―― 赤熱の塔 最上階 ――


ライトが階段を登り切ると、そのまま狭い通路に出た。
たどり着いた通路には殆ど奥行きが無く、歩いて直ぐの右手に木製の扉が崩れ落ちた門がある。
侵入者の行く手を阻む術を失っている門の中を覗き見ると、
最上階のスペースを殆ど使用しているのではないかと、思われるほどの広い部屋が広がっていた。

部屋の内部は一定の間隔で、無数の太い柱が立ち並んでいる。
遙か昔は天井を支えていたのだろうが、幾つかの柱は折れたり倒れたりしていて、
役目を果たしていない物が多く見られた。
柱がそんな状態だからか、天井も半ばから崩壊していて、その部分が大きな吹き抜けとなっており、
崩壊に巻き込まれたのか周辺の壁面も崩れ落ちている。

まだ部屋の入り口付近にライトのいる場所から、遠くまで広がる森や空が見えるのだから、
崩壊の大きさがうかがい知れるだろう。


「…………ゴクッ」

今までとは雰囲気がまるで違う。雰囲気に呑まれて軽く息を呑みこんだ。
ガーディアンの姿は彼の位置からはまだ見えない。

僅かな足踏みの後、意を決してライトは門をくぐり部屋の中に入った。


「ふわぁっ……な、なんですか?」

明らかに空気が変わる。気温が高い。まるで大気が動いていないのだ。
正確に比べる方法がないが、体感できるだけでも外と中では数度は違うのではないだろうか?
まるで全てが異質な別の世界、そんな場所に入り込んだような……
空気に重さを感じて、酷く息苦しかった。


「はぁ……はぁ、なんか息苦しいですね」

肺に入り込む温度の高い空気が、どうしてもなじめずライトの息は荒くなる。
恐らくこの部屋自体が、異質な何かに包まれている……そんな感じがした。
それが何なのかを探して、ライトは崩落した壁面へと移動する。

……その途中で崩れた柱の瓦礫の山があり、ライトはそれを迂回いすることになった。
その際に今まで死角になっていた瓦礫の向こう側を覗き見て。


「……っ……ふっ……ふわっ」

叫ぼうにも声にならない。
特徴的な耳が思いっきり立ち上がり、毛も全体的に逆立っている。

勘違いしてはならないが、ライトの耳は決して万能ではない。
聞くことに集中している時ならいざ知らず、常時の状態だとかなり耳の良い人間に収まる程度だ。
だから、気を抜いていると物音に気が付かないこともある。

今回の事もそう言うことだった。



何気にライトが覗き込んだ瓦礫の向こう側が、竜の彼女の寝床になっていて、
なおかつ二人の距離は数メートルほど……


(ほ、、本当に幻獣?!! し、しかも……竜……火竜ですか!)

書物の記述が確かならば火竜とは、出会ってはならない幻獣の一つに数えられる。

この世界に竜と名の付く生き物は、数が少ない割に意外と種類が多い。
ライトが知っているだけでも、『火竜』『水竜』『風竜』『地竜』……など、竜を代表するモノを
あげるだけでもこれだけ居るのだ。
それら全ての総称として竜族と、大まかなカテゴリーで括っているのだが、
例外として獣人の中でも、竜に近い姿を手に入れた竜人という種族も存在する。

それら竜族の中でも、『火竜』とはかなりの凶暴性を秘めていることで有名だ。
目当ての獲物を手に入れるために、森一つ平気で焼き払うとまで言われている。

さすがにそれは誇張だとライトは思っていたが……
実物を目の前にして、それを誇張だと言い切ることは出来ない。
それほどまで目の前で眠っている火竜から感じる気は、かなり高圧なものなのだ。
大抵の物はこの気を浴びて、身体を硬直させてしまい命を落とすことになる。


(……じゅ……寿命が縮みます!!)

間近でそれを浴びたライトも例外なく、身体が硬直し逃げるに逃げられない状況に陥っていた。
最初に決めていた覚悟などあっさり粉々に砕け、微塵も残っていない。


出来ることと言えば、目の前で安らかに眠る火竜の寝姿を観察するぐらいだ。

幸運にも火竜の彼女は、ライトに気が付かないまま、安らかに眠っている。
こうしてライトのように間近で見ていると、竜が静かに寝息の音が規則正しく繰り返し、
小山のような身体を僅かに上下させて呼吸をしているのがよく分かった。
俯けの姿勢以外はとれないのか、寝返りを打つ気配はない。


(意外と……お、大人しいですね? 折角ですし、もっと観察させて貰いましょう)

時間と共にライトは落ち着きを取り戻し、随分と大胆な考えを抱くにいたった。
確かに探検家としては、幻獣である竜は興味が尽きない対象だろう。

だがライトは火竜である彼女の本性を知らない。
他者を餌と見なす、あの瞳を知っていれば落ち着いて観察する事など、
出来はしなかったはずだ。

まさに知らぬが仏である。


そんな調子で竜の身体をよく見れば、火竜の中でも少々小型の部類に入るだろうと分かった。
大きな翼の生えた巨躯は全長十メートルほど、全身を守る鱗はかなり堅固に見え、
それとは逆に腹部は、柔らかい蛇腹に覆われている。

もっとも、ふくよかに見えるのは、彼女が食事を終えてさほど時間が経ってないからだが、
その膨らみは明らかに一回り小さくなっているように伺えた。
彼女が食事を終えてから、小一時間も経っていないというのに、竜とはいえ驚異といえる消化能力である。
……いや、そう考えると、むしろ膨らみと言うより、
消化を終えた後のお腹に僅かな蟠りが残っている感じに見えなくはない。


もはや彼女の目覚めは、時間の問題……それは今かも知れないのだ。


しかし、そろそろ竜が起きるかも知れないという危険性に気づく気配はなく。
ライトはつぶさに火竜の肉体を観察し続けていた。
湧き上がる興味は留まることを知らず、より細部に至るまで。
そこまでライトを夢中にさせてしまうほど、完成された姿と言うべきか……
火竜の姿には目を惹き付ける魅力があった。

特にライトは二本の角がある竜の頭部に生えた、ブロンドの髪に目を奪われているように見えた。
前髪は顔にかかるほど長めで、後ろ髪は首の付け根まで伸びている。
体色よりは赤くはないが、燃えるような輝きを放ち、
結構動きのあるウェーブ状のくせっけも伴って、まるで炎を連想させた。

それは、まさに火竜に相応しい。
強大さ、恐怖、畏怖……火竜の姿に様々な物をライトは抱いたが、最終的に一つの感想を洩らすに至る。


「……美しいですね」

観察をすればするほど、ライトは虜になる。

もっと近くで見てみたい……そんな欲求が噴き出す。
瓦礫が散らばる足下を疎かにしたまま、ごく自然と足が前に出た。

そして、躓く。


「ふわっ……あ、足が……っ!」

さすがに転倒はしない。だがライトは思わず近くの瓦礫にもたれ掛かってしまった。
……それも両手で。




”キンッ!”


左の小脇に抱えていたエアボードが支えを失って滑り落ちる。
そのまま石畳に落下すると、金属の円盤は決して小さくはない音を立て転がり、
少し離れたところで横倒しになった。


「……あっ」

その物音でライトは現実に引き戻された。
自分がしでかした事の重大さ、致命的失敗を理解して顔が青ざめる。

……息の詰まる静寂が訪れた。


しばらくすると何かが動く気配を間近で感じる。
その気配のする方へ、息をする事も出来ずライトがゆっくりと火竜へと目をやるのと、
眠りを妨げられた火竜が目を覚ますのとは、ほぼ同時だった。

ゆっくりと立ち上がり、眠りを妨げられた火竜は首を振りながら不機嫌そうに呟く。


『……五月蠅いわね』
「あっ……ぁぁ…………やってしまいました」

目の前で立ち上がった火竜。
再び恐怖感が蘇り、ライトは腰が抜けたようにその場に座り込んでしまう。


『誰……?』

そして、火竜の彼女は領域を侵す侵入者に気が付いて視線を向ける。
燃えるような真紅の瞳を細めて……



          ※    ※    ※



普段の彼女は夢を見ることはない。
眠っているときは、何時も暗闇の中に意識が溶け、心地よい静寂の中で惰眠を貪る。




”キンッ”


そんな心地よい眠りに紛れ込んだ、不快な物音を彼女の耳は聞き逃さなかった。
静かだった暗闇の中に投じられた音が、波紋のように騒がしく広がって眠りを妨げる。
それは無理やり叩き起こされる様なものだ。

最初は無視を決め込み、眠ろうと思ったが一度覚醒すると中々寝付けない。
その御陰で、ますます彼女は気分が悪くなった。


『……五月蠅いわね』

中途半端な睡眠の御陰で、だるい身体をのっそりと持ち上げて立ち上がり、
首や尻尾を何時も通りに伸ばして、こりを解す。
そこで彼女はようやく、自分以外の存在に気がついた。

目の前で座り込んでいる小さな侵入者を見下ろし、彼女は問いかける。


『……誰?』
「……ら、ライトです」

相手の反応を期待していなかった分、返事が返ってきたことに彼女は驚いた。


『へぇ、私の声を聞いてまだ返事が出来るの……?』

これほど間近で向かい合って、冷静さを保っていられた相手は初めてだった。

気性が穏やかな『水竜』ならともかく、彼女は気性の激しい『火竜』。
小柄な個体とはいえ、その体から放たれる強烈な気は、他の火竜に勝るとも劣らない力がある。
更に特筆するべくは声にあった。
火竜の声には魔力があり、精神に作用する魔力が聞く者の冷静さを奪い去る。

だからこそ、大抵の生き物は竜を恐れるのだが、
怯えながらも返事を返してくる相手に、彼女は少しだけ興味を抱いた。

少しだけ相手に付き合ってみようと彼女は思う。
最後に食べてしまうまで。

それまでの本当に少しの間だけ……


そんな気まぐれを彼女が抱いたことで、身体から放たれていた威圧感が少しだけ軽減される。
それを見計らったようなタイミングで、ライトが声を投げかけた。


「あ、、あのう……?」
『……ん? 何かしら、黙ってないで言ってみなさい』
「あなたの名前は何というのでしょうか……?」

またもや目の前の小さな相手に驚かされた。
面と向かって彼女に名前を問いかけた相手など、同じ竜の同族を覗いては初めての経験である。

思わず彼女は頬を緩め、微笑みを浮かべた。


『へぇ……坊やって面白いわね』
「えっ……あはは、い、、いやなら別に答えなくても……」
『そうね、礼儀正しく返事が出来たご褒美に教えてあげてもいいわ……特別よ?』

……本来なら、直ぐに食べてしまう獲物を相手だった。
しかし、彼女は構わずに名を名乗る。

『火竜・フレイア』と。


そして、付け加えるように忠告した。


『言っておくけど、私を名前で呼ぶことまでは許さないからね?』
「は、はい! 分かってますよ……はは……あはは」

それにライトは何度目かの乾いた笑いを浮かべてしまう。
どうやら、名前で呼ぶつもりだったようだ。


『……ふふふ』
「……ははは」

静かな笑いの声が響いた後、二人の間に会話がついに途切れてしまう。
ライトにとっては居たたまれない時間の訪れであり、フレイアにとっては会話の終わりを意味していた。
楽しい時間は瞬く間に過ぎるもの……
フレイアはこの会話が楽しいと感じ、ライトに僅かながら好感まで抱いた。

しかし、それでも彼女にとって、他者とは『餌』でしかない。

それに会話が切れたのも丁度良い。
そろそろ彼女もアレの押さえがきかなくなってきた頃だった。


『ふふふ、それにしても命知らずな坊やね?
 名前についてはいいけど、折角気持ちよく眠っていた私を起こしたのは許し難いわ。
 ……竜の眠りを妨げた罰は受けて貰うけど、どうなるかの覚悟はあるわよね……?』
「ふわぁぁ……ご、ごめんなさ……」
『謝ってもだめ、知らないの? 竜の眠りを妨げた物の末路は……』
「…………ま、末路はどうなるのでしょうか?」
『知りたいの……?』
「ふわっ……や、やっぱりいいです。……ははは」




”ゴクッ”


自分の運命を悟って必死に空笑いを浮かべる目の前の獲物に対して、フレイアは異様なほど、
唾液が湧き上がるのを感じて思わず喉を鳴らす。
どうしようもない食欲に胸が高まり興奮が、抑えられない。


―― なんて、美味しそうな子なのかしら ――

最初から見たときから思っていた。

久しぶりに見る子供の姿だけでも食欲をそそられるのに、彼女が好みの華奢な体付きに加え、
見ため以上に幼い顔立ち、さらに好物の一つである獣人だ。
ごく自然と彼女は、この獲物に牙を食い込ませる瞬間を脳裏に展開させてしまう。
その時に感じる味は一体どれほどのものか……




”ジュルリ”


目の前に現れた理想の獲物を求めて、本能がそうさせるのか彼女には舌なめずりを止めることが出来ない。
これほど美味しそうな獲物を前にして、どうしてそれが押さえられようか!

際限なく高まる食欲に彼女は喜んで身を委ねた。





          ※    ※    ※




(ひぃぃ……やっぱり僕を食べるつもりなんですね)

その一方で蛇に睨まれた蛙……もとい、竜に睨まれた草食獣のような状況にライトは追い込まれた。
背中に滲み出す嫌な汗は止めることが出来ない。
動いてしまったらこの静寂を破る切っ掛けになってしまいそうで、それも出来ず……

心が張り裂けそうな緊張感の中でライトが思ったことは……


(……み、、見逃してくれないでしょうか?)

余りにも都合のいい考え、そんな考えを抱く暇があるのなら、
まだ逃げようとした方が良かったであろう。



そう……彼女は火竜だ。

食べたいと思ったときに食べるのが彼女の常。
だから……それは唐突だった。






”ガバァッ!”


火竜・フレイアが僅かに身を屈めるように姿勢を変え、目の前のライトがそれに気が付く頃には、
すでに獲物に食らいつかんと巨大な口が眼前にあった。
目の前一杯に広がる真っ赤な火竜の口に……蠢く舌……ライトの視界にはそれしか映らず、
反射的に避けることも、叫ぶことも出来ない。
余りにも唐突で、巨体に見合わぬ火竜・フレイアの高速な捕食行為。

……それは、人が反応できる速度を超えていた。


「えっ? うぶっ!」

惚けたように声を出すライトの姿は、あっと言う間に火竜・フレイアの口に覆い隠されてしまう。
この時にライトにとって幸いな事が二つ起こった。

その内の一つ。火竜・フレイアが獲物を生きたまま丸呑みにするために口を閉じる時だけは、
力加減をして比較的緩やかに口を閉じようとしたこと。
もう一つは、彼女の口がライトに覆い被さった時に、突き出た舌が彼の身体を突き飛ばしたことだ。




”ガチィッ!”


そして、音を立てて噛み合わさった竜の牙の間には、あわれな獲物の姿はない。
勿論噛み合わさった牙の内側にも居ない。


「う……ぐっ?!」

舌に突き飛ばされたライトは、訳も分からぬ間に仰向けに倒れ込んでいた。
リュック越しにも背中を打つ衝撃で、顔が歪むが……

そんな顔に何かが滴り落ちる。




”ボタ……ボタ”


滴り落ちたのは、火竜の涎……それは非常に高い熱を持った液体だ。

火竜であるフレイアの体温は常温で四十度を超えている。
それが獲物を狩るためすでに臨戦態勢にはいり、気が高ぶるにつれ、百度……いや、それを超える。
すでにフレイアを中心として風景を歪めるほどの陽炎が現れ、恐ろしいまでの熱気が、
部屋の温度を急激に上昇させていった。

今の彼女の肌に触れでもしたら……タダではすむまい……

それは彼女の体液も同様だ。人間とは成分が異なるのか百度を超えていても沸騰していないが、
有る意味……熱湯に近い涎が、ライトの肌に熱を伝える。


「ふわぁぁああああ!」

途端に灼熱する顔に手を当てて、ライトは地べたを転げ回った。
少量だった御陰で火傷こそしていないが、ひりつくような痛みでライトの目から涙が溢れている。
……が、指の間から覗く狭い隙間に、火竜が大きく前足を擡げたのを認めて、
焼け付く痛みを無視し、ライトは必死に横に転がった。

その直ぐ後に、火竜・フレイアは足を踏み下ろす。




”ドシッ!”


踏み下ろされた衝撃は石畳を揺るがすほど。
実際にはかなり手加減していたようだが、それをライトは辛うじて回避する。


『あら? 良く避けられたわね?』

手加減していても、これまで避けられたのは意外だったのか火竜・フレイアが思わずそれを口に出した。
直ぐに気を取り直して、再度足を上げライトを取り押さえようと踏み下ろす。

しかし、すでにライトは体勢を立て直していた。


「ひぃぃっ! 食べられるのは勘弁です!!」」

悲鳴をあげながら、両手で石畳を突き放すようにして前にでながら素早く立ち上がる。
小柄な背丈も幸いして、火竜・フレイアの前足を上手くかいくぐり、二度目の踏みつけも避けることが出来た。
真後ろに響く地響きを聞いても、ライトは後ろを振り返らない。

彼のもっとも得意技、文字通り火竜の手の中から脱兎の如く逃げ出す!


『待ちなさい!』
「待ちません! ま、待ったら食べるつもりでしょう!!」

己の懐の内から逃げ出していく、獲物に火竜・フレイアが焦ったような声で制止を呼びかけるが、
それをライトは当然の様に無視をした。
ついに本性を顕わにした竜の恐怖は、今までとは比較にならないほど怖い。
今にも身が竦んでしまい、足がもつれて今にも転びそうだ。

それでも止まってはならないと、ライトは身をもって理解していた。
必死に走って、相手の手、牙の届く範囲から逃げ出さないと待ち受ける運命は一つ。

それは『火竜の餌食』だ。


「あと……もう少しです!」

あの時に落としたエアボードの元にまで、ライトは真っ直ぐに駆け寄っていく。
その距離が残り数歩の所で、ライトは追いつかれてしまった。


『ふふふ、あらあら……逃げられると思ってるのかしら?』
「ふわぁあ! い、いつのまに……そんな?!」

舌なめずりする音、火竜の声がライトの真後ろで響いた。
逃げ切れる……そう思っていたから、驚きでライトは思わず後ろを振り向いてしまった。

そのせいで足取りが鈍る。




”ドスッ!”


僅かな隙を逃さずに、火竜・フレイアは完全に追いつき、今度は鼻先でライトを突き飛ばした。
華奢な身体がくの字に曲がり、軽く宙を泳いでライトは倒れ込む。


「あぐっ……」

それを見届けて、火竜・フレイアは嗜虐的な笑みを浮かべた。
これからこの獲物をどうやって食べてやろうか、そんな思惑が見て取れるような……そんな笑い方だ。


『結構早かったわね、私ほどじゃないけど……ふふふ、逃げられると本当に思ってたの?』
「うぅ……もうすこ……」
『無駄な抵抗ね、逃がさないって言ったでしょう?』

それでも這いずって、少しでも逃げ出そうとするライトに向かって、火竜の手が伸びる。
どんな獲物でも容易く括り殺せそうな鋭い爪が、背中のリュックを摘み上げると、逃げた分だけ引きずり戻した。
そうやって自分の懐の内へとライトを引き寄せると、
食事の邪魔になりそうなリュックは剥ぎ取り、投げ捨ててしまう。

次はカバンの方だ。それすら奪い去ろうとする火竜の魔の手から、
ライトはカバンを抱きしめて必死に抵抗した。


『ほら、それも渡しなさい。食事の邪魔になるでしょう?』
「……やめて……見逃して…………見逃して下さいよ」
『ふふふ、必死に足掻く姿が素敵ね』

明らかに火竜は遊んでいる。
その気になったら、容易く奪い取れる筈なのにあえて加減して、
綱引きを楽しんでいるようだ。

時間をかけて、相手の必死な抵抗を弄ぶかのように徐々に力を入れていく。
しだいにライトの手が、力負けして伸びていき……


「うくっ……もうだめ……!」
『しょうがないわね、仕方ないからカバン一つぐらいは見逃してあげる』
「よ、よか……ふわああっ!」

綱引きに飽きたのか火竜・フレイは、ライトが死守するカバンから手を離した。
その変わり、安堵するライトの服襟を摘み、そのまま持ち上げる。


「あ……今度は僕をどうするつもりなんでしょうか?」
『分からないの? それぐらいなら呑み込むときも、消化にも支障は無いし、
 今回は特別サービスに、一緒にお腹に入れてあげようと思ったの、優しいでしょう?』

何をされるか分からないと言うより、分かりたくないというのがライトの表情から読み取れるが、
火竜は事も無げにそう言ってのけた。

容易く肉をかみ切れそうな牙に反して、竜とは不思議と獲物を頭から丸呑みにする食性であることが多い。
確かにフレイアは小柄な火竜だが、彼女も同様に丸呑みを好む。
そのためか竜の消化器官は、同時に複数の人を受け入れられるだけの機能を備え、
それに合わせて喉も胃袋も強靱で柔軟だ。

いくらライトがカバンを抱えていても、大の大人にも及ばない。
火竜である彼女が、その気になれば造作もなく丸呑みにしてしまうことだろう。


「えっ……あ……ぼ、僕としてはその……食べられるのは、ご遠慮願いたいのですが……」
『だめよ、ここまで私が譲歩してあげてるんだから。
 いい加減に、坊やも覚悟を決めなさい』

ついに食べられてしまうのかとライトは青ざめるが、一部の望みを託してお願いをしてみた。
それを火竜は当然のように拒否。

会話はここまでだと、言わんばかりにライトの戯れ言を切り捨てると火竜が口を開け放つ。
熱い吐息が吹きかかり、焼け付くようなそれにライトは身を捩る。
そんなライトに見せつけるかのように火竜の口からは涎が滴り、長い舌がだらしなく垂れ下がると……
急激に舌先が跳ね上がって、ライトの顔を舐めあげた。




”ベロッ”


「ふぁぁっ!? 熱っ……な、舐めないでくださいっ!」
『あら、どうして? 食事の前に味見するのは誰でもやることじゃないの』
「やめっ……止めてくださいっっ!」

制止の声を全て意に返さず、火竜・フレイアはライトの顔を執拗に舐め回す。
舌の這った場所には、湯気がでる程の熱い唾液が付着し、熱せられた部分からライトの肌は赤く変色していった。

ライトもただやられまいと抵抗をするのだが、肉厚の舌がまるで蛇のように蠢いて、
押し返そうとするライトの手の合間を縫ってすり抜けてしまう。
それでいて時には抵抗する腕に巻きついたりと、
火竜の舌は予測不可能な変幻自在な動きを見せて、ライトは舌に舐め回されるばかりだ。




”ペロ……ピチャ……ジュルジュル”


単なる味見……だが、火竜の舌の動きには一貫した動きに特徴があった。
温度の高い粘液質の舌は、常にライトの肌が露出した部分のみを狙い続けているようなのだ。
幾重にも重ねるように唾液を塗り込まれ、
皮膚を滴り落ちる唾液は衣服にまで染みこみ、水分を含んだ生地は重みを増す。

動くだけでも無駄に体力を消耗させられて、ライトの動きが目に見えて弱々しくなってきた。


「うっ……ぁぅ……」
『んっ……んっ……ふふふ、大分大人しくなってきたわね』

ろくな抵抗も無くなったところで、火竜はようやく舌を引き離す。
彼女の口回りも、ライトに負けず涎まみれだが意に返した様子はない。


『随分頑張ったわね、坊やみたいに生きの良かった子は久々よ。
 大抵は直ぐに気絶しちゃうから……でも、そうね、確か……坊やの他にも頑張った子がいたかしら?』

滴る涎をそのままに、思案する火竜はライトを見つめ少し興奮した様子だ。
すぐに火竜は何かを思いだしライトに顔を寄せる。


『そう……一人だけいたわね、坊やと違っておっきな『わんちゃん』だったけど。
 数ヶ月ぐらい前だったかしら?
 宝はどこだって、私の寝床に入ってきたから罰を受けて貰ったわ』
「……そ、それって」
『勿論……今から坊やが受ける罰と同じ』

火竜は大きく口を限界まで開き、真っ赤な口内をライトに見せつけた。
それだけで容易に察することが出来る。

……食われたのだ。この火竜に。

より明確になった己の運命に震えるライトを尻目に、
その時のことを思い出したのか、火竜は饒舌にその時のことを語り出す。


『正直……人を相手にして、苦戦したのは初めてだったわ。
 生きたまま丸呑みするのが好みなのに、とっても頑張るから捕まえるのに苦労したのよ。
 こんな部屋の中じゃ、私の力は半分も使えないのも苦労した理由ね。
 そんな感じで色々と苦労はしたけど、その分に見合うぐらい食べ応えは合ったわ。
 味は申し分なかったし。
 ふふふ、そう言えば坊やとあの子とはまるで正反対ね。
 でも、最後に私に食べられるのは一緒よ。ねぇ、坊や……聞いてるかしら……?』

一度言葉を切ると、火竜は息をため軽く吐息をライトに吹き付けた。


「ふわっ……ゲフッゲフッ……ぁぅ……」
『あら、ご免なさい、坊やには少し熱かったみたいね』

間近で熱風を浴びせられたライトが、息の熱と生臭さに激しく噎せ返る。
直ぐに火竜は謝罪をするが、それに対してライトには僅かに目を上げる程度の動きを見せただけだ。
ろくに身体を動かさないところを見ると、すでに味見で体力を消耗しきってしまったのか?

摘んだまま様子を見るように、火竜はライトを左右に揺らす。


『そろそろ限界かしら、坊やは早く楽になりたいと思ってる?』
「はぁ……はぁ……」
『もう、返事をする力も無いみたいね』

無言を肯定と判断し、火竜・フレイアはライトを一度自分の顔から遠ざけた。
ついにこの獲物を口に入れるときが来たと、口元が大きく裂け妖艶な笑みがうっすらと浮かぶ。


『ふふふ、力を抜いて私に身をまかせると良いわ。そうすれば痛くないから。
 そのあとは私の中で、ゆっくりと休みなさい』
「……ふぁぁ」

僅かな呻き声を洩らすライトの目の前で、裂け目が大きく広がっていった。
これで何度目かの火竜の口内が覗く。
すると上から落とし込むように呑み込むつもりか、火竜は上向きに頭を擡げると、
吊し上げていたライトを高々と持ち上げて、口の真上にまで移動させた。

湧き上がる唾液に火竜の喉が何度も何度も音を鳴らす。
それは、彼女の喉が自分の意志を持って、獲物を早く呑み込んでしまいたいと訴えているかのようだ。
促されるままに火竜は、口の中へとライトを摘んだまま手を下ろしていく。


『んっ』

小さなライトの身体はスッポリと口に包まれた。
舌に振れる獲物の味を感じて、フレイアが少し嬉しそうな声を漏らす。

後は爪を離し、口を閉じるだけ。


『……んくっ、頂きます』

軽く喉を鳴らし、火竜・フレイアはライトに軽く謝辞を贈る。
いつの間にか覚えた人の真似事だが、この言葉の響きが何となく彼女は好きだった。




”ヒュンッ!”


その心地よい、時間に紛れた物音。
正確に彼女の頭部を狙い投げられたそれは、確かな殺意を持って火竜・フレイアに迫る。
しかし真紅の瞳はそれを瞬時に認め……

この無粋な横やりに、火竜・フレイアは激怒するのだった。



          ※    ※    ※



『邪魔!』

素早く身に迫る危険を察知した火竜の表情が激変し、怒りに満ちた目をある一点に向けると、
なぎ払うように振るわれた尾が、高速で飛来する何かをはじき飛ばす。
遠くで石畳に何かがぶつかる音がするが、火竜は初めからそれには興味を示さず、


『出てきなさい、それとも引きずり出されたい?』

真っ直ぐに部屋の入り口へと、視線を動かし声を投げかける。

不機嫌だと言うことをまるで隠さない声に、隠れていた者は自ら姿を現した。
……目から涙を零し、両手にナイフの変わりに短刀を握った猫顔の獣人が、
同じ……怒りの形相を顕わにして。


「こ、殺してやる!」
『礼儀を知らないみたいね。私を殺す……食い殺されるの間違いじゃないの?』
「黙れ! 首領の仇だ!!」

それで全てが察せられる、彼は全部聞いていたのだ。
火竜がライトに語った、手強かった獲物の話を盗み聞きして直ぐに理解したのだろう。
その時に食われた者が自分の敬愛する首領なのだと。

今の彼にはライトの姿は映ってはいない。
憎しみにぎらつく瞳で、火竜であるフレイアを睨みつけ、復讐者となった猫顔の獣人が動く。
竜に立ち向かうなど誰もが止める無謀な行為だが、敬愛する首領を待ち続けても、彼の元にはもう帰ってこない。
苦労して集めた資金も首領が居ないのなら必要ない……彼は全てを失った。

もはや、猫顔の獣人には自分の命すら興味がなかった。
あるのは仇を討つ……それだけだ。


「よくも! よくも首領を……覚悟しろ!!」

叫びながら猫顔の獣人は、真っ直ぐに火竜へと突っ込んだ。
まるで防御を考えていない捨て身の攻撃。

向かってくる相手の姿を見据え、火竜は振るわれる凶刃から身をかわそうともしなかった。
無防備な相手に猫顔の獣人は刃を少しでも深く食い込ませようと、
勢いよく飛びかかり、跳躍の勢いを利用して短刀を振るう。
弧を描く軌跡で振るわれた斬撃は二回。十字に交差するように火竜の肌を斬りつけた。
激しい火花が散り、確かな手応えに彼は狂気の笑みを浮かべる。

だが、その笑みは次の瞬間に驚愕の表情へと変わった。


「なっ?! 傷一つ無い?」

捨て身で放った渾身の一撃、彼の出来る最高の技を、火竜の鱗は容易く受け止めてしまったのだ。
逆に彼の持つ短刀の方が手酷いダメージを負っている。
たった一太刀振るっただけで、激しい刃こぼれでもう使い物にはならない。

壊れた短刀を二本とも捨て去り、変わりにいつものナイフに持ち替えながら後ずさり、
猫顔の獣人は、自分が立ち向かおうとしている者の姿を見る。

彼の首領を喰らった火竜はまさに……


「こ、、、この、化け物!」
『ふふふ、覚悟する必要はなかったわね、気が済んだかしら?
 気が済んだなら、次は私の番よ』

自分が弱らせた獲物――ライト――は、戦闘の邪魔になると、適当に石畳の上に転がしておいて、
火竜・フレイアが僅かに姿勢を変えた。
若干低めに身を屈めて、相手に対して背中を向けるように斜めに構えると、
それだけで唯一の急所である柔らかな腹部が隠れてしまう。
さらに姿勢を落としたことにより、石畳すれすれにまで降りてきた頭部が牙を剥いて、
相手を牽制し、背後から回り込もうにも油断無く尻尾が揺れている。

元々猫顔の獣人は竜に共通する弱点が、腹部だと知らなかったことから、
弱点が隠れたことよりも、無傷で相手に攻撃を凌がれた方にショックを受け狼狽えていた。


「く……くっそぉ!!」
『先のが唯一のチャンスだったのに馬鹿な猫ちゃんね。
 もしも、最初から私が本気を出したらもう何度も死んでるわよ?
 例えば……こんな風に!』

相手が手をこまねいている間に火竜・フレイアは先に行動を起こした。
とは言え、単に翼を軽く上から下へと振り下ろしただけ。

それだけで、凄まじい突風が吹き荒れた。




”ヒュゴォオオッ!”


巨体を軽々と宙へと舞い上がらせる程の力を持つ翼から、広範囲に巻き起こった風は、
その影響範囲にある者全てを吹き飛ばし荒れ狂う。


「うっ……うわああああ!!」

体重の軽い猫顔の獣人は、それに抗う術はない。
一瞬の停滞も許さず、彼の身体は宙に浮き後方にはじき飛ばされるように空を飛んだ。
それに巻き込まれて飛ばされた砕けた無数の石片が、彼の身体を打ち据える。

瞬く間に満身創痍となった彼は、そのまま数メートルを滞空し地面に落下した。


「がふっ! ぐぅ……う、、動けない……」

大きな痛手を負い、満足な受け身もとれずに石畳に落ちたせいで、しばらくは身動きが取れそうにない。
飛ばされたときに取り落としたのか、ナイフも手元に残ってはいなかった。

いわば戦闘不能の状態である。


『呆気ないわね。まぁ、例え獣人でも普通の奴ならこんな感じかしら?』
「……あぐっっ……くそぉ……殺してやる!」

石畳に転がったまま、呻くだけしかできずにいる相手に、火竜は悠々と歩み寄っていく。
向けられる殺気など取るに足らないと気にも留めずに。

傍まで来ると、彼女は身体を起こし器用に二本足で立ち上がった。
立ち上がって何をするかと思えば、長い尾を動かして相手の両方の足首に巻き付けていく。
尻尾を通して火竜の肌と直に触れて、猫顔の獣人の顔が苦痛に歪むが、
手向かった相手に容赦をする彼女ではない。

最終的に膝まで尾を巻き付けると、猫顔の獣人を逆さに吊し上げてしまった。


『ふふふ、捕まえた。
 残念だけど、やっぱり食い殺されるのは猫ちゃんの方だったみたいね』
「うぁっ! は、はな……せっ!」
『いいわよ、そんなに望むなら離してあげる。
 ただしこの中へだけど……』

そう言って、ことさらゆっくりと火竜・フレイアは口を開けた。
どろりとした涎が、口の裂け目からこぼれ落ち、口内では蜘蛛の巣のように糸を引いて、
それら生理的嫌悪を催す光景に、思わず猫顔の獣人が怯む。


「ひぐっ!」
『私に食べられるのが怖いかしら? 逃げたい? それなら命乞いしてみる?
 ほら、早くしないと猫ちゃんは私に呑まれちゃうわよ?』
「うわああああ! や、やめろっ!!」

尻尾を引きはがそうと、灼熱の鱗に手をかけ猫顔の獣人が足掻こうとするがビクともしない。
無情にもタイムオーバーの宣告が告げられた。


『ふふふ、時間切れよ。馬鹿ね……命乞いごときで止めるわけ無いじゃない』
「なっ?! くそおぉぉぉぉ!!!」
『……頂きます!』

例の言葉を投げかけると、火竜は軽く尻尾をしならせて口の中へと獲物を投げ入れた。
飛び込んできた猫顔の獣人を舌が受け止め、即座に口が閉じるのだった。



          ※    ※    ※







”バグゥッ!”


涎の飛沫が飛び散るほど強く牙が噛み合わさり、僅かに膨らんだ頬の中は、
熱く噎せ返るような強い湿気に包まれていた。

実際に中に入ってみると、火竜の口の中は見かけよりもずっと狭い。
口が完全に閉じてしまうと上顎と舌の間に挟まれて、身動き一つ出来きなくなってしまう。
それに凄まじい熱気が籠もって居心地は最悪で、
特に熱い唾液が傷に酷く染み、猫顔の獣人は気が遠くなりそうな脱力感に襲われていた。

しかし、この唾液が多少の熱を遮断する保護膜のような役割を果たさなければ、
もっと酷いことになっているに違いない。

それでも口内の熱気は、確実に猫顔の獣人の体力を気力を削り取っている。
火竜の意のままにはならないという意地で彼は今も辛うじて意識を保ってはいるのだが……

そんな意地もいつまで続くことだろう。


「……ぐっ……出せぇ…………ゲフッ……ゲフッ」

辛うじて声を絞り出すが、口を開けるために噎せ返るような唾液が口の中にまで流れ込む。
さらに火竜は彼の訴えを分かりやすい形で示してきた。




”ジュル…ピチャピチャ”


「あぅ……んっ……あ……」

僅かに顎を緩めたのか火竜の口内で、舌が動かせるだけの空間が生まれる。
すると彼が顔を埋めていた肉厚の舌が激しく蠢きだしたのだ。
余すところ無く全身を荒々しく愛撫され、唾液と肉に包まれて、彼の意識は更に溶けていく……

完全に意識が溶けた時、その先で行き着く場所は火竜の胃袋。


(……もう駄目みたいだ、何も出来ない)

もうすぐ食われて死ぬ。
すでに命に意味を見いだせない彼にはその事に恐怖はない。
無念なのは首領の仇を討つどころか、その仇にもうすぐ食われてしまうと言うことぐらいだ。

……だが、あいつはどうなるのだろうと彼は思った。

火竜の口の中へと放り込まれそうになっていたとき、偶然にも石畳を這いずって動いている
ライトの姿が目に飛び込んできたのだ。
向こう側からすると、猫顔の獣人が身代わりになった形だが、
火竜の力を身をもって思い知った彼には、あのまま気づかれず最後まで逃げられるとは到底思えない。


それとも見つかっても逃げ切れるのだろうか?
自分から逃げ切ることが出来たあいつなら、この火竜からも逃げ出すことが出来るだろうか?
それとも逃げ切れずに捕まって、やはり食べられてしまうのだろうか?


自分の命に興味が失せた猫顔の獣人は、それを最後まで見届けたいと思う。
それには火竜に食われるのを、見逃して貰わなくてはならない。

……なら、やはりそれは叶わない夢なのである。


『一応聞いてあげるけど、言い残したいことはあるかしら?』

ついに猫顔の獣人の味見に飽きたのか、火竜が最後の言葉を彼に問いかけてくる。

だから、彼は言ってやった。
精一杯生きようとしているあいつに負けないように、
精一杯の憎まれ口で、命乞いを期待する火竜に彼の意地を見せつけてやるつもりで!


「俺を食って、腹でも壊したらいいさ!」
『最後まで生意気な猫ちゃんね。残りの憎まれ口は私の胃袋で好きなだけ言ったらいいわ!』

……言ってやった。一泡吹かせてやった。
猫顔の獣人は、不思議な達成感を感じて力がスッと抜けるのを感じる。
怒り狂った火竜の怒声も怖くない。

激しく動き出した顎と舌に翻弄されても、何故か熱くも痛くもなかった。
されるがままに猫顔の獣人は翻弄され……


(ああ首領……また……一緒に付いていっても……いいですか?)

閉じた目蓋の闇の向こうに見えたのは、幻の首領の姿。
来るなと言う言いつけを守らなかった部下に、幻の首領は溜息をつきながら手を差し出す。
猫顔の獣人はその手を取り、幻の首領と共に旅立った。

……火竜の胃袋、灼熱の体内へと。





          ※    ※    ※







”ゴクリッ”


心の中で荒々しく頂きますと告げた後、フレイアは口の中に含んだ獲物を喉の中へと滑らせた。
つるりと滑り込む獲物で、自分の喉が膨らむのを感じる。
空になった口からは、今もダラダラとだらしなく涎がこぼれ落ちており、




”ジュル、ペロペロ”


それを綺麗に舐め終わる頃には、フレイアのお腹が一回り大きく膨れていた。


『ふぅ……ご馳走様』

立ち上がっていた身体を倒し、元の四足歩行へと戻すとフレイアはそう呟いた。
何時もと何も変わらない食事の筈なのに、あまり楽しくない。
最後の最後まで逆らってきた獲物のせいだ。

憎々しげに彼女はお腹に手を当てると、さっそく消化が始まる気配が手の平を通じて感じる。


『なによ……はぁ…………』

獲物の恨みの声を聞くのは初めてではない。
あんなモノよりももっとオドオドしい呪詛のようなモノまで聞いたことがある。
だが、こんな気分になったことはなかった。


『……さっさと忘れましょう』

調子が出ない、こういうときはさっさと眠るのが一番だと、フレイアは寝床へと踵を返した。


『えっ?』
「ふわぁあ!」

同時に二つの視線が重なり、二つの声がフレイアの寝床で響く。
片方はフレイア、もう片方はライトのものである。
お互い予想外なことが起きたようで、しばし両者は見つめ合ったまま硬直したまま動かない。

……先に我に返ったのはフレイアの方だ。


『そういえば、坊やのことすっかり忘れてたわね。
 ……所で動けなくなっていたはずなのに、どうしてそんなところにいるのかしら?』

問いかける問題の相手は、崩れた壁面のすぐ傍にいた。
フレイアの記憶が正しければ、ライトは彼女の寝床の近くに寝かせておいたはずなのだが。

それより解せないのが移動距離だ。
寝床と壁際はまるで逆方向であり、距離的にもかなりある。
動く体力も残ってないだろうと思って、放置したあの時から考えて直ぐに移動できる距離ではない。
いつの間にか取り上げたリュックに、エアボードまで回収されており、

その事から導き出される結論は一つだ。


「あっ……そ、それはですね」
『力尽きたように演技をして騙してたのね。この私を……?』
「うぐっ……!!」

焦って弁解しようとするライトに、フレイアが気が付いた結論を投げかける。
即座に押し黙った様子を見ると図星……

竜の目を欺いたことには、フレイアは賞賛を心の中で贈る。
自分が欺かれたことには、無言で相手を睨みつける事で今の自分の気持ちを相手に伝えた。


「……ひっ……ふわぁああああ!!!!!」
『行かせないわよ、坊や!!』

素早くエアボードを起動させて、ライトは崩れた壁際から飛び出し塔の外へと逃げ出した。
それを追い掛けて恐ろしい俊敏さで、フレイアが壁際に駆け寄る。

だが、壁際にたどり着いた彼女が見たのは、そのまま森へと逃げ込むライトの姿だ。


『ふふふ、逃げられちゃった……大した坊やね』

実のところを言えば、逃げられたと言うより見逃したという方が近い。
走らずに翼を広げて飛べば、いくらライトがエアボードで空を飛び逃げ出しても、
すぐに追いついて、真後ろから襲い掛かり食らいつく事も出来た。

しかし、フレイアはそれをしなかった。

―― すぐに食べるのは、やはり勿体ない ――

ただでさえ、今は陰鬱な気分になっていることもあり、
フレイアは思いっきり身体を動かしたい気分に捕らわれていた。
どれだけあの坊やが自分から逃げることが出来るのか、彼女はそれを楽しむつもりなのである。

当然のように獲物が自分の手から逃げられるなど、つゆほども思っていない。
フレイアは楽しい遊びの始まりに頬を楽しげに歪めると……


『さぁ、狩りの始まりね』

大きな翼で大気を打ち据えて、崩れ落ちた塔の大穴から飛び出し大空へ舞い上がった。

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