Allegretto grazioso 4 その男から初めて接触があったのは、トレーズがロームフェラ財団の私設幼年学校を主席で卒業し、その付属高等機関である士官養成所に入った頃だった。 幼少の頃からその手の誘いは少なからずあり、2度目からは話しを聞くことさえしなかったが、男は不意を突いてはさりげなくトレーズの前に現れ、何度となく誘いをかけた。 その行為はそれ自体、トレーズの行動を監視しているという、無言の挑発に他ならなかった。元々そのようなことを好むトレーズではなかったが、ボディーガードを増員し、身辺のセキュリティーを徹底させざるをえなかった。だが、クシュリナーダ家よりも相手は勝っていたらしく、男やその配下の人間は厳しい警戒の網をかい潜っては、思い出したようにトレーズの前に現れた。 日々の生活のそこここに彼らの影を感じながら、それでもそれ以上の警戒を怠っていたのは、それがまだ自分1人の問題だと判断していたからだった。 相手を甘く見ていた。そこまで踏み込んだ手段に出るとは、迂闊だったが予想していなかった。 彼の姿が幼年学校から消えたと報告を受けた時、手足から血の気が引いていったのを憶えている。 彼は幼い頃から聡明な少年だった。 彼の故国にクーデターが起こり、両親を殺害され、自身も命からがら逃げ延びてトレーズに保護された時も、周囲の大人達でさえ混乱と不安に浮き足立っていたさなか、わずか6歳の彼はしっかりとした眸でトレーズの匿うという申し出でを断った。わたしと一緒にいれば、トレーズに迷惑がかかるから、と言って。 彼は何よりトレーズの負担となることを恐れていた。自分自身の問題なら、その優秀さを妬んだ上級生に取り囲まれた時でも、一歩も退かずに毅然と対峙する彼が、屋敷を訪れた客人の口からサンクキングダムの一語が出ただけで蒼白になった。どんな時でも自分の立場をわきまえるよう育てられた彼は、それがいかに重大であり、周囲にまで影響を及ぼしかねないものであるかが、骨身に刻み込まれているのだろう。 彼がそうして不安げな表情を見せる時、トレーズは必ず彼を抱き締めて、大丈夫だよと言い聞かせた。そうせずにはいられないほど、彼はか細かった。どんなに聡明で強い意志を持とうとも、風に飛ばされそうな一輪の花のように、彼はまだあまりに小さく、儚かった。 運命が科した試練に、笑顔を忘れがちになる彼を傍らにおいて、いろいろな話をして聞かせた。世界の情勢、歴史、森に育つ小さな木の芽のことから、宇宙に散らばる無数の銀河まで。知っている限りの事を彼に教え、それについて自分が抱いている想いを伝えた。半ば強引に時間を空けては、フェンシングや乗馬にも連れ出した。その執着ぶりに祖父が呆れて言ったものだ。その歳でお前は父親になったのかと。 何故、と言われて一言で答えるのは難しかった。ミリアルド・ピースクラフトはトレーズの心のひだに複雑に絡みついた存在だった。ただ、既に埋まってしまったそこから、彼を引きはがすことも代わりを捜すことも出来ない、それだけは確かだった。祖父が言ったように、仮に自分の血を継ぐ子供が生まれようと、彼にしたように自分のすべてをその子に注ごうとは思わないだろう。 他の誰もがトレーズを理解しなくとも、彼には理解してほしいと思い、彼にはその度量がある、そう感じていた。同じ価値観を共有し、共に同じ未来へと歩むことを、トレーズは彼に望んでいた。 初めて出逢ったときからそうだったように思う。彼にはなにか特別な光が見えた。気がつけばトレーズを惹きつけている、触れるたび胸の底を温めるような不思議な光だった。あるいはそれは、トレーズが持ち得ないものへの憧憬だったのかもしれない。自分より小さな身体で凛と立つ彼は、それだけで包み込みたくなるような光を宿していた。 彼のほのかな笑顔も、滅多に見せない泣き顔も、何かを見つめるまなざしも、すべてが切なく、いとしかった。 失うことは出来なかった。 「……貴方がそこまで世話好きだったとは思いませんでした」 唐突に持ちかけられた縁談に、トレーズはそれまでと変わらぬ淡々とした口調で答えた。 彼がトレーズの許から連れ去られて、2年が過ぎた秋だった。 向かい合う席でコーヒーカップを口許に運ぶ《アルファロ》は、揶揄の表情でトレーズを見遣った。 「随分と淡泊な返答だな」 相手は先日来、この連合情報局本部の長官室で臨時の副官を務めている女性だという。トレーズも何度か姿を見かけたことがある。まだ10代の少女だった。SISとは表面上の友好関係にある中国の工作員という話だが、あの歳ではおそらく本人の希望でその道を選択したのではないのだろう。 彼女がルクセンブルク公の地位を継承するトレーズと結婚すれば、欧州での彼女の活動は幅広いものになる。中国側としては願ってもない話であり、SISもそのポストを提供することで、アジア地区で大きな影響力を持つ中国の機嫌が取れる。しかしそれは表向きの構図であり、SISの実際のもくろみは別にあった。 《アルファロ》は、彼女の中国での評価を上げる為に餌を投げたのだ。 彼女は中国のスパイであると同時に、SISのスパイでもあった。その事実を知れば、《アルファロ》の目算を推測するのは容易い。《アルファロ》は中国に食いつかせる餌を投げると同時に、トレーズの進退にも大きな釘を刺そうとしている。トレーズのような貴族階級はそう簡単に婚儀を結び、また破棄出来ないことを、言うまでもなく《アルファロ》は知っている。トレーズは最も身近に、容易くは外せない監視の目を招くことになるのだ。 「彼女の出身はどちらです?」 それでもトレーズの口調は淡々としたものだった。社交辞令を交わすのと変わらない。心持ちソファに背を預け、足を組む。彼が身にまとっているのは白を基調とした連合陸軍MS部隊の軍服だった。膝の上で組み合わせた手は、軍装の内である白い手袋に包まれており、胸には大佐の階級章が縫い止められている。当時、トレーズは連合陸軍の西欧第3MS部隊の隊長を務めており、西欧方面総幹部の定例会議に出席の後、その足でSIS本部に立ち寄っていた。 当然のことながら、十代で佐官、それも大佐に昇進するなど異例であり、周囲がやっかむようにその裏には確かに家名の権威が影響している。だが他の貴族の名誉職とは違い、トレーズが務める役職は相応の力量を必要とするものだった。 《アルファロ》は片眉を上げた。 「ほう、気になるのか?」 「何一つ知らない相手を、妻に迎えることは出来ますまい?」 「結婚すること自体についての異論はなしか?」 「私の許に持ち込まれた時点で、既にこの話は決定事項になっているのでしょう。白々しい慰めの言葉は無用です」 淡々と撥ねつけるトレーズに、《アルファロ」》は苦笑を漏らす。 この男はSIS長官という隠れた官職とは別に、表向きの別の肩書きを兼任している。つい1時間前までは、トレーズが出席していた会議室に何食わぬ顔で同席もしていたのだ。話があるならあの場で済ませればいいものをと、珍しく状況に沿わないことをトレーズは思う。この男の持って回った秘密主義は、おそらく職務故のものではあるまい。生来の歪んだ性根が、現在の職種を選ばせた口だ。男の発する気配そのものが、トレーズには向かい合うことを煩わしくさせる。 「国籍はオーストリアだ。出身はウィーン。残念ながら君に釣り合うような身分はない市井の出だ。まあ、履歴は君の好みに替えてくれればいい。何なら容姿も好きにしていいぞ」 ソファを立った《アルファロ》は、デスクに置かれていたファイルを寄越した。人を小馬鹿にしたような口調は、会った当初からのものだ。彼女の詳細なプロフィールにざっと眼を通しながら、トレーズは事務的な口調で切り出した。 「親族への婚約の報告は明日にでも行います。式の日取りなどは後ほど、親族間での取り決めになるでしょう。彼女側の式の出席者はSISの方で手配して頂きます。一般への公表は3日後に。一通りの次第が決まるのは4日後。その時点で、ゼクスを迎えに伺います」 トレーズは顔を上げていた。 「妙に急ぐと思えば……」 《アルファロ》は片頬を歪めた。 「まだ忘れてはいなかったようだな」 トレーズはこれまで、《アルファロ》の前で自分から彼の話題を持ち出したことはない。手を組むことを承諾した際、信用出来る実績を要求されて以降、彼の名を口にしたのはこれが初めてだった。 「私はこれまで、実績を示すに充分な貢献を果たしてきた。貴方がたの懐もロームフェラから吸い上げた資金で存分に潤っているはずです。これ以上私の信用を計る必要はないでしょう。貴方が取り決める婚儀で、私の退路は断たれるのですから」 彼の様子は、時折《アルファロ》が話す断片的なものでしか分からない。それでも、一日中ピアノに向かっていると聞けば、彼の精神がどれほど追い詰められているかが計り知れる。彼は一つのことにのめり込むと、周りの一切を忘れる人だった。それを彼は自分からし向けているのだ。閉塞されたすべてから目を背ける為に、必死で。 男は薄笑いを浮かべた。 「だが、君の気持ちはそうであっても、果たしてあの少年が素直に帰りたがるかな?」 「どういう意味です?」 「彼が2年間も閉じこめられていた、君はその元凶だ。さぞ君を恨んでいるだろう。それに君は近々結婚し、妻を迎える。自分の居場所がないと知れば、なおさら君の許に戻りたいとは思うまいが?」 トレーズはそれまであえて抑えていたまなざしを変えた。 「貴方が彼に何を吹き込み何を言わせようと、彼は連れて帰ります。これは当初からの契約だったはずだ。交わした約束を不履行にする相手とは、私は付き合うつもりはない」 青の瞳に宿る力が、その鋭さを増していく。普通の者ならたじろがずにはおれない苛烈な双眸を前にして、男はくいっと唇の端を歪めた。 「──いいだろう。無用の争いを起こすほど、私も酔狂ではない」 言って、くっと笑いを漏らす。 不浄なものを見ている気分になり、トレーズは一刻も早くその場を立ち去る為に席を立った。 彼はそこにいた。 見つけた瞬間、息が止まった。 彼は寝台に俯せていた。華奢な肩胛骨が浮き出ていた。なめらかな白い肌は、男の体液で濡れていた。 トレーズはかすかによろめきながら足を踏み出した。彼は眼を閉じている。眠っているのだろうか。気を失っているのだろうか。俯す頬に柔らかな真珠色の髪が落ちかかって、表情は窺えなかった。髪が伸びたようだった。身体も大きくなっている。成長したのだ。離れていたこの2年の間に。 トレーズはやっとの思いで寝台にたどり着いた。男が側に眼を眇めて眺めていたが、そんなことはどうでもよかった。彼がそこにいる。トレーズにはそれだけだった。2年間触れることも目にすることも出来なかった彼が、そこにいる。手を伸ばせば届く目前に、こんな汚された姿で。 人の気配を察したのか、彼がかすかにみじろいだ。小さく息をつき、伏せられていた白金の睫が震えて、ぼんやりとした淡青の瞳がトレーズを映す。 身体の向きを変えながらゆっくりと瞬いた瞳は、トレーズを見つめてうっすらと潤んだ。小さな頃、怖い夢に脅えて目を覚ました時のように。いや、彼は本当に恐ろしい夢を見ていたのかもしれない。 トレーズは微笑んだ。腕を伸ばしてそっと頬に指を滑らし、包み込むようにして髪を撫でる。最後に見た記憶より頬の丸みが薄れて大人びた面立ちになった彼は、それで安心したかのように笑みを見せ両手を持ち上げた。華奢な、か細い腕だった。トレーズは笑顔でいることに耐えきれず、覆い被さるようにして彼を抱き締めた。 「ミリアルド………」 かろうじて彼に聞き取れるほどの囁きを耳許に落とす。 「済まなかった。もう……大丈夫だ。もう、怖いものは何もないよ……」 「トレーズ……」 両腕がトレーズの首に縋り付いてくる。こぼれそうな涙をこらえ、トレーズは彼の首筋に頬を寄せ、抱く腕に力を込めた。 「君の家に帰ろう、一緒に」 「トレーズ……トレーズ……」 まるで無邪気な子供の声で、彼がトレーズを呼んでいる。 その声が途切れた時、彼は腕の中で全てを委ね切ったように、気を失った。 |