第6話 「蕗の下に住まう者」
日曜日 ラワン近郊の原生林
日が沈み始め、原生林が薄暮に包まれるころになっても霧香は帰ってこなかった。
山を駆け回っていたシロもさすがに疲れたのか横島のところに戻ってきている。
「先生っ!この山は凄いでござるよっ!あちこちに動物の気配が満ちているでこざるっ!!」
自分に抱きつきながら報告するシロをよしよしと撫でてやる。
タマモはと見れば近くの切り株に腰掛けて所在無さげに川面を見ていた。
「こりゃあ、マジで今夜はここで野宿かなぁ…」
シロを撫でながら暮れていく森を見て嘆息する横島にタマモが噛み付く。
「ちょっとっ!こんな何も無いところで野宿なんてとんでもないわっ!!」
「けど、お前だってキツネだろ?山とか慣れているじゃん。」
「そ、それはそうだけどっ!!…ここにはお揚げだってないし…」
何気ない彼の言葉にドキっとする。もしかしたら自分は野生を忘れつつあるのかも知れないと考えるにいたりブンブンと頭を振ってその考えを振り払った。
美神のところにはあくまでも人間とのトラブルを起こさないための知識を得るために一時的に居候しているのに過ぎないはずだった。
だが、いつの間にかその生活に慣れきってしまっていたのか?と不安になる。
「とりあえず野宿するにしても食料は必要だな…シロ?何か食えそうな鳥とかウサギとか居なかったか?」
「それが不思議なんでござる…。気配はそこかしこにあるのに一匹の獣も鳥も見えないんでござるよ…」
「お前たちの鼻でもか?」
「そうね。私も全体的に気配があるのは感じ取れるんだけど、その一つを特定することは出来ないわね。このあたりの生気とかが強すぎて混じってしまっているって感じかしら…」
「で、ござるな…」
「ふーん…」と納得したのかしてないのか曖昧な返事をする横島に「何よ」と言い返そうとしたところでそれは突然に起きた。
「せ、先生っ!!」、「何っ?何が起こったの!!」
驚くシロとタマモだったが無言で川面を見詰め続けている横島から返事は無い。
かすかに差し込む夕日を受けて川面から一斉に飛び立つ小さな虫の群れ。
これほどの虫がこの小さい川に居たのかと思わせる夥しい数の虫は沈み行く残照を受け金色に輝きながら水面を舞いそして横島たちの周りを飛び回った。
その一匹を手にとって見るタマモ。透明の薄い羽を持つその昆虫には遠い昔い見たような記憶がある。
「カゲロウ…でござるな…」
「カゲロウ?」
「そうでござる…しかしこれほどの数が一斉に飛び立つのを見るのは拙者も初めてでござる。」
あたり一面を金色に包むカゲロウの乱舞に声もなく見守る一同。
「ちょうと今ぐらいの時期にの。カゲロウは一斉に羽化するのじゃよ…」
「ぬおっ!」、「えっ?」、「誰でござるっ!」
不意に後ろから声をかけられて驚く横島たち。
振り返ってみれば、そこには白い髭を生やし作業服を着た五尺ほどの小柄な老人が山葡萄と思しき蔓を編んで作った籠を持って立っていた。
驚く彼らのことは意に介さないよう老人は近寄ってくると川面を指差す。
「そしての…この幾万といるカゲロウのうち、望みを果たせるものはごくわずか…残りはああやって…」
老人の指す水面を見れば一面に豪雨でも降っているかのようなバシャバシャと言う水音とともにあわ立つ水面。
「羽化しそこなったカゲロウや、羽化したことで力尽きたカゲロウはああやって水に流され…魚の餌になる…」
「あれが全部魚でござるかっ!!」
「こんなに居たのっ!!」
「すげーな…」
驚く横島たちを老人は大声で笑い飛ばした。
「はっはっはっ。おぬしらは目に入るものだけが真実と思っているのかの?もっと体全体で感じてみんか?」
「え…?」
「こんなところに魚は居ないと思ってみるから信じられない…また、こんな小さな川にはそんなに数は居ないと思っているから見えない…。愚かしいことじゃ…見るが良い。山はこれほど生き物に満ちておる!」
老人がさっと手を振ると横島たちの見る光景が一変した。
「な…」
そこに見えたのは無数の昆虫や、木の陰からこちらを覗くエゾシカ、ササの茂みの中で目を光らせるキタキツネなどの獣たち。
「いつの間に…」
「ふん!近くにいるはずがないと思い込んでおるから見えんだけじゃ。」
「しかし拙者らには気配すら…」
「気配?何の気配じゃ?鳥獣に限らず木にも草にも気配がある。もちろん石にも…いや…この山全体が生きているとも言える。おぬしらは獣の癖にそんなことも忘れたのか?」
「じいさん…あんたいったい何者だ?」
「ふん。とがるでないわ。まずは腹ごしらえじゃ。小僧、火を起こせ。わしが馳走してやる。」
「あ、ああ…」
小柄な老人の発する気迫に逆らいがたいものを感じ、そのあたりにある木を集め始める横島たち。やがて少し開けた川原の一角に木の枝が組みあがるとタマモがそれに火をつけた。
「ほほう…なかなか見事な手際だの。若いのになかなやるではないか。だが火をつけるのに術というのはいただけないのう…」
「まあ、サバイバルは慣れているからなぁ…」
あの過酷な上司の下で何度となく山中に置き去りにされた経験が、勉強嫌いな彼をして必死にサバイバル教本を読ませることにつながったが故に体得した技術である。
彼一人でここが本州の山奥なら霧香の残した装備で一週間は生き残る自信があった。
「ふぉっふぉっ。まあ良いわ。ほれ馳走すると言ったじゃろ。まずは…」
そう言って籠から老人が出したのはニジマスやイワナなどの魚類。
次に出てきたのはウドやタラの芽などの山菜。その種類は多種にわたり中にはネギのような植物も混じっている。
早速、魚を火の回りに並べて焼き始める。
「肉はないでござるか?」
「肉か…あるぞ。」
再び籠から出てくるのは干し肉のようなもの。
「これは何でござるか?」
「鹿肉じゃよ。」
クンクンと肉の匂いを嗅ぎながら聞くシロに笑いながら答える。
笑うと目が白い眉に隠れて顔中が毛に覆われたようにも見えた。
「油揚げはないの?」
「さすがにそれはないのう…。代わりといってはなんじゃが…」
再び籠から出てくるのは小麦粉と白い徳利。
「これはなんすか?」
「まあ、見とれ。お主、鍋とかあるじゃろ。」
「はい」と老人に鍋を二つ渡すと一つに徳利の中身を入れ、もう一つには小麦粉を入れ、タマモに川の水で溶いてくるように言いつけた。
「なんで私が…」と文句を言いながらもタマモが言われたとおりにしてくると、その中身に山菜を入れ、小麦に塗れたそれを温めたもう一つの鍋に入れる。
ジューとはじける山菜。どうやら油だったようだ。
「天麩羅っすか?」
「うむ。そうじゃ。ほれ食ってみい。」
渡されてタマモはクンクンと匂いを嗅いでから齧ってみる。
カリッと歯に当たる感触とその後に湧き出てくる野趣に富んだ香りが味覚をくすぐる。
「おいしいわね…これ…」
「そうじゃろう。それはウドの芽じゃ。」
次々と天麩羅を揚げる老人。皿代わりのフキの葉はたちまち満杯になる。
「こっちも焼けたでござるよ」とシロが魚を持ってくる。
「では。食うか。ほれ。遠慮するな。」
「「「いただきます」」」
モフモフと食い捲くる横島たちを目を細めてみている老人。
自分もフキの上から一つの天麩羅を取ると横島に渡す。
「これは何すか?」
「行者ニンニクじゃよ。知っとるじゃろ…」
「ああ、これが…」
「それは何でござるか?」
「ああ、昔な、修験者とかが食べた山菜だそうだ。」
「ほほう。なかなか博識じゃの。わずかだが霊力回復の効果もある。だがお嬢ちゃん達は食うてはいかんぞ。」
「なんでよ」
「犬の類がネギを食ってどうするかっ!」
言うなり大口を開けて笑い出す老人の言葉に「拙者は犬ではないでござるっ!」と抗議するシロ。タマモは「私はシロと同じ扱い…」としょんぼり。
やがて奇妙な宴会も終わると横島はそれまでの和やかな雰囲気を一変させ老人と向き合った。
「で、爺さんは何者だ?」
「わしか?わしの名は「吹下住人」、山菜採りが趣味のただの爺じゃよ。そうそう「フッキー」と呼んでくれ。」
「フッキー…でござるか?」
「似合わないわね…」
「くっ…最近の犬どもは老人を労わることを知らん…」
「で、吹下さん「フッキーじゃ!」…フ、フッキーさん…」
「なんじゃ?」
「なんでこの娘たちが犬とかキツネとかってあんたにわかるんだ?」
「ふん…生まれた時から山で暮らし続けたわしが獣の気配を読み違えるとでも思ったか?都会もんはそんなことも忘れたか?」
「拙者は犬ではっ!!」
「しかし…さっきのことだって…」
「まったく…見所があるかと思えば情け無い…」
「え?」
「生き物は山の一部であり山は生き物の集まりじゃ。生き物なくして山は育たぬ。山無くして生き物は生きられぬ。すなわち「個にして全、全にして個」、お主たちが気がつかないだけじゃよ。わしはそれを見せただけじゃ。」
「でも、山と言ったって岩とか土とかもあるじゃない…」
「ふふん…ホンドギツネはそんなことも忘れてしまうほど衰退したのか?」
「ホンドギツネって何よっ!!」
「土も岩も関係ないわい。生きておるのじゃからな。物も生き物も変わりあるものか。」
「ちょっと待ってくれ。物と生き物の区別が無いってのはどういう意味だ。」
「意味じゃと?それを知るのがお前の目的じゃろうが…」
「じいさん…「フッキーじゃと言うに…」…フッキー…あんたやっぱり何者なんだ?」
「ふん。そんなことを知ってどうするというのじゃ…」
「俺の知り合いの娘が物と人の中間みたいになって眠り続けている…俺たちはその子を助けたくて…その手がかりを求めてここに来たんだっ!」
「ふむ…まるでマリモのような話じゃの…」
「マリモでござるか?」
「うむ…大昔のことじゃ。湖の近くに住む恋人同士がおったのじゃがの。娘の父親が勝手に別な男を婿に決めたのじゃよ。じゃが娘が自分になびかんと知ったその男はの。娘の恋人を亡き者にしようとして返り討ちにあったのじゃ…」
「バカね。その男…」
「うむ。そうかもしれんな…。だが話にはまだ続きがあっての。当時の部族の間では同族殺しは大罪じゃ。娘の恋人は自らの罪を悔いて舟で湖に出るとこの世の名残とばかりに得意の葦笛を吹いてから身を投げた。そしてそれを知った娘も舟で湖に出て二度とは帰らなかったのじゃ…」
「悲しい話でござるな…」
「そうじゃの…そしてそれ以来、その湖にはその恋人たちの想いが募ったのか、マリモが出来た。そして無数のマリモの中にただ一つだけ二つのマリモが寄り添ったものがその湖に眠っているという話じゃよ…」
「それが唯ちゃんとどんな関係があるんだ?」
「さあな?わしにはわからん…ただ、似ているとは思わぬか?」
「似ている?」
「マリモじゃよ。植物でありながら物のようにも見える。いつ育つかはわかってもなぜ丸くなるかは良くわかっておらん。生き物としてなら丸くなる必要なぞないじゃろ?」
「確かにね…」
「だから土地の物はマリモを「湖の種」と呼ぶこともある。「湖」であり「種」じゃ。どうじゃ?似ているとは思わんか?」
「うーん…もしそうだとしてマリモを見れば解決するのか?」
「それは無理じゃろ。人工マリモなんぞ土産物屋でいくらでも売っておるわい。そんなものに人の想いがどれほど篭るというのじゃ?それに神々が許しはしまいよ。」
「神々?!爺さん。あんた神々の居場所を知っているのか?!」
「知るといえば知っている。知らぬといえば知らぬ。お主らが自ら探せばよい…」
「頼むっ!教えてくれっ!」
「ふむ…ならば追われたされる神々がたどり着いた場所ぐらいは教えてやろう…」
「それは?」
「この土地の言葉で「地の果て」と言われる場所…「シレトク」…知床じゃよ…」
突然、凄まじい風があたりを吹き荒れる。思わず横島たちは顔をかばった。
そしてもう一度顔を上げたとき、老人の姿は忽然と消えていた。
しばらく呆然としていた横島たちだったが、横島は頭を一つ振ると老人が座っていた場所を見つめ、やがてその顔にハッキリと決意の色を浮かべて言った。
「知床か…明日になったら行って見よう。なんとか町まで出ればバスくらいあるだろうさ…」
「そうでござるな。拙者もこの地の神様に会ってみたいでござる。」
「私も行くわ。何か知らないけれど大切なことがわかる気がするの…」
「ん?そりゃ予感か?」
「そうかもね…私にもわからないわ。こんな経験は初めてって気もするし、懐かしい気もするし…」
「そっか」と呟くと横島は消えかけている焚き火に薪を入れた。
火の粉が弾け再び火勢が強くなる。
火の揺らめきに赤く照らされる彼の顔は今までタマモが見たこともないほど真剣なものだった。
思わず見惚れてしまっていた自分に気づいて赤面する。
確かに今までもこの少年がセクハラとかをかますたびに、理由も無くムカムカしたことは事実だ。だがそれがどういう想いからきているものなのか、転生してまもない彼女にははっきりとはわからなかった。
(知床という場所に行けば…何かわかるのかしら…)
予感は確信めいたものに変わりつつあった。
突然、肩に手をかけられグッと抱き寄せられる。
「え?え?え?」
混乱するタマモを抱き寄せて横島がニッコリ笑った。
「いくら火のそばでも一人じゃ寒いだろ。ブランケットも一つしかないし、みんなでまとまった方が暖かいって…」
笑顔の彼の横を見れば、いつの間にか横島に抱き寄せられ、早くも幸せそうな顔で寝息を立てているシロの姿がある。
「ヨコシマ…本当にあんたって不思議な人ね…」
「ん?そっか?」
「そうよ…こんな場所で仮にも人狼であるシロが警戒心のかけらも無く寝ているってのがその証拠じゃない…」
「ふーん…でもコイツはいっつもこんなもんじゃないか?」
「あんたねぇ…まあいいわ…」
そしてブランケットを引き寄せると超がつく鈍感男の胸に顔を埋めた。
「おやすみ…ヨコシマ…」
「ん。火は俺が見ているから安心して寝てろ。」
「うん…」
そして少年に抱き寄せられ、タマモもすぐに眠りに落ちた。
そんな彼らの様子を遠くから見つめる者たち…。
その中には吹下と名乗ったあの老人もいた。
「…ずいぶんとあのガキどもをかっているようだな。」
闇に溶けるような静かな男の声に吹下が答える。
「さあのう…だが面白い小僧であるには違いあるまい。人も妖も区別せぬなど今のこの地にどれほど居ると言うのだ…」
「ふん!だが神の住む地を訪ねることが出来るかどうかはわからんわ!」
野太い巨獣の唸りのような声。
「それを試すのがお主らなんじゃろうが…」
「まあな…だが…あいつらが至れぬ時は…」
「死ぬ…ですか?」
か細い女の声。
「さあな…」
「ならばあのホンドギツネは俺の獲物だ…」
「ふん。楽をする気か『シュマリ』。…ならばオレはあの小僧を貰うぞ!」
「ほう。『ウェンカムイ』にでもなる気か?」
「オレが悪神ならばお前は『チロンヌプ』だろうが。」
「そんな…」
「まあ、そう猛るな。」
羽音ともに現れるしわがれた声。
「なんだまた爺が増えたか…役立たずの『モシリコロカムイ』が今更何の用だ?!」
「フオッフオッ…あの小僧はワシが相手をするわい。主は「ホロケウ」を相手にすればよかろう…」
「まあ仕方ないな…だがあの小娘がオレに勝てるはずがないだろう…」
「その時は、主の好きにするが良かろう…」
「ああ、そうさせてもらう。」
眠る少女たちを優しく包み込む少年には彼らの会話は届かなかった。
後書き
ども。犬雀です。フッキーの正体は…。はい。某悪魔合体ゲームなどで地霊とか精霊とかだったりするあの人です。って題名見ればバレバレですね。
作中のカゲロウの一斉羽化は6月の出来事。釣りをする方は「スーパーハッチ」と言います。
行者ニンニクは5月上旬の山菜と時期とかはズレまくりですがご勘弁を。
さて、今回は色々と聞きなれない言葉が出てきたと思いますので、とりあえず今明かせる範囲で解説を…。
『ウェンカムイ』…悪しき神
『チロンヌプ』…殺戮者・すべてを殺すもの
『ホロケウ』…狼
かの人たちの言葉はコタン(集落)ごとにかなり方言がありますので、微妙な違いはありますがとりあえずこんなところで…。
次回、横島たちはいよいよ神の座に向かいます。そこで何が起きるか…実は犬初のバイオレンス表記になるかと…読んでくださる方がいればいいなぁとプレッシャーでドキドキです。
では…
>柳野雫様
この場所がもたらしたのは、あの「蕗の下に住むもの」との邂逅でした。
さて、次回はどうなりますことやら…
>某悪魔様
霧香がカムイ(神)かどうかはまだ内緒です。なんらかの関係はあると思いますが。
>紫苑様
さて…これから起きること、本州に残った彼女たちに伝わるでしょうか?
なかなか難しそうです。