一方の塔の騒がしさから、少し目を遠ざけて外を見る。 とても静かだった。何事もなく広大な森林が塔を中心に広がっていて平和そのもの……そう思える。 ライトが発見したキャンプのメンバー達も、最初は同じ事を思っていた。 ―― 時間が遡ること一日前 ―― 彼等の仲間の数は六人。最初はもっと数がいたのだが、最後まで生き残ったのがそれだけ。 それでも皆が助け合い、苦労して塔にたどり着いた彼等の士気は高く、 拠点として塔の周辺付近にキャンプを作り、これからの探索に備えて一時の休憩をとることにして、 ただ一人、旅の護衛のために雇った者が周辺を警戒していた。 順調だったとは言い難い冒険だったが、それを乗り越えた分だけ皆も少しだけ気が緩んでいたのは確かで、 彼等の一人が笑いながら呟いた。 「なぁ、誰が一番凄い物を見つけるか競争しないか?」 「気が早いですね、ですが私は遠慮しておきます。事を急ぐと大きな失敗を招きますから」 「何だよ、のりが悪いな……」 「まぁまぁ、そんな顔するなよ。それよりも腹が減ったな」 さらに誰かがそう呟いたとき、彼等の中で唯一の女性の仲間が大きな声で、 「みんな〜そろそろご飯が出来たわよ!!」 元気の良い声が届くと同時に、美味しそうな料理の香りが辺りに漂う。 それに皆が返事をしながら、竈にくべた鍋をオタマでかき回している女性の元へと移動を開始した。 その間にも再びたわいもない会話が始まり…… そして、彼等の平和はここで終わる。 ※ ※ ※ 『……五月蠅いわね』 心地よい眠りを騒々しい物音に妨げられ、彼女は目を覚ました。 直ぐに意識は覚醒を果たしたが、眠りを妨げられた彼女の顔は不機嫌なまま。 気だるさを感じる四肢に活を入れ、人とは比べものにならないほどの巨体を持ち上げると、 翼に尻尾と順に力を込めて眠気を取り去る。 眠っていた時間は三日ほどだろうか、完全に消え去った眠気の後に、 少しばかりの空腹を感じながら彼女は歩き始めた。 『……あら、今度はどんな馬鹿が縄張りに入ってきたと思ったら』 塔の周辺で騒ぎ立てる馬鹿共を彼女は見下ろし、率直に感想を呟いた。 他者を全て餌として見下す、非常な声で、 『……美味しそうね』 それに応じて彼女のお腹が音を鳴らす。 真っ赤な舌が艶めかしく這い回り、ジュルリと音をたてて口元を湿らすと、 彼女は大地を這い回る餌を見つめた。 品定めを終え、ルビーのような真紅の瞳に浮かぶ、より深紅の瞳孔が縦に細まる。 そして、彼女は狩人へと変貌し…… 『そうね、まずは……』 彼女の住処……吹き抜け状の赤熱の塔の最上階から、羽ばたいて飛び出し、 空から獲物を狩るため急降下を始めた! ”ズシーーンッ!” 凄まじい地響きと共に、最初は護衛の男が狩られた。 一人遠くで周辺を警戒していた事が、更に皆の視界から外れたところにいた事が彼の不運だった…… いや、幸運だったのかも…… 少なくとも彼は何も感じる暇が無かったのだから。 一方、突然のことでキャンプの五人は騒然とする。 「な、なんだ今のは!!」 「地震……ではないみたいですね。一体なんでしょうか?」 「俺……ちょっと行ってみてくるよ!」 「まった! おい、一人で行動するなよ!」 一人は慌てふためき、一人は何をするわけでもなく。 方や個人行動、それを追いかけてもう一人が皆から別れて行動する。 「みんな、落ち着いて……それより、みんなで固まっていた方が安全だよ!」 そんなバラバラな皆を纏めようと、女性が声をあげるが……誰も聞いてはいない。 誰も聞いてはいなかったが、結果として皆の視線が彼女に集中せざるを得ない事態が起こった。 何故なら、手早く最初の獲物を食べ終えた狩人は、 直ぐに次の獲物を探し行動を開始しており、次の獲物として狙い定めたのが…… 「もう! みんなっ!」 声を荒げる女性。彼女が次ぎに狙われた。 とても静かに獲物に気が付かれないように……狩人は再び空から迫る。 周囲が薄暗くなったと感じるほど、大きな影に覆われた女性がそこで初めて頭上を見上げた。 「えっ?」 頭上を見上げた彼女が見たのは、真っ暗な闇……その中に蠢く赤い何かが覗く。 それが何なのかを理解する前に彼女はそれに押し倒された。 強すぎる衝撃にそれだけで意識が闇に呑まれる。 いや、意識だけでなく肉体も、そのまま闇に呑まれ……音が鳴った。 ”ゴクリッ!” 『フフフ……ジュルリ』 狩人は悠々と狩った獲物を丸ごと飲み下し、ぐぐっと膨れあがった喉の膨らみがスルリとお腹の中へ、 そんな一連の食事の様子を、餌となった女性がお腹に入る様を周囲の観客に見せつける。 最後に軽く涎に塗れた口を舌なめずりをして綺麗にしながら、 次の獲物はどれにするかと、狩人は観客――獲物達――に目を向けた。 『次は誰から食べて欲しい……?』 他者を餌としか思っていない、冷たい感情のない赤い瞳が全員を品定めするかのように見つめ、 狩人が言い放った言葉の理解が行き渡ると…… 必然的に周囲の観客はパニックに陥った。 「な、、、なんだよあれ!! ひ、人を食ったぞ!」 「逃げましょう! 早く!」 「わ、分かった。みんな逃げるんだ!」 「ひぃぃっ……助けてっ! 助けてくれ!!」 逃げまどう獲物達、狩人はあえて動かずにその動きをじっくりと観察していた。 飢えた獣の様に本能で襲い掛かることはしない。 人語を理解し、喋ることも加えると、この狩人が高い知性を持っていると分かるだろう。 そして、今動かない理由は、 『逃げなさい、一人ずつ遊んであげるからね』 誰一人として、逃すつもりはない…… しかし、ある程度腹は満たされた狩人は、少し身体を動かすような遊びがしたいと思っていた。 その内、バラバラに逃げ始めた獲物達が次々と森の中へと逃げ込んでいく。 妥当な判断だった。 固まって逃げていたら、あっさりと捕まえていただろう。 楽しくなってきたとばかりに、大きな口を歪め狩人は笑う。 『フフフ……さぁ、楽しい鬼ごっこを始めましょう』 そう言って、適当に誰かの後を追いかけるため、狩人は動き出したのだった。 ※ ※ ※ ……そんな出来事から丸一日。 丁度、ライトが盗人に襲われた頃だろうか? 騒ぎとは無縁であるかのような広々とした森林の中で、長い狩りを終えた彼女は長い首を擡げていた。 ”クチャクチャ……ゴクリッ!” 彼女が捕らえた獲物を呑み込みゆっくりと喉を鳴らすと、 頭から呑み込まれた獲物はズルリと喉の中に落ち、高く擡げた首の中を通って胃の中へと落ちていく。 あれから彼女は、何人もの獲物を平らげて胃袋に押し込んでいた。 その数はすでに五人。 随分と胃袋に詰め込んだ様に感じられるが、その割には彼女のお腹の膨らみは大きくない。 実は三人目と四人目は、直ぐに捕らえてしまったのだが、 残りの二人が意外と手強く、彼女の目を欺いて今まで逃げおおせていたのだ。 その間にすっかりと消化が進み、胃の中はもう空っぽである。 けれど、その五人目もすでに彼女の胃の中に収まり、 残る一人も、すでに狩人の足下だ。まだ生きてはいるのか巨大な彼女の足に踏まれて藻掻いている。 つまり狩りは終わった。食欲の赴くままに暴食の限りをつくし、 残された最後の獲物に向けて、彼女が口を開いていく。 『……頂き』 しかし、それを邪魔する無粋な気配を感じて開きかけた口を閉じた。 『……雨が来るわね』 遠くにはどんよりとした空が目に入り、彼女がますます顔をしかめる。 彼女は雨が嫌いだった。と言うより水が苦手……否、生理的に合わない。 自慢の肌に小さな水滴が落ちるだけで不快感を感じるほどだ。 だから雨の少ないこの地方に移り住んできたのだが、どうもここ最近は以前よりも雨が多い気がする。 そろそろ狩り場の移動を変えた方がいいのかも知れない。 随分と慣れ親しんだ狩り場なのだが…… ちょっとした気まぐれで、地面に押さえつけていた獲物に彼女は声をかけた。 『ねぇ、あなたはどう思うかしら?』 「…………ぇ……ぁぁ……助け……て……助け……食わないで」 『はぁ……またそれ?』 質問になっていない彼女の呼びかけで、返ってきた答えはやはり見当違いな答えで、 何度も繰り返される言葉に彼女はつまらなさそうに嘆息した。 興味が失せた冷たい視線を、足下の獲物に送り彼女は言って聞かせる。 『……私の縄張りに入っておいて、生きて帰れると思うの?』 「ひぃっ……助け……」 『……黙りなさい。それはもう聞き飽きたの』 無駄な命乞いを繰り返す、獲物に彼女は顔を寄せた。 体重が前にかかり、踏まれている獲物の肺から空気が吐き出され命乞いが止む。 変わりに恐怖に染まりきった獲物の目に、彼女の姿が映っていた。 真っ先に目に飛び込むのは、彼を押さえつける前足。 四本の鋭いかぎ爪の生えた細身の前足には、燃えさかる炎を思い起こされる赤い鱗が覆い、 それらが翼、尻尾と全身も覆っている。 唯一……腹部が蛇に酷似した蛇腹状の鱗に包まれて。 それからゆっくりと彼が視線を戻すと、変わらずに獲物を見つめる深紅の瞳。 人を軽く丸呑みできるほどの口から、火傷をしそうな程の熱い吐息が声と共に彼にかかる。 『ふふふ……頂きます』 「…………っ……っっっ!!!」 開かれた口に生え並ぶ鋭い牙は、食われた彼の仲間の血で赤く。 這い出てきた長い舌が、獲物を絡め取ろうと伸びていって………… そして、『竜』の彼女はゆっくりと口を閉じ、彼もまた意識と共に闇に呑み込まれていった。 ”バグッ! ゴクリッ” 直ぐに喉が鳴り、彼女のお腹に獲物が入ると膨らみが更に大きくなる。 満腹の余韻に浸りながら、器用に前足でお腹をまさぐった。 『ふぅ……少し食べ過ぎね』 さすがに一度に食い過ぎたのか、彼女は少し身体が重く感じた。 幸いなことに竜の肉体は非常識で、どれだけ大食いしてもそうそう太ることなどあり得ない。 その証拠にゴボゴボとさっそく消化が始まる音が響いている。 だから身体が重く感じるのは別の理由で、単に飽きから来るものだった。 詰まるところ人を食い飽きているのである。 最近やたらと自分の縄張りに人がやって来る事に、彼女も疑問を抱いたことはあった。 何時も小腹の空いたときに来てくれるから、都合が良いと思っていたのだが、 さすがに頻繁にやって来るとなると、話は別である。 それもこれも、塔に隠された宝の噂のせいなのだが、彼女はそれを知らない。 ……かといって、眠りの妨げになる者を放置しておくのも我慢ならず、 空腹を満たすついでに摘んでいるというのが、彼女の現状だった。 ……そろそろ肉が軟らかい幼い子供を食べてみたい。 更に注文をつけるなら、出来るだけ獣人の肉が彼女の好みに合う。 それなら飽きもせずにいくらでも食べられる。 『そうね、久々に狩りに行くのも良いわ』 想像だけで貪欲なまでに食欲が湧き上がり、涎が零れる。 特に好みの味はじっくりと味わうのが彼女の流儀で、 鋭い牙で獲物に洗礼を与え、味を噛みしめ十分にそれを舌の上で転がし、 それから思い切って生きたまま丸ごと呑み込んでやるのだ。 いくら竜の彼女でも丸ごと丸呑みでは、少しばかりお腹が張ってしまい消化しきるのに時間がかかってしまうが、 その長く続く甘美な時間が彼女は好きだった。 しかし、今は消化が終わるまで食後の休憩をする必要があるようだ。 『ん……そろそろ眠くなってきたわね』 食事を取った後は何時もそう、身体が消化に専念したいと訴えているかのように強い眠気が彼女を襲う。 それに雨が来る前に一度は身を隠す必要があった。 『……ふわぁ……帰りましょう』 暢気に大きな欠伸をすると、彼女は翼を広げた。 それを一度羽ばたかせるだけで、食後の重くなったからだが大空へと舞い上がると、 円を描くようにその場で旋回し塔を目指した。 塔の最上階。藁や草木を集めて作った寝床が彼女の定位置だ。 さほど時間もかからず、塔の上空へとたどり着くと彼女はゆっくりと降下を始めた。 何度か羽ばたき、降り立つときは後ろ足から…… ”ズシッ” 巨体の重量を受け止めた床が、悲鳴をあげるが不思議と崩れはしない。 しっかりと四肢で体重を支えると翼をしまい、歩いて寝床へと向かい柔らかな藁の上で、 膨らんだお腹を下にして、俯けに寝そべった。 心地よい消化の音が、微睡みに落ちていく彼女には子守歌のように響き…… 竜の目が静かに閉じた。 次ぎに目覚めるときは、消化が終わり再び食事を始めるとき。 それまでは竜の眠りを妨げる物は現れない。 ……そのはずだったのだが…… ※ ※ ※ 塔の主が帰還を果たし、より危険が増した塔の中であの二人は未だに追い駆けっこを続けていた。 かれこれ十分以上は経つはずなのに、両者のスタミナは底なしなのか、 執拗に後を追いかけてくる猫顔の獣人に対し、ライトは顔を引きつらせ逃げ回る。 「はぁ……はぁっ……い、、い……加減に諦めたらどうですか!」 「金貨を返せっ! ……っ……返せ!」 「か、返したら追いかけるのを止めてくれるんですか?!」 「そんなわけはないだろう!!」 「だったらどうすれば良いんですか!!」 心からの絶叫。ちょっとした出来心を抱いた自分にライトは心底、後悔しながら走り続けた。 それにしても走りながら、よくこれだけ叫ぶことが出来るものである。 しかし、そんな長く続いた鬼ごっこがそろそろ終演を迎えそうだ。 手当たり次第塔の中を走り回ったライトが、長い通路を走り抜けると広々とした部屋にでる。 部屋の片隅にはさらに上の階へと続く階段が見え、 逃亡の舞台をさらに上の階へと移すと思われたが、ライトの足が唐突に止まってしまう。 部屋の中央に開いた巨大な穴。 助走をつけても走って飛び越えるには広すぎて、大きな障害物となっていた。 「……こ、こんなときに!」 「追いつめたぞ……さぁ、金貨を返せ!!」 ライトが振り向くと、猫顔の獣人がナイフを逆手に構え、もう片手を突き出している。 後ずさることはもう出来ない…… (そろそろ、覚悟を決めないといけませんね。 しかし、どうやってこの大穴を……?) 追いつめられた状況でライトは焦るどころか、逆に冷静になっていた。 危機はチャンス……この大穴を飛び越せば、相手との距離を大きく引き離し、 無事に逃げおおせる事が出来るかも知れない。 頭の中をフル回転させ、ライトはこの場を打開する策を巡らせる。 (……エアボードはさすがにだめでしょうねぇ) 最も簡単な方法のエアボードを取り出すような隙は、さすがに与えてはくれないだろう。 ならばと手持ちの道具を頭の中で吟味する。 ライトの持ち物の多くは、逃げるため相手の意表をつくものが大半だ。 例の『閃光弾』は残り二つ。 足止め用の『まきびし』『とりもち玉』は、まだ手持ちに余裕がある。 他は『予備のロープ』が一本に『万能用途の楔』が幾つか。 少々心とも無いが、これらが直ぐに使用できるライトの持ち物の全て…… 後は使い方しだいと、道具を取り出す隙をどうやって作るかだが…… 「早くしろ! 金貨を返せ!!」 「わ、わかりましたよ……少し待ってください……」 「ようやく素直になったみたいだな。……さあ、早く!」 歓喜を帯びた猫顔の獣人を尻目に、道具袋をゆっくりとまさぐり、 いかにも探していますという演技をしてみせて、ライトは気が付かれないように部屋の内部を見渡した。 時間はあまりない、素早く目的の物に目星をつける。 後は勇気を持って実行するだけだ 「あっ……見つかりました。 ……これですね?」 「それだ、こっちに寄越せッ!」 取り出した古い小袋を、猫顔の獣人はライトの手の中からひったくるようにむしり取り、 警戒するように油断無く鋭いナイフを突きつけたまま、 「まだ動くなよ……中身をすり替えてないだろうな?」 「ははは、そんなわけ無いじゃないですか……」 内心……鋭いとライトは冷や汗を掻く。 すり替えるというのは、この作戦でとても重要な位置を占めている。 ゴクリと息を呑むライトの目の前で、猫顔の獣人が小袋の口を開け中を覗き込んだ。 ”ピンッ” 「へっ?」 猫顔の獣人が袋を開けた途端に、中から何か小さな金属片が飛び出してくる。 思わずそれを目で追いかけて、直ぐに袋の中に目を戻した。 次の瞬間、凄まじい閃光が再び猫顔の獣人の目を焼こうとする……が、 「二度も引っかかるか!」 袋の中にある閃光弾を認めた瞬間に、猫顔の獣人は袋を放りだしている。 素早く光から顔を背け、手で光を遮った。 けれども溢れだした光は止まらない。強い光が弾け、部屋の中を白く染め上げて完全に視界を塞ぐ! その僅かな時間を使い、ライトは動いた。 丈夫そうな天井に向けて、とりもち玉と共に楔を括り付けたロープを投げつける。 普通なら固い石の天井に楔は簡単には刺さらない。 だが、強い吸着力があるとりもち玉が、打ち付けられた楔を吸着してくれた。 後は天に運をまかせ……ライトは大穴に飛び出す。 「ふわぁぁぁあ!!」 加重がかかり、楔が今にも外れそうに軋み、ロープはしがみつくライトを乗せて、 大きく振り子のように揺れていき限界まで振れると、勢いに負けてとりもち玉から楔が剥がれ落ちる。 楕円を描くように一度高く放りだされ、辛うじて大穴を飛び越えるが、 宙を泳いだライトはそのまま落下した。 ”ドサッ!” 「げふっ……痛い……うぅ……でも、何とか成功したみたいですね」 激しく身体を打ち付けたようで、かなり痛そうにライトが石畳に這い蹲りながら身体を捩る。 それでも辛うじて受け身の御陰で、何とか打ち身程度ですんだようだ。 危険な賭だったが、運命はライトに少しだけ味方をした。 ヨロヨロと立ち上がっていくライトに向けて、猫顔の獣人が対岸から焦った声を投げかけてくる。 「ま、まてっ!」 「……痛……残念ですが、そろそろ諦めてもらいますよ」 正直、これ以上の追い駆けっこは御免である。 悪あがきをするかのように、対岸に取り残された猫顔の獣人がナイフを投げつけてくるが、 今更そんな物に当たるようなライトではない。 悔しげに顔を歪ませる相手から目を離さないようにしつつ、 ジリジリと後ずさって階段を背にすると、 「お互いそろそろ不毛なことは止めましょうよ。一応……金貨はお返ししたのですから、 これ以上は、追い掛けてこないでくださいね?」 「ぐっ……ぐぅぅっ!!」 「そ、そんなに睨んで無駄ですよ。じゃ、じゃあ……僕はこの辺で失礼します!」 この期に及んで猫顔の獣人が自分を追いかけてくる…… そんな気がしてライトは脱兎の如く逃げ出すと、螺旋状になっている階段をひた走り、 猫顔の獣人の前から姿を消したのだった。 ※ ※ ※ 相手を取り逃した。最後の最後で何も出来なかった。 その事に大きなショックはない。 猫顔の獣人は、一度投げ出した小袋を拾い上げる。 ”ジャリッ” 「……全部ある」 中身の金貨を数えると、十四枚全て揃っていた。 自分の大切な物を奪い去った事は、正直……殺してやりたいほど許し難いがことだったが、 無理をして相手を追い掛ける必要はなくなったのである。 それに、この先に足を踏み入れることが彼には出来ない。 「俺には首領との約束が……」 呟く彼の顔からは、ライトを追い掛けていたときの狂気が消え失せていた。 最後に彼の敬愛する首領と交わした最後の会話が、静かに脳裏に思い起こされる。 『ここから先には来るな、帰ってくるまで待っていろ』 それが彼の全てだ。 この大穴を飛び越えて首領を探しに行きたい、そう思わなかったわけではない。 だが、その約束を違えることが今日まで出来なかった。 それに彼は知っている。この先に化け物がいると……竜がいると。 あの恐ろしい竜を見たのは、塔に滞在してから凡そ三日目の事だった。 運良く見つけ出した隠し部屋に隠れ住み、帰らぬ首領を待つ焦燥で激しい焦りを感じ、 手持ちの食料も尽きて空腹も合わさり彼は衰弱していた。 そんなとき……恐れてたもの達が現れてしまう。 宝の噂を聞きつけた彼等の後続。 しかし、それをどうすることも出来ずに猫顔の獣人は、隠し部屋から彼等の姿を見ていることしかできない。 そんな時に……竜が舞い降りた。 『フフフ……頂きます』 遠く離れていたはずなのに、彼の元にまで竜の呟いた声がはっきりと聞こえた。 見る者に声を聞く者に恐怖を振りまいた後、竜は後続に襲い掛かり、 巨大な口で容赦なく食らいつき一人ずつ貪っていく。 暴力的なまでの強さに食欲に、悲鳴をあげながら人が逃げまどい、 無謀にも立ち向かう者もいたが、一人残らず竜の腹の中へと収まってしまった。 腹が膨れた竜が立ち去った後……生き物の気配はなく。 残されたのは、無傷の荷物だけ。 猫顔の獣人が、荷物を奪い食料を得ようと思いついたのはこの時だった。 その後も宝を求めてこの塔にやってくるものは後を絶たなかった。 人間に獣人、遺跡荒らしに、盗賊、探検家……様々なもの達が、欲に駆られて宝を探し求め、 その全てに竜は平等に襲い掛かり、全てを喰らう。 竜に食い散らかされた後に残された物の掃除が、彼の仕事となるまでそれほどかからなかった。 そうやって猫顔の獣人は何度も食料を金品を奪って生き延び、 気が付いたら数ヶ月も経過していたのである。 そして、ライトがやってきた。 ……あとは、知っての通りだ。 まだ、持ち主が生きてるとは思いもよらず、不意を打たれて首領から預かった大切な物を奪われる。 慣れない格闘戦や追い駆けっこのすえに、それを取り戻したが…… 今まで聖域とかし、訪れることの無かったこの部屋を見て心が揺れた。 そんな彼の目の前に幻影が現れる。 猫画の獣人に背を向けて、無言なままで口だけを動かし『来るな』と告げるために。 「…………首領、俺は」 久々の首領の姿、幻影だがそれでも彼は涙を流す。 本能的にその声に頷き、踵を返し歩き出し……そして、止まった。 本当にこのままで良いのかという迷い。 首領の背中を追い掛けたいという思いが彼の足を止めた。 今まで誤魔化していた思いが、首領の幻影を見た途端に噴き出して…… 彼は初めて首領の言葉に背く。 道を阻むのは大穴一つ……問題ない、すでに穴の越え方を先人が教えてくれたのだから。 ※ ※ ※ ”ガラガラ” 「ひっ……追い掛けて来ない……ですよね?」 背後の階段が少し崩れ、その物音に怯えてライトが後ろを振り向いた。 そこには執拗に彼をつけ狙う、猫顔の獣人の姿が見えそうで彼としては非常に怖い。 しかし、姿は見えずライトは、ほっと一安心した。 「ははは……はぁ、当分夢に見そうですね」 自分の呟いた事に悪寒を感じて、空笑いをしながらブルブルと身震いする。 ひとしきり怖がった後で、ライトは気を取り直し再び歩き始めた。 彼の見立てでは次の階が最上階の筈だった。 一体何が待ち受けているのか、怖くもあるが同時に好奇心が膨らむ。 怖いもの見たさとも言えるかも知れないが、それがライトだけではなく探検家という生き物の性なのである。 もっともそれが災いして酷い目に合うことも多々あるのだが…… 「そう言えば、結局……ガーディアンは出てきませんでしたね。 いるとすればこの上……でしょうか?」 考えるまでもなく、その可能性は非常に高い。 静かにライトは目を閉じると、耳に意識を集中し音を探った。 最初は何も聞こえない。より集中力を高め、高め……耳の感度を敏感にする。 すると微かな物音をライトの耳が捕らえた。 とても穏やかに息を吸い、深く吐き出す……呼吸の音。 (寝息……? 誰か眠っているみたいですね?) 相手の存在、状態の情報を得ると、ライトは耳に集中させて意識を戻す。 「ふぅ……上手くやればやり過ごせるかも知れませんね。 人を襲うような相手とは、もう戦いたくありませんから好都合です」 それにこれはライトの推測だったが、『幻獣』と呼ばれるような、 未知の生き物がいるのではないかと思っていた。 名の記すとおり、幻獣とは人にとっては滅多にお目にかかることのない生き物だ。 各地を渡り歩く探検家であるライトでも、その姿を見たことがない。 彼が知っているのは書物で得られた、少しばかりの知識だけだ。 その知識の中に人を喰らうような、巨大な幻獣の記述があったはずである。 もしもこの先にいるガーディアンが、そのようなたぐいの幻獣だとしたら危険極まりない。 実際にこの先で、凶暴極まりない幻獣である『竜』が眠っているのだが…… しかし、それでもライトは前に進むつもりだ。 「何にしても、この塔に入ると決めたときから多少の危険は覚悟の上です。 それにここまで来たからには、一度その姿を見てみたいですしね」 この先に待ちかまえる相手に対して、余りにも心とも無い準備と決意でライトは階段を登る。 いざというときのためか、すでに彼の切り札であるエアボードを脇に抱えていて、 何時でも逃げ出す用意だけはしている。 大抵の相手なら空に逃げれば、まず逃げおおせるはずと言う魂胆だ。 「さて、そろそろ階段も終わりみたいです。 最後の守護者の姿を、見せて貰いましょうか……」 好奇心という物を満たすためとはいえ、今回のそれは余りにも無謀な行為だ。 馬鹿な獲物は自ら死地へと飛び込んでしまい、 そして、『兎耳の獣人・ライト』は初めて竜と出会う。 |