情を全て受け取り、悪霊化や怨霊化しないよう成仏を促すのだ。死んでなお苦しむ必要はない。生前地獄を見せた相手への報いは、自分が代行する。だから安らかに眠れ……と。
 貧乏神は取り憑いた人間を貧乏にするが、それは副次的なものに過ぎない。貧乏神は救済者なのだ。裁定者でも断罪者でもないのだ。ただ背負った怨念を浄化するに足りる分だけ、元凶となったものを貧乏にするのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 貧乏神に憑かれることはまさに因果応報。己のまき散らした罪科を償わされているに過ぎない。
 しかしその罪科が大きすぎた場合、どうなるか……。
「花戸家に取り付いてから、ワイは今までと違うことに気づいた。ワイの力が、金銭的なものだけではなく、富自体に向けられていることに気づいたんや。それが何故かは知らん。小鳩の曾々祖父の所業が、あまりにも惨すぎたからかもしれん」
 理由はわからない。しかし貧乏神の力は確実に花戸家の人間から富を奪った。
 富と呼べるものは、様々なものがある。金銭的なものはもちろん、情緒豊かな心、才能、知識、平安、そして健康な体。どれも富と言えるものだ。
「他の貧乏神に憑かれているところよりも、金銭的には余裕があるはずや。しかしその分、多岐に渡り富を害されておる。正直言うて、悲惨やで……」
 ある青年は優しい心を持っていた。その心は、裏切りに砕かれた。
 絵描きを夢見た青年は、事故で手を亡くした。
 勉強に励んだ少女は、脳に障害を持った。
 そして体が健康だった小鳩の母親は……病に冒され、死んだ。
「今、花戸家にあるもっとも価値のある富とは何か。それは……小鳩や」
 横島が頷く。
「そうだな。まだ途上だけど……美人で身体も極上な上に、純真な心と豊かな感情まで持ってると来たもんだ。……最初から、お前は俺を警戒していたよな。その理由もわかるよ。今までのことを考えれば、小鳩ちゃんは男に汚される可能性が高いんだな?」
 貧乏神が唇を噛みしめた。ぷちりとした音と共に、その口元に血が滲む。
 体を震わせながら、貧乏神は睨み付けた。目の前の雪ではなく、何か別のものを、恨みの念すら込めて……。
「ワイは……小鳩の母親を奪ってしもうた。小鳩の母親は、ワイにとって家族も同じやったのに、殺してしもうたんや。自分でもどうしようもない。この身を恨むことしかできん。せやけど、それで何かが変わるわけやない。小鳩を守れるよう、目を光らせとくのが精一杯やった」
 貧乏神が横島を見た。その目に涙を浮かべ、まっすぐに横島を見た。
「ワイを殺してくれ。アパートで言ったことが本当なら、殺せるんやろ? どうか殺したってくれ。ワイが言うのもなんやが、貧乏神の力は絶大や。せやから、その力が小鳩を絡め取る前に……どうか、頼む。それが小鳩の為や。ワイの大好きな、小鳩を助ける唯一の道なんや」
 そして貧乏神は深々と頭を下げた。その様子を見ながら、横島は言う。
「……やだ」
「っ!?」
 弾かれたように貧乏神は顔を上げた。
「な、なんでや!? このままだとどうなるかわかるやろ!?」
「それでもお前をただ単に殺したら、小鳩ちゃんに恨まれちまうからな。それに……いつでも殺せるんだから、その前に試してみることがあるんじゃないか?」
 そう言って横島は、貧乏神の持つ蝦蟇口を指さした。その蝦蟇口は貧乏神の試練と言われるものに使われる。試練に打ち勝てば貧乏神から解放される。その代わり失敗すれば、一生取り付かれると言う諸刃の刃だ。
 しかし例え失敗しても、力ずくで除霊できる実力を持つものがここにいるのだ。
「あ……」
「小鳩ちゃんが失敗したら、殺すよ。それでいいだろ?」
「横島……」
 蝦蟇口を握りしめて感謝に胸を詰まらせる貧乏神に、横島は呆れたような視線を向けた。
「成功するかはわからないんだ。感謝は後にでいい。それよりも先にアパートに戻っておきな。試練のことは、俺から小鳩ちゃんに上手く言っておく。例え失敗しても、あの娘が気に病むことがないように」
「……わかった。後は、頼んだで」

 雪は相変わらず降り続けていた。塀に背を預けたまま腕を組む横島は、アパートに帰っていく貧乏神の後ろ姿を見ていた。やがてその姿が完全に視界から消えて、横島は視線を空へと移す。どんよりとした雲が遠く広がり、淡く白い無数の雪が降ってくる。その勢いは止むことなく、時には風に揺られて空を舞う。
 貧乏神が視界より消えてから、五分ほど経っただろうか。見入るように空を眺めていた横島は、やがて視線を銭湯の方へと移した。そして横島は口を開く。
「もういいだろ。出てきていいよ、小鳩ちゃん」
 一呼吸の間の後、銭湯の入り口から小鳩が姿を現した。その顔には悲しげな表情が浮かび、目には今にも溢れんばかりの涙が溜まっている。
「聞いてたんだろ?」
 視線を向けられて小鳩は目を伏せた。溢れた涙が頬を濡らす。
「どの辺から聞いてた?」
「貧ちゃん……殺してくれって、言ってた」
 手の甲で涙をぬぐいながら、小鳩は詰まった声で小さく呟いた。
 横島が頷く。
「そうだな。言ってたな」
「どうして……どうして、そんなことを言うの!? 死んじゃ嫌だ。いなくなっちゃ、嫌なのに!」
 震える声で、言葉を紡ぐ。詰まりそうになりながら、言葉を紡ぐ。感情が荒れ狂い、上手く言葉に出来なくても、それでも紡ぐ。
「お願……横島さ、ん。貧ちゃんを、殺さないで……」
 横島は顔を歪ませる小鳩に肩をすくめて見せた。
「あいつが、そう望んでいるのにか? 小鳩ちゃんの事を思って、あいつは死のうとしているんだぞ?」
「それでも、それでも! 貧ちゃんは家族だもん。わたしに何かあったら貧ちゃんが悲しいように、私も貧ちゃんに何かあったら悲しいもん……」
 小鳩は横島にすがりついた。手に持っていた洗面器が雪の上に落ちたが、気がついてもいないようだった。
 横島を涙ながらに見上げ、小鳩は懇願した。
「お願い……お願いだから……」
「………」
 すがりつく小鳩の背に、そっと横島の腕が回った。びくりと体を硬くした小鳩の耳元に、横島は唇を寄せる。
「優しいね、小鳩ちゃんは。自分のせいでこんないい子が傷つくかもしれないなんて、貧じゃなくても死にたくなるな……」
 そっと呟くと、横島は体を離した。
 小鳩の歪んだ視界の中に、横島の優しい目が映った。小鳩よりも頭一つ分高い場所から、包み込むような目で小鳩を見ている。
「さっき、少し聞こえたかもしれないな。……貧乏神を助ける手段はあるんだ」
 小鳩の涙を指でぬぐい、ついで頭に積もった雪を軽く払いながら続ける。
「貧乏神の試練と言ってね。それに打ち勝つことが出来れば、貧乏神を助けられる。試練と言っても難しいもんじゃない。正解を選ぶのは難しいかもしれないけど、試練自体は危険があったり技術が必要だったりするもんじゃない。さっき、俺はあいつと約束したんだ。小鳩ちゃんが失敗すれば、殺すって。つまり、失敗しなければいいのさ」
「わたしに、できますか……?」
「貧と一緒にいたいなら、成功させるしかないよ」
 雪の上に落ちている二人分の洗面器を拾い、横島は小鳩に手を差し出した。
「嫌らしいことに、その試練は正解を知っていると受けられなくなるんだ。でも、ヒントを出すことは出来る。こうすれば成功するだろうって、導くことは出来るんだ。……俺を、信用してくれるかい?」
 差し出された手と横島の顔を交互に見て、小鳩は問うた。
「貧ちゃんを、たすけられる?」
「俺の言う通りにすればね」
 小鳩は未だ涙ぐむ顔で頷くと、横島の手を握った。
「いい子だ」
 横島は微笑むと、握られた手を引きながら歩き出す。アパートへと、家路を辿る。
「試練に打ち勝つコツは、大したもんじゃないんだ。小鳩ちゃんの性格を考えれば、どちらを選ぶか何となくわかるからね……」
 手をつなぎ連れ立って歩きながら、横島は小鳩に試練の対策を話して聞かせ始めた。

 アパートの扉を開けると、貧乏神が神妙な顔で出迎えた。横島の顔を見て、次いでその視線を小鳩に移す。その顔が苦しそうに歪んだ。
「小鳩……。話は、聞いたか?」
「うん……」
 小鳩は靴を脱ぎ部屋にあがると、そのまま貧乏神に抱きついた。力一杯抱きついた。
「死なせないから。絶対に、死なせないからね……」
 涙声で呟くように言われ、貧乏神の目にも涙が浮かんだ。
 小鳩の肩越しに横島が見えた。扉を後ろ手で閉めながら、一つ、貧乏神に頷いてみせる。
 それを確認すると、貧乏神は優しく小鳩の体を離した。
「小鳩。最初に言うとくで。何が起こっても、小鳩のせいやない。……それだけ、覚えといてな」
「貧ちゃん……」
「いくで」
 貧乏神の手が蝦蟇口に伸びて、その口を開けた。
 小鳩が覚えていたのはそこまでだった。


 気がつくと小鳩は夜の世界にいた。どこだかわからない石畳の通りに一人、いつの間にか立っている。その石畳は二股に分かれ、その先にはそれぞれ一軒の家が建っていた。
 それぞれの家からは、やはりそれぞれ窓から光が漏れていた。
 小鳩は片方の家に近づくとそっと窓から屋内を覗く。そしてそこに繰り広げられる光景を見て、息を飲んだ。
 下着姿の小鳩がいた。力ない目を虚空に向けながら、布団の上に横になっている。その顔には濃い口紅が引かれ、爪にはやはり濃いマニキュアが塗られていた。下ろした髪が布団の上で海原を作っているが、その髪の艶は今の小鳩と比べると影すらないほど痛んでいる。
 部屋にはもう一人、貧乏神がいた。台所に立つ貧乏神は雑炊を作っていたようで、出来たてをお椀に入れて小鳩に元へと持ってくる。
「出来たで、小鳩」
 貧乏神が声をかけるが、小鳩からの反応は小さかった。ただ軽く頷くだけだ。
「さ、小鳩……」
 貧乏神に支えられながら身体を起こす。そして助けられながら雑炊を啜りだした。その顔に表情はなく、壊れてしまった人間とはこのような顔をするのではないか……そんなことを小鳩に思わせた。
「もう片方は……」
 呟きながらもう片方の家に向かうと、窓から同じように中を覗き込む。
「………」
 そこはどこかのマンションの一室だろうか。赤ん坊をその手に抱き、幸せそうに微笑む小鳩がいた。母親としての幸せをその顔一杯に広げ、愛らしい赤ん坊に無限の優しさをこめた視線を注ぐ……そんな小鳩が、いた。
 二つの家を覗いた小鳩は、そこに立ち尽くした。
 横島の言葉が脳裏に浮かんだ。簡単だけど、ひどく難しい……。しかしそれでも選ばなくてはならない。
 小鳩は横島から聞いたコツを思い出すと、拳を握った。呼吸を整え、心を鎮め……そして小鳩は、一方の部屋のドアに手をかける。

 アパートの部屋の中、横島は座らずに壁に背を預けていた。その視線は畳の上に座り込む貧乏神に注がれている。貧乏神は微動だにせず、その視線を虚空に彷徨わせていた。
 小鳩が蝦蟇口の中に消えてから間もなく十五分が経とうとしていた。
「!?」
 突然、貧乏神がはっとした表情を浮かべた。次の瞬間、眩い輝きとともに蝦蟇口から小鳩が現れる。それと同時に貧乏神に変化が訪れた。蝦蟇口から漏れた輝きが貧乏神を包み、その在りようを変えていく。
 やがて輝きが消えたとき、そこにいたのは貧乏神ではなかった。現実世界に帰って来た小鳩は、その姿を見た。
「あ、あ、あ」
 小鳩の身体に震えが走った。ゆっくりと頭を振る。何度も振る。それでも現実は消えない。
「うそ、よ」
 その呟きに、悲しげな声が返った。
「残念やけど、嘘やない」
 元貧乏神は、そう言ってにこりと微笑んだ。
「でも、小鳩のせいやないで? だから、そんな顔をしちゃあかんよ。小鳩はいつも笑ってなけりゃあかん。幸せが逃げてしまうよってな」
「だって、だって……」
 小鳩は叫んだ。
「横島さんの、言う通りにしたのに……!」
 目をそらすことも出来ず、小鳩は元貧乏神を見ていた。その体躯を漆黒に染め、無期限という枷を憑依対象に与える、超貧乏神を化した貧乏神を……。
「なんのことはないな」
 取り乱す小鳩の耳に、横島の声が辛うじて届く。ゆるゆると視線が動き、横島のそれと重なった。
 横島は言う。笑みさえ浮かべながら、言う。
「計算通りだ……」
 一瞬横島が何を言ったのか、小鳩は理解できなかった。
「え?」
 呆然としてする小鳩は、横島の手に展開される霊波刀に目を奪われた。貧乏神を殺すことが出来ると横島が言った、神殺しと呼ばれる霊波刀。
「悪く思うなよ。……痛いぞ?」
 驚いた表情を浮かべる貧乏神ににやりと笑い、横島は霊波刀を無造作に突き出した。収束された霊波刀は貧乏神の防御力をなんなく超えると、あっさり……ごくあっさりと、貧乏神の身体にその刀身を埋める。
 少女の悲鳴がアパートの部屋に響いた。


「!」
 目を閉じ、神経を集中させていた少女が弾かれたように顔を上げた。彼女の無数の感覚が、探していた霊圧を捉えたのだ。すぐさま千里眼で状況を探ると、そこでは異様な光景が拡がっていた。
 目標である青年の手から鋭い霊気の刃が伸び、それは深々と貧乏神の身体に埋まっていた。その霊波刀の異様さを、彼女の目は一目で理解する。
 それは、これまで見たこともないような高圧に圧縮された霊波刀だった。貧乏神の身体を突き刺すというよりも、隙間に差し込まれているかのようですらあった。おそらく貧乏神の霊的防御を擦り抜け、その刀身は霊核に届いているだろう。後はほんの少し動かすだけで、貧乏神の霊核は破壊される。それは神族の中でも不死に近いとされる貧乏神の、死を意味していた。
「どうしたの? 見つけたの?」
 もう一人の少女が、相方の様子に気づき声をかけた。
 彼女はそれに頷き、そして首をゆっくりと横に振った。
「見つけたけれど、もう……遅い」
 遠く離れた場所を映し出す彼女の目は、貧乏神に突き刺さった霊波刀が、輝き始めるのを見た。

 貧乏神は自らにその刃を埋めた霊波刀が、眩いばかりに輝く様子を目にした。身体中をばらばらにされるかのような激痛が霊波刀を中心に走り、貧乏神は絶叫する。しかしそれもすぐに終わるだろうと、どこか頭の隅で考えていた。
 横島の霊波刀の切っ先が、自分の霊核に触れていることをはっきりと感じていた。今その霊波刀からは、自分の霊核に向けて大量の霊力が流れ込んでいる。
 おそらく、程なくして自分の霊核は砕け散るのだろう。
 苦痛に歪む視界に、泣きながら横島にすがりつく小鳩が目に映った。顔をくしゃくしゃにして、必死で横島を止めようとしている。何かを叫んでいるように見えたが、その声までは貧乏神に届かない。聞こえるのは自分の絶叫だけだ。
 それでも彼女が何を叫んでいるのか……貧乏神には理解できた。やめて、殺さないで……そう横島にすがりつき、小鳩に不幸しか与えない自分を、必死で助けようとしているのだ。
 自らの存在を恨んだことは何度もある。大好きな人間をこれ以上不幸にしないで消えるのは、むしろ本望ですらあった。しかし、やはり未練はある。
 不幸にしただけ、小鳩を幸せにしたかった。涙を流させただけ、笑顔を浮かばせてやりたかった。何よりも、彼女を一人にはさせたくなかった。
 ……それでも仕方が無い。自分の存在を考えれば、仕方が無い。だから、自分を殺してくれる横島を恨む気持ちはまったくないし、感謝すらしている。
 ただ不思議なのは、横島の言葉だ。試練から戻ってきたときに横島が言った言葉だ。まるで故意に試練を失敗させたかのような言葉だ。そんなことをするくらいなら、最初から問答無用で自分を殺せばよかった。それだけの力を横島は持っている。だから唯一、それが不思議だった。
 しかしもう、そんなことを考えても無駄だ。もうすぐ自分の意識は闇に消える。

 小鳩は泣き叫んでいた。自分が何を叫んでいるか、それすらわからなくなりながら、必死で横島にすがりついていた。その手は横島を貧乏神から引き離そうと、精一杯に彼の服を引っ張っているが、彼はびくともしない。霊波刀を貧乏神に突き刺したまま、目を閉じて彫像のように固まっている。
 恐怖に彩られた目で貧乏神を見た。まだそこに家族の存在を認め、次の瞬間に霧散する恐怖に襲われながら、小鳩は必死で抵抗する。愛しい、大切な家族を奪われまいと、必死で抵抗する。
 それがどれだけ非力で、まったく効果の上がらない抵抗だったとしても、貧乏神がそこにいる限り諦められるわけが無い。
 貧乏神は、小鳩が生まれたときからそこにいた。頼りになる兄だった。ずっと、優しく愛されながら過ごして来た。
 たとえその存在が自分に不幸を投げかけたとしても、貧乏神が好きだという気持ちは薄れない。愛しくて、大切な家族だという事実はなくならない。
 理屈ではない。感情が拒否するのだ。
 ……貧乏神に、いなくなって欲しくない。そう魂が叫ぶのだ。
 だから小鳩は抵抗する。必死で抵抗する。
 そして……。


 あとがき。

 後編はまた明日。

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