Allegretto grazioso 3 それからは毎日ピアノを弾いた。 決まった時間に与えられる食事と就寝の他は、ずっとピアノに向かっていた。他に何もすることがないというのではなく、弾くことがミリアルドの目的であり、救いだった。のめり込むように弾いた。指の腱を酷使するせいで両方の手の甲が腫れ上がったが、それもあまり痛いとは思わなかった。 そんなミリアルドの様子を見かねて、使用人が手当をしてくれたことがあったが、幾分打ち解けて会話を交わした次の日にはその姿はなく、別の女性に代えられていた。 ミリアルドはますますピアノに集中するようになった。誰とも一言も口をきかない日々が続いた。 新品のグランドピアノと一緒に買い揃えられた譜面の中でも、ミリアルドが多く弾いたのはショパンだった。彼の病的なまでに繊細で情熱的な旋律は、押し殺したミリアルドの感情を激しく掻き立てた。遠い祖国を想い、故郷に帰る日を切望しながら死んでいった彼の情念が、ミリアルドの想いと同調したのかもしれない。 それでも、ピアノを弾いている間は、脳裏から一切のことが消えた。彼のことも自分のことも、過去も未来も何もかもを忘れて旋律にのめり込めた。様々な音色の連なりや重なりが紡ぎ上げる、悲愴や激情を作ることに没頭した。 その時は、練習曲12番ハ短調を弾いていた。『革命』の名で呼ばれる、ショパンの代表作の一つだった。激しい旋律と叩き付けるような和音が、嵐を思わせる曲だった。 自分の指の叩く音が生易しく感じて納得がいかず、ミリアルドは繰り返し鍵盤を叩いた。 こんな音じゃない。もっと鋭く、もっと早く、もっと厳しく、激しく。 思うような音が出せないのが歯がゆかった。悲壮はこんな優しい音ではない。血を吐くような叫びだ。身体が二つに裂かれるような絶叫なのだ。怒りも悲しみもこれでは全然足りない。表現しきれない。もっと強く、心を削るほど、壊れるほど激しい音でなければ 不意にぐいっと腕を引き上げられ、旋律が唐突に途切れた。 夢から叩き起こされたような目眩に、ミリアルドは茫然とした。その後でようやく周囲が眩しいことに気付き、いつの間にか暗くなっていた部屋に誰かが灯りを付けたと気付いた。 「何をしている、お前は」 苛立った声がすぐ側に聞こえて、ミリアルドは顔を上げた。不快感をあらわにした男 「お前は自分の手がどうなっているのかも、分からないのか」 何を言っているのか分からず、怪訝に思いながら自由な方の手に視線を落とすと、ほとんどの指の爪が割れ指先が赤く濡れていた。《アルファロ》に掴まれた手も血に染まり、握った掌をぬめらせて雫が伝っていた。 「あ……」 全く気がつかなかったことに驚き、眼を見開く。その後ではっとピアノを振り返った。象牙の鍵盤が、血にべっとりと汚れていた。 「ピアノが……」 鍵盤を拭おうとしたミリアルドを、掴んだ手を引き《アルファロ》が乱暴に引き戻す。 「離して下さい。拭き取らないと鍵盤に染みが……」 「いい加減にしろ、世話を焼かせるな!」 険しい声に思わず身体が竦んだ。《アルファロ》はミリアルドを強引に引きずり隣の寝室へ入ると、手当の為に使用人を呼び、ミリアルドをソファへ突き飛ばすようにして座らせた。 「……程度というものを知らんらしいな、お前は」 高圧的な双眸で見下ろされ、ミリアルドは反射的に睨み返した。 「たとえ私の指が潰れて使い物にならなくなったとしても、貴方には関係ない」 「生意気な口をきくな」 身体をソファに押しつけられる。ミリアルドは息を詰めた。男の右手が喉を掴んでいた。隙を突かれたと思う間もなかった。その手にわずかでも力を込められれば、ミリアルドは窒息してもがき苦しむことになるだろう。そのまま絞め殺すことも容易い。 「そういう言葉は、自己管理が出来るようになってから言え。己の利点を自ら潰すなど愚の骨頂だ。未熟者め」 苛立たしげに睨み据えると、《アルファロ》はそのままミリアルドから離れた。男があっさり退いたことに、ミリアルドは意外な思いで見返した。男の左手には赤いものが付いていた。ミリアルドの手首を掴んだ時に付いた血のようだった。そういえば、男は左利きだったのだ。喉を掴んだのは右の手だった。 血の付いた手でミリアルドに触れることを、ためらいでもしたのだろうか。 とりとめもなくそんなことを思いつき、馬鹿馬鹿しいと振り払う。 男は不快げに唇を歪めて言った。 「明日にでもピアノの講師を付けてやる。誰かに監督させておかないと、お前は馬鹿の一つ覚えのように延々同じ曲を引き続けるらしいからな」 使用人にピアノの鍵盤の清掃を言いつけて、《アルファロ》は馬鹿にしたような一瞥を投げ踵を返した。 両手を血に染めたミリアルドは、それを睨んで見送るしかなかった。 ピアノの講師はミリアルドを20年に一度の逸材と感嘆した。こんなところに閉じこめておくのは惜しい、もっと高名な指導者の師事を受け、コンクールにも参加させるべきだと意気込んで《アルファロ》に談判をしに行ったが、そのまま別の講師に替わってしまい、それきり姿を見ることはなかった。 側にあった人々は馴れた頃に入れ替わり、時は緩慢に流れた。窓から見る景色はいつの間にか二度目の夏を過ぎて、木立が鮮やかに色づき始める。それだけの時が過ぎても、ミリアルドの中の時間は止まっているように思えた。相変わらずピアノを弾いていた。引きこなす曲の数が増えた。思い返してみても、時の経過を実感するのはそれだけだった。 前日姿を見せた《アルファロ》が珍しく二日続けて現れたのは、ミリアルドが午後の陽溜まりの中でピアノを弾いていた時だった。 「お前にお迎えが来るそうだ」 唐突にそう言われ、一瞬何のことか分からなかった。 「迎え……?」 弾いていた手を止め首を傾げたミリアルドを、《アルファロ》は逆光になるのかオリーブ・グレイの眼を細めて見返した。 「トレーズが、どうしてもお前を返してほしいと言うのでな」 その言葉に、彼の名に、ミリアルドは眼を見開いた。しばらく押し黙り、大波のように押し寄せる様々な感情に理性が追いつくのを待って、ようやく口を開いた。 「彼が貴方の要求に応じたのですね」 「承諾ならば、あの男は最初からしていたさ」 《アルファロ》は眼を細めたままで、口許に薄い笑みを形作った。 「お前が私の許にあると告げた時からな。2年間、奴が信用のおける協力者であるかどうか、試させてもらった。あの男は随分と我々に貢献してくれた。表沙汰に出来ないことも、色々とな」 眉間を走る痛みを、ミリアルドはまなざしを鋭くすることでやり過ごした。 「彼が二度と抜け出せないように、ですか」 《アルファロ》は満足げに頷いた。 「そうだ。我々に対する裏切りがあれば、肉体的な死は勿論、社会的な死が制裁として下されることになる。だが、こちら側について協力すれば、見返りもそれなりのものを得られる。我々の後押しを受ければ、欧州上流社会での絶対的な権力を手中にするのは、難しいことではない。いずれ近いうちに、奴はロームフェラ財団総帥就任の歴代最年少記録を塗り替えることになるだろう」 「……それほどの力を持つ貴方の組織とは、どのようなものなのですか」 慎重に発したミリアルドの言葉に、《アルファロ》はおもしろそうに片眉を上げて、見返した。 「お前はどのようなものだと思っている?」 「地球圏統一連合か、またはそれに対抗しようとする複数国家の連合勢力か。私には、それくらいしか思いつきませんでした」 「合格点の回答だな。しおらしい言葉で下手に出る態度も含めて」 ニヤリとして男は続けた。 「だが、それを知ってどうする気だ? これ以上首を突っ込めば、お前を助ける為に私と手を組んだトレーズの努力が無駄になるぞ」 「私だけが何も知らずに終わらせることが出来るのですか? 私は貴方を知っている。貴方が私の前に顔を出し名を明かしたのは、初めから私も当事者に加えようという目論みがあったからなのではありませんか?」 「……そこまで考えついたか。その通りだ」 《アルファロ》は、こつりと靴音を鳴らして足を進めた。 「どうやら、2年の間ただピアノを弾いていたのではなかったようだな」 歩み寄り、密かに身を硬くするミリアルドの前に立つ。立ちはだかる壁に向かい、ミリアルドは言った。 「私は貴方のカードなのですから、それを有効に使う為の手を打っておくだろうくらいのことは、想像がつきます」 おそらくトレーズは、ミリアルドを無傷で返し以後一切接触させないことを手を組む条件に上げているだろう。 《アルファロ》が、ミリアルドという弱点を知っている。それだけでトレーズには充分な圧力となる。だが、そのミリアルド自身をも深みに引き入れ《アルファロ》の手の内に置いてしまえば、その圧力の鎖はさらに締め上げることが出来る。 「……やはり、このままトレーズに引き渡すのは惜しいな、お前は」 ミリアルドを値踏みするように眺め、《アルファロ》は言った。ミリアルドは踏み込むように男を見上げた。 「彼の許には戻りません」 「なに?」 《アルファロ》が眉を上げる。ミリアルドは挑むまなざしを崩さず続けた。攻撃は最大の防御だと、ずっと昔に聞いた言葉が脳裏をかすめる。あれは彼の言葉だった。 「貴方は、彼に対して有効である限り、私をカードとして扱うでしょう。彼は責任感のある人ですから、何があっても自分の謀略の巻き添えになった私を放り出すことはしないはずです。 ですが、彼の許に戻ったところで私は彼にとっての人質であることに変わりはなく、そして貴方にとってはただの一枚のカードだ。 そんな、周囲に振り回されるだけの生き方はしたくない。いずれ巻き込まれることが避けられないのなら、私は私の意志で自分の道を選びます」 「それで、どうすると?」 「貴方の下で働かせて下さい」 きっぱりと言い切ったミリアルドに男は軽く眼を瞠り、珍しく声を上げて笑った。 「おもしろい奴だ。そうくるとは思わなかった。私が手を打つ前に、自分から知りもしない組織の一員に志願してくるとはな。私がどこに所属する何者なのか、訊かなくてもいいのか?」 「貴方がどのような組織の人間であれ、私の現状に変わりはありません」 笑われて険しい顔をするミリアルドに、口の端を歪める。 「そう睨むな。褒めてやっているのだ。プライドの為にあえて泥沼にはまろうとする、お前の若さをな」 男は眼を細め、す、と身をかがめた。近づく声が低い囁きのようになる。 「お前のその言葉が本心ならば認めてやろう。自分の将来を曲げてまでお前を選んだトレーズを、本当に切ることが出来るのならな」 ミリアルドは即答した。 「出来ます」 「私に忠誠を誓えるか?」 おもしろがっているような顔が、徐々に間近になる。戸惑いながらもミリアルドは頷いた。 「ならば、その証を立ててみろ。トレーズは、私が選んだ部下との結婚を認めたぞ」 思いもしない言葉に、ミリアルドは眼を瞠った。トレーズが結婚する? 「お前は私に差し出せるか?」 「なにを……」 言いかけたミリアルドの顎を掬い取り、男は頬を傾けた。訳が分からず無防備だった唇を割り、口腔に舌が入り込んでくる。 ミリアルドは弾かれたように後ずさった。ねっとりとした感触の残る唇を手の甲で拭いながら、思わず叫んだ。 「何をするのです!」 そぎ落とされたような頬を笑みに歪めた男は、斜に見下ろした。 「すべてを差し出せ。その高慢なプライドも、何もかもを投げ出してひざまづけ。忠誠を誓うとはそういうことだ」 ミリアルドは言葉を失った。 「見返りを求めるなら、相応の代償が必要だ。お前にはその厳しさが分かっていない。まあ無理もないがな。お前はまだ世間を知らぬ子供だ」 一旦離れた男の手が再び頤にかかる。逃れることは出来ない。 「私が仕込んでやろう。私に従い、私のものになるというなら、お前の望みは叶えてやる」 瞳の奥のぎりぎりまでを射貫いたオリーブ・グレイの双眸がすっと退いて、《アルファロ》は身を離した。振り向きもせず隣の寝室へ向かうその背を、ミリアルドは茫然と見つめた。 そして、最後まで思いとどまろうとする逡巡を振り切り、男の後を追った。 |