第7話 「神々の霧」
月曜日深夜 原生林
更けゆく原生林の闇の中、ふと肌に冷たさを感じてタマモは目覚めた。
反射的に自分を抱いていた少年の姿を探して見れば、そこにあったのは自分に抱きつき涎をたらすシロの姿。
どうやらその涎が彼女の目覚めの原因らしかった。
「汚いわねっ!バカ犬っ!」
「キャン!先生え〜痛いでござるぅ〜ムニャ」
タマモ怒りの鉄拳にも目覚めず爆睡するシロ。
その幸せそうな寝顔に呆れるタマモ。もしかしたら自分もあんな寝顔を晒していたのかしらと口元を拭ってみる。
幸いにも涎はたれていなかった。とりあえず川の水で顔を洗おうと立ち上がった時、トイレにでも行っていたのか横島が戻ってきた。
「お、すまん。起こしちまったか?」
「別に…」
「そっか…あんまり気持ちよさそうに寝ていたもんだからなぁ…なるべく我慢したんだが限界だったもんで…」
苦笑する横島はついでに拾ってきたのか数本の枯れ木を火に入れた。
「わ…わたし、そんなに気持ちよさそうに寝てた?!」
「ああ…涎たらしてな…」
「嘘つくと燃やすわよ…」
笑いながら火を見守る横島をジト目で睨む。
「怖いなぁ…」と相変わらず笑顔のままの横島、その炎に赤く染まった少年の顔を見てタマモは考え込む。
自分はすっかり飼いギツネになってしまったのか?…と心の中で苦笑する。
本来、孤独を好むキツネの性とはいえ、自分はかっては金毛九尾の大妖だったはずだ。
強きものに庇護を求め代わりに彼らに力を与える…それがかっての自分だったはずだ。
だとすれば、今のこの状況にさほどの不満を感じてない自分は…
(こいつのこと…認めてるってことかしらね?)
普段の姿からすればこの少年が強いとはとても思えない。
雇用主には頭が上がらず、飼い犬(本人は否定するだろうが…)にすら振り回され、女性と見れば声をかけては折檻され、泣きながら謝る姿を見慣れていれば仕方ないだろう。
除霊の現場でも目立った活躍はしていない。
相手が強ければ驚き慌て騒ぎまくる。情け無いことこのうえない。
だが…ある日、自分は気づいてしまった。
泣き言を言う横島に美神が過激な突っ込みをし、おキヌがそれを宥め、シロが苦笑し、自分が呆れる…その一連の流れがどのような危険な場であっても、さながらいつもの事務所にでも居るかのような安心感を作り出していることに。
そして…悪霊の攻撃におたおたと逃げ回りながらも、事務所のメンバーに悪霊の攻撃が命中すると思われたときには、どういう訳か必ず彼が前に立っているという事実に。
気づかなければ単に「運の無い奴」とか「悪霊にまで好かれるのか?」とも思える少年の動きは、気づいてしまえば実は常に攻撃の前に身を晒し他のメンバーの盾になっているという単純な手品のなさる技だった。
タマモには横島が何故そんなことをするのかわからない。
付き合いの長い美神やおキヌも長年培われてきた先入観のせいか気づいてはいないようだが、無駄に逃げ回っているように見えて、大局的に見れば悪霊を一箇所に誘導し、危険が迫れば逃げ惑うフリをしてみんなを守る。
つくづく不思議な少年だとは思う。
(何かを隠している…ってことかしら?)
「ねえ…ヨコシマ…?」
「シッ!」
話しかけようとするタマモを制止する横島。
「先生!」
シロも目覚めた。その表情には先ほどの弛緩した様子は微塵も無い。
周囲に気配は感じ取れない…いや多すぎて掴めないのだということにタマモも気がついた。
あたりに満ちていく殺気を含んだ無数の気配…。
「これは…囲まれたでござるな…」
「そうね…気配が多すぎて特定できないけど…」
身構えるシロとタマモに横島が声をかける。
「お前達…離れるなよ…」
「わかったわ…」
「わかったでござる…」
ミシリ…あたりの空気が軋んだような音を立てる。
臨戦態勢をとる横島たちだったが、タマモが真っ先にそれに気がついた。
「ヨコシマ…霧が…」
あたりの気配が増すと同時に現れ出た霧がどんどん森に満ちていくとやがて周囲はすっかり白い世界に包まれていく。
「この霧は…ただの霧じゃないな…シロ、タマモ、ちょっとこっちに来い」
「うん。」
「はいでござる。」
白い霧の中に薄ぼんやりと浮かぶ横島に近づくと、正面を真っ直ぐ睨みつけたままの彼にいきなり抱きしめられる。
「ちょっ!」
「先生っ♪」
「静かに…」
ほとんど見たことの無い真剣な横島の表情に抗議の声を飲み込んで頷く。
「来るっ!」
横島が叫んだ瞬間、霧の向こうからブオンと何かが風を切る音が響いた。
「避けろっ!」
咄嗟に散った彼らの居た場所に落ちてきたのは一抱えもありそうな巨岩。
「まだ来るでござるっ!!」
「くそっ!ここは不利だ。開けた場所に出るぞ!シロ、タマモっ!遅れるなよっ!」
「わかったでござるっ!」
「OK!」
横島の指示とそれに答えるシロとタマモ。
霧の中、先に立って走る師弟コンビのぼんやりとした後姿を追って走り出したタマモの居た場所に巨岩が落ちた。
ドゴン!
そして霧の中での逃走劇が始まった。
暗闇さえ白く染める霧の中をひた走る横島。
後ろに続くタマモとシロの姿は霧に隠れて見えないが彼を追う二つの足音だけは聞き取れた。
前を行く横島を追うシロ。彼女には先を行く師匠の姿がはっきり見えていた。
だから彼女はひたすらに彼を追う。
彼ならこの状況から自分達を守ってくれると信じて。
最後尾をいくタマモは気がついた。
先をいく二人、姿も見える、気配もある…だが…どれほど走っても彼らと距離が縮まらないことに。
「私をハメるとはね。誰だか知らないけどやるじゃない…」
立ち止まってあたりを見回すと、前を走っていたはずの二人の姿が掻き消える。
「出てきたらどうなの?」
タマモの声に応えるように霧が薄れ始め、そしてタマモは自分が細い葉を持つ腰までの植物が一面に茂る草原に立っていることに気がついた。
「ここは…?」
「人間達は牧草地と呼んでいるな…」
答えはタマモの後ろの茂みから聞こえた。
「?!」
飛びのきながら身構えるタマモの前に茂みから立ち上がったのは、牛ほどの大きさの一匹のキツネ。その目は燐光を放ち黄金色の体毛は月の光を受けて鈍く輝いている。
「さっきの幻術はあなたの仕業かしら…」
「違うな…俺はそんな術は使えんのでな…」
「キツネの妖怪のくせに幻術が使えないですって?」
「キツネが人を化かすと言うのはお前らホンドギツネに人間たちが与えた伝説だろう…この地に住む我等には関係の無い話だ…」
「ホンドギツネって何よ!私は金毛九尾の狐『玉藻の前』の転生よ!」
「知らんな…俺には本土で産まれた子狐にしか見えん…」
「言ってくれるわね…」
「ふん…口だけは達者だな。子狐」
「子狐じゃないっ!私は『タマモ』よ!!」
「俺は『シュマリ』と呼ばれている…いや…今は『チロンヌプ』と名乗っておこうか…」
「どういう意味かしら…」
「この地の言葉で『シュマリ』は『キタキツネ』のこと…そして…」
突然、巨狐から放たれる圧力さえ感じさせる膨大な殺気によろめくタマモ。
「『チロンヌプ』とは『殺すもの』と言う意味だ!!」
「甘いっ!」
叫びとともにまっすぐに飛び掛ってくる巨狐にタマモの放つ狐火が命中する。
その高熱の塊に顔を直撃され踏鞴を踏んだ巨狐は横に飛んでタマモから距離をとった。
熱球に焼かれた顔を前足でこすりながら、さも意外といった声音でタマモに問いかける。
「貴様…炎を操れるのか?」
「狐が狐火を使えるのは当然じゃないかしら?」
「それも知らんな…俺が使える技にそんなものはない…」
「あら…それならこんなのも初めてかしら?」
タマモが巨狐の眼前で手を振る。巨狐にはタマモの姿が幾人にも別れて見えた。
だがその巨大な口から牙を覗かせてニヤリと笑うと真っ直ぐにタマモの本体を睨みつける。
「ほう…幻術とはこういうものか…なかなか器用なものだな」
「言うわね…効いてない癖に」
「いや…効いているよ。だがな教えてくれるのだよ。」
「何のこと…きゃっ!」
言う前に飛びかかってきた巨狐の攻撃に咄嗟に飛びのく。
「所詮、一人で戦うお前に説明してもわからんよ…お前はここで俺に倒され一人で死んでいくだけだからな…」
「何を!………もしかしてヨコシマやあのバカ犬にところにも!!」
「当然だろう…安心しろ。死ぬのは一人でも亡骸は同じ場所に葬ってやる…」
「誰が死ぬもんですか!」
「ふむ…ならば足掻いてみろ。生き物にはその権利がある。」
「上等じゃない…」
タマモと巨狐は再び対峙する。
横島の姿を必死に追うシロだったが、ふと嫌な予感を感じて振り返り霧の中タマモの姿も気配も消えていることに気がついて青ざめた。
「先生っ!!」
叫ぶシロの前で横島の姿が掻き消える。
「これは…はめられたでござるな…」
薄れる霧の中で自分が立つのはわずかばかりの草が茂る岩場だった。横島の姿もタマモの姿もそこには無い。
代りにシロの前に立つのは一匹の獣。
身の丈3mを越そうかという巨大なヒグマであった。
「そこを退くでござるっ!」
威嚇するつもりで霊波刀を出現させるシロにヒグマは怯えた様子もなく二本足で立ち上がると両手を広げ咆哮をあげる。
その口の中に並んだ鋭い牙と月の光に鋭い輝きを放つ巨大な爪がこの巨獣の戦闘力がかなり高いことを物語っていた。
「拙者は獣をむやみに傷つけるのは好かんでござるが邪魔するとあらば容赦しないでござるよ…」
シロの放つ闘気にも怯む風でもなく両手を広げたまま近づいてくるヒグマ。
「仕方ない…まいるっ!」
声とともに霊波刀をヒグマの顔面に突きつけるが巨獣はそれを右手の爪でがっちりと受け止めると左手を豪快に振り下ろした。
「なんと!」
咄嗟に身を沈め巨獣の豪腕をかわす。
かわしきれなかった髪の毛が巨獣の爪に裂かれ宙に舞った。
後方に飛んで巨獣と距離をとるシロにヒグマがニヤリと笑う。
その口から出るのは粗野な男の声。
「やるじゃねーか…『ホロケウ』の小娘。」
「拙者は狼でござるっ!」
「あ?ああ…『ホロケウ』ってのは狼のことだ…」
「それは失礼したでござる…拙者はてっきり犬扱いされたかと…」
「いえいえこちらこそ…って違うだろうがっ!何を和んでるんだよオレはっ!!」
「そうでござった!何故、拙者たちを襲うでござるか?拙者たちは熊殿に悪意を持ってはおらんのに…」
「理由か…お前達の命が欲しいってのは駄目か?」
「拙者たちの命でござるか?高いでござるよ…」
ギンと輝きを増した霊波刀を下段に構えるシロ。
「はははは。なかなか言うじゃねーか小娘。」
「小娘ではござらん!拙者は犬塚シロ。横島忠夫の一番弟子でござるっ!!」
「さっきの小僧か…本当はあっちとやりたかったんだがなぁ…オレの名はまあ色々あるが今は『キヌンカムイ』と名乗っておくか…」
「お主ら!先生やタマモにまで手を出しているでござるかっ!!」
「心配するな…すぐに一緒になるさ…墓場でなっ!!」
巨獣の豪腕による一撃を霊波刀で受け止めようとして弾き飛ばされるシロ。
ゴロゴロと岩場を転がるとすぐに立ち上がって霊波刀を中段に構えなおす。
「拙者の仲間に害成すと言うなら容赦せんでござるよ…」
「ふははは。いいぞ。頑張ってみな。」
巨獣は再び天に向かって咆哮を上げた。
霧のはれた森の中で横島は自分の失策を悔やんでいた。
いつの間にか後ろを続くはずの二人の姿はなく変わりに二頭のエゾシカが走っているのに気がつき取って返そうとする彼の前に立ちはだかるのは髭に覆われた顔を俯かせフクロウの意匠をこらした木の杖を持つ一人の老人。
明らかに人外の気配を漂わせながらもゆっくりと横島に近づいてくる。
「さっきの霧は爺さんの仕業か?」
油断なく栄光の手を発動させながら聞く横島に老人は顔を上げた。
しかしその目は紛れもなく暗闇の中で真っ直ぐに獲物を射抜く猛禽のもの。
栄光の手を霊波刀に変化させる横島に動ずる様子もなく、ただただ樹上から獲物を狙うがごとく鋭い気を発している。
「わしには霧を操るなんぞ出来んよ…」
「じゃあ爺さんには何が出来るんだ…」
油断なく霊波刀を構えながらじりじりと距離を詰める横島を眼光で牽制しながら老人は長い髭に覆われた口元を歪めてニヤリと笑う。
「わしに出来ることは視ること…そして…お前を狩ることだけじゃな…」
「何者だ?爺さん…」
「わしか?わしは『コタンコロカムイ』と呼ばれているな…だが、今のわしには過ぎた名じゃ…だから『カムイチカプ』とでも名乗っておこうかのう。」
「覚えにくいぞ!爺さん!!」
「覚える必要はないぞ…死人には何も必要あるまい。さて…夜明けまで間もないでな。さっそく狩らせてもらうぞ…」
ブンと杖を横島に向ける老人に横島も霊波刀を向ける。だが気がかりは二人の少女のこと。
「爺さん…まさかシロやタマモにまで手を出してないだろうな…」
「当然、別のものが狩りに行っておるぞ…」
「そうか…だったら爺さんを早めに倒させてもらう!」
台詞とともに一直線に突き進み霊波刀を横に薙ぐがそこには老人の姿はなかった。
代わりに頭上の木の上から感心したような老人の声が聞こえる。
「ほほう。なかなか見事な攻撃じゃな…視てなければ今ので終わったじゃろう。だが…無駄じゃよ。わしには視えておるでな。」
「いつの間にっ!」
振り仰ぐ横島の目に映るは一羽の巨大なフクロウ。
だがその口から放たれるのは紛れもなく先ほどの老人の声だった。
「しかし惜しいの。わしを老人と侮って手加減か?それとも敬老のつもりか?」
「腰でもやられた日には俺がおぶって歩かなきゃならんじゃないか…」
「ほっほっほっ。つくづく面白い男じゃの。妖と人の区別をもたんか…今時珍しい奴じゃ。殺すには惜しい気もするがの…」
「死なねーよ。約束したんだ…」
「ふむ…ならば手加減は無用だぞ。」
「そうみたいだな。」
「ほう…闘気が変わったか…ならば遠慮なくかかって来んかい。」
「ああ、いかせてもらう。」
密かに手の中に文珠を出現させ怪鳥に向き合う横島に、樹上で鋭い爪を光らせていた巨鳥はフワリと音もなく舞うとそのまま襲い掛かった。
「『縛』」
光とともに発動した文珠だが怪鳥はあらかじめわかっていたかのようにその効果範囲を避けて空を裂くと再び木に舞い戻る。
「ふむ…それが文珠か。知らずに食らっていれば危なかったのう…」
「爺さん。文珠を知っているのか?」
「話だけはな…だがそれも今視た。故に次は通じんぞ!」
再び怪鳥が空に舞った。
後書き
ども。犬雀です。
さて横島たちの前に現れたのはそれぞれの神々でした。
果たしてどんな戦いになるか…。戦闘描写が苦手な犬はプレッシャーに耐えられるのか?
読んでくださる皆様のレスを励みに、犬、頑張ってみます。
ちなみに今回の言葉は以下の意味です。
『キヌンカムイ』…山の神・ヒグマ
『シュマリ』…キタキツネ
『コタンコロカムイ』…集落の守り神・シマフクロウ
『カムイチカプ』…鳥の神・シマフクロウ
では…
>紫苑様
今の時点ではタマモは横島が気にかかるという程度。
所謂、恋愛感情以前といったところでしょうか。
さてこの後どう変わっていくんでしょうか?
>KEN健様
全問正解でございます。お見事です。
>某悪魔様
伝説では人と共存していた神々が横島たちに牙を向ける理由…うまく説明できるかどうか…なんとか頑張ってみます。