氷室キヌの朝は早い。
起床は5時30分。朝シャンを終えて自慢の黒髪を梳き、しかるのちに朝食を作る。
食事は4人分。メニューは多岐に渡る。
シロはステーキ、フライドチキンなど脂っこさぶっちぎりの肉料理。動物性たんぱく質をふんだんに摂取して体型になんとも変化がないのは、肉食である人狼ゆえか。朝から肉を食べたいとは思わないが、あの健康美だけは素直に羨ましいおキヌだった。
タマモは稲荷、きつねうどんなど油揚げフルコース。さすがに妖孤なだけはある。キヌとしてはもっと別なものも食べてほしい。彼女は身体も華奢だから。というか油揚げがあれば満足なのだから、腕の振るいがいがないのだ。
美神はトーストとサラダとハムエッグ。それと牛乳。朝食というよりもブレイクファーストだ。身体が資本のこの商売、食事を抜くなどありえない。休日はあれだけ食っちゃ寝してるのにあんなプロポーションは反則だと、キヌは時々フォースの暗黒面を垣間見る。
自身は白米と味噌汁。時々プラス焼き魚。これぞ日本人の朝食だ。焼き魚が時々なのはダイエット。ただでさえ寸胴な旧日本人体型なのだ、少しでも自分を細く見せたい。胸ではなく腰を。胸はこれ以上小さくならなくていいむしろ大きくなれ。大昔の人間には至難な技だ。
食事はそれぞれ別な時間に作る。朝の散歩があるシロは6時30分。タマモが7時。8時に出勤してきた美神が。自分は美神と同じ時間に。
別々な食事を毎朝作るのは大変だが、さして苦に思ったことはない。慣れた動作で準備するキヌの表情は、しかし暗かった。
「――――はぁ」
から揚げにと肉に小麦粉をまぶせながら嘆息する。
数日前、自分の習慣に変化が起こった。朝食のメニューが一人分減ったのだ。用意するのは、シロ、美神、そして自分のもののみ。
タマモが出ていった。それは少なからず、キヌにとってショッキングな出来事だった。
それほどまでに、六道女学院がいやだったこと。そんな彼女に自分が気付けなかったこと。それらが悔やまれてならない。
しかしこの家には、自分以上の衝撃と悔恨を受けた者がいる。いつも元気なムードメーカーの落ち込み様は、とても見られたものではない。
今日はちょっと奮発しよう。慰めもこめて豪華な肉料理をつくるべく気合を入れる。
と―――
バタン
屋根裏の戸が開く音がした。相部屋だったその部屋には、今は一人しか寝起きしていない。
そのまま、音は階段を降りてくる。キヌは頬を叩いた。落ち込んでいる彼女をさらに落ち込ませるわけにはいかない。自分は笑顔をもって、彼女を励まさなければならないのだ。
間もなく彼女はやってくる。自分は微笑みながら言わねばならない。おはよう、シロちゃんと。
だがしかし、足音はこちらにくることなく、そのまま階下へと降りていった。
「――――シロちゃん?」
彼女の行動を訝しみ、キヌは台所を出て階段を降りる。
玄関では、シロが外に出ようとしているところだった。
「―――――――」
なにかを言おうとして。でもなにも言えずに。
そうしているうちに、外へ通ずる扉は開き、シロを吐き出してから閉まった。
俯いて出かける彼女は、まるで幽鬼のようで。
「――――シロちゃん……」
キヌは、かける言葉もない自分に臍を噛んだ。
狼の妹
前
人気のない境内に、彼女――犬塚シロはいた。
賽銭箱の前の階段に座り、俯いてただ地面を見ている。
否、見てなどいない。視線の先にあるものなど、彼女は見えていなかった。
彼女が見ているのは、昨日の光景。師・横島忠夫のマンションを訪れたときに見たもの。
脳内の記憶という情報を視覚へと逆流させる。思い出が目の前に、色鮮やかに甦る。
自分はマンションの一室の前に立ち、そのインターホンを押した。指先は緊張と恐怖に震えている。
部屋の中から駆けてくる足音は軽い。男性ではなく、少女のそれ。師は大学の講義に行っている。今、この時間、この部屋にいるのはただ一人だけ。
がちゃりと、ノブが回り、扉が開いた。
少しだけだ。開いたのは少しだけ。あちらからこちらの姿が見えるだけの開放。
ドアにはチェーンがかかっている。遠い。今の自分と彼女の距離が。ほんの1メートルも離れてないのに。気が遠くなるほどに遠かった。
つい先日まで同じ部屋で暮らしていた者同士の、これが今の距離というのか。やるせなかった。
扉は開かない。距離は縮まらない。
縮めなければならない。このままで、いいはずがない。
固く決意し、しかし、震えた喉は声を出せず。
『た、タマモ…………』
ようやく振り絞って出した声に、彼女は扉を閉めることで答えた。
ばたん。がちゃり。
静かに響く閉錠音。荒く遠ざかっていく足音。それらを信じることが出来ず、自分はしばらく扉を見つめていた。
扉は、開くことはなかった。二度と、決して。それは決別の宣言にも思えて、シロは心の中で涙した。
リプレイを終了し、再び神社の地面が目に入る。
シロは泣いている。心の中で泣いている。
涙は流さない。武士は泣きはしない。だからせめて、心の中で泣き叫ぶ。
どうしてこうなったのかと。ひたすらに、それを悔やむ。
なぜ気付かなかったのかと。ひたすらに、己を責める。
気付く機会は、幾度となくあった筈だ。
例えば雑談。学校の話題になると、決まって彼女はつまらなそうにしていた。ある日聞いてみた。学校は面白くないのかと。『授業は面白いわよ』というのが、彼女の答えだった。授業は面白い。そう言った。授業はと。他が楽しいとは一言も言わず。だのに自分は、その一言でその話題を打ちきった。安心した。彼女の言葉の裏に隠された感情に気付かなかったのだ。
例えば仕事中。雑魚霊相手にとんでもなく大きな狐火を放ったり、逆にどう見ても炎の出力が足りなかったり。間違えたと舌を出して笑ってたけど、あれはそう、自身の能力を制御し切れなくなっていたのだ。それほどまでに、彼女の精神は追い詰められていた。
例えば就寝の時。彼女は何度も寝返りを打ち、なかなか眠らず。眠ってもすぐに目を覚まして部屋を歩き回る。かと思えば、翌日はどんなにこちらが声をかけても起きないほどに深く寝入っていたり。彼女の体内時計が正確さを失い、乱雑に荒れ狂っていた。ストレスが体調に影響を及ぼし出していた。それは本来、自分が真っ先に気付いて然るべき症状だった。
気付かなかった。まったく、気付かなかった。
シロは学校が楽しかった。友達もいたし、決して優しくはないが、授業で習うことは新鮮で面白かった。タマモもそうだと、彼女は思いこんでいた。
とんでもない馬鹿だ。救い難いド阿呆だ。こんな自分を、どうしてタマモが許してくれるだろうか。
「―――――――――」
やるせなくて、シロは顔を膝に埋めた。頭を肘で隠し、誰にも見られないようにする。何も見えないようにする。
なにも見たくない。今はただ、なにもかもが鬱陶しい。
誰にも見られたくない。今はただ、一人でいたい。
自分は武士だ。武士は涙なんか見せない。泣いたりなんかしない。
「――――――ヒック」
泣いてなんか、いない。
* * * * * * *
目が覚めた。
目が覚めたということは、どうやら眠っていたらしい。いつの間に。
空を見上げると、日はすでに高かった。昼を回っている。
今日は平日だ。学校に行かなくては。立ち上がりかけたが、すぐに思いなおして座った。気力が湧かない。面倒だ。どうせ遅刻なんだ。このままサボってしまえばいい。
朝からなにも食べていないが、お腹は空いていない。なにも食べる気がしない。胃は空っぽのはずなのに、空腹感など欠片もなかった。おかしなことだ。
晴れなのに雨が降っていた。天気雨。自分だけでなく天気もおかしい。世の中全部が変だ。なにもかもがおかしかった。
雨粒が落ちる中、太陽がさんさんと輝く。晴れなのに雨。雨なのに晴れ。
その矛盾に苦笑する。まだ笑えるのかと思いながら、視線を空から地に堕とした。
そのまま、思考の迷宮へと陥る。
許されざることを許されるには、一体何をすれば良い? 贖罪に、自分は何をすればよい? どうしたらタマモと元通りになれる?
贅沢は言わない。元通りでなくてもいい。でも、今のままはイヤだ。せめて彼女のために、遅まきながらも彼女のために、自分に何ができる?
自己満足かもしれない。贖罪といっても、タマモが負った心の傷は癒えない。誰のために罪を贖う? 無論、タマモの為。でも、それで救われるのは結局自分なのではないだろうか。だったらやはり、贖罪など自己満足に過ぎない。
そも、罪を贖うという考え自体が傲慢なのだ。起こした罪は拭えない。償えるとすれば、それは罪を起さないことに他ならない。起こしてからでは遅すぎるのだ。
それはいい。別にいい。自分が救われようとは思わない。
でもせめて、彼女と話したい。罵声を浴びせられるでもいい。殴られるでも、燃やされるのでもいい。無視されるよりは、幾倍も、いい。自分を見てくれているという事だから。
後悔してる。すごく後悔してる。どうして気付かなかったのかと。なぜ助けてやれなかったのかと。最も近い位置にいるはずの自分が成すべき役割なのに。
だからせめて、彼女に何かしてやりたい。彼女の一助になりたい。遅すぎるけど、でもせめて。何かしたい。助けてあげたい。助けることで助けられたい。そのためにはどうすればいい?
わからない。どうすればいいかわからない。自分の愚かな頭脳はなんの打開策も生み出さない。
誰か教えてください。私はどうすれば良いですか? 誰か教えてください。誰か誰か。先生。教えてください―――
―――しゃりん、と、音が響いた。
迷宮から脱却し、シロは顔を上げた。音は前方。境内へと続く階段、否、その方向のどこかより響いてくる。
しゃりん、と。また、音が響いた。
段々と近付いてくる。段々の階段を上ってくる。
しゃりん、と、音が近付く。
シロは立ちあがった。なにかが来る。知らない何か。いやな感じはしないが、さりとて親しみの持てる匂いでもない。
しゃりん。音はますます近く。もうすぐ姿を現す。
しゃりん。鳥居の向こうで空気が揺らいだ。空間が揺らめき、鳥居を越えて姿をあらわす。
しゃりん。人影。それも複数だ。多い。幾人もの人影が、ここではない隔世からこの神社へとやってきている。
しゃりん。影の姿が、はっきりと視界に入る。
「―――――!」
その姿を見て、シロは仰天した。
人影は少年だった。提灯を手にした少年が二人、並んで歩いてくる。
その顔を、狐の面で隠して。
しゃりん。さらに少年が二人。
しゃりん。次に登ってきたのは花嫁だ。白無垢に身を包んだ嫁の顔もまた、狐面で隠されている。
しゃりん。その背後で、二人の少年が錫杖を持って続く。やはり、狐の面。音色は杖の輪が鳴らす音だ。
しゃりん。総勢7名。全員が、鳥居よりこちら側へと足を踏み入れて。
しゃりん。そこで、彼ら(彼女ら?)は止まった。
「………………」
動かない。彼らはじっと、こちらを見つめている。自分という異邦人を。
やがて、最前列にいた少年の一人が4歩足を進め、そして提灯を横に振った。
どけ、という合図なのか。
これは妖しの行進だ。シロはそれを理解した。妖怪には妖怪の掟がある。種族によりそれは様々で、だから自分の知らない習慣、掟があっても不思議ではない。
妨げるべきではない。今のところ、彼らから敵意は感じない。自分から敵を増やすことはない。
シロは一礼し、場所を彼らに明け渡した。
「………………」
狐面の少年は列に戻り、
しゃりん。再び、行列は進み出す。
しゃりん。シロの前までやってきて。
しゃりん。少年がシロの横を過ぎ。
しゃりん。花嫁が、シロの隣を通りすぎ。
そこで、シロは気付いた。
花嫁の胸元にそれに。
とても見覚えのある首飾り。
安っぽい石と装飾。どこぞの土産物屋に行けば大量に売られているだろう程度の代物。
花嫁の首から垂れた、煤のついたネックレス。
記憶が逆流する。脳から視覚へと情報を投影。逆路。フラッシュバックする。
ふと目が覚めた夜、机でじっと石を見つめていたタマモ。登校中、その胸元のネックレス。仕事中、その胸元のネックレス。焼却炉、事件、胸元にない石、煤け崩れたチェーン、崩れ落ちたタマモ、その胸元にない石。
煤けた蒼い石。安物で、まるで土産物屋で売られているような―――
「―――――――あ」
気付けば、シロは花嫁の腕を取っていた。
しゃりりん。鈴の音が変わる。
少年がこちらを見る。その面は狐でなく、鬼。
錫杖が煌く。二閃。上体をそらして回避する。提灯から昇る狐火。後ろに跳んで一つを避け、もう一つを霊波刀にて切り払った。
鬼の少年たちの動きが止まる。こちらが武器を出したことで警戒心を増したらしい。
だが、こちらに害意はないのだ。
それを示すためにもシロは霊波刀を消し、そして土下座した。
少年の間に、動揺が走る。話しかけるなら、今しかない。
「突然の非礼、真に申し訳ない。そなたらに仇成すつもりはないゆえ、ひらに御容赦願いたい。
某、犬神族犬塚が一子、犬塚シロと申す者。花嫁殿にお聞きしたいことがござる。どうか、拙者の話をお聞き届けいただきたい」
彼らの反応はない。いや、襲いかかってこないということは、話を聞くつもりなのか。
ならば話を進めよう。その蒼い石はどうしたのか? およそ高貴な空気を纏った花嫁には安すぎる装飾だ。なにゆえそのような物を身につけるのか。
……いや、そうではなくて。そんな些細なことではなくて。彼女が聞きたいのは、問いたいのは、そう、
「―――その、胸元の蒼い石。それは、いずこで手にいれた物か?」
ただ、それ一つだけ。
果たして、花嫁は答えてくれた。白無垢から現れた指先が、静かに一つの方向を指差す。
それは、自分が通いなれた学校の方角だった。
ああ、やはり。シロは、自分の予感が的中したことを知った。
狐の一族が、外見を損なうことを承知でその装飾物を身につける。
それはつまり、花嫁にとって、狐の一族全体にとって、その石が特別な意味をもつ物であると言うこと。
その石に残った霊力が、狐の一族にはなににも代え難い装飾なのだと言うことだ。
金毛白面九尾の狐の装飾物。狐の一族にとっては、それは何よりも高貴な代物だろう。
タマモは、あれをとても大事にしていた。毎夜毎晩、事あるごとに石を眺めていた。
そのときの彼女の顔は、とても穏やかで、優しかった。
あの石があれば、タマモは再び、あんな顔をしてくれるだろうか?
「………狐の花嫁殿。失礼を承知で頼み申し上げる。その石を、拙者に譲っては頂けぬだろうか」
しゃりん! しゃりん! しゃりりん!
錫杖が、今までにないほど激しくなった。敵意を剥き出す少年たち。花嫁の許しあらば、即座に襲いかかるだろう。
だが花嫁は、ただ黙してこちらを見る。
「………拙者の大事な友が、宝を無くして泣いている。拙者は友の力になりたい。その石は、友の無くした物と瓜二つ。どうかその石を拙者に。もちろん、ただでとは言わぬ。拙者にできることならば、それがどんな困難辛苦だろうと果たして進ぜる。ゆえに……ゆえに、どうかお頼み申す! 伏して、伏してお頼み申す!」
花嫁は答えない。綿ぼうしと面の向こう、表情は見えない。なにも言わず、ただ黙する。
シロは動かない。ひたすらに伏して願う。答えを待つ。首を望まれれば差し出そう。それほどの思いで、伏して待つ。
やがて。花嫁の指先が動いた。それは、シロの首筋に延びている。
「……対価は、拙者の首でござるか?」
花嫁は首を振る。横に。否定の意。所望されるは、首ではない。
「では?」
『―――――か・ミ』
初めて。花嫁が言葉を口にした。
いや、果たしてそれは、本当に花嫁の言葉だったのだろうか。空気自体が震えて、それが言葉に聞こえたかのような錯覚に陥る。
「……花嫁殿は、拙者の髪を所望されるか?」
花嫁は首を振る。縦に。肯定の意。所望するは、彼女の白髪。白無垢に相応しい。
「承知仕る」
シロは立ちあがり、霊波刀を発動する。
左手で髪の毛を掴み束ねて。師匠譲りの輝く刀。その刃を、首筋に当てる。
「………………」
いつだったか。師が自分の髪を誉めたのは。
しらがではない、ふっくらとしてふわふわな、キレイな白い髪。鬱陶しく、戦いには邪魔なだけしかない長髪。それでも伸ばしたのは、師が誉めてくれたから。
躊躇いは無い。ここで怖気づけば、対価は得られない。怯んでは、師に申し訳が立たない。髪惜しさに友を見捨てる。そんな自分を、師が好いてくれる筈もない。
斬、と。霊波で編まれた刃は、彼女の白髪を断ち切った。
己から離れた髪を、シロは眼前に掲げる。
白髪がざわめいた。ゆらゆらと揺れる。
シロは手を離した。その所有権は、すでに己でなく花嫁。ならば、花嫁の思うが侭に。
支えを失った白髪は、しかし落ちることなく宙を舞う。ゆらゆらと揺れながら、幾束にも別たれて宙を舞う。
髪は持ち主の元へ。花嫁の元へ。
美しき白髪は、花嫁の白無垢を包み、白い模様を刺繍した。
白無垢に相応しい、白い刺繍。編まれるは犬神の髪。
空気が震える。花嫁が笑っている。満足そうに微笑んでいる。これ以上ないほどに相応しい装飾に。
満足した花嫁は、石を従者に手渡した。
鬼から狐面に戻った少年は、提灯を片手にこちらまでやってくる。
「……かたじけない」
その手から、蒼い石を受け取る。
もう一度伏して礼を言い、そのままでシロは一行を見送った。
しゃりん。錫杖が鳴る。一行の歩が進む。
しゃりん。心なしか速いのは、ここで余計な時間を食ったためか。
しゃりん。やがて一向は神殿の中へと消えていく。
しゃりん。姿は見えねども、錫杖は鳴る。まだそこにいる。
しゃりん。しゃりん。その音色が完全にやむまで。人狼の耳をもってしても聞こえなくなるまで。
シロは伏して、花嫁たちを送り出した。
その手に、蒼い石を握って。
* * * * * *
目が覚めた。
目が覚めたということは、どうやら眠っていたらしい。いつの間に。
空を見上げると、日はすでに高かった。昼を回っている。
朝からなにも食べていない。お腹が空いた。胃の中は空っぽだ。
空は晴れている。でも、空気は湿っていて、さっきまで雨だったことを教えてくれた。雨音にも気付かず、ぐっすりと眠っていたらしい。
変な夢を見た。妙に現実感のある夢だ。ひょっとしたら現実だったかもしれない。
首の後ろに手をやると、自分の長い髪が触れた。切れてない。やはり夢だったのか。
あんな夢を見るなんて、よほどに自分も追い詰められていると見える。
タマモもこんな感じだったのだろうか。夢でも現実に悩んでいたのだろうか。今更ながらに、その気持ちが少し分かった。
苦笑しながら、視線を空から地に堕とす。
視界に、蒼い石があった。
「――――――――!」
立ちあがり、周囲を見まわす。
狐の一行はいない。影も形も、気配もない。
夢ではなかったのか?
夢のはずだ。自分の髪は切れてはいない。
夢ではない。蒼い石が、ちゃんとここにある。
それでは。つまり―――
「………本当に、かたじけない」
シロは社に向かって深々と一礼した。
左手で己の髪を束ね、霊波刀で無造作に断つ。
賽銭箱の前に髪を置き、代わりに蒼い石を手に取った。
対価は払った。石は我が物に。これをタマモに届けよう。それが今の自分にできること。
もう一度、社に礼をして、シロは本殿を離れた。
鳥居をくぐる。途端にせみの声がする。先ほどまで静かだったのに、今はうるさいほどだ。
日は高く、うだるように暑い。まだ梅雨のはずなのに、気候はすでに夏のそれ。階段を降りるだけでも、うっすらと汗がにじんでくる。
吹く風が心地よい。朝はそれがとても鬱陶しかった。
下は向かない。気持ちは前を向いている。罪を償うとか、そういうのでなしに、ただ、タマモと仲良くなりたい。そう思う。
蒼い石を運ぶ。タマモに渡す。タマモに笑って欲しいから。元気を出して欲しいから。
タマモは受け取ってくれるだろうか。昨日の様子から考えると、とても話を聞いてくれそうにない。そうだ、先生に渡そう。先生からならきっと受け取ってくれる。
それがいい。それでいい。重要なのはタマモに笑ってもらうことだから。タマモの笑顔を自分が見たい。理由はそれで十分だ。
そうと決まれば即帰ろう。先生はまだ大学だろうか? どこにいようが匂いをたどれば見つかるはずだ。狼の狩りから、逃れられるべくもない。
空気を嗅いだ。師の匂いはしない。さすがにここまでは、風も師の匂いを運びはしない。
まずは東京に戻ろう。師を追うのはそこからだ。学校なんかサボってしまえ。こんないい天気、教室で燻るのはもったいない。
シロは走り出した。一路、東京に向かって。そこにいる師に向かって。師に石を渡し、師がタマモに渡してくれることを期待して。
タマモが笑ってくれることを期待して。
シロは、長い石段を駆け下りていった。
鳥居の向こう。静かな静かな異界の社。神前に捧げられた白髪が静かに舞い、消えていく。
駆け下りる少女の後姿を、稲荷の像が見送っていた。