Allegretto grazioso 1 目覚めたそこは、見知らぬ場所だった。 寝台の上に寝かされていたミリアルドは、一度瞬きした後そろそろと身体を起こした。 窓からの光を背に、1人の男が立っていた。 「 男は手にした書面を読み上げ、顔を上げた。 「君のプロフィールはこれであっているかね?」 逆光で影となった男の声に聞き覚えはなかった。ミリアルドはシルエットを見据えてわずかの間押し黙った後、一つの問いかけを口にした。ずっと閉じていた唇が重く感じた。 「私は、どういった理由でここにいるのですか」 男にはそれは意外な反応らしかった。 「ほう」 男はゆっくりとミリアルドに足を向けた。絨毯を敷き詰めた床に、こもった靴音が沈む。ミリアルドは身を硬くした。身体にかけられていたブランケットを無意識に掴み、その時、自分が幼年学校の制服を着たままであることに気付いた。 休み時間に見知らぬ上級生から呼び出しを受けて裏庭に向かい、そこから後の記憶がなかった。 「私が何者であるか、普通はそれを先に訊くものだが」 こわばってしまいそうになるまなざしをきつく尖らせる。慎重に答える声は自然と低くなった。 「私を誘拐した意図によって、貴方の立場が分かるからです」 「なるほど。私個人には興味がない、か」 斜光の位置が背面から横側へと移り、そぎ落とされたような男の頬が影を刻む。彫りの深いその顔は、おもしろがっているように見えた。 「なかなか見所のある少年のようだな。トレーズが執着するのは、あながち君のその容姿だけというのでもないらしい」 男の口から出た名に、ミリアルドの指先を電流のような緊張の痛みが走る。自分の存在が友人である彼の障害となるのではないかという危惧は、常にミリアルドのなかにあった。そう訴えるたび彼は笑って否定していたが、今それはもう、杞憂ではなくなってしまったようだった。 男の刻むゆっくりとした靴音が、やけにはっきりと耳に響く。ミリアルドの前で靴音は止まった。 「ゼクス・マーキス。君には今後しばらくここで生活してもらう。この屋敷の中では何をしても構わんし、外部の情報以外望むものは何でも用意させるが、屋敷の敷地内から出ることは出来ない。もし約束を破った時って一歩でも外に出た時は、トレーズ・クシュリナーダが何らかの不利益を被ることになる。……そう言えば、私の立場は分かってもらえるかな?」 ミリアルドは息を飲んだ。 「トレーズの人質なのですか、私は」 思いもしない言葉だった。 「言葉が悪いな。君は私の客人だ」 「止めてください、私は彼の屋敷に居候しているだけです。彼とはそれ以上何の関わりもない。巻き込まれるのは迷惑です。帰してください」 「それが事実なら、そうしてやってもいいのだがな」 言いながら男はもう一歩間をつめ、不意にミリアルドの顎を掴んだ。咄嗟にかわすこともはね除けることも出来ない身のこなしだった。頬に食い込むほどの強さで掴んだ顎をぐいと持ち上げ、男は歪んだ笑みを浮かべてミリアルドを覗き込んだ。 「私を騙すには演技がまだ未熟だ」 威圧感をはねつけるように、ミリアルドは必死でにらみ返した。 「彼は他人の思惑に動かされる人ではない。私1人をどうしようと、貴方の思い通りになることは決してない」 「どうかな。それを試す為に、彼から君を取り上げてみたのだが」 男の口調は余裕に満ちている。その裏にただならぬものが潜んでいるのを感じ、ミリアルドは凍り付いた。 耐えきれず、大きな声を上げていた。 「彼をどうするつもりなのですか!」 男は冷たく眼を眇めた。 「それはお前が知る必要のないことだ」 尊大な双眸がどこまでも高いところから見下ろしてくる。その冷酷さをミリアルドの瞳に深く突き刺して、男は掴んでいた顎から手を離し、腕を組んだ。 「大事なトレーズに迷惑をかけたくなければ、大人しくしていることだ。そうしている間はお前の身にも危険はない」 ミリアルドは必死に男を見上げた。切迫する危惧感に、ぎりぎりで押さえつけている意識がぐらついていた。 「いつまで、ここにいろというのですか」 「それはあの男の返答次第だ。彼がイエスと言えば、すぐにも君は彼の許に帰してやる」 男は薄く笑った。 「トレーズが君を選んでくれるのを祈ることだな。私もそれを期待している」 そう言い置いて扉へ向かう背中を、ミリアルドはただ睨み付けることしか出来なかった。 「……ああ、自己紹介を忘れていた」 扉に手をかけたところで、男は振り向いた。 「私の名は《アルファロ》だ。この屋敷は私の部下が24時間監視している。それを忘れないように」 扉が閉まり、人気が途絶えて沈黙が訪れる。無音の部屋の中で、ミリアルドはしばらく放心していた。 男が名乗った名は、本名ではないのだろう。男が率いる組織がどんなものかは分からないが、このような手段を取り、実際にそれが成功した以上、欧州最大財団総帥を輩出した名家の者とも取引できる力はあると見るべきだろう。ミリアルドが自力でどうにか出来る相手ではない。下手な行動に出れば、それこそトレーズに取り返しのつかない迷惑がかかる。 身体の底から凍り付くような思いだった。 こんなことになるとは思いもしなかった。自分の出生がトレーズに危険を招くことを恐れても、自分という存在そのものが彼の足枷になるとは、考えたこともなかった。 彼はミリアルドを救う為に、あの男の要求を飲むのだろうか。 ミリアルドは激しく首を振った。そんなことはミリアルド自身が誰より許せなかった。彼は誰にも、どんなことにも膝を屈したりしない。自分一人の為になど動いたりしない。その思いの半分は本心からであり、後の半分は切望だった。もし今会うことが叶うなら、縋り付いてでも彼に懇願していただろう。そう出来ない現実に、臓腑が切り刻まれるように痛かった。 彼は自らの美意識に反するものには、冷酷なまでに非情だ。その反面、心を許したものには限りない慈しみを注ぎ、強い責任感でそれを護り通すことを、ミリアルドは知っている。 彼を陥れる危険があったのなら、その優しさを振り切ってでも彼の前から姿を消しているべきだった。あの時、差し伸べてくれた手に縋らなければよかった。あの砲火の中を逃げなければよかった。いっそあの時、父母と共に殺されていれば…… 強く、頭の芯が痛くなるほどに、後悔が巡った。責め立てるようにひどくなる頭痛に、組んだ両手に額を押し当て、しばらく身じろぎもせずにうずくまっていた。 思考の重圧が限界を超えて、ふっと脳裏が空白になる。 顔を上げた視界に、テーブルの上に置かれた薄いファイルがあった。男が置いていったミリアルドの身元調査報告書だった。ミリアルドはかすかにふらつく足で寝台を降り、それを手に取って文字を追った。 記された名前も生年月日も出身地も、すべてが見知らぬ記録だった。 ミリアルドの生まれは北欧だった。父は小国の国王であり、母はその王妃だった。6歳の時、国にクーデターが起き、両親は治安部隊の手によって、正式な裁判にさえかけられることもなく処刑された。王太子であったミリアルドと幼い妹は、混乱のさなか運良くそれぞれ国外へ脱出することが出来、ミリアルドの身柄は保護を申し出たトレーズの許に匿われた。妹はJAPに無事に逃げ延びたが、彼女が自分の出自を知らずに暮らしていると聞いて、以後の連絡は取っていない。 公式には、ミリアルド・ピースクラフトは消息不明のまま死亡未確認となっている。 連合に追われたミリアルドが生きていけるよう、このゼクス・マーキスという人間を作り出してくれたのはトレーズだった。そして今はもう使われなくなった本当の名でミリアルドを呼ぶのも、トレーズだった。 ミリアルドのすべてを知り、受け止めてくれる。そのただ一人の人が彼だった。 ミリアルドはファイルを持つ手を握りしめた。あの男が言う通り、今はただ祈るより他はなかった。 どうか、どうか、彼が私を見捨ててくれるように。 胸が張り裂けるほどに、それだけを、切に祈っていた。 |