Allegretto grazioso 2 男が再び姿を見せたのは、それから2週間近く経った頃だった。 男が現れてもミリアルドはぼんやりとソファに座り、風が吹き抜けていく庭を眺めていた。 「食事を摂らないそうだな」 苛立たしげな声を聞いて、ようやく顔を向ける。身体がだるくて、男に向かい合うことさえ億劫だった。 黙ったままのミリアルドに、男は嫌悪するように眉をひそめた。 「ハンガーストライキのつもりか」 「……何もしないのに、食事を摂る必要はないでしょう」 ぼんやりとした声で、ミリアルドは答えた。 実際、ここ数日は全くといっていいほど食物を口にしていなかった。空腹を感じないだけでなく、口にすれば吐き気をおぼえた。強制的に栄養剤の点滴を射たれ、起き上がれるだけの体力は維持されていたが、ミリアルド自身に何かをしようという気力は失せていた。こうしてトレーズのことを案じながら、外を眺めているより他に何もない一日が、何よりミリアルドを消耗させていた。 男は腕を組み、ミリアルドの前に立ちはだかった。 「我が侭な奴だ。何が望みだ」 「ここから出して下さい」 「それは無理だ」 ミリアルドはゆるゆるとうつむいた。 「では、トレーズに会わせて下さい」 「それも出来ない話だな」 「それなら……もう、放っておいて下さい」 溜息のような言葉が終わらないうちに、ぐっと髪を掴まれ無理矢理顔を上げさせられた。 「ゼクス、私は子供の甘えに付き合うほど寛大ではない。必要な食事を摂り、睡眠を摂れ。私に対する反抗は、トレーズにもマイナスにしかならんぞ」 ミリアルドの眼の奥で火花が弾けた。夢中で男の手を払いのけ、叫んでいた。 「私に何をしろというのです! こんな何も出来ない場所に閉じこめて、普通でいろという方がどうかしている! 人質なら、人質らしく扱って下さい。点滴でも薬漬けにでも何でも好きにすればいい。人質に、生きている以上のことは必要ないはずだ!」 「……なるほど、確かにその通りだ」 見下ろしたまま、男はうっすらと笑った。 「だが、それでは都合が悪いのだ。大切に預かったはずの客人を薬物中毒にして返しては、彼との間に友好な関係が保てなくなる」 「友好な関係?」 ミリアルドは眉を上げた。 「人質を取ってまで要求を押しつける相手と、どんな関係を結べるというのですか」 「私は彼に、互いに利益を得る平等な関係を提案している。彼の首を縦に振らせる為に、結果的には多少手荒な手段を使ってしまったが、これは彼にとっても損な話ではない。君は大切な客人なのだ、あくまでもな」 「一時的な取引ではない……?」 眼を瞠るミリアルドを前に、男はすっと眼を細めた。 「私がそんな小さな目的の為に、ロームフェラ財団幹部の家の者を拉致すると思うか?」 ミリアルドは反射的に立ち上がった。男の脇をすり抜けそこから離れようと足を踏み出した途端、ぐらりと視界が暗転した。立ち眩みを起こしてふらついたところを、あっさり手首を掴みあげられる。 骨に食い込むような手の力に、ミリアルドは必死に抗った。それでも点滴だけでつないでいた体力では、ほんの身じろぎ程度にしかならず、男は難なく両腕をまとめてつるし上げると、精一杯に逸らしたミリアルドの顔を覗き込んだ。 「だから食べろと言うのだ。立ち上がっただけでへたり込むようでは、大事なトレーズと再会する前にあの世へ逝くぞ」 その途端、ずっと重い澱となってわだかまっていた想いが弾けた。 ミリアルドは叫んでいた。 「私が死ねば、彼は自由になれる!」 想いが言葉となって口をついた瞬間、身体中に突き落とされたような痛みが走った。はっと硬直した。そんなに簡単に死ねるのか? 自分自身に問いかけていた。そんなに簡単に死ねるものなら、何故あの時一人で生き延びたのだ。父も母も王位継承者としての責務さえ放り出して。 復讐を。そう誓い、血が滲むほど唇を噛みしめたのは、嗚咽をこらえていたのは、誰だ? 男は舌打ちし、ミリアルドを突き飛ばすようにしてソファに放り遣った。 「ふざけるな。私は甘えに付き合うほど寛大ではないと言ったはずだ。頭を冷やせ。……少しは見所がある奴だと思っていたが。失望した」 吐き捨てるように言い、冷酷な双眸が汚物を見るように眇められる。 ソファに叩き付けられたままの格好で、ミリアルドはぼんやりと思った。こんな時、どうしただろう。暗い感情に心を支配され、自分自身を目茶苦茶にしてしまいたくなった時。自分は何をしていただろう。 ふ、と旋律がよぎった。もうずっと何年も遠ざかっていたかのような懐かしい音階が、ぱらぱらと脳裏を巡り始める。 散らばった髪を頬にこぼしたまま、ミリアルドはぽつりと呟いた。 「ピアノを弾かせて下さい」 |