美神除霊事務所を預かる人工幽霊壱号は、屋敷を覆う結界に異常を感じてその意識を浮上させた。
異常を感じた場所を視てみると、結界に揺らぎが生じていた。自然にできたものではない。何らかの外部的な要因によるものだ。人工幽霊壱号は緊張した。
今現在、この屋敷内にいるものはこれでもかと言うほど無防備な状態である。所長である令子を始め、皆横島の夢に入るために眠ってしまっている。この状況ならば、その辺のへっぽこな悪霊ですら彼女達の命を奪うことは容易だ。だからこそ人工幽霊壱号は、その全力を持って結界を強化していた。外界に意識を向ける事すらせず、消耗を抑えつつ結界を張っていたのである。敵意ある魔族や妖怪にこの結界を突破されたなら、彼女達の命運は尽きるのだ。
その結界に異常がある。人工幽霊壱号は、結界を強化したまま外界へと意識を向けた。消耗が激しいが仕方がない。
結界の外には、人工幽霊壱号が知覚する限り怪しい存在は認められなかった。また集中していたとはいえ、屋敷内の全ては把握している。もちろん侵入者はいない。
何者かが結界を破ろうとして、失敗したのかもしれない。そしてその犯人は既に逃げている。……そう判断した。屋敷の外にも中にも怪しいものがいなければ、既に立ち去ったと考えるのが自然だ。
人工幽霊壱号は令子達に意識を向けた。応接間に思い思いに横になる彼女達の健康その他の管理も、人工幽霊壱号の仕事だ。令子達が横島の夢の世界に入ってからどれほどの時間が流れたのか、意識を沈めていた人工幽霊壱号にもわからない。しかし彼女達が戻ってくるまでは、彼女達を守りきるのが仕事だ。
『なんだか、全員表情が暗いですね。泣いている人もいますし……』
横島の夢の中で何が起こっているのか、それはわからない。ただ簡単な事ではないということはわかっている。とにかく横島を含め全員が無事に帰ってきて欲しい。人工幽霊壱号が望むのは、それだけだった。
人工幽霊壱号は、最後にもう一度周囲の気配を探った後、消耗を抑えるために再び意識を沈めた。
人工幽霊壱号は、最後まで気づかなかった。
屋敷内の影になる場所。そこにいつのまにか漆黒の珠が転がっていることを。
気配も何も感じさせないその珠には、細かい文字がいくつも浮かんでいる。そして人工幽霊壱号の知覚範囲の遙か外……雲すら越える上空に、その珠の持ち主はその身を浮遊させていた。
黒色のフード付きマントでその身を覆い、僅かにのぞくのは青白い手と口元だけ。遙か眼下に美神除霊事務所を望み、その男は口元を皮肉げに歪めた。
「今までにない流れだな」
屋敷に放った珠が、令子の様子を彼に見せていた。人工幽霊壱号に気づかれないよう穏行を施された珠は、屋敷内の全てを伝えることができる。
「果報者だな、あいつは」
眠りながら涙を流す令子達を視ながら、フードの男は呟く。自分が傷ついても、横島を助けようとする女達。そこに何を男は見たのか。
「さて、どう転ぶか……だな」
その声に含まれるのは、複雑な感情だ。
怒り、憎悪、嫉妬。
そして、希望。
「まあどちらに転んでも、俺は構わないわけだが」
黒衣の男はつまらなそうにそう言って、しかしその場から動くことなく、じっと令子達を視ていた。
扉が閉まった。周囲に静寂が帰ってきた。
誰一人動こうとしなかった。シロに向かって歩いていた令子もその足を止めている。
冗談ではなかった。今の映像だけが、これまでのものとは違った。彼の心の苦悩が、そして絶望が直接心に伝わってきた。おそらく当時に彼が感じた通りのものなのだろう。
おキヌは泣いた。そんな状況ではないのかもしれない。でも止められなかった。涙が次から次へとぼろぼろ流れる。彼の心の傷を、多少なりともわかった振りをしていた自分が恥ずかしい。戦いが終わった後、彼はルシオラ復活の希望を知って立ち直ったかに見えた。元々後ろ向きの考え方をしない人間だ。前へ向かって歩き出した事に安心し、無理をしているとは考えていなかった。
だが、どうだ? 彼はどれほどの絶望を感じていた? 到底自分が想像していたものとは、比べものにならない程の深淵を内包していたではないか。未来に全ての思いを馳せることができるほど、横島の過去の後悔は軽くない。……少なくともおキヌにはそう感じられた。
情けなかった。彼をずっと見ていたはずなのに。見つめ続けてきたはずなのに。それなのにおキヌは、彼の傷に気づけなかった。横島に好意を寄せているだけに、そのショックは大きい。
「横島さん……」
だからおキヌは泣いた。
顔をくしゃくしゃにして、おキヌは泣いた。
「………」
おキヌ。シロ。タマモ。そして令子……。彼女達が涙を流す様を、美智恵は唇を噛みしめながら見ていた。横島が感じていた絶望を追体験したようなものだ。彼が負った傷の深さに、絶望に、彼を想う娘達はその涙を堪えられないのだろう。
(私だって、きついわね……今のは)
時間移動によって未来へ飛び、全ての結末を見てきた。ルシオラの死も知っていたし、横島の苦悩も知っていた。それでもその未来を変えようとはしなかった。あの時あの瞬間、コスモプロセッサの影響により、確かに世界の根元は揺れていた。様々な未来をあの時は選択することができたはずだった。……未来は変えられることしか変えられない。その理が崩れていたのだ。
ルシオラを助けようと思えばできた。そういった未来をたぐり寄せることも、不可能ではなかった。でも美智恵はしなかった。自分の知らない不確定要素を生じさせることはできなかったからだ。横島やルシオラのことよりも、美智恵は人類の勝利を選択したのだ。
(それが間違っているとは思ってない。全人類の危険と引き替えにすることは、到底できないもの……)
美智恵が取った選択肢は間違いではない。決して間違いではない。しかし……。
(間違いではないからって、それが正しいわけでもない)
だから、きつい。その選択肢しかとれなかった自分。正しくも、弱い自分。そしてそんな自分のせいで横島が悪鬼になってしまうことなど、絶対にさせるわけにはいかない。
そう、命に替えても。
「おばさま~」
うつむき拳を握りしめる美智恵の肩に、ポンッと手が置かれた。振り返って見たのは心配そうにこちらを窺う冥子である。
「……冥子さん」
美智恵は冥子の手に自分の手を重ねた。
「ごめんなさい、冥子さん。だいじょうぶ。私は大丈夫だから」
美智恵の言葉にこくりと冥子はうなずき、そしてその顔を背後に移した。
「道の続きが~できましたよ~」
「え?」
つられて視線を向けた美智恵が見たのは、巨大な扉だった。そして重厚そうな扉だった。先ほどまで道がとぎれていたその先に、その扉はあった。
「これは……いつの間に!?」
「さっきの、あの映像が終わったとき~ハイラちゃんが出してくれたの~。鍵が……開いたって~」
「そ、そうだったの」
どうやら先ほどの映像が鍵だったようだ。シロがあの扉を開けたのも、瓢箪から駒ということだろう。
美智恵は目の前にそびえる巨大な扉を見上げた。高さは裕に美智恵の身長の三倍。両開きの扉は、片側が両手をめいっぱい広げても足りないほどの幅がある。これが横島の深層心理に繋がる門なのだ。その扉の色に、美智恵は顔を歪めた。
今まで横島の夢で数多くの扉を見た。そのことから、扉の色がそれぞれの人物を表していることを知っている。令子なら緋色。おキヌなら漆黒。タマモなら金色。そしてシロなら銀色に赤のメッシュというように。それならばこの扉の色も横島本人を表していると言っていいはずだ。
横島の扉の色は、見るものを不安にさせるような闇の色だった。おキヌの漆黒とは違い、全てを飲み込む深さがある。漆黒の反対が純白であるように、この扉に相反するものは光だ。そのことが、この扉を見ているとわかる。
「今の横島くんの状態が、よくわかるわね」
ここからが本番だ。失敗することのできない、本番だ。
美智恵は振り返って娘達を見た。いつの間にか彼女達も扉に気づいたのだろう。全員がこちらを見ていた。その顔に浮かぶのは、緊張と決意。信念と強い意志の光。
「いきましょう……」
おキヌが涙の跡が残る頬を拭った。
「こんな扉……あいつには似合わないわ」
硬い表情でタマモ。
「先生……」
未だ涙を浮かべるシロ。
「先生に、謝らなければならないでござる。だから、その為にも……」
シロの呟きに、令子が振り向いた。はっとするシロ。
「そういえば、危うく忘れるところだったわ」
令子が右手を挙げた。思わずシロはぎゅっと目を閉じる。
ぺちり、とその頬に力無い平手が添えられた。
「え?」
「これで勘弁してあげる。私も……横島くんに謝らなければならないことが、たくさんある。その事を思い出させてくれたし、それにこれ以上は横島くん本人の役目よね」
「美神どの……」
「さ、気合い入れなきゃね」
平手で自分の顔を叩く令子。
「この扉の色を、闇色に染めたままにはしておかない。絶対に助けるわ!!」
思いを新たにした彼女達は、全員で扉の前に立った。
横島の闇を払うために。純粋であけすけで、そして底抜けに優しい彼を……助けるために。
全員の手が扉に添えられた。
巨大な扉は、その重厚そうな作りにもかかわらず、彼女達の細腕にすらさほどの力を必要とせず……音もなく開いた。
まるで彼女達を迎え入れるかのように、扉は無造作に開いた。
あとがき
もうすぐクライマックス。
相変わらず遅筆ですが、なんとかがんばるっす。