――――ジリリリリ ジリリリリ ジリリリリ――――
機械仕掛けの、アナログな呼び出し音が狭い室内に鳴り響く。
微弱な電流が歯車を作動させ、実際に鈴を鳴らして起こすその音は、聞かれなくなって久しい。
だが、この部屋ではいまだにこの機械が稼動していた。
それは、電話機と同じ様に古いアパートの2階。
乱雑に散らかされ、キッチンも押入れも、畳の上もごみなどで溢れ、人が暮らせそうな場所は、中央に敷かれた薄っぺらい煎餅布団だけで、布団から影がのそりと起き上がり重たく大きい受話器に手を伸ばす。
「ふぁい、もしもしぃ……」
部屋の主の少年が寝呆けた声で応答する。
それもその筈、まだ時刻は午前三時を少し回った所。
だがそんな少年とは対照的に、電話の相手はハイテンションだった。
「おー!久しぶりだな!
元気にしてたか忠夫!!」
どこかで聞いたような声に、少年が目をパチクリとさせる。
相手に思い当たった瞬間、驚くと同時にそれ以上の怒りが沸き起こった。
「こ、こんのクソ親父!こっちが何時だと思ってんだ!?
時差くらい考えて電話しやがれ!!」
受話器に噛みつかんばかりの少年だったが、電話の相手はどこ吹く風といった様子で受け流している。
「おう、どうやら元気みてーだな。
それはそうと、ちゃんと卒業できたらしいじゃないか。母さんも喜んでたぞ。」
眠たい目をこすり不機嫌を声色に表しながら、叫ぶ。
「ッたりめーだ!
ナルニアなんぞに連れて行かれてたまるかッてんだ!」
もし留年でもしようものなら、即ナルニアに強制連行すると脅されていたのだ。
おかげで、これまでの人生を振り返っても他に無いほど死ぬ気で勉強したのだった。
「冗談を真に受けて頑張るなんて、素直なとこあるんだなぁ……父さんは嬉しいぞ。」
「はっはっは、ふざけんな。
二人してナイフと包丁突きつけて脅しやがって、それでも親かコラ。」
「まあそれは良いとして、今日はビッグニュースがあってな。」
良くねぇよと突っ込む息子を無視し、男は言葉を続ける。
「喜べ忠夫!父さん達も日本に戻る事になったぞ!」
「はい!?
え、もしかしてマジで言ってんのか!?」
思わず声を上げる息子に男は豪快な笑い声で応えた。
「まー本当はもっと早く戻れる予定だったんだがな。
二年前の事件の後始末でこんなに延びちまったんだ。」
その言葉を受け、少し間を置いて少年が尋ねた。
「……やっぱり、そっちも大変だったのか?」
「……ああ、うちの従業員でも犠牲になったのが何人も出ちまった。」
さっきまでのテンションが嘘のように、二人の口調は低く、神妙なものに変わっていた。
二年前の事件――すなわち、魔神アシュタロスが引き起こした全世界規模での大霊障。
コスモプロセッサにより現世に舞い戻った魔族や悪霊が無差別に暴れまわったため、全世界で数千万もの死傷者が出てしまった。
だが、犠牲者の全てが魔族や悪霊の手に直接かかった訳ではなく、突然の襲撃に驚いた民衆がパニックを起こし、それに巻き込まれたというのが半数近くを占めていた。
そして、それに輪をかけるように、各国の政府の混乱に乗じて暴動や略奪が起こっていた。
結局、死傷者の半数を人の手で生み出したというのも皮肉な話である。
どれだけ大規模な自然災害が発生しても治安が乱れないという国民の性格的なものか、それとも現状にあまり不満を抱いていないという恵まれた経済大国故か、日本は割と早期に落ち着きを取り戻していた。
だが、全世界がそう上手く混乱を治められた訳ではなかった。
貧富の格差が大きな国、横暴な独裁者が治める国、民族間の対立が激しい国。
火種はいくらでも存在した。
大樹が赴任しているナルニアでも、現政府とそれを打倒しようとするテロリストやゲリラによって起こされる混乱に、現地の民衆が日々血を流していた。
その混乱からナルニア支社を守るため、大樹の帰国は延期を繰り返していた。
もっとも、守ると言っても大樹が武器を手に戦う訳ではなく、社員が両者の争いに巻き込まれぬように監督するという事ではあったが。
無論、社の利益を狙うゲリラが現れた時は実力で排除していた。
しかし、大樹の手腕をもってしても犠牲を全く出さないというのは困難で、運悪く巻き込まれた社員が何人か命を落としていた。
だがそんな混乱が何時までも続くものでもなく、徐々にテロリストやゲリラ達は政府に鎮圧されていった。
あの事件から二年。
ナルニアの治安もようやく落ち着きを取り戻し、大樹はめでたく本社に戻る事となったのだ。
「ま、お前と湿っぽい話をすんのも何だしな。
近いうちに俺だけで一時帰国せにゃならんから、ちったぁ部屋を片付けとけよ。」
「ッたく、また俺んとこ泊まる気かよ。
金なら持ってるくせに……」
ブツブツと不満をこぼし、少年は渋々ながらも了承するのだった。
「あれから、もう四年も経ったのか……」
あてがわれたオフィスの個室で男が煙草に火をつける。
男が息を吸い込むと、じりじりと煙草の先端が赤く光りながら灰へと変わっていく。
そのまましばらく息を止め、胸に溜めた煙を楽しんでいたが、やがて天井に向けてゆっくりと吐き出した。
おろしたブラインドの隙間からこぼれてくる光が、うっすらと煙に透け、溶ける。
昔に思いを馳せながら天井を眺めていると、扉を叩く音でふと我に返る。
「横島専務、犬塚捜査官がお見えですが。」
腹心の部下からの報告に男の視線が鋭くなる。
ニヤリと嬉しそうに笑い、煙草を灰皿に押し付けた。
「ありがとう黒崎君。
すぐに向かうから、いつもの場所に案内してくれ」
男は緩めていたネクタイを締め直し、軽く身だしなみを整えると立ち上がった。
「え、えーと……本当に、ここで良いのでござるか?」
「はい。特に問題はないと思いますが。」
大樹の指定した場所に案内された犬塚捜査官、シロは困惑していた。
そこはいわゆる社員食堂と呼ばれるスペースで、しかもお昼時という事もあり、大勢の社員達で賑わっていた。
一応食堂の一番隅の席についてはいたが、それでも、内密の話をするには明らかに人目につき過ぎる場所だった。
――――ああ、ここで待ち合わせという事でござるか。
ここで待ち合わせ、合流し次第、人目のない場所に移動するという事なのだろう。
少し考えればわかるような事すら気付けないとは、どうやら自分で思っている以上に緊張しているらしい。
シロは気持ちを落ち着かせるため小さく息を吐いた。
「横島はすぐに参りま――――おっと、来たようですね。」
案内してくれた男の言葉が終わらぬうちに、どうやら目当ての人物が到着したようだ。
食堂の入り口から若い女性が挨拶する声が響いてきた。
不自然なほどにかわいく見せようとしている声色は、あからさまに媚びている、と言っていいだろう。
似たような挨拶を何度か受け、その都度手を上げ愛想の良い笑顔を浮かべながら、無精髭を生やした男がシロが座るテーブルに近付いてきた。
男の年齢は最低でもそろそろ五十路に手が届こうかという筈なのに、髪は黒く艶があり、立ち居振る舞いも実年齢を全く感じさせないほど若々しいものだった。
親子である横島とは外見的にはあまり似ていないが、底知れぬバイタリティを感じさせる点では全く同じだった。
溢れてくる力強さ、それは決して不快なものではなくて、横島の持つ周囲の人間を惹きつける魅力は、恐らくこの男譲りのものなのだろう。
対面してすぐに、シロはそんな印象を受けていた。
大樹が到着したのでシロも席を立ち、互いに名を名乗る。
「初めまして、犬塚捜査官。
あの横島忠夫の父の、横島大樹です。」
「こちらこそ初めまして、犬塚シロと申します。
ICPOに所属しています。
お忙しい中、お時間をとっていただきありがとうございます。」
「いえ、こちらもこんな可愛らしいお嬢さんの御来訪だ、歓迎いたしますよ」
どうも、と落ち着き払って握手を求める姿は様になっていて、なるほど先ほどの金切り声もうなずけるとシロは思った。
「今日は私用でお話を伺いたいのでござるが。」
シロの古風な話し方に大樹がかすかに眉をひそめる。
見た目の凛々しさとマッチしていると言えばマッチしているが、流石にこれは違和感があった。
シロもこういう反応には慣れているのだろう、苦笑しながら頭をかく。
「失礼、拙者は少々口調に癖があるのでござるが、どうか気になさらないで頂きたい。
実は拙者、人間ではなく人狼でしてな。種族特有の方言のようなものでござるよ。」
その言葉を証明するように、スーツ姿のシロのパンツから出された尻尾がパタパタと左右に振られた。
初めて人狼を目にした大樹は興味深そうにシロを眺めている。
一般人の大樹は人外と遭遇する機会は滅多に無いため、内心は少し驚いていた。
近年、人間外の種族を社会に受け入れる風潮になっているのは知っていたが、それでも彼らの絶対数は人間に比べれば僅かなものだ。
そのため、たいていの人間達は実際に彼らを目にする事は少なかった。
――――ふむ、こんなに可愛らしいお嬢さんなら人間だろうと何だろうと構わんよなぁ。
いつもの如く、彼特有の価値観は可愛い女性なら相手の素性など気にしない。
種族の違いなど、人種の違い程度にしか考えていないのかもしれない。
「ははは、これは驚きましたな。
まさか人外のお嬢さんがこれほど可愛らしいとは。
良ければ私の秘書として我が社で働きませんか?」
大樹の率直な褒め言葉に、思わずシロが頬を染める。
「え!?いや、その……拙者は……」
わたわたと手を振り、慌てていたが、その時シロの耳に冷えた言葉が囁かれた
――――こぉら、何馬鹿なことしてんのよ。そんな単純な言葉に乗せられてんじゃないわよ。
ぎくりと身を強張らせると、引き攣った笑みを浮かべる。
「せ、せっかくの御好意ですが、遠慮させて頂くでござるよ。
拙者、今の仕事が気に入っております故。」
――――わ、わかっているでござるよ!ちゃんとあの件を聞き出してみせるでござる!
――――ったく、しっかりしなさいよ?
人の可聴域からは外れているため、大樹や黒崎にはこのやり取りは聞こえていない。
離れたところからこちらを窺っている相棒に、駄目な所は見せられない。
シロは小さく息を吸うと、取調べの時の冷静な思考へと頭を切り替えた。
「ふむ、それは残念ですなぁ。
ところで今日は私に聞きたい事があると伺いましたが?」
席に座るよう手振りで誘導しながら、大樹が本題に入るよう促した。
「……とは言え、一介のサラリーマンの私に力になれる事があれば良いのですが。」
苦笑しながら大樹が首を傾げる。
何も知らない一般人を装っているのだろうが、事前に大樹の経歴を知っているシロには通じない。
Gメンの権限を利用して、会社から大樹の経歴をさわりだけ抜きだしていたのだが、その経歴にはシロとタマモも目を見張った。
相手の動揺を見逃すまいと身構えつつ、本題に入ろうとしてふと気付く。
「……えーと、その、まさかここで話すのでござるか?」
周囲を見渡すと大勢の社員達が食事をしている。
それどころか、かなりの数の社員が興味津々でこちらの方を窺っているのだ。
大勢に見られている事を意識してしまい、途端にシロの居心地が悪くなる。
「ふむ、それもそうですな。
では私の個室に案内――――」
「駄目です。」
席を立とうとした大樹を、眼鏡の部下が遮った。
中指で眼鏡の位置をくぃっと直しながら、有無を言わさぬ口調で大樹を座らせる。
「『女性と会う場合は個室を使わず社員食堂を使う事』あなたの命を守るためにもこの一線は譲れません。
さあ、わかったら席についてください横島専務。」
「いや、しかしだね黒崎君――――」
「駄・目・で・す。」
黒崎の断固たる言葉に、大樹が諦めたように天を仰ぐ。
話の流れがわからずついていけないシロに、大樹が申し訳無さそうに説明する。
「残念ながらここで話をするしかなさそうですね。
え、理由?ははは、聞かないで下さい。家庭の事情というやつですよ。」
「は、はあ、了解でござる。」
正直理解できなかったが、話を聞く立場なため贅沢は言えない。
衆人環視の中で話をするのは落ち着かないが、我慢するしか無さそうだ。
「今日、こちらに伺ったのは――――」
本題に入ろうとしつつも、シロは躊躇っていた。
ここに来る前の、タマモとの打ち合わせが脳裏に浮かぶ。
――――いい?あんたに変化球は期待してないから、直球勝負で行きなさいよ。
私は離れた場所から相手の反応を観察するから、出来るだけ核心を突いた質問をしてね――――
ICPOでの取調べの経験はあるが、確かに自分は騙し合いには向いていないと自覚していた。
とは言え、何の前置きも無く、単刀直入に聞きたい事を聞くというのは簡単ではない。
しかしタマモがそうするよう指示した以上、それが自分の役割なのだ。
例え、質問が不自然になるとしても、役割を果たさねばならない。
「今日、こちらに伺ったのは、貴方に教えて頂きたい事があるためです。」
「ふむ、さて、私にお答えできる事なら良いのですがね。」
指を組み、余裕のある表情で大樹は微笑んでいる。
シロは覚悟を決めると、全ての核心であろう質問を投げかけた。
「四年前の夜、美神所霊事務所で起こった出来事に、貴方は関わりがあるのではござらぬか?」
その質問を吟味しているのか、大樹は目を閉じ、何やら考えている。
騒がしいはずの食堂なのに、何故かこの空間だけは痛いほどの緊張感に包まれていた。
「イエスでもあり、ノーでもありますね。」
「どちらなのか、はっきりして頂きたい。」
はぐらかすような大樹の返答に、思わずシロが声を上げる。
だが大樹は力のこもった視線をシロに投げかけ、じっと見据えた。
シロがその視線の意味に戸惑い鎮まったのを見計らい、逆にシロに尋ねる。
「貴女があの事務所の関係者だという事は私も知っています。
忠夫から聞いていましたし、あいつの部屋で皆で撮った写真を見ていましたからね。
それに、忠夫が入院した病院に来ていたでしょう?見かけたのを憶えていますよ。
美神さん、おキヌちゃん、君、そして金髪の少女――たしか、タマモさん、でしたかな?」
「は、はい、それがあの事務所のメンバーでござる。」
タマモの名前が出た事に内心動揺しつつも、何とかそれを押し留める。
ここには自分以外誰もいない。そう相手に思わせなければならないのだから。
「私が知っている事を話す前に、貴女がどれだけ彼らと縁が深いのか教えて頂きたい。
何時彼らと知り合ったのか。何時彼らと行動を共にするようになったのか。何故彼らと行動を共にしていたのか。
それを知らない内は、私から話せる事はありませんよ。」
話を聞きに来た筈なのに、何時の間にか自分が聞かれる立場に立たされている。
話の主導権を完全に奪われている事はシロも自覚していたし、答えるしか選択肢は無い。
そもそもタマモが反応を観察する事が大きな目的であるし、相手が秘密を握っている以上、最初から自分は下に立たされているのだから。
「その問いに答えれば、貴方が知っている事を教えて頂けるのでござるな。」
「…………私にお答え出来る範囲内でなら。」
相手の含みのある答えは気に入らなかったが、文句を言える立場ではない。
そしてシロは大樹に簡単に纏めた内容を話し始めた。
親の仇を討つために横島に師事した事。
六年前、再会した彼らと行動を共にするようになった事。
四年前のあの夜まで、美神所霊事務所の一員として働いていた事。
事務所が解散した後、一年間必死で勉強してオカルトGメンに入隊した事。
大樹は興味深そうに頷きながら耳を傾けている。
息子の活躍を聞くのを楽しんでいるようだが、その鋭い眼差しは最後まで緩まなかった。
「なるほど、確かに貴女はあの事務所と深い関わりがあるようだ。
ですが最後に一つだけ確認させて頂きたい。
貴方は、あのアシュタロスという悪魔が起こした事件には関わっていないのですかな?」
「はい、拙者はその頃は人狼の里におりました故、直接は関わっておりません。
先生達の働きで難を逃れたという話は聞いているのでござるが……それが何か?」
シロの答えに満足したのか、大樹が深く頷いた。
「いえ、特に理由はありませんよ。
それでは私が知っている事をお話しましょう。」
ごくりと唾を飲み、シロが身を乗り出す。
大樹は過去に思いを馳せるかの如く、遠い目で話し始めた。
「あの頃、私達夫婦はナルニアという国に赴任していたのですが、こちらに戻ってくる事になりましてね。
あいつも学校を無事卒業できたようで、これからの進路を聞くためにも私は日本に一時帰国したんですよ。」
黒崎がちらりと腕時計に目を走らせる。
「あいつは美神さんの事務所に就職するつもりらしかったのでね。
一応の就職先は決まっているのかと、その時は安心してナルニアに戻ったのですよ。
そして、それから二ヶ月くらい経った頃ですか……また一時帰国していた私の元に、病院から知らせが届いたのは。」
大樹は目を閉じ、小さく溜め息をつく。
「私が駆けつけた時には、既に忠夫は峠を越していました。
献身的な治療を施してくれたおキヌちゃんに感謝せねばなりません。
目を覚ましたあいつが望んだのは、『誰も自分の事を知らない場所へ行きたい』との事でした。」
「それで、貴方は先生がアメリカへ渡れるよう手筈を整えたという訳でござるか。」
シロの言葉に、大樹が驚いたように眉を上げる。
「アメリカへいかせた話はまだしていなかった筈ですが?」
「実は、先生は今日本に戻ってきています。
そして昨日、拙者の上司と空港で騒ぎを起こして逮捕されてしまいました……」
やれやれ、それで今頃自分の所に聞きに来たのか。
シロの突然の来訪の理由を理解しつつ、一つの直感にも似た疑問が脳裏に浮かぶ。
「あなたの上司?」
大樹の問いに、辛そうにシロが表情を歪める。
シロの脳裏には昨日の横島の形相がよみがえっていた。
互いに返り血で服を染め、血に塗れた拳を振るう姿。
「先生や美神殿とも親しかった人なのでござるが……先生と顔を合わせた途端、突然……
それに、あの優しかった先生のあんな表情は……拙者は見た事が無いのでござる……
きっと四年前のあの夜に、先生は変わってしまったのでござる……」
シロは俯いていた顔を上げると、テーブルに額がつきそうなほど深く頭を下げる。
「だから……お願いでござる!
あの夜何があったのか、どうか教えてもらえないでござろうか!」
周りを囲んでいた社員達も何があったのかと驚きざわめいていたが、黒崎がじろりと睨みつけると、慌てて目を逸らした。
大樹は真摯に頭を下げるシロをじっと見つめていたが、ふっと微笑んだ。
その眼差しから先ほどまでの鋭さは跡形も無く消え去り、穏やかなものになっていた。
「顔を上げてください、犬塚さん。」
大樹の口調が変化した事に気付き、シロが上目遣いに大樹を見やる。
「ふむ、どうやら。
貴女はあいつに惚れているようですね。」
突然の大樹の言葉に、シロの顔が真っ赤になる。
「そそそそそんな事はッ!」
慌てて手を振って否定するシロに、大樹が声を上げて笑い出した。
ひとしきり笑った後、楽しそうにシロに声をかける。
その姿は先程までの手強い交渉人ではなく、息子のガールフレンドと接する一人の父親の姿だった。
「はっはっは、隠さなくても結構。
あいつの事を話す時の、貴女の熱っぽい目を見ればすぐにわかりますよ。
いやいや、ただの馬鹿なガキだと思っていましたが、こんなにかわいいお嬢さんに惚れられてるとはねぇ。」
「あぅぅぅ……」
心を見透かされ照れてしまったのか、肩を縮めて俯いてしまった。
惚れた相手の父親に『かわいい』と褒められた事も手伝い、顔の体温が急激に上昇していた。
「横島専務、そろそろお時間ですが。」
時計を見やりながら黒崎が大樹に声をかけた。
後少しだけ待つように言い、大樹がシロに穏やかに話しかけた。
「犬塚さん。人は変わるものです。
誰しも、惚れた相手が変わってしまっていればその理由を知りたいと思うでしょう。
ですが、どうか、あいつが変わってしまったというのなら、その変わってしまったあいつを受け入れてやって欲しい。
正直な話、四年前の一件は貴女の知る必要の無い事です。
いや、むしろ、あいつのためを思うなら知らないで居てやって欲しい。」
すっと席を立ち、まだ何か聞きたそうなシロに微笑んだ。
「私から言えるのはこれくらいです。
まだ、どうしても聞きたいというなら、あいつに直接聞いてみて下さい。
貴女の想いがあいつの心に届けば、きっと話してくれますよ。」
それでは、と手を振り大樹と黒崎は立ち去っていった。
大樹の部屋へと戻りながら、黒崎が大樹に尋ねた。
「大樹さん、私は四年前の出来事を良く知りません。
ですが誰かに聞かせる内容ではないと察しています。」
「ふむ、君にしては回りくどいね。何が言いたいのかな?」
「差し出がましいとは思いますが、彼女と別れる間際のあれは話しすぎだったのではないでしょうか。
録音機器を持っていない事は最初に確認済みでしたが、どうも彼女の様子は不自然でした。
もしかしたら、他にも誰かがいたのかもしれません。それは大樹さんも気付いていたのでは?」
「ああ、その事か。確かに最後はしゃべりすぎたかな。
私も正直、相手の話だけ聞いてこちらからは何も話さないつもりだったんだが……
あんなに真っ直ぐな目で頼み込まれちゃうと、な。」
さっきのシロの真摯な表情を思い出し、大樹が苦笑いを浮かべる。
丁々発止の腹の探り合いや、駆け引きという名の騙し合いばかりのビジネスの世界に身を置く大樹には、あれはあまりに眩しすぎた。
相手の話だけ聞いてさっさと切り上げようと思っていたのだが、気付けば余計な事まで口走ってしまっていた。
黒崎が言った、第三者の存在も直感のようなもので感付いていた。
というより、さっきのシロの質問は単刀直入すぎた。
答えを聞くためというよりまるでこちらの反応を窺うためのようで、それはつまり他に観察者がいた可能性が高いということだ。
「ま、良いさ。後はあいつの問題だからね。言うか言わないかはあいつの好きにしたら良い。
それにしても、良いコに惚れられたもんだな……あの馬鹿息子にしては。」
くくっと喉を鳴らすと大樹は扉を開けて部屋へと入っていった。
「お疲れさん、なかなか良い仕事してたわよ?」
昼休みが終わり、社員達が各自の持ち場に戻った頃、一人食堂に残っていたシロの肩にぽんと手が置かれた。
シロが振り返ると、何処に隠れていたのか、タマモがいつものすまし顔で立っていた。
「すまんタマモ……結局、拙者では何も聞き出せなかったでござるよ……」
がっくりと肩を落とすシロに、タマモがやれやれと首を振る。
大樹の話の進め方を離れたところから見ていたタマモにはわかっていた。
彼は最初から、何も明かすつもりなど無かったのだと。
「最後のあの言葉を引き出したのはあんたの手柄よ。
自信持ちなさいよ。きっと私じゃ無理だったわ。
でも、これからどうしようか?他に知ってそうなのは美神さんくらいだしね。」
考え込むようなタマモの言葉に、ふとシロが顔を上げる。
「タマモ。」
その瞳に浮かぶ決意を読み取り、思わずタマモがたじろいだ。
「あんた、まさか――――」
シロはこくりと頷くと、静かに席を立つ。
タマモに背を向け、食堂から出て行こうとするが、慌ててタマモがその肩を掴む。
シロは振り返り、タマモの瞳を真っ向から見据える。
「拙者達が間違っていたのでござるよ。
大樹殿が言われていたように、知りたいのなら誠意を尽くして先生から聞くのが筋でござろう。
今考えれば、こそこそ嗅ぎ回るなど先生に対してあまりに失礼でござる。」
「ちょ、あいつはもうあんたが知ってる横島じゃないのよ!?
下手に弱みを見せたら何されるかわかんないのよ!?」
「先生はそのような人ではござらん。」
タマモの言葉をキッパリと否定すると、確かな足取りで歩き去っていった。
シロの後姿を見送り、タマモが大きな溜め息をつく。
あーもう、と苛立ちながら眉間を押さえていたが、気持ちの整理がついたのか顔を上げる。
「ま、あいつの性格じゃ、こうなるのも仕方ないか。
あの人の匂いも覚えたし……汚れ役は私一人で充分よね。」
あの横島とて、流石にシロに酷い事はしないだろう。
だがもしも、もしも仮に、横島がシロを傷つけるようなら――――
すっと髪をかき上げ、シロとは逆の方向へと歩いていった。
「横島専務、そろそろ退社のお時間ですが、どうされますか?」
とっぷりと日も暮れ、夜の街が賑わいだす頃。
通勤の際の運転手も勤めている黒崎が大樹の部屋に顔を出した。
「おっと、もうそんな時間か……
少し片付ける事があるから車を出しておいてもらえるかな。」
頷いて部屋から出て行った部下を見送り、散らかったデスクの上の整理を始める。
テキパキと書類を分け、小物を机の引き出しにしまい込んでいく。
最後にデスクに鍵をかけ、ロックされたか確認すると、大きく伸びをする。
さて帰ろうかと思っていると、不意に声をかけられた。
「あら、お仕事は終わったの?」
素早く視線を走らせ、声の方向を確認すると、自分以外誰もいなかった筈の部屋に一人の女性が現れていた。
扉にもたれかかり腕を組むその姿は、どこか挑発的で男を惑わすような雰囲気を身に纏っている。
ブラウスにタイトなスカートというフォーマルな装いは、会社という空間に上手く溶け込んでいる。
だが、大樹はこの相手を知らなかった。
透き通るような金髪を九房に分けるという特徴的な髪形は、そう簡単に忘れるとは思えない。
そこでふと思い出す。
会社ではない場所で、まだ少女だった頃のこの女性を目にしていると。
「確か……タマモさん、だったかな?」
相手が自分を知っていた事が意外だったのか、タマモがへえと微笑む。
その仕草を肯定と判断し、大樹もタマモに微笑みかける。
息子から一度聞いていただけなのに、我ながら良く覚えていたものだ。
だが、いったい何時の間に――――
自分に気付かれないように部屋に入るなど、常人には不可能だ。
あの事務所のメンバーだったという事も考えると、何か霊能力を持っているのかもしれない。
油断無くタマモの動向を窺いながら、大樹がゆっくりと近付いていく。
唯一の出入り口の扉にタマモがもたれかかっているので、このままでは部屋を出られない。
手を伸ばせば届く距離まで近付くと、大樹が穏やかな声で申し出た。
「何か御用なのかもしれませんが、生憎と私はもう勤務時間が終わってしまっていてね。
また明日、アポを取ってお越し頂けるかな、タマモさん?」
だが、タマモはくすりと妖艶な笑みを浮かべると大樹の頬に手を伸ばした。
「ふうん、もうお仕事は終わりなんだ?」
「ええ、残念ながらね。」
頬に手が触れるのを感じながら、大樹がタマモの瞳をじっと覗き込む。
タマモがシュッともう片方の手で大樹のネクタイを緩めた。
「なら、これから二人でどこかへ行かない?
勿論……嫌なら諦めるけど。」
ええ、残念ですが、遠慮しておきます。
そう告げる筈だった。
だが、実際に大樹の口から出た言葉は――――
「無論、喜んで御一緒しますとも。」
「遅いな、大樹さん……」
何時まで経っても下りてこない上司に、黒崎が腕時計を見ながら首を傾げていた。
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