Allegretto grazioso 5 あの後、連れ帰った屋敷で意識を取り戻した彼は、半狂乱に陥った。抱き締めていなければ自分自身の身体を傷つけかねないほどに錯乱し、がたがたと震えながら一晩中泣き咽んだ。 男が彼にどんな卑劣な行為を強要したのか、想像するだけでも吐き気がこみ上げる。彼が受けた傷は一生心に残るだろう。トレーズはその時、ただ傍らで抱き締めてやることしか出来なかった。その時の、息が詰まるような想いが思い返される。彼が痛みを感じれば、同じようにトレーズにも痛みが宿る。だが、それは感じるだけで削ってやることも代わってやることも出来はしない。トレーズにはそれが痛い。 バスルームの扉を開け、湿った髪を掻き上げながら寝台に歩み寄ったトレーズは、ブランケットに埋もれて昏々と眠るゼクスに眼を落とした。 《アルファロ》に投与された催淫剤によって自我を失い淫楽に溺れる彼は、夢とうつつの間を彷徨いながら、目覚めては愛撫を求め、トレーズに抱かれて力尽きると泥のような眠りに落ちた。そんな繰り返しが3日続いていた。そろそろ薬の効果が薄れ、明瞭な意識が戻り始める頃合いだった。 今もまた、同じ想いを繰り返すのだろうか。 無心な寝顔を見つめながら、トレーズは静かに眉を寄せる。 《アルファロ》に袂を分かつことを宣告した後、トレーズはゼクスを連れ、行方をくらますようにスコットランドの古城に逗留していた。SISの情報網をもってすれば、居場所は苦もなく特定されるだろう。一応の工作は行ってあるものの、それは本気での潜伏を意図したものではない。 《アルファロ》はトレーズらの居所を押さえれば、それで満足するだろう。ロームフェラ財団、ひいては欧州上流社会とのつながりを誇示する為の一大デモンストレーションを控えた彼には、トレーズの一挙一動が目障りなはずだ。ゼクスをわざわざ薬物中毒の状態にして引き渡したのも、トレーズを彼にかかりきりにさせる意図があったからに他ならない。 故に、トレーズにはあのような離反行動に出てしまった以上、《アルファロ》の目を逃れて潜伏したように見せかける必要があった。自ら身を隠し《アルファロ》を恐れているように振る舞えば、男もあえて藪をつつくことはしまい。適当な逃亡を見破らせて居場所を見つけさせれば、二人を手の内に置いたという安心感を植え付けることが出来るだろう。そしてなによりゼクスは、干渉されない場所での休息を必要としている。 本来なら今まで通りの自堕落な態度を続け、《アルファロ》の目を欺きながらその日を待つ予定だった。細心の注意を払うべき今の微妙な時期に、あのような言動は論外だったと、無論理解している。それでも理性を凌駕してまで言葉が口を突いたのは、目撃した情景があまりにあの時を思い起こさせたからだった。これ以上彼を陵辱するあの男が、どうしても許せなかった。 もしそれが男の策略だったなら、トレーズは素直に脱帽し、敗北を認めるだろう。そこまであの男がトレーズの真意を見抜き、謀略を予見していればの話だが。 俯せ、死んだように眠っていたゼクスが、ゆるく身じろいだ。溜息のような声を洩らし、ゆっくりと瞼が開く。 トレーズは枕元に腰を下ろし、彼の頬にかかる髪をそっと指先に絡めた。 「ミリアルド……」 優しい囁きに、彼はぼんやりと瞬いた。 「あ……トレーズ……?」 片時も離れずにいて、自分を呼ぶ声を聞くのは久しぶりだ。トレーズはふわりと微笑み、透き通るような白磁の頬を優しく指先になぞった。 「気分はどうだね?」 彼は訝しげにトレーズを見上げた。何故自分がここにいるのか分からないという顔で、幾度か瞬く。 「ここは……? どうして、貴方が……」 頼りなげに疑問を口にしながら、欠落した記憶をたぐり寄せようと眸の焦点が揺らぐ。 「ここはスコットランドだ。クレイン・カースルには君も訪れたことがあっただろう? ここには口の堅い管理人夫婦しか置いていないから、安心してくつろぐといい」 「どういう……ことです? こんなところに私といては、貴方の立場が……」 トレーズは微笑んで首を振る。 「心配しなくていい。何も案ずることはないのだよ。もう、なにも……怖い思いをすることはない」 「トレーズ?」 眼を伏せたトレーズは、不思議そうな顔をして見上げるゼクスをゆっくりと抱き締めた。 「ミリアルド……」 確かな実感がここにある。彼のぬくもりを、その香りを確かめるように、トレーズは彼の髪に頬を寄せ、口吻けた。 「トレーズ……?」 身体の下のゼクスが怪訝な声で身じろぐ。その時、髪の絡む首筋にトレーズの吐息がかかり、ゼクスの肌に細波が走った。 「あ……」 無防備だった肢体がびくりと震え、唇から洩れた自身の声に驚いたように、双眸が見開かれる。 「ミリアルド……?」 異変に気付いてトレーズが身を起こす。その表情を間近に映しながら、ゼクスの瞠られた蒼の眸は湧き起こる混乱に揺れていた。何が起こったのか分からないような表情のまま、茫然と身体を硬直させ、唐突に何かを思い出したように再度びくりと震える。 眉根が寄せられ、表情が苦痛へと塗り替えられていく。思うようにならない両手で、震えを押さえるように身体を抱き締めた。 「わた…し……は……」 声が震えていた。 「ミリアルド、どうした……」 触れようとした手を、彼は震えながら拒んだ。 「どう…して……」 見守るしかないトレーズの前で、震える声が食いしばるようにして発せられる。 「どうして、私は、生きているのです」 トレーズは眼を見開いた。 「こんな人間が、生きていていいはずがない。神がお許しになるはずがない……何故生きているのです。私は……何故、生きていられるのです……」 「ミリアルド……」 混乱し彷徨う手が、手探りのように伸ばされ、あの時と同じようにトレーズのローブに縋った。 「……こんな穢れた身体で、どうして生きていられるんだ。どうして……!」 ゼクスの叫びがトレーズの耳を打つ。ああ、まただ。トレーズはどうしようもない無力感に捕らわれた。彼にまた、あの凄惨な思いを繰り返させてしまうのか。彼の側に自分はいるというのに。 苦痛に襲われる胸に、しがみつく手の震えが伝わってくる。震えて上手く握れてない指を白くなるほどローブに食い込ませ、ゼクスは懸命にトレーズを見上げていた。その淡い蒼の眸から涙が溢れ出す。いつの時もトレーズを魅了して止まない輝きが、涙に沈んでいく。 「殺してください、トレーズっ……私を殺してください! もう、耐えられない……こんな……っ」 激しく嗚咽ししゃくり上げながら殺してくれと懇願するゼクスを、トレーズは何も言えず抱き締めた。 己に課した復讐という義務の為に、彼は自ら死ぬことさえ許されないのだ。 子供のようなゼクスの手が、凍えるようにしがみついてくる。肩口に顔を埋めて泣きじゃくるその背を撫で、髪に頬を寄せて彼の震えを全身で覆った。その震えを、悲痛を、出来るものなら吸い取ってしまいたかった。何故、人はこんなにも非力なのだろう。大切な人が目の前で傷ついていくのに、護ってやることが出来ない。こんなにも胸を痛めても、本当に望むことは何ひとつ叶えられはしないのだ。 己の無力さを痛感しながら、トレーズは痛々しく震える彼の耳許に唇を寄せた。 「───君がそう望むのなら、私が殺してあげよう」 低い囁きに、涙に濡れた眸が喉を振るわせながら見上げる。真珠色の睫毛についた雫を指先に掬い、トレーズは静かに微笑んだ。 「だが、その時は私も一緒だ」 「トレー…ズ……?」 かすれた涙声が、茫然と呟く。トレーズは濡れた頬を拭いながら、続ける。 「君が絶望してしまった未来に、私が望むものはなにもない。たとえ混迷の戦乱が続こうと、その為に幾億の命が息絶えようと、それで少しも構わない。私の心にはなにも響きはしない」 トレーズは眼を細めた。 「君のいない世界に興味はない。そこで生き続けるのは苦痛でしかない。この世界は、ただ独りで生きていくには、くだらないことが多すぎる」 「そんな……」 ゼクスは大きく首を振った。しゃくり上げる喉から出ない声を無理矢理押し出す。 「そんな……駄目です……あな…たが、死ぬなど……」 見上げるそんな表情は、幼い頃から少しも変わっていない。自分の存在がトレーズの障害になるのではないかと案ずる、あの不安げな顔。それは痛みを訴え続けるトレーズの心を温かくした。 トレーズは包み込むようなまなざしで彼を見つめた。 「そう思うのは、私も同じなのだよ」 「え……?」 こみ上げる愛しさが胸を切りつけ、鮮やかな血を流させる。その痛みにともすればほどけてしまいそうな笑顔で、トレーズは彼の頬を掌に包み込んだ。今、してやれるのは、たったひとつのことでしかない。それをささやかな言葉に託し、告げる。 「ミリアルド、私の為に生きてくれないか───?」 涙の滲む眸が、大きく見開かれた。その眸の奥をじっと見つめた。 「あと少しでいい。あと少しで私達の望みは叶う。だからそれまで、私の我が侭を許してくれないか?」 茫然と見開かれていた眸に、新たな涙が湧き上がる。ふっくらと盛り上がった揺らめきは青ざめた頬を伝い、水晶の雫のように音もなくはらはらと零れ落ちた。 ひくり、と彼の喉が動いた。 「トレ…ズ……」 唇から嗚咽が洩れる。 「トレーズ……トレーズ……」 頬に触れている指先が、零れていく涙に濡れる。その雫は温かい。 「ミリアルド。私はまだ希望を捨ててはいないよ。君は必ず運命を越えてゆける。私はそれを信じている、ずっと、ずっと……」 「トレーズ……わたし…は……」 幼子のようにしゃくり上げながら、ゼクスは言葉を紡ごうとする。その懸命さが愛おしくて、トレーズは何も言わなくてもいいと言う代わりに涙の溢れ続ける眸に口吻け、言葉を封じた。 口吻けに一度閉じた眸が、うっすらとトレーズを見上げる。揺れるまなざしの光は、切なくなるほどに儚い。 トレーズは持てる想いの全てを声音に込め、彼に伝える。 「君は独りではないのだよ。いつの時も、どんなに離れていても、君には私がいる。独りでは背負いきれない重荷も、ふたりでならば支え合っていける。痛みも苦しみも君独りで抱え込むことはないのだよ。君が苦しめば、私も苦しいのだ。君が痛みを感じれば、私もここに痛みを覚える」 トレーズはゼクスの縋る手を取り、自分の胸を押さえた。 「ミリアルド、忘れないでほしい。君の命は私と共にある。そして私の命は君と共にある。私は決して君を独りにはしない。たとえこの命が尽きても、私の魂は君の側にあり続けると誓う」 「トレーズ……」 ゼクスが泣きながら自分の名を紡ぐ。震えるその唇に、トレーズは吸い寄せられるようにして唇を重ねた。柔らかな感触を確かめながら、歯列を割って彼の口腔に忍び込むと、従順に迎え入れた彼は、自ら舌先を絡めてきた。 互いに抱き締め合い、ひとつに溶け合うことを求めて快楽を分かち合う。 「ん……っ」 閉じた瞼から止まらない涙が零れ落ちる。彼は眉を寄せ、もっと、というようにまだ震える両腕をトレーズの首に回した。それに応えてさらに口吻けを深くする。吐息さえも惜しむように角度を変えて何度も何度も唇を重ね、くまなく腔内をなぞって脳裏が白く溶けるほどの快感を惜しみなく注ぐ。 水音を立てながら唇を離した時には、彼の透き通るような肌はほのかに色を変えて、素直な高ぶりを見せていた。無意識なのだろう、身体が揺らめき、ブランケット越しに下肢をすり寄せてくる。彼の身体は未だ《アルファロ》が施した催淫に捕らわれ、彼が求める以上の淫らな快楽を欲しているのだ。 トレーズの愛撫が離れて正気付いたのだろうか。彼も自分が無意識に見せている媚態に気付いて、はっと夢から覚めたような顔になり、トレーズの胸を押して腕の中から逃れようとした。 「や……駄目です、トレーズ……っ」 ゼクスが精一杯に身をよじる。抗う手首をシーツに押さえて、トレーズははだけかけたブランケット越しに彼を見つめた。はしたない姿を見られまいと、彼が顔を背ける。細い首筋の腱が浮き上がり、乱れ髪がまとわりつく。それがいっそう見る者の欲情を煽るのだとは、彼はきっと思いもしないのだろう。 トレーズはその耳許に囁きかけた。 「私はいつでも、君のすべてを見ていたいのだよ」 「嫌です……こんな…姿は……あっ」 逸らされた首筋への口吻けに、ゼクスはたまらないという声を上げて、背をしなわせた。 「君のどんな仕草も表情も、私だけのものだ。その美しい蒼の瞳も、甘い声も、肌も、髪の一筋までも……違うかい?」 「貴方は……わがままっ……だ……」 肌をあらわにされながら落とされる口吻けに身を震わせながら、ゼクスは言いつのる。「そうして、貴…方はいつも、身勝手で……狡猾で……残酷、で……貴方が、やさし…から……」 胸の突起に唇が辿り着き、彼は堪えきれずに嬌声を上げる。戒めを解かれた両手が、トレーズの髪に伸びた。 「見捨てて……くだされば、よかっ……のに……そ…すれば……貴方を、くるしめず…に……済んだ……のに……」 トレーズは彼の胸に頬を寄せた。彼が刻む、早い心音が聞こえてくる。 「私は君を救いたかった」 トレーズは低く呟いた。 「君を辱める悪夢から、君を救い上げたかった。君の笑顔を見ていたかった。いつでも、願いはそれだけだった」 そのたった一つの願いの為に、一体どれだけのものを失い、どれだけのものが傷ついていったのだろう。 トレーズは小刻みに上下する胸から、肢体の稜線を確かめるようにして愛撫の手を下肢へと滑らせた。そのまま指先は内股の奥へと辿り着く。 ゼクスの鼓動が跳ね、一瞬息が止まった。 「っ……あっ……」 既に形を表していたそれにトレーズの指が絡められ、ゼクスの吐息が熱く、なまめかしく変わっていく。トレーズの髪に触れていた指が硬く強ばる。トレーズの手管に翻弄されて、彼の分身が待ちわびていたように急速に高ぶり始める。 「あ……いや…だ……あ、あっ」 両足がゆるく折れ、トレーズの身体を挟み込む。愛撫に乱されるままに喉元をさらして首を振りながら、抑えきれない声が途切れなく上がる。その胸にもたれて、早鳴っていく鼓動に耳を澄ませた。 「あ…あ…あぁ……っ!」 高くかすれた声を上げて、ゼクスが達していく。 握り込むトレーズの掌に思いの丈を解き放ちながら、しなった背が寝台に沈む。弛緩した身体を労るように撫でていきながら、トレーズは淡く上気した身体を横向きにした。 細い腰に腕を回しながら、しどけなくあらわになった双丘の狭間へ、彼の残滓に濡れた指を分け入らせる。脱力していた全身がびく、と反応し、さらに奥へ進めると弛んでいた内壁がきゅっと締まった。 「ん…ぁ……は……」 内部をなぞるたびに身体が跳ね上がる。後ろから彼を抱き込み、トレーズは喘ぐ彼の耳許に唇を寄せた。 「ミリアルド……」 口吻けて軽く歯を立てれば、花のような唇が小さく震える。 「ああっ……もう……っ」 トレーズの腕の中で、ゼクスは浮かされたように首を振った。 「も……その…ままで、いいっ……から」 暴走を始める欲を押さえ込もうとするように、両手が硬くシーツを握りしめている。すい、と眼を細めたトレーズは、彼の体内にあった指を引き抜き俯せるよう囁くと、素直に従うその腰を引き上げて、ゆっくりと己の楔を打ち込んだ。 「は…あ……あああ……!」 頬を覆う乱れた髪を跳ね上げて、ゼクスが歓待の声を上げる。体内は迎え入れるものを熔かしてしまいそうなほどに熱かった。トレーズは軽く奥歯を噛みしめた。熱に煽られ、ともすれば目茶苦茶にしてしまいたくなる衝動に理性が砕けそうになる。投与された薬の効果はあくまでも精神的なものだ。彼の肉体は連日の情交で衰弱している。無理なことをすれば彼を傷つけかねない。 それでもゼクスは緩やかな挿出を繰り返すトレーズに焦れ、自ら腰を押しつけた。身体の下で淫らに腰を上げ、髪を乱しては言葉にならない声を上げるその妖艶さに、トレーズは目の前が焦げ付くような目眩に襲われる。 「ミリアルド……」 トレーズはかすれた声で囁いた。その声に、彼の肌がさぁっと粟を立てる。ぞくぞくと背筋を震わせ、トレーズを咥え込んだ内壁がきつく締まる。 彼はトレーズを欲しているのだ。これほどに身体を熱くするほど、トレーズと溶け合うことを焦がれているのだ。そう感じた刹那、一切のためらいが断ち切れた。 トレーズは引き込もうとする内壁に逆らって、強く腰を引いた。突然の動きに、ゼクスの喉が引き攣れたような声を立てる。跳ねた腰を掴んでぎりぎりまで引き、トレーズは一気に貫いた。 待ち焦がれた衝撃の強さに、ゼクスは声も上げられずに全身を跳ね上がらせた。自制を捨て去ったトレーズは、崩れかける腰を捕らえて激しく突き上げを繰り返した。知り尽くしているゼクスの弱い箇所を執拗に攻め、がくがくと震える腰を引きつけては最奥へ捻り込む。かすれた声を振り絞って嬌声を放つ彼のものを掌に握り込み促してやりながら、トレーズは彼の熱と鼓動とに同調する自分を感じた。 「ミリ…アルド……」 「あ…ああ!!」 弓なりにしない、首筋も指先も肢体の全てを張り詰めさせて、ゼクスが高みへと駆け昇っていく。溢れ出すその熱を掌に感じながら、トレーズは彼を抱き締め深く貫いた体内に滾る想いを解き放った。 汗と吐精と熱い吐息に濡れながら、彼を抱き締める。ぐったりと俯いた頬に手を伸ばし、乱れた髪を払って上向かせると、艶やかに濡れた唇がかすかに動いた。 「トレ…ズ……」 眼を閉じたまま、彼は呟く。 「……なた…を……あい…して…い…ま……」 うわごとのように言い残し、深い眠りに落ちていく。 見つめるトレーズの眸に、涙が溢れて零れ落ちた。 |