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「湯煙狂詩曲(GS)」

迷彩海月 (2006-01-13 15:05/2006-01-14 18:36)
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これより始まるは、一人の少女にまつわる狂詩曲。

歌い上げる少女の名は氷室キヌ。

あなたの知る物語からは、少しだけ成長した少女。

その物語は……あなたご自身の目でお確かめください。


−1−


「わりぃ、おキヌちゃん、弓。あたし、ちょっと用があってさ」
 色を抜き、たてた髪に蓮っ葉な口調。一文字魔理は鞄を持たない左の手をたて、謝罪のポーズをとる。
「はいはい、わかってますから、早くおいきなさい」
 魔理とは対照的に優等生然とした女学生は弓かおりだ。呆れたようにしっしっと手を振る。
「そうですよ、一文字さん。早く行ってあげてください」
 両手で鞄を体の前に持ち、しとやかな、というよりは暢気な風情の声で話すのは氷室キヌ、おキヌちゃんである。ほほえましく見送る言葉の中にはどこか照れがある。

 仲良し三人組……と言う呼称は正しいのかどうか。それより深い仲か腐れ縁か。
 ここはGS界の名門と呼ばれる六道女学院。この女学院の霊能科で三人が顔を合わせてから、すでに二年の月日が流れている。
 おキヌと魔理の進学が危うかったこともあったが、かおりの懇切丁寧なスパルタ指導で無事三人ともが最上級生となった。
 切磋琢磨し、さらに仲を深めた三人だが、最近はその関係にも微妙に変化が訪れた。
 学院から三人で一緒に下校して、そのまま甘味処に行ったりブティックを冷やかしたりするのが常であったのだが……

「ホ、ホントすまねぇ。じゃ、また明日!」
 そわそわと落ち着きなく校門をちらちらと見ている魔理。魔理は、二人の了解を取ると全力で駆けていく。その原因はといえば、校門で女学生たちに避けて通られているのも気づかず、隠れるはずのない巨体を必死に隠そうとしている大男のせいで間違いないだろう。先ほど魔理に睨みつけられての行動だ。
「まったく、色ボケも大概にして欲しいですわ」
 そういうかおりの口調は、内容に比べて存外優しい。視線の先では、校門についた魔理が陰に隠れていた大男を一発殴り、その袖を引いて連れて行く。
「でも、二人とも幸せそうですね」
 おキヌには、ぺこぺこと謝りながら袖を引かれついていく大男と、その袖を引いて歩く、肩を怒らせながらもどこかうれしそうな魔理を見て取れた。なぜだか少しだけ胸が痛む。
「そうですわね……一文字さんとタイガーさん、付き合い始めて二ヶ月だったかしら」
 もう二人は見えなくなったが、足を止めたままかおりは少しだけうらやましそうに言った。その目は少し遠くなっている。

 大男、タイガーことタイガー寅吉と魔理の二人は、ちょうど二ヶ月前から付き合っている。出会ってから優に二年はたっているが、いい感じになっても動こうとしないタイガーを焦れての魔理からの告白から始まった付き合いだ。その始まりはそのまま現在までの二人の関係を決定してしまったようで、結婚もしていないのにタイガーはすっかり魔理の尻に敷かれていた。
 それでも、なんだかんだで二人はうまくいっているようだ。今ではタイガーに仕事がないとき、魔理はいつも早めに帰り二人でデートすることもしばしば。今日は特に仕事がなかったであろうタイガーが、待ちきれず魔理を迎えに来たようだった……今が恋の花盛りである。

 遠い目をしたままのかおりに、おキヌは少しだけいたずらしてみる。
「雪之丞さん、早く帰ってくるといいですね」
「まったくです。あの猿は待たされる女の苦しみというものをわかっ……」
 ぼーっとしたままそこまで言って、かおりはあわてておキヌに向き直った。
「ち、ちがいますのよ?誰が雪之丞の心配なんかするもんですか!」
 弁明するかおりの顔は真っ赤で、うそをついているのがバレバレだ。ぶんぶんと腕を振りながら抗議する姿に、おキヌはほほえましさを感じた。
「雪之丞さん、いっつもどこかに行っていましたけど、今回は長いですから……」
 全く聞こうとしないおキヌに弁明をあきらめると、かおりは少しだけ寂しそうに話しだす。
「今回はお父様の依頼で弓家のお仕事ですから。今まで雪之丞がこなしてきた仕事とは勝手も違うでしょうし、しょうがないんですけどね」
 そこまで話してかおりは微笑んだ。その笑顔は本当に幸せそうで、おキヌはやはりなぜか心がキュッと痛んだ。
「でも、この依頼をこなせばお父様も雪之丞をきっと認めてくださいます。まったく、ただ交際の許しを得るのにどうしてこんなに手間をかけなければいけないのか……お父様も頭が固すぎですわ」

 雪之丞とかおりが実質恋人同士になってから、もう一年以上もたつ。
 初めのうちは一々親に報告するものでもなかろうと思っていたのだが、ある日、かおりに縁談が持ちかけられたのだ。弓式除霊術の跡継ぎたるかおりのこと、むしろそれまで婚約者がいなかったことすら不思議ではあるのだが……親ばかの父親がかおりを手放したくなかっただけだという情けない理由があったりする。
 ともかく、そんな父親もついに決心し、せめて娘にふさわしい男をと自らが見定めた相手との縁談をまとめようとしたのである。かおりとしてはたまったものではない。
 いくら言ってもこれがお前がもっとも幸せになれる道なのだと、いうことを聞かぬ父にかおりはついに雪之丞を紹介した。一度は魔族の手先となり、現在でも裏の仕事を請け負うこともある雪之丞……当然、かおりの父親は怒り狂って雪之丞をたたき出した。
 まぁ、そんな出会いでは会ったのだが、根気よく続くかおりの説得と雪之丞の請願についにかおりの父も折れたようだ。雪之丞のGSとしての資質を見るため依頼を出し、これをこなせば交際を認めるとした。
 ずいぶん長い間続いた話しだ。かおりもやっと一息といったところである。

「良かったですね本当に。おめでとうございます、弓さん」
「ええ。ありがとう、氷室さん」
 おキヌはかおりの笑顔に幸せを分けてもらったような心持がした。しかし、先ほど感じた心の痛みがわずかながらも続いている。
「では、私たちも帰りましょうか」
 自分の幸せな表情に気づいたのか、かおりははっと気づくと照れくさそうに声をかけた。
「はい」

 二人は、他愛ない話をしながら下校した。
 おキヌはその間にも続く鈍い痛みに、ついにはかおりの顔を見れなくなり、今日は一文字さんもいないことですしと、寄り道はせずにかおりと別れ帰途についた。


 不意に痛んだおキヌの心。その痛みの名は、嫉妬といった……


 ただいま、の声にこたえたのは人工幽霊壱号の声だけだった。美神、横島は仕事。シロとタマモは部屋にいるらしいが、屋根裏部屋まで声が聞こえるはずもなく、かといってわざわざ人工幽霊壱号によんでもらうほどの急ぎの用があるわけでもない。おキヌはこの美神除霊事務所にある自分の部屋へと向かった。

 自分の部屋につくと、おキヌは制服姿のままパフっとベッドに仰向けに倒れこんだ。
「あーあ。一文字さんも弓さんもいいなぁ……」
 天井を見ながらつぶやいてみる。脳裏に蘇るのは幸せそうな魔理とかおりの顔、そしてもう一人……

「横島さん……」
 高校在学当時、クラスメートたちが受験勉強で忙しい中、早々と美神除霊事務所に就職の決まった横島は美神の命で妙神山に修行に行き始めた。在学中はそれでも高校への出席や、卒業関係のこまごまとした用を片付けにたびたび帰ってきていたのだが、卒業してからは完全に住み込みでの修行であった。
 修行の間はほとんど顔を見ることすら出来なかった横島が修行にとりあえず区切りをつけ、仕事に復帰したのはそう前の話ではない。
 横島に会えなかった期間、おキヌは横島への思いの重さを再確認していた。
 それに加えて以前より雪之丞と付き合っていたかおりに続けて、魔理もタイガーと付き合いだしたのだ。
 おキヌはがらにもなく焦りのようなものを感じていた。


 二年たつ。
 それはおキヌが300年のときを経て、再びこの世に人として生きるようになってからの年月だ。
 この二年の間に、身長は伸びたし、胸もふくよかになり、全体的に体は女性としての丸みを増した。
 しかし心は小ずるくなったと、おキヌは思う。

 肉体に精神は引きづられるというが、その通りだとおキヌは実感していた。

 生き返ったばかりのころは何もかもが新鮮で、面白くて。新しいことを学ぶ楽しさを知ったり、横島のスケベに憤慨してみたり……
 今でもそれは同じなのだけれど、それ以外に自分には欲が出てきたと思う。

 しかも、それは多分憤慨していた横島のそれと同じようなもので。


 綺麗になりたい。綺麗になって横島さんに振り向いて欲しい。

 お出かけしたい。横島さんと二人きりで、どこか自分たちを知る人のいない土地へ行ってみたい。

 横島さんと手をつなぎたい。横島さんに抱きしめて欲しい。横島さんとキスしたい。横島さんと……


「っ……」
 そこまで考えたおキヌは、ぼっっと顔を真っ赤にした。人工幽霊壱号だって、個人の部屋を盗み見るようなことはしないだろう。誰も見てはいないのはわかっているけれど、うつぶせになって枕に顔を思いっきり押し付けた。そのまま足をばたばた。

「ぷはっ」
 危うく酸欠になりそうになってからおキヌは顔を上げた。
「私ったら、そんな、横島さんと、なんて……」
 一人つぶやいたらまた恥ずかしさが襲ってきて、おキヌの顔は真っ赤に染まった。


 頭を冷やそうと思って、おキヌは顔を洗いに洗面所に向かった。

 いつもはお湯を混ぜてぬるま湯で顔を洗うのだけど、あえて冬の冷たい水で顔を洗う。
 そうすると、ほほの火照りもようやく冷めてきた。
 ぬらしたままの顔で、鏡を眺める。


 でも……

 どうしたら、なれるのかな?

 横島さんと、恋人に…… 


 覚めた頭に浮かんだそれは、特にここ最近幾度も考えることだ。相手はあの横島だし、何度も考え直そうとした。それでも、自分が他の男と、と考えると何かしっくり来ないし、横島が自分以外の女性と、と考えるともやもやする。
 やっぱり自分は横島が好きなのだと、おキヌは思わざるを得ない。

 でも、具体的に考えても良くわからない。
 週刊誌やワイドショーで言ってるようなドロドロした恋愛は、自分とは遠すぎる気がした。
 かといって、300年前の恋愛とも少し違っているだろう。
 魔理やかおりに聞けばいいとも思うが、それはなんだか恥ずかしい。

 顔をタオルで拭ったおキヌは、うーんうーんとうなりながら自分の部屋へ戻っていく。


 と、洗面所に行くときは気づかなかったが、事務所のドアが少し開いているのに気づいた。中からは賑やかなテレビの音が聞こえてくる。
 美神は出かけているはずだが、だれかテレビでも見ているのだろうかと覗いてみるが、中には誰もいなかった。
「もう、シロちゃんかタマモちゃんね。見ないときはテレビを消しなさいって言ってるのに」
 しょうがないなぁ、とテレビを消そうとする、が。おキヌの目と耳はテレビに映し出されたそれに釘付けになった。

『この冬、温泉が熱い!』
『気になるあの人と二人でいかが?いつもとは違う場所で、いつもとは違う二人……恋愛成就間違いなし!』
『さぁ、今すぐお電話を!予約はお早めにお願いします。今なら明日からの宿泊もOK!電話番号は……』

 それは、稼ぎ時の冬に客を獲得せんとする、とある温泉宿だった。様々な温泉を紹介する番組の中の一コマであったが、その煽り文句がおキヌにクリティカルヒットした。
「こ、これ!これよ!えっと、メモ帳とボールペンは……」
 デスクの上に載っていたメモ帳から一枚破り、テレビに映し出された電話番号を書きとめていく。

「この温泉に二人で行けば、きっと……きゃー!」
 顔を赤くし、クネクネと身悶えるおキヌ。

 温泉旅行に二人で行くような男女は、すでに深い仲ではなかろうか、などという常識はおキヌの頭からすっぱり抜け落ちている。

 おキヌの頭の中はすでにピンクの花で埋め尽くされている上に、ぬくぬくとあったまって温泉などに行かなくてもいい湯加減であろう。


 だから、おキヌは気づかなかった。ソファの下からその姿を見つめる影に……


−2−


 夜になり、仕事にでていた横島、美神が帰ってきたところで夕食の運びとなった。

 すでに食事が片付いた食卓には、この美神除霊事務所の全メンバーが集まっている。
「はぁ〜食った食った。ごっそさん」
 満腹になった腹をなでるのは、横島忠夫である。食べているときは鬼気迫る勢いであったが、今は本当に満足そうで緩みきった顔つきだ。

「横島クン、あなたもう少し普段からまともなもの食べなさいよ。給料は出してるんだから……体を維持するのもGSの義務よ?」
 呆れた顔つきで眺めるのは美神令子である。最近はすっかり横島の師匠兼雇用主の態度が身についてきた。精神的にも少しは成長したようだ……少しは。

「はいはい!拙者は肉をもっと食べたいでござるよ!」
 立ち上がり手を上げ主張するのは人狼のシロだ。この晩御飯だけでもかなりの量の肉を食べていたのだが、まだ食い足りないらしい。
「肉ばっかり食べてもダメに決まってるでしょ、バカ犬」
 座ったまま即座に却下したのは妖狐のタマモである。相変わらずシロに対しては無碍もない。

「なにをー、この女狐!そういうおまえこそ油揚げばかり食べているでござろう!」
「私はいいのよ。あんたは食べすぎ」
 そのまま食卓をはさんであわや大喧嘩となりそうになる。進歩のない二人だ。

「はいはい、二人ともそこまで」
 それを止めたのはおキヌである。がるるる、うーとにらみ合う二人をぽんぽんと手をたたいて制止する。
 食卓はいつも賑やかだ。


 夕食を食べてから横島が帰るのは、最近の常である。
「じゃ、俺はそろそろ帰ります」
 そう言って食卓を立ち上がる横島。
「はいはい、じゃあ明日も遅刻しないよーに。遅刻したら給料から引くからね」
 机にひじを突き、食後のお茶を飲みながら美神は手を振る。ちなみに、横島は正社員になってから一度だけ遅刻をした。そのときは鬼のような美神に怒られ、その上その日一日はただ働きとなった……以来、横島は遅刻をしていない。
「先生。また明日でござるよ!」
 シロがぶんぶんと手を振る。タマモはスッと手を上げ、短く
「じゃ」
 と言うだけだ。

「それじゃ、おキヌちゃんも。また明日」
 返事の返ってこなかったおキヌに、横島は改めてあいさつをする。
「は、はい……あの!横島さん!」
 もじもじしていたかと思うと、急に勢い込むおキヌ。その声の大きさに、横島だけではなく食卓にいた全員の視線が注目する。
「何?」
「その、あの……なんでもありません。また明日……」
 視線に気づいて、おキヌはしゅんと縮こまると別れのあいさつを告げた。


 実は、おキヌは思い立ったが吉日とばかりに、早速今日横島に温泉の話をしようと思っていた。
 しかし、除霊の仕事から帰ってきた横島と美神は、そのまま書類などをはさんで明日の仕事の話を始めてしまい、結局おキヌが話しかける機会はなかったのだ。

 おキヌはあせる。なぜかはわからないが、今日誘わねば成功しない気がしたのだ……それは女の勘とか、そんないいものではなく、ただおキヌの勢いが失せずに誘いをかけられるのが今日のうちだけだと言うのを無意識に感じているだけだったりするのだがさもありなん。
 結局は今日でなくてはいけないのだから、おキヌのあせりも正しいのだ。


 横島は煮え切らないおキヌの態度に不審を覚えたが、月のものだろうと失礼なあたりをつけた上に勝手に納得し、
「じゃ、おキヌちゃん。最近は冷えるから、腰とかあっためるといいよ」
 と、見当違いなアドバイスまでして出て行った。

 おキヌはがっくりとするが、まだだ、と自分を奮い立たせる。見上げた根性である。
「あ、あの、美神さん。じゃあ、私もそろそろ部屋に戻ります」
「そう。今日は宿題でもあるの?」
「えっと……は、はい!そうなんです!宿題があるんです!ですから、可及的速やかに部屋に戻らなくちゃいけないんです!」
 息巻くおキヌに気圧されて、美神は、
「そ、そう。頑張ってね」
 と、おキヌを見送った。おキヌは失礼しますの声さえ置き去りに駆けていく。

 美神と、ついでにシロも見慣れぬおキヌに唖然としていると、
「じゃあ、私も失礼するわ」
 と、タマモも続けて立ち上がった。美神とシロは唖然としたままそれに気づかない。タマモは呆れた風情で肩をすくめると、二人を尻目になぜかうきうきと部屋を出て行った。


「あ、あの!横島さん!」


 事務所から出て、すぐに横島は声をかけられた。
「あれ、おキヌちゃん。どうしたの?俺、なんか忘れ物でもしたかな?」
 おキヌはコートも羽織らず、ひどくあわてた様子である。
「えっと、ですね。その、ですね……」
 しかし横島の顔を見ると、とたんにうつむいてしまった。両手の指をつき合わせて、なにやらもじもじとしている。
「えーと……その恰好じゃ寒いだろうし、とりあえず事務所に戻ろうか」
「だ、ダメです!」
 見かねて提案した横島の言を、おキヌはすぐに否定した。
 おキヌは、自分の剣幕に驚いている横島をきっとにらみつけるとわずかに赤い顔で叫ぶように言う。


「あの!……温泉に行きませんか!」
 赤らんだおキヌの頬、嘆願するように潤んだ瞳。この状況でこの台詞。


 普通は、勘違いするだろう。だが、しかし!横島忠夫は惑わない!

「うん、そうか。わかったよ、おキヌちゃん。そんなに恥ずかしがらなくてもいいって。勘違いなんかしないから。
 急な除霊の依頼だろ?あぁ、わかってるわかってる。じゃ、詳しいことを話してくれる?寒いだろうから事務所へ……」
 横島は己の成長に酔った。かっこい〜、俺。大人な俺がおキヌちゃんのハートをゲットだぜ!


「違うんです……」
 事務所に戻ろうとする横島の上着の端を捕まえるおキヌ。再び顔を伏せ、消え入りそうな声で話しかけた。


「横島さんと、二人っきりで、温泉に行きたいなぁ、って。あの……」


「……」


 返事はない。つかんだ横島の上着をぎゅっと握り。決然として顔を上げた。


「よ、横島さん?横島さはーん!」
 見えたのは、耳とか鼻とか色んなとこから血を流し、白目をむいて気絶する横島忠夫19歳。ナンパと覗きにゃめっぽう強いが、いざとなればしり込みしちまうナイスガイ、だ……ナイスか?


「何やってんだか……」
 そんな二人を事務所の窓から眺める影一つ。

「もうちょっと面白い感じになると思ったんだけど、案外つまらないわね」
 影はタマモだ。実は、テレビの前で身悶えるおキヌを見ていたのもタマモである。


 あの時タマモは、最初はテレビをつけたままソファで眠っていたのだが、どうやら寝ぼけていたらしい。狐の変化であるタマモは、暗い穴の中に入っていたほうが落ち着くのだ。目が覚めると自分はソファのしたで、おキヌがテレビに釘付けとなっていた。
 盗み聞いた声で大体の事情を把握し、おキヌが出て行くのを確認すると、まずタマモは人工幽霊壱号に口止めをした。おキヌに自分がいたことがばれては面白くない。
 人の話してくれる恋愛話ほどつまらないものはない。大概の場合、それは只の惚気だからだ。しかし、盗み見る他人の恋愛沙汰はきっと面白いだろうと思ってのことだった。

 タマモにとって横島とおキヌのその様は期待はずれであったようだ……一体何を期待していたのやら。


 もう飽きてきたなぁ、見るのやめようかな、とタマモが思い始めた時、部屋のドアが急に開いた。
「おーい、タマモ。デザートはいらんでござるか?」
 ドア口に立って呼びかけるのはシロだ。あっけにとられたのからは割かし早く復活したらしい。左手に持った皿には餅が満載されている。右手にはあんこの缶詰だ。夕食後のデザートにしてはいささか重いが、シロにしては珍しくタマモへの純粋な好意ゆえの行動のようだ。
「夕飯も食べたし、バカ犬みたいにガツガツしてないからもう食べられないの」
 窓の外を眺めたままひらひらと手を振るタマモ。
「な、なんだとー!拙者はそんなにガツガツしていないでござる!……まったく、たまには仲良くしてやろうと思ったらこれだ……もういい!拙者一人で全部食べてしまうでござるよ!」
 憤慨したシロはくるりと踵を返そうとする。

「あ、ちょっと」
 それをタマモが呼び止めた。何か思いついた風情だ……碌でもないことを。

「何でござるか!餅はやらんでござるよ」
「餅なんてどうでもいいの」
 にんまりとした笑みを浮かべるタマモ。なにやらたくらんでいるようにしか見えない。警戒するシロに、こいこいと手招きしてみせる。
 いぶかしみながらも近寄ってきたシロに、タマモは指を立てしーっとすると窓の下をそっと指差した。

「あれは……先生とおキヌどのでござるな」
「そーよ。どうやら、二人で温泉に行く相談をしているみたいね」
「温泉でござるか!拙者、風呂は嫌いだが、温泉は大好きでござるよ!」
 ぶんぶんと尻尾を振るシロに、呆れた様にタマモは言葉をつなげる。

「あのね、あの二人は、ふ・た・り・で温泉に行く相談をしてるのよ?二人っきりの温泉。当然泊りがけでしょうねぇ……いくらバカ犬でも、これだけ話せばどういうことかわかるでしょ?」
「えっと、それは、その?」
 さすがに理解したのか、シロの尻尾はだんだんと勢いを失ってうなだれていく。

「先生と、おキヌどのは、その……つがいになるのでござるか?」
「そーなるかもしれないわね。でも、そうならないかもしれない」
 うなだれるシロの耳にタマモがささやく。それは悪魔のささやきだ。

「それは、どういうことでござるか?」
「まだ二人は付き合っているわけじゃないのよ?でも、温泉に二人っきりでなんて行かせたら、確実に横島は手を出すわ」
「そうで……ござるな……」
 普段の横島の姿を思い浮かべるシロ。弟子からの信頼は、少なくとも女に関することではゼロに近い。
「でもね?二人っきりじゃなければ……どうかしら?」
「……邪魔するのでござるか!?」
 思わせぶりなタマモの態度に、ついにシロもタマモの企みを悟る。

「しかし、それはあまりにも……」
 シロは、二人を引き裂くことに躊躇する。

「あのね……」
 タマモは煮え切らないシロに呆れるように言葉を続ける。
「恋愛って言うのは戦いなのよ?なんだかんだでまだおキヌちゃんに決まったわけじゃないし。横島は気の多い男だから……今なら美神にもおキヌちゃんにも、そしてシロ、あんたにもチャンスは平等にあるの」
 本当は、くっついてから手にいれる方法だってあるけどね、とタマモは心の中で続けた。シロには理解しづらいだろうし、今は勢いづかせるためにもそれは伏せておく。
 呆れたような表情で、しかし真摯に語るタマモにシロはだんだん引き込まれていく。タマモの口元がかすかに笑っているのには気づくことは出来なかった。

「そうでござる!恋愛は戦いでござる!拙者は勝つでござる!勝って、先生と添い遂げるでござるよ!」
 シロは燃えている。間違ったことでもないのだが、見事にタマモの術中にはまっていた。

「では、早速二人に話をつけてくるでござるよ!」
「……」
 こいつは何を言い出すのだろう、という目でシロを見やるタマモ。

「何の話を付けに行くの?」
「それは、もちろん拙者も温泉に連れて行ってもらうように先生とおキヌどのに頼みに……」
 自信満々で語るシロの台詞をタマモがさえぎる。
「だからバカ犬だってのよ、あんたは!」
「拙者のどこがバカ犬だと言うのか!拙者はバカじゃないし、犬でもないでござるよ!」
 反射的に言い返すシロをタマモは静かに諭す。

「あのね、あんたが連れて行ってくれって頼んだところで、あの二人が聞いてくれると思う?……思うのよね。だからそんな考えが頭に浮かぶんだから」
 軽く頭痛がして、タマモは頭を抑えた。
「いい?良く聞きなさい。そんなことはないの。言ったでしょ、これは戦いなのよ?」
 神妙に聞くシロに話を続ける。
「今回一番効果的なのは、不意打ちね」
 一番と言うのは、一番面白くなりそうだ、と言い換えてもいい。
「不意打ち……でござるか?」
「そうよ。おキヌちゃんたちが行くのに合わせて、温泉に偶然居合わせたことにでもしてその現場に乗り込むのよ」
「なるほど……」
 得心のいった顔でシロはうなずく。本当にわかっているのであろうか?そんな方法をとったら待っているのは100%近くで修羅場である。
「なんか、あんただけじゃ心配になってきたし、私もついていってあげるわ」
「うぅ……すまないでござる。まさかタマモにこんなに助けられるとは。拙者、感激したでござるよ」
 シロはすっかりタマモを恋愛の師匠として信頼してしまったようだ。もちろん、タマモがついていくのは見物のために決まっている。

「……これで、少しは楽しめそうね」
「何か言ったでござるか?」
「なんでもないわよ」
 くふふ、と顔を隠し含み笑いをするタマモ。シロはそうか、と気にも留めずに温泉へと思いをはせた。


 そんなわけで、おキヌのあずかり知らぬところで温泉への同行者が二人ほど増えていた。


 一方おキヌの方はというと。


「今度の週末なら二人とも休みですし、ちょうどいいと思うんです」
 吐く息も白く、部屋着だと言うのに少しも体温が下がる気がしない。おキヌは赤い顔のまま話し続けていた。

「あの、本当に?」
 色んなとここから吹き出た血がやっと止まった横島は、まだ半信半疑だ。なぜか下手になっていたりする。

「本当です。それで、いいですよね?」
 ここが押しどころだとばかりに逆におキヌは強気だ。

「あ、あぁ」
「じゃあ、宿の手配とか交通手段とかは私が手配しておきますね。細かいことはあとから連絡します」
 腑抜けた横島相手に、おキヌは一方的に近い言葉で約束を取り付けた。

「わかった……」
 横島の返事を聞き、満足そうに微笑むと、おキヌは別れのあいさつを告げた。
「それじゃあ、横島さん。また明日」
「また明日……」
 横島は相変わらず抜けた表情のまま鸚鵡返しに返事をした。

「それと」
 事務所のドアに立って、おキヌは横島を振り返る。
「楽しみにしててくださいね、温泉!」
 それは何かの宣言か、おキヌはそれだけ言い切るとドアの向こうに消えた。


 ドアの手前に残された横島は、いまさら我に返ると
「こ、これは……何かの罠か?しかし、最近おキヌちゃんに怒られるようなことは何もばれてないはず……」
 などと邪推している。

「だが!」

「だがしかし!おキヌちゃんと温泉だ!」
 横島の脳裏ではすでにおキヌは真っ裸だ。

「それともこれは、もう、あれか?おキヌちゃんで行けと言う神の思し召しなのか?」
 横島の中で、おキヌの勇気は神の思し召しに置き換えられたようだ。

 ひゃっほぅとスキップしながら帰途に着く。
 どうやら、欲望が疑惑に勝ったらしい。と、言うか……そのどちらもいま天秤にかけるべき事柄ではない。

 なんだかおキヌが哀れになるが、おキヌの真摯な気持ちに気づきもせずに浮かれる横島であった。


 ドアの向こうへと消えたおキヌは、駆け足で自分の部屋へと向かった。

 バタンと勢いよく扉を開け閉めする。そのままベッドへ飛び込んだ。

「きゃー!きゃー!誘っちゃった!誘っちゃった!ど、どうしよう……えっと、とりあえず宿に連絡して、予約を取って、それから新しい服とかも買いに行かなくちゃ。あとは、新しい下着と、か……きゃー!」
 ベッドの上でじたばたじたばた。赤くなったままの頬は変わらず、しかし表情はくるくると変わる。


 今、おキヌは間違いなく幸せである。好きな人との旅行を取り付けたのだ。その胸は膨らむばかり。


 願わくは、男の愚かさ、あるいは犬と狐の企みにこの少女の幸せが崩れんことを祈りたい……


−3−


 朝の清涼な空気が立ち込める美神除霊事務所。静寂を破ったのは、ドアを開く音である。
「う、うーん……さて、と。今日も稼ぐわよー!」
 軽く伸びをしながらドアを開けて入ってきたのは美神だ。

『おはようございます、美神オーナー』
 誰もいない空間から声がする。否、これは部屋自体から響く声だ。この美神除霊事務所の建物に宿る人工霊魂、人工幽霊壱号である。

「おはよう、人工幽霊壱号。おキヌちゃんはもう出たの?」
『はい、すでに出発しました。朝ごはんは作っておいたので、食べておいてくださいとのことです』
 おキヌは、昨日美神に、週末の休みを利用して実家……氷室神社に帰る旨を伝えている。氷室神社からも早苗から電話があり、久々に会いたくなったからおキヌちゃんに帰ってきてもらう、と電話があった。

 もちろん、おキヌの行き先が里帰りなどではなく、横島との温泉旅行であることは知っての通りである。
 おキヌの手回しは用意周到だ。宿や交通手段の手配を終えたおキヌは、氷室神社の早苗に連絡し、協力を取り付けた。おキヌのことを姉妹のように思ってくれている早苗だ。おキヌの恋のためだと聞いて快く承諾してくれた……もっとも、相手が横島であることだけは伏せてある。そんなことを話したら、確実に早苗は邪魔する側へとまわっていたことだろう。つくづく、信用のない横島である。もっとも、その横島に信用が置けないのは正しいのだからまた泣ける話である。

 朝も早くから朝食を作ってくれたおキヌに、さっすがおキヌちゃんねーなどとつぶやいて笑顔になる美神……おキヌの所業もしらず、いい気なものである。きっとそれがばれる時、美神からの怒りを一身に受けるのは横島であろうが……
「うんうん、今日は休日で横島クンも休みだけど、大口の仕事があるから気合入れるわよ」
 とにかく、今は美神もご機嫌だ……今は。

「シロとタマモは起きてる?今日のは簡単な除霊だけど、時間がかかるのよ。あの二人にもそろそろこういうのも覚えてもらわないとね」
 と、いうよりは押し付ける気満々である。
 今日の除霊で必要なのは、精緻な魔方陣である。かつて女神アルテミスを寄せたときに使ったほどの規模ではないが、一人では描ききるのに丸一日はかかる。大変な労力に違いない。

『それが、ですね、二人は起きていることには違いないのですが……』
「どうしたの?」
『……デスクの上の手紙をご覧ください』
 見れば、そこにはちぎったメモが置いてある。珍しく言いよどむ人工幽霊壱号をいぶかしみながらも、美神は手紙を手に取った。

 たいしたことは書いてないだろうに、美神はしばらく無言でいた。
『み、美神オーナー?』
 恐る恐る声をかける人工幽霊壱号。


「逃げたのね……?」


 響いた声には、明らかな怒りが込められている。

「いい度胸してるじゃない、あの二人!」
 顔を上げて叫ぶ美神。憤怒の形相は修羅か羅刹か。

「行き先はわかる?人工幽霊壱号」
『も、申し訳ありません!わかりません!』
 自分が怒られているわけでもないのにおびえる。本当は行き先の見当はついているのに、シロとタマモの二人に頼み込まれて美神に教えないことにしている後ろめたさも原因か。

「そう……地の果てまで追いかけてあげるわ、首を洗って待ってらっしゃい!」
 ゴォォォ、と背後で炎でも燃えていそうな風情の美神に、人工幽霊壱号は恐る恐る指摘した。

『しかし、今日の依頼はどうするのです?」
「あー!」

「うぅぅ。あれ、今日描かないと次は一月待たないといけないのよね」
 頭を抱えて葛藤する。月齢や天候も左右するので、場合によってはもっと待たないといけないだろう。そんなことになったら依頼主は他のGSに仕事を回しかねないし、待ってくれたとしても確実に報酬は減るだろう。

 依頼か、怒りか……

「あー、もう。しょうがない、二人を怒るのは依頼を済ませてからね」
 考え込んだ末に、二人への怒りをとりあえずは収め、プロ意識を優先する。別に金の亡者だからではないと思いたい。


 二人の残したメモにはこんなことが書いてあった。

――ちょっと出かけてくるわ。戻るのは明日になると思う。 タマモ
  拙者の未来に関わる大事な用を済ませに行くでござる。 シロ――

 二人が出かけた先は、おキヌの向かった件の温泉である。
 今日の依頼が思ったよりも大きいものであったことを、二人は知らなかった。
 それゆえに二人はとりあえず助かったのだが……同時に、それゆえにたとえ温泉での結果がどうなろうと未来が決まってしまったことも、二人は知る由もないのであった……


 ガタンゴトン……ガタンゴトン……線路をふむ規則的な音が心地よい。こちらは温泉へと向かう列車の車内である。車内にはほとんど乗客の姿はない。シーズンの行楽地へ向かう列車にしては寂しい限りだが、今日一日も遊びに行こうと考えるおキヌがかなり早い時間の列車を選んだがゆえに、それも仕方ないだろう。それに二人の空間を作るならこの侘しさもそう悪いものではない。
 横島とおキヌの二人は、四人がけのボックス席に二人で座っていた。車内は暖房が良く効いてぽかぽかと暖かい。おキヌも横島も上着を脱いで置いている。

「あの、横島さん。冷凍みかんでも食べませんか?」
「うん。もらうよ、おキヌちゃん」

 向かいの席に座る横島に、袋から取り出した冷凍みかんを手渡すおキヌ。


 どうすりゃええんじゃー


 澄ましてはいるが、横島は混乱していた。

 相手はおキヌなのである。おキヌのことは覗いたり、セクハラしたり、そういうことをしていい相手じゃないと横島は思っていた。もちろん横島であるから、実際の場面になってしまったら目の前に餌をぶら下げられた狼のように飛び掛ってしまうこともある。でも、おキヌというのは横島にとっては聖域みたいなものなのである。

 いざ、目の前にしたら飛び掛ったりとか、そんなことは出来なかったのだ。


 す、据え膳にしか見えんのに……


 ここで抱きついたりしてしまったら戻れない気がする。なにせ、ここにはそれを止める人間などいないのだ。

 いろんな意味でそれで良いのかーとか考えてみたりする。


 横島には自分の気持ちなどわからない。

 おキヌの気持ちなど計ろうともしていない。

 だって、おキヌの気持ちを少しでも考えると、それは……


――    ――


……


「どうかしました?横島さん」
 はっとする。耳には再びガタンゴトンと線路を行く列車の音が蘇り、目の前には心配そうな顔をしたおキヌの顔があった。

「いや、なんでもないよ、おキヌちゃん」
 そう言って横島は、視線をおキヌからはずして窓の外の景色を眺める。流れていく景色はいつもの景色とは違っていて、横島は欲望とか抜きに、旅への思いで少し沸き立つ心を感じていた。


 そんな横島を眺めながらおキヌは物思いに耽っていた。

 あんなに悩んで、あんなに緊張して、あんなに待ち望んでいた今日なのに、おキヌの心は不思議と落ち着いている。
 それは、もちろんここにおキヌ認定のライバルである美神やシロがいないから、などという理由ではない。いや、それも少しはあるかもしれない。

 ただ、何かもう幸せだったのだ。

 だって、横島さんと旅行に行くのだ。


 だって、横島さんと二人っきりなのだ。


 だって、好きな人に思いを伝えられるのだ。


 考えるだけで、おキヌの心は浮き立つのを通り越して、幸せを感じてしまう。

 思いを伝えた後のことなど考える必要はない。ほら、伝えると考えるだけでこんなに胸が温かくなるのだから。


 今、この時が永遠に続けばいいと思う。

「温泉、楽しみですね横島さん」
「そうだね、おキヌちゃん」


「へーっくしょん!ぶるるる……ここは、少し寒いでござるな。もう少しどうにかならんでござるか」
 と、シロが相棒に話しかける。がたがたと震えて寒そうだ。
「我慢しなさいよ……そりゃ、私だって少しは寒いと思ってるけど」
 シロの声にこたえたタマモは、やっぱり寒そうだ。

 そんな二人がいるのは列車の屋根の上である。
 なぜそんなところにいるのかというと、だ。

「しょうがないじゃない、お金が足りなかったんだから」

 と、言うわけである。

 おキヌはそれなりの金額を給料として美神に払ってもらっているし、正社員である横島は言わずもがな。おキヌと横島の二人に関しては金銭の問題は全くなかった。
 しかし、美神除霊事務所の居候となっているこちらの二人の収入は、美神からもらう小遣いだけだ。最近はよく除霊を手伝っていたし、少しは増額されているが所詮お小遣い。ためていた分を全て使っても、宿の宿泊料を払ったらあとはほとんど残らなかった。
 そんなわけで今に至る。

「よく考えたら、ヒッチハイクでもして向こうについてから二人を探せば良かったわ……どうせ行き先は同じなんだし」
 なんとなくおキヌについていって、駅で初めて金が足りないのに気づいたりしたのである。

「そういうことは早く思いつくでござるよ!」
「今思いついたんだからしょうがないでしょ!」
 そのまま大喧嘩になりかとなりかける、が。風が吹いた。高速で走る列車の屋根に吹く風は冷たい。二人は押し黙って身を寄せた。


「……とりあえず、次の駅で降りようか」
「……そうするでござる」
 浅はかな二人であった。


−4−


 いくつか列車を乗り継いで、目的地へと向かう。横島とおキヌの会話は尽きず、長い列車の旅の最中も車内は暖かかった。

 二人の乗る列車が最後に大きなカーブを曲がると、目的地の町が見えてきた。海に臨む温泉街だ。
「横島さん!海です、海が見えますよ!」
 列車の窓からは、斜面に立ち並ぶ建物の群れと、それに面して広がる青い海原が望めた。
「おぉぉ……」
 かなり早い時間に出てきたが日は高く上り、景色を色鮮やかに魅せていた。


 駅に着いた横島とおキヌの二人は、まずは宿へと向かうことにした。
 週末を利用した一泊二日の旅行ではあるが、特におキヌにはそれなりの荷物があったし、身軽になってから遊びに出ようと言うわけだ。

 予約を入れていた温泉宿は二階建てのそれなりに立派なもので、いかにも温泉街にふさわしい風情の宿であった。
「まぁまぁ、良くぞおいでくださいました」
 と、迎える女将も、花の盛りは過ぎてはいてもにおいたつような美人で、鼻の下を伸ばした横島は足元に思い切り荷物を降ろされ悶絶する破目になった。

 部屋まで案内される最中、おキヌはほかに客の姿が見えないのが少しだけ気になった。
「あの、あまりお客さんの姿が見えないようなんですけど……」
「そのことですか。いえね、今日は団体様のお客様がいらっしゃる予定だったのですが、急にキャンセルなさいまして……本日の泊り客は、あなた様方ともう一組の方だけなのです」
 そういって、少しだけ肩を落とす女将。
「でもその分、若いお二人さんのために最高のお部屋をご用意させていただくことが出来ましたから、期待してくださいね」
 微笑む女将に、おキヌは顔を真っ赤にした。

 和室であるその部屋はかなり広く、家族で来ていたとしても広々と過ごせるであろうほどであった。
「それでは、ごゆっくり。出かける際にはフロントに一声おかけください」
 と、女将は説明もそこそこに早々と出て行った。気を使われたようで、なんとなく気恥ずかしい雰囲気が二人の間に満ちる。

 その雰囲気を払うように、横島は畳敷きの先にある机と椅子が置いてある板敷きの間に出た。さらに先にある窓辺によると、障子のはまった窓をあけた。
「へぇ……」
 窓からはこの温泉街が一望できた。電車のときに見えた景色とは逆に上から見る形となっている。ところどころから湯気が立っているのも見える。
 この広さにこの景色。最高の部屋と言うのも誇張ではなかったのかも知れない。

 荷物を置いたおキヌも横島の横に歩いてくる。なんとなくその景色に見とれていた二人であったが、ぐぅ、と突如響いたうなるような異音にそれは破られた。
「はははは……腹減ったな」
 音の正体は横島の腹の虫である。

 おキヌはくすりと笑みを零すと
「それじゃあどこかに食べに行きましょうか」
 といって手提げのバックを手に取った。


 近くの定食屋で昼食をとった二人は、そのまま物見遊山へと繰り出した。しばし悩んだ末に決めた行き先は、植物園である。


 温泉地の植物園……と言っても何のつながりがあるのかわからないであろうが、この植物園では温泉の熱を利用して南国の植物を年中見られる温室を作り、それを売りとしているのだ。

 二人は、ハイビスカスなど、ある種定番どころの原色の花を眺めて歩く。

 冬の日本に咲き乱れる南国の花々。それらは人の手を入れられているとしても、自然の力を持って伸び伸びと育っていた。

 横島がバナナがなっていないのを残念そうに見たり、おキヌは見慣れぬ花々の香りを確かめつつ。互いにそれぞれの花に対する意見を言い合い、二人は楽しく時を過ごした。

 いくつもの温室を抜けて二人が最後に入った温室は、また見事なものであった。


 スイレンの花


 巨大な温室の床一面が水槽になっており、そこに熱帯性のスイレンが咲き乱れている。奥にそびえる白い彫刻の搭からは、スイレンの花を散らさぬよう、静かに水が流れている。あたりには他の観光客の姿はなく、どこか荘厳とした雰囲気に満ちていた。

「わぁぁ……すごいですね、横島さん!」
 興奮に頬を赤く染めるおキヌ。横島はまぶしそうに目を細めて笑った。

 この植物園に来てからずっとそうだったのっだが……横島はおキヌに魅了されっぱなしだ。

 力強く咲き乱れる原色の花々など、おっとりしたおキヌには到底似合わぬと思っていたのに。今日のおキヌは、まるでそれらの花々とともに笑うような朗らかさで。

「来て、良かったですよね。ね、横島さん?」
「そうだね、おキヌちゃん……」
 しゃがんでスイレンを見つめていたおキヌが、そのまま振り返って横島に声をかけてきた。横島の返事に満足したのか、にこりと笑った。

 ついたときにはまだ昼を幾分か過ぎたころだったのに、気の早い冬の太陽はもうその姿を隠そうとしている。

 夕日が温室の透けた屋根を通って、二人とスイレンを茜色に染め上げていた。


「ねぇ、横島さん。覚えていますか?」

 今度の問いかけは振り向かずに行われた。

「……何を?」
 おキヌの声は、まるで彼女が子守唄を歌うときのようにやさしく。思い当たることはなくとも横島は茶化さず、ただ疑問を投げかえした。

「色々……そう、色々です」


「私と横島さんが始めて出会ったときのこととか。私は、あの時まだ幽霊でした」

「美神さんに雇われて、美神さんと、横島さんと、幽霊の私の三人でいたころのこととか。本当に、楽しかったですよね」

「そして、私が消えて。使命を思い出して。死津喪比女と戦って、倒して……私は美神さんと横島さんの別れの言葉を最後に蘇りました」

 おキヌは立ち上がりながら言葉を続ける。視線の先ははスイレンの花。まるで花に語りかけるように。しかし、確かにそれは横島への言葉であった。

「人として蘇った私は、また美神さんと横島さんに出会って……」


 私は、全部覚えてます。横島さんと出会ってから今まで、全部。


 そうつぶやいて、おキヌは横島に振り返った。


「覚えてますか?あのガルーダやグーラーと出会った館で、二人きりになったときのこと」


「えーと?」
「あ、その様子じゃ覚えていませんね?ひどいなぁ〜横島さんは」
 一転して茶化すように発せられた問いに、横島は答えられない。

「あの時横島さん、こーなったらもーおキヌちゃんでいこう!とか言うんですもん。傷つきましたよ、私」
「いや、あのときは、そのー。なぁ?」
 少しだけ怒った風情のおキヌに、あわてた調子で横島は答える。何が「なぁ?」なのか、自分でもわからない。

 二年前の横島だ。今でもあんま変わらないけれど、あのころの自分は今よりも節操なかったからなーとか考える。

「あのころは、まだ私は蘇ったばかりで」
 横島の答えにはもともと期待もしてなかったのか、おキヌはまたあとの言葉を続けた。


「横島さんのスケベとか、幽霊のころにはわからなかったことが色々わかって私も色々考えました」

「それから、またいつもの日々が始まって。私も学校に通い始めてお友達がたくさん出来て」

「そんな毎日がずっと続けばいいと思って……」

 そこで、おキヌは少しだけ声の調子を落とした。

「そんな日々の中、横島さんは修行を始めました」

「横島さんと全然会えなくなって、一年も会えなくて」


「気づいたんです」
 微笑むおキヌは、夕日の中で輝いて見えた。


「やっぱりって。でも、横島さんですよ?だから、何度も考え直そうとしました」

「でも、何度考えても最後に浮かんでくる顔は横島さんで」


 少しだけ言葉をきって、下を向くと、もじもじとしながら言葉を続ける。
「最近は、その、横島さんが助平なこと考える気持ちも、少しだけわかったり……」
 言葉尻はどんどん消えていく。言って、おキヌは自分の顔がどんどん赤くなっていくのを感じた。


「よ、横島さん!」
「は、はい!」
 急に顔を上げ、叫ぶように名前を呼ぶおキヌに、横島は気圧された。


「…………大好き!」


 思いのたけを告げ、おキヌは体ごと横島にぶつかっていく。
 呆けた横島はそのまま押し倒されて。


 おキヌは、自らの唇を横島のそれに重ねた。


 スイレンの花言葉は清純な心。
 おキヌにはまことふさわしい花ではあるが、夕焼けに染められたスイレンは、まるでおキヌと横島の二人に恥らっているかのようであった。


 宿へと向かう帰り道、二人の手はつながれていた。あたりはすでに暗くなり、近くの温泉宿からは、暖かな光と夕餉を食べているであろう楽しげな声が漏れてくる。

 おキヌの表情は幸せいっぱい、と言う感じで。繋がった手から伝わる横島の体温を感じては、植物園での自分を思い出して頬を赤く染める。もうこれ以上は赤く染まらないだろうと思うのに、確かに赤く染まっていく気がした。

 そんなおキヌに対して、横島のほうはと言えば……


 混乱していた。


 あぁ、もうそれは言い訳のしようもなく混乱である。


 おキヌちゃんの手あったけーなーさっきそういえばそのおキヌちゃんとキスしたんだよ俺はあーもーちくしょーなんで呆けてたんだあそこはガッとつかんでそのまま押し倒しいやだから押し倒されたのは俺のほうでおキヌちゃんは俺にキスしてあぁおキヌちゃんの手あったけーなーこんなおキヌちゃんと俺はキスして夕日の中のおキヌちゃんは可愛くておキヌちゃんの唇が俺の唇に当たって

――ヨコシマ――

 そうだよ俺はおキヌちゃんとキスしておキヌちゃんは俺が大好きっていてじゃあ俺が好きなのは誰なのかと言えばそんなことしるかーでもおキヌちゃんの気持ちははっきりしていておキヌちゃんは俺のこと大好きって言って俺の気持ちがはっきりしなくてもおキヌちゃんは俺のこと好きなんだろうかあぁそうじゃなくて今考えるべきはおキヌちゃんが俺のこと好きだって言って

――忠夫くん――


……


 思考停止。考えるのに疲れただけともいう。ぷしゅー、と横島の両の耳からは煙が吹いている。

 結局、横島はおキヌの手を握り返すこともせず、さりとて振り払うこともせず。


 二人は、手のひらを通してお互いの体温を感じていた。


 二人は気づいていない。これから待つのは、温泉宿の同じ部屋で一泊すると言う今まで以上の”二人っきり”であることを。

 二人は知らない。同じ宿には、一度温泉に入ったら出られなくなってしまい、本来の目的を忘れかけた犬と狐がいることを。


 幸せなおキヌと、思考を停止した横島。二人がその事実に至るまでは幾許かの猶予がある。

 今は、ただこの二人の行く末を祈ることとしよう……


−5−


「うまっこれは、うまっはぐはぐ……んー、んー!」
「はい、横島さんお茶です。そんなにあわてて食べなくてもいいじゃないですか」
 苦笑しながら横島に湯飲みを渡すおキヌ。

 部屋に着いた二人を出迎えたのは、豪華な料理の数々だった。
 早速横島は食い物に目がくらみ、おキヌのほうも歩き回ってお腹がすいていたためすぐに夕食になった。

 横島ががっついて食べるのに合わせるかのように、さらに運ばれてくる料理、料理、料理……
 そんなに豪華な夕食を頼んだ覚えはないのに、舟盛りや伊勢海老まで運ばれてきた。
 心配になったおキヌが料理を運んできた仲居に尋ねてみると
「これは、当宿からのサービスでございます。お気になさらずに」
 そこでにやりと微笑むと
「それに今晩のために、彼氏には精をつけてもらったほうが良いでしょ」
 おキヌだけに聞こえるように囁いた仲居の言葉に、おキヌは瞬間的に沸騰した。
 その反応に満足したのか、うんうんわかってるわかってるとでも言うかのように仲居はうなずき、少しだけ苦笑すると
「まぁ、これはほんとにサービスだから気にしないでください。板長がね、どうせ食材あまってるんだから捨てるぐらいならって作ってくれたのよ」
 どうやら、例の大量キャンセルの余波のようだ。
 そういうことなら、とおキヌはまだ赤みの残る顔で仲居に礼を言うと食事に戻っていった。


「ご馳走様でした。本当においしかったです」
 とはおキヌであるが
「はぁー食った食った。ほんとに腹いっぱいだぁ……もう食えない……」
 ゲプッっと、腹をさすりながらと、横島は少々品のない様子だ。
 そんな横島に苦笑して、仲居は
「では、ごゆっくり……そうそう、お風呂は大浴場ではなく、その奥の小さなほうを使うとよろしいですよ」
 と、少々余計な気遣いをして出て行った。小さなお風呂とは、すなわち家族風呂という奴である。家族、あるいはカップルで貸切で使うものだ。
 家族としての使い方は、例えば子供が暴れるのを気にしなくてすむ。カップルとしての使い方は……まぁ、人それぞれだ。


 二人きりになると、途端に静けさが襲ってきた。

 お互いが遠慮しあってしゃべれない。

「あのさ」
「あの」

 意図せぬ声の重なりに、二人して黙ってしまう。

「おキヌちゃんから先に」
「横島さんからどうぞ」

 再び言葉が重なって、今度は二人して笑ってしまった。

「ふふ……横島さん、せっかくですし温泉に入りに行きませんか?」
 今度はおキヌから切り出すことが出来た。
「お、おぉ」
 横島の顔は真っ赤だ。何を興奮しているのであろう、この男は……


 そうして二人は湯浴みの支度をすると、浴場へと向かったのだ。


 いいところではあるが、ここで忘れ去られているであろうタマモとシロに視点を移してみよう。

 列車の屋根から下りた二人は、さっそくヒッチハイクをした。
「うぅぅ……拙者がなぜこのようなことを……」
「ぼやかないぼやかない。ほら、来るわよ」

「は、はぁ〜い、そこゆくお兄さん。車を止めるでござるよー」
 と、シロはクネクネ。どうやらセクシーポーズのつもりらしい。タマモは横で噴出しそうになっている。

「お、おまえが!こうせねば車は止まらぬと言うから拙者はこのようなポーズを!」
「あ、ほら。早速かもが一台引っかかったわよ」
 とまぁそんな感じだったのだが、結構遠い目的地へ直接行く車がそう都合よく引っかかるわけもなく。幾度も同じようなことを繰り返し、シロの誇りがボロボロになるころようやく宿に着いたのである

「拙者、もうぜぇぇぇぇっったいに!ヒッチハイクなど!せぬでござるからな!」
 とはシロの談だ。

 まぁ、そんなこんなで宿に着いたのだが……ひとまず疲れを癒そうと温泉に入ったのが悪かった。

 昼も早くからの露天風呂が。風呂を上がると、気の効いた仲居が出してくれたよく冷えた牛乳が。そして、久しぶりに嗅ぐい草の香りが。
 シロとタマモを苛んで、眠りの国へと送り込んでしまったのである。

 そのころ横島たちはすったもんだでいい雰囲気になっていたりしたのだが、眠りに落ちた二人には知ったことではないだろう。

 目が覚めたらまた温泉。部屋に戻ると豪華なご馳走が揃い踏み……


 二人は、湯煙の旅を満喫していた……本来の目的はすっかり湯気の向こうである。


「拙者、大満足でござるよ!……でも、何か忘れているような気が」
「私も満足したわ。ほんっと、人間って娯楽にかけては手を抜かないわねー……まあ良いじゃない何忘れてたって。こんなに楽しいんだから」
 タマモはすっかりくつろぎモードだ。ぐてーんと寝そべって、品のないことこの上ない。まぁ、妙な色気はあったりするが。

 タマモは気にしていないようだが、なんだか大事なことだった気のするシロはうーんと考え込んでみる。

「あ゛」

 ようやく思い出したようだ。

「タ、タマモ!先生たちは一体どうなっているでござるか」
「え?……あぁ。そーいえばそんな話もあったわね」
 あわてるシロに対し、タマモの反応は鈍い。もともと自分の楽しみのためにシロをたきつけたのだ。横島とおキヌがくっつこーがナニしよーが気になどしないし、今はこの温泉と言う娯楽を十分楽しんでいる。
 タマモにとってはいまさらどうなろうと知ったこっちゃないのである。

「あぁー!もう外があんなに暗いでござるよ!急がねば!」
 シロはそういってタマモを置き去りに廊下に飛び出していった。


「仲居どの!」
「あら、どうなさいました?」
 廊下で一人の仲居を捕まえるや否や、シロはつかみかかる勢いでまくし立てた。

「この宿に、横島と氷室の名で泊まっている二人がいるはずでござる!二人の部屋はどこにあるでござるか!」
「お知り合いで?」
「そうでござる!先生は拙者の師匠でござるよ!」
 シロの勢いに押されるが、そういうことならと仲居は指差して
「それならそこの階段を上ってすぐそこの芭蕉の間ですけど……」
「かたじけないでござる!」
 言葉を訊くのもそこそこに、シロは駆け出した。

「……今あの二人は多分入浴中で……って言おうと思ったんだけどねぇ。気の早いお客さんだこと」
 頬に手を当て小首をかしげる仲居さん。

「ほんっと、バカ犬ね……」
 部屋から出て一部始終を見ていたタマモにまで呆れられる。

 まぁ、シロであるからしてこれもしょうがあるまい。


 シロがフレームアウトしたここで視点を再び横島たちに戻そう。

 ついでに、時間も少しだけさかのぼる……


 浴場のある棟へと並んで歩いてきた二人はそこで固まった。

 手前にあるのは大浴場である。男と女の二つの暖簾が用意された大浴場には、それぞれこの温泉自慢の海が見える露天風呂がある。客も少ないようだし、きっと貸しきり状態なそこに入ればすばらしい気分が味わえるだろう。

 だが、二人の視線は大浴場ではなく、その奥にある小さな暖簾の方に釘付けになっている。暖簾には家族の二文字。入り口の横には木札がかかっており、見事な達筆で「空き」と書いてある。裏返せば見れるであろう文字は「使用中」か、あるいは「貸切」か。
 先ほどの仲居の勧めが耳に蘇る。おキヌにいたっては、その前の邪推の言葉まで蘇ってきた。

 二人が固まったのは同時だが、固まった理由は少し違う。


 横島はあいも変わらず葛藤していた。

 葛藤する感情は欲望と良心だ。

 おキヌに告白されて、キスされて。最近やっと成長した良心はすでに瓦解しかけている。

 まぁ、それでも欲望だけで手を出すような男ではないのだ、多分。

 どうにも信用の置けない男ではあるが、おキヌの気持ちを身に受けて、それを反故にするほど愚かでもなかったと言うことか……温泉に誘われたときの欲望のみからくる喜びようは、多分何かの間違いであったのだと思いたい。


 しかし、隣にいるおキヌが固まった理由は……


 ど、どうしよう……えっと、恥ずかしいけど、やっぱり家族風呂に入れば二人っきりで過ごせるし、告白の返事も聞けるかもしれないし、そうすればきっと横島さんもノックアウト?


 欲望100%のおキヌちゃんである……

 乙女の恥じらいは恋の成就の前に倒れたらしい。

 実に恐ろしきはおキヌちゃん。あるいは女という生き物か。


 思いを告げて、キスをして。

 そうすれば幸せになれる思っていた。

 思いを告げて、キスをして。

 幸せになったけれど。

 でも、

 その先の幸せも見てみたい……

 恋して恋されて。

 愛して愛されて。

 結ばれて、祝福されたい。


 抱く思いは純粋で、純情な欲望で。


 おキヌは、驚く横島の手を引いて歩き、木札を反して小さな暖簾をくぐった。顔は伏せたまま。横島の顔はおろか、裏返した木札の文字さえ見ることは出来なかった。

「お、おキヌちゃん?」
「すいません、こっち、あまり見ないでください」

 暖簾をくぐり、短い廊下を抜けた先は脱衣所だ。手を離して、戸惑う横島は置き去りに。自分は横島と反対の壁によった。

 思い切っておキヌは一枚ずつ服を脱いでいく。その様子を何とはなしに眺めていた横島は、おキヌの首筋が真っ赤に染まっていることに気づき、反射的に反対の方向を向いた。

 女性が服を脱ぐ姿を見ることなど、覗きでなれている。おキヌのそれは見たことはないが……最低な男である。

 しかし、その中に横島がいることを知って、横島の後ろで無防備な姿をさらす女性はもちろんいたことなどなくて。そうするおキヌがここにいる。

 横島の耳には、衣擦れの音が静かに響く。


 いろんなことが頭に浮かぶが、その全ての糸は絡まりあって解けない。


 そうこうするうちにおキヌは最後の一枚も脱ぎ去り、
「先に、行ってますね」
 そんな言葉を残して、曇りガラスの向こうに消えた。


 最後に頭に浮かんだのはなんだったのか。後悔か、安堵か。少しだけ息を吐くと、とにかく、と横島はまだ一枚も脱いでなかった服を脱ぎ始めた。


 がららら、という音もせず、引戸になっている曇りガラスはすべるように開いた。

 湯煙に煙るそこは、露天風呂でなく壁に覆われた屋内風呂だ。三面は壁だが、残る一面だけは大きな窓がはまっていた。


 湯船には、手前の縁に背を預けて入るおキヌの姿がある。横島は、思わず湯船に飛び込みそうになるのを強く自制した。


 まずは洗い場に向かい、軽く体の汚れを流す。おキヌの隣に入り、ゆっくりと湯に浸かった。


 少しだけ、沈黙が落ちる。横島はとなりのおキヌをちらちらと眺めた。

 においは温泉特有の香りでも、ほとんど濁りのない湯はここの温泉の特徴だ。揺らぐ水面の下にはおぼろげにだが、張りのあるおキヌの肢体が見えた。

「海……見えませんね」
「え?あ?う?」

 突然話しかけられて、悪いことをしていたのを見咎められた様にあわてる横島を、おキヌはくすりと笑った。

「ほら、あの窓ですよ。海を見るためにつけられていると思うんですけど、湯船の中からはちょっと下の壁が高くて見えないんです」
 そうして指差す先の窓からは、暗い空しか見えない。いくつか星が瞬いているのは見えるが、それだけだ。

「どーせ夜の海は暗いし、何も見えないんじゃないか」
 横島はそんな風に少しだけ投げやりな返答を返した。

「もしかしたら、すごい綺麗かも知れないじゃないですか」
「そりゃあ、見てないからそうでないともいえないけどさ」
 意味はない、と横島は思う。

「見てみたいな」
 そういうとおキヌは横島に振り向き、

「立って、あの窓に近寄れば見えるかも知れませんね」
 そんな言葉をつぶやいた。


 立ち上がる?

 意味なく横島はつぶやいた。

 そんなことになったら、そんなことをしてしまったら。丸見えではないか。

 横島の視界が真っ赤に染まる。興奮か……それ以外の何かか。何かがあふれそうになって、それを言葉にしようとして。


「冗談です」
 おキヌの笑みに止められた。

「な、なんだ、冗談か、そりゃそうだよな。はは、ははははは」
 力なく笑う横島に、おキヌはまた笑みを深くして


「でも、冗談じゃなくすことも、横島さんには出来るんですよ」
 からかうように告げられた言葉には、妖艶さなどかけらもなく、ただ試すような響きがあった。


「私、昼間の返事が聞きたいです」


「横島さん。私、横島さんが好きです。大好きです」

「好きだから、横島さんの心が欲しい」

「横島さん……私と、付き合ってくれませんか?私だけを、見てはくれませんか?」


 それは、おキヌの正直な心だ。

 誰よりも横島のことが好きだから。誰よりも私を好きでいて欲しい。

 恋する少女なら誰もが持つ願い。


 横島の脳裏に雪の中こちらを見て笑む女性の姿が浮かんで消えた。


 その瞬間。横島の中の絡まった糸が、解けて一本の糸となる。

 あぁ、そうかと、横島は思った。


「俺さ……」


「おキヌちゃんのこと、好きだと思う」


 その言葉におキヌの顔がほころぶ、が


「でも」


 言葉は続いていた。


「でもさ、きっと俺、他にも好きな人がいるんだ」


 そこで横島は両手でお湯をすくい、顔に付ける。
 お湯は手のひらからこぼれるが、横島はそのまま話し続けた。


「二人いてさ。二人とももう会えないけど、でも好きなんだ」


 また湯をすくって顔につけた。
 顔をぬらして、今度は天井を眺めてみる。


「それに、好きだとかじゃないんだけど、美神さん」


「美神さんって、あぁじゃないか。こう、俺みたいのじゃないとそばにいることなんか出来ないと思うんだ。だから、いつまでもそばにいて支えてあげたいと思う」


「それって、やっぱり好きってことじゃないんですか?」
 おキヌの声は歪んでいて、もう泣く寸前ではないかと横島は思った。それでも、言葉を続ける。これは、必要なことだから。


「そーかもしれないなぁ」
 残酷な言葉だ、と横島は思う。おキヌはきっと一番このことを心配していたのに、目の前でそれを肯定して見せたのだから。


「うん、そうかもしれない。なんだかんだで、やっぱり俺は美神さんのこと好きなのかも」


「でもさ」
 そういって、横島はおキヌに向き直った。視界に戻ったおキヌの顔は、やっぱり泣きそうで。少しだけ申し訳なく思った。


「今日、告白されて」

「うれしかったんだ、俺」


「それで、思ったんだ」


「おキヌちゃんともっとデートしてみたい」


「おキヌちゃんともっとキスしてみたい」


「おキヌちゃんと……その、エッチなこともしてみたい」


「俺、今はおキヌちゃんのことが一番好きだよ」


「俺はスケベだし、節操無だし、煩悩で霊力が上がるようなバカだ」

「そんな俺だけど、俺のこと好きになってくれて、俺のこと好きだって言ってくれたおキヌちゃんのことが一番好きだと思うんだ」

「ほかに好きな人が何人もいるって自分で言っちゃううえに、今は、とか思う、とか言ってる俺だけど」


「こんな俺でも、もしまだ好きだって思うなら……」


「俺と、付き合ってくれないかな?おキヌちゃん」


 答えは唇に当たる柔らかな感触だった。


 立ち上がれば、頭ひとつ分違う二人の身長も、座っている今ならあまり差はない。

 やがて身を寄せ、抱き合って。

 おキヌの両の手は横島の後頭部と背中にそれぞれ回されている。

 横島とおキヌは、植物園で唇を介し、その帰り道では手と手をつないで感じていたお互いの体温を、今は全身で感じている。


「横島さん……好き……大好きです!」

 言葉を続ける最中も短いキスを繰り返していたおキヌは、やがて横島の半開きになっている唇の中へと自らの舌を送り込んだ。

「ん……!」

 ぬるりと送り込まれてきた舌に、横島は舌を絡めとられる。

 つるつるとして、あったかくて。

 初めて味わう感触に、二人はすぐに夢中になった。

「ん……あ、……あ、はっ……横島さん……」

 熱に浮かされ、時折うわごとのように名を呼ぶおキヌ。

 それ以外に声はなく、ただ二人の口腔の立てるぴちゃぴちゃと言う音が響く。

 そのうち、横島の手はおキヌの背中に回されて。やさしく背筋をなでてみたり、あるいはおキヌの見事な黒髪を、一房指に絡めてみたり。

 それがまたおキヌの気を高ぶらせて、舌の動きは一層艶かしく、淫靡になっていく。


「よこしま、さん……」


「先生ぇーここでござるなー!」
 ずどーんと横島たちのいる湯船の引戸が開かれる。仁王立ちでもやの向こうをにらむ影……シロである。


「あ」
 思わず漏れたマヌケな声は、横島とおキヌ、一体どちらのもらしたものか。


「あ゛ーあ゛ーーあ゛ーーーーーーーーーーーーーー!」
 指差してプルプルと震えるシロ。

「なーんだ。やっぱり遅かったか……残念ねーシロ」
 ぽんぽんとシロの肩をたたいているのはタマモだ。


「シロちゃんに、タマモちゃんも……」
 呆然としたままのおキヌは、横島と抱き合ったままだ。


「せ、先生と離れるでござるよー!」
 シロも必死だ。しかし、シロにとっては非情な答えが返ってくる。


「いやだー!放してたまるかー!あぁやーらかいなー、気持ちえーなーちくしょー!」
 なぜか先生、横島のほうから返答があったのだ。


「ちょ、ちょっと横島さん!?だ、ダメです!ダメですってば!そんな、二人が見てるのに!あ、ン」
 おキヌのほうはあわてて離れようとしたが、横島がそれを許さない。欲望全快で、横島はおキヌを抱きしめた。
 そうなってしまうと、もともと気も体も高ぶってきていたおキヌも横島を放すことなどできはしない。


「……邪魔にすらなれてないわね、私たち」
 タマモはさっさと部屋に帰ろうという顔だ。気にされないのも癪だが、なんと言うか呆れが先にたつ。


「先生。拙者は……拙者はぁ……」
 シロは顔を伏せ、今にも泣きそうな風情だ。ぶるぶると震えるている。


「拙者は!」
 震えが止まった。


「拙者はあきらめないでござる!そう、恋は戦いでござる!」
 こぶしを握り、顔を上げ。出発前にタマモが効かせた薬は、どうやらまだシロに効いていたようだ。

「そうよ!シロ!恋は戦いなのよ!」
 もうあまりやる気もわかないが、タマモはとりあえず煽ってみた。


「先生、拙者とキスするでござるよ!」
 そういって果敢にも特攻しようとするシロ。


「ダメ!横島さんは私のなんだから!」


 今度止めたのはおキヌの必死の声だ。横島をその胸に抱いており、ぐりぐりと頭を動かす横島がいたりするが、おキヌの顔は真剣だ。


 出来る限りの怖い顔を作って……その上涙まで目の端に浮かべながらうーっとシロを威嚇している。


 その顔は怖いわけじゃない。むしろ可愛い……


 シロもなにか保護欲をかきたてられて、手が出せない。

「あ、あれと闘わねばならないのでござるか、拙者?」
 思わず一歩踏み出した姿勢のまま、振り返って訊ねるシロ。

「あー……あれとは闘えないわねぇ……」
 タマモもシロと同じ感想を持ったようだ。


 それを聞き、シロはがっくりと膝を突いた。


「……部屋に帰りましょっか」

「……そうするでござる」


 シロとタマモの二人が去ったあとのおキヌと横島は……


 風呂でのぼせかけた二人が、顔を真っ赤に染めてでてきたのはそう時間がたってからの話ではない。


 部屋に帰ると待っていたのは布団は一つ、枕は二つと枕元に置いてあるティッシュだ。


 それを見て二人がどうしたかは、語るに忍びない。


 ただ、翌日は日が南天に昇りきってから起きてきた二人にかけられた「昨晩はお楽しみでしたね」という仲居の言葉を以って理解していただければありがたい。 


−6−


「あ゛ー……疲れた」
『お帰りなさいませ、美神オーナー』
 事務所に帰ってきた美神を、人工幽霊壱号の声が出迎えた。

「ただいま、人工幽霊壱号……シロとタマモは帰ってきた?」
『いえ、まだお二人は帰ってはおられません』
 美神はひどく憔悴した様子だ。まぁ、昨日の昼から丸一日徹夜で仕事をしていたのだ。そうもなろう。

「あ、それと」
『はい』

「横島クンから連絡なかった?」
『いえ……横島さんも休日を謳歌されているのでは?』
 突然の美神の質問にいぶかしむ。

「そうなんだけどねー……なんかこういやな予感というか、無性に殴りたくなるというか、そんな気がするんだけど」
 恐るべきは美神の勘か。それも横島との縁によるものか。美神は現在の横島の状況を、わりと正確に先取りして感じているようだ。

「ま、いいわ……今は寝ること優先……じゃ、お休み、人工幽霊壱号」
『お休みなさいませ、美神オーナー』

 眠りから覚めた美神が起こすのは、シロとタマモの仕置きの宴か、横島の血祭りか……


「横島さん……」
「おキヌちゃん……」

 温泉からの帰りの列車の中には、見つめあい、ちちくりあってときおりお互いの名前を呼ぶバカップルの姿が一組。

 他の乗客らには迷惑なことこの上ないだろうが、出来立ての二人だ。いたし方あるまい。


 最後にところ変わって、こちらは凸凹コンビのシロとタマモ。

「拙者は、拙者は、あんなに恥ずかしいヒッチハイクを断腸の思いでしてここまで来たというのに……一体何のために」
 だーっ、と両の目から涙があふれている。

「まぁ、いいじゃない。温泉は気持ちよかったし、料理もおいしかったし」
 タマモはシロを慰めながらもほくほく顔だ。当初の目的とは違ったが、これはこれで楽しめたから良いじゃないか、といった風情である。


「あ、それはそうと。帰りもヒッチハイクよろしく」

「な……」

 思わずシロは絶句する。なんというか踏んだり蹴ったりだ。

「まぁ、ちょいちょいって声かけるだけだから簡単よね」

「く……よく考えたらおまえがやれば良いではないか、この女狐ー!」

「なによバカ犬。小遣いをほとんど肉に使って残していなかったあんたの分の宿泊費、誰が出したと思ってるのよ」
 じと目で追求するタマモに、思わずシロもたじろいだ。

「そ、それは……」

「はい、わかったらさっさとポーズとる」

「くぅ……拙者は、拙者はぁ!」


「温泉なんてだいっ嫌いでござるー!」


 海を臨む温泉街、響くは哀れな犬の声であった……


「拙者は、犬じゃないでござるよー!」


あとがき

長い物語お読みいただき、ありがとうございました。

それがしの二作目、いかがでしたでしょうか。
どうも、迷彩海月でございます。

思ったよりも反応の良かった「美しい女」に気を良くし、この世界観でと書いたのが運のつき。
動くキャラクターが増えたらまとめられなくて量は倍。
長けりゃ良いってもんじゃありませんし。
その上おキヌちゃんが暴走に継ぐ暴走……
今回、直接的な表現までは書かなかったので15禁としましたが、大丈夫ですよね?
プロット段階ではラブコメだったものが、ラブラブを通り越してラブエロへ。
とかく創作とは難しいものか。

と、言うよりは自分の意思弱すぎですね。初志貫徹が出来ていませんorz

わりとこの「二年後」って設定はなんとなく気に入ってるんですけどね。
もっとも、色々生かせてない設定のほうが多かったりして、問題点もありますけど。

今回も楽しくかけました。
「美しい女」のときよりも筆がすらすらと進んで……それなのに稚拙な出来が悔しくてなりません。
もう少し、もの書きの勉強でもしてみようと思います。


それでは、またあえる日を願って。 

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