Andante 9 まだ薬の抜け切っていない、ぼんやりとしたしたまなざしが空を見つめる。しばらくして、またまぶたを閉じてしまいそうな危うさで、彼がゆっくりとヒイロの方に顔を傾けた。 視線が重なった瞬間に息が止まった。何と声をかけたらいいのか、分からない。そうだ、自分は彼を傷つけたのだ。最も自分が嫌悪し、渇望していた卑劣な手段で。 眸がゆっくりと瞬く。その空色の眸に自分はどんな風に映っているだろう。 恐れにすくむヒイロを見つめ、彼はかすれ気味に細く名を呼んだ。 「ヒイロ……」 懐かしさや悔恨や痛みや苦しみが一度にあふれ出し、何も言葉にならなかった。息も出来ないほど様々な想いが渦を巻いて胸を潰していく中で、唐突に、この声を待ち望んでいたことに気づく。ヒイロの名を呼ぶ彼の声。それだけでいいと思った。それ以外は何もいらない。そう痛切に思った。もうこれ以上何もいらない。何も、いらない。 「ヒイロ……?」 喉を食い破りそうに込み上げる想いを懸命に押し殺しながら、ただ何も出来ず見つめるヒイロをゼクスは訝しげに見上げる。彼の眸には、ヒイロは泣きそうな顔をして映っているのかもしれない。 黙ったままのヒイロに、ブランケットの下から腕が持ち上がる。トロワが着せたのだろう、シャツの袖から覗いた手首には包帯が巻かれていた。その白さが眼に痛くて、眉を引き絞る。ゆっくりと空をさまよった彼の指先は、ベッドの上で握り締めたヒイロの手の甲に降りた。 彼が呟いた。 「君を……傷つけてしまったんだな……」 手を包む、ひんやりとしたしなやかな指。時に荒々しく猛禽の爪のように、時に滑らかに水面に広がる波紋のように、鍵盤を疾駆するその姿をいつも不思議なもののように眺めていた。いつか触れたいと思っていた。だが、ピアノに向かう彼には決して触れることは出来なかった。 精霊か何かがその身に宿っているかのように、音色を紡ぐ彼は崇高な光に満ちていて、同時に触れれば壊れてしまいそうな物憂げさと儚さがあった。すぐそばにいても、それは永遠に届かない遠い光の彼方の存在だった。 ヒイロはその手に、壊れ物に触れるように、自分の掌を重ねた。 「……ゼクス……」 ようやく声がこぼれる。重ねた手を両手で包み込んで、ヒイロはうなだれながら首を振った。傷つけたのは俺だ。お前も、俺自身も、傷つけたのは俺自身なんだ。喉の奥で声にならない言葉がのたうち、身を切りつける。 彼は黙ってヒイロを見つめていた。彼の手のぬくもりがヒイロを拒まずにいてくれたことが救いだった。ぬくもりに荒れ狂った感情が静められていく。後悔や醜い想いが散々ヒイロを切りつけた後でようやくその身を潜め、幾分落ち着きを取り戻した頃、もう憶えてもいない、子供の時分に泣きじゃくった後のような鈍い痛みを眼の奥や喉に感じながら、ヒイロはうつむいたままで眼を閉じた。 「ゼクス……」 その手のぬくもりに、まなざしの優しさに、祈るように言葉を紡ぐ。 「俺と一緒に、行かないか?」 「どこへ……?」 「どこか、遠い場所へ」 トロワが驚いて振り返る気配があった。ヒイロは瞑目したまま顔を上げなかった。心の底から自分に正直に、思うままを口にした、これが最初で最後の本当の想いだった。 触れ合う手を通じて、彼の逡巡が伝わる。微かな身じろぎ。洩れ聞こえる吐息。一瞬の時の長さを、残酷さを思い知る。 しばらくの沈黙を置いて、彼はむしろ苦しげな声で答えた。 「逃げられないんだ」 ヒイロは眼を開いた。彼は肘をついてわずかに身体を起こし、うつむくヒイロを覗き込んでいた。その真剣な顔に、いつもの控えめな笑みはなかった。 「私はこの10年をある目的の為に生きてきた。果たされても何の結果も生み出さない、醜い、歪んだ望みだ。その愚かさを知っていても、私にはあの時の決意が忘れられない。あの日の憎悪が、私にとっての生きる糧だったからだ」 それは、己を卑下するような笑みを浮かべ、何も語らず心の内だけに秘めていた、彼の真実だった。 「不毛な目的の為に、甘んじて受けた屈辱を忘れられない限り、ここから逃げ出せば私は私でなくなる。だからどこへも行けない。……私は狡猾な人間だ。君を騙し、周囲の無関係な人々を巻き込み犠牲にしても、その死人の山を踏みつけにしようとも、それでも、自分の身勝手な望みを捨てようとしない。ヒイロ、私はそういう傲慢で卑劣な人間なんだ」 「……違う、ゼクス」 かつて渾身の想いで発した言葉が、再び苦く思い返される。 汚れている 「お前はそんな男じゃない。俺は知っている。……それだけ傷つけられているんだ。これ以上、自分をえぐるようなことを言うのはよせ」 彼の眸が見開かれる。ランプのほのかな灯りを受けて煌めく、淡い空の色の双瞳。二つの貴石。胸を埋め尽くしていくこの感情が愛しさだと、ヒイロは初めて気づく。それはきっと永遠に報われることのない、痛みと背中合わせの想いだった。 ヒイロは眼を細め、彼の手を包み込む手に力を込めた。その髪に触れたいという思いをぎりぎりで抑えて。 彼は眼を伏せ、そっとうつむいた。絹糸のような髪が、さらさらと頬をこぼれた。 「ありがとう……」 その横顔を見つめながら、ヒイロは自問する。哀しい至福。そんなものが存在するのか。 やはり苦しく、息が詰まりそうだった。幸福なはずがない。それなのに、何故心がこんなにも静かなのだろう。こんなにも痛むのに、何故穏やかなのだろう。 「済まない、少し尋ねたいことがあるんだが……」 2人に気遣いながらもトロワが口を挟んで、ヒイロの自問は霧散した。彼も初めてトロワの存在に気づいたようで、あからさまな警戒は見せなかったものの、上肢を起こしながらじっとトロワを見つめた。 「君は……? 何度か私のアパートの前で見かけた記憶があるが」 「先日まで貴方を監視していた。俺はトロワ・バートンという。数時間前まではCIAに所属していたが、今は一民間人だ」 「免職されたのか?」 「俺自身の意志で辞めた。当局がどう受け取ったかは分からないが」 彼が驚いて眼を瞠る。トロワはいつも通りの淡々とした口調で続けた。 「だから、俺の行動に当局が干渉してくる可能性は有り得る。このアパートも俺個人の所有だが、100パーセント安全とも言い切れない。早めに場所を移動した方がいいだろう。時間はあまりない。単刀直入に訊かせてほしい」 黙ってトロワを見つめていたゼクスは、ちらりとヒイロの表情を見遣り、それがヒイロも同意の上であることを確かめ頷いた。 トロワはわずかに視線を厳しくする。 「貴方は《ベガ》とどんな関係にあるのか。《ベガ》とは何者なのか ゼクスの双眸が険しく変わる。 「……君は今、自分を一民間人だと言った。政府のエージェントでもない君が、何故連合の機密に関心を持つ?」 「俺は、ヒイロ・ユイが暗殺された後、内政の混乱したL3コロニーで、武力制圧に乗り出した連合に親しい人を殺された。彼らが殺されなければならなかった理由が、俺には分からなかった。だから探している。あの制圧のシナリオを書いた首謀者が何者だったのかを」 ゼクスの表情が驚きに代わりに、そして静かに沈んでいく。憂うような沈黙の後で、「そうか……」と小さく呟いた。 「CIAを離れたというなら、君達には何の後ろ盾も存在しないことになる。何の力も持たない一個人が組織の機密に接触するのは相当に危険なことだ。自殺行為に等しいと言っても過言ではないだろう。それでも君達は、過去の謀略を暴きたいのか?」 トロワは躊躇なく頷いた。 「この世界のことは知っているつもりだ。自分がどれだけ馬鹿げた行動に出たのかも分かっている」 ゼクスは、ふ、とヒイロを見る。 「ヒイロ、君は?」 内面にまで踏み込んでくるような眸の強さだった。その光に、無意識のうちに、ヒイロは眼を細めていた。 「俺は《アルファロ》に仕組まれた3件の殺人事件の犯人だ。自分で首を絞めた人間の先は見えている」 「そんなことはない」 強く否定する彼をかわして、視線を逸らした。 「トレーズ・クシュリナーダに言われた。真実が知りたいのならゼクス・マーキスのピアノが鍵になる、と。あれはどういう意味だ」 「……彼に会ったのか」 「ああ。数時間前に、《アルファロ》を殺そうとした俺を止めに現れた」 切なげなまなざしをほんの少し垣間見せて、ゼクスはうつむいた。 「……そうか。彼がそう言ったのか……」 ヒイロの胸に鈍い痛みがよぎる。茫然と、どこか遠くで感じる。絆だ、と。 顔を上げたゼクスは、感傷を消した顔でヒイロを見つめた。 「来月の2日、ルクセンブルグでウィーン・フィルと私とのコンサートがある。彼が言ったのはそのことだ」 「そのコンサートで何かがある、と?」 トロワの問いに彼は頷いた。 「君達はコンサートに招待されたんだ。正式な招待状は出せないが、当日は楽屋口から入ることが出来るだろう」 「何があるんだ」 「今は何も言えない。だが、君達にとって損にはならないはずだ。ホールの中は安全が保証されるからな」 最後は独り言のように言って、ゼクスは遠くを見るような眼をした。 「……《ベガ》には一度、ディスクの引き渡しで接触したことがある」 はっとして彼を見、トロワを見遣ると、同じような表情を彼に向けていた。 「だが、私が彼と関わったのはそれきりだ。詳しいこともその後の彼の消息も、何も知らされていない。ただ、顔は知っている。ディスクをホテルのロビーに預けて、彼が回収に現れたところを盗み見た」 「それは……危険なことではないのか?」 「盗み見た」ということは、直接の接触は避け姿を見るなという当局の指示があったはずだ。任務を逸脱した行動など、当局に対しての背信とも取られかねない。 彼は他人事のように「そうかもしれないな」と呟いた。 「どんな男だ。人種は?」 トロワが勢い込んで訊いてくる。 「東洋系の男だ。黒髪で、眸も黒。20代半ばで、東洋人にしては少し色の黒い、痩せぎすの男だった。目付きは鋭かったが、声が甲高かったのが不釣り合いだったように記憶している」 「接触したのはどこだ?」 「JAPのカワサキという街のホテルだ」 「JAP?」 ばらばらに散らばっていたパーツが、急速にたぐり寄せられていく。何かの形になろうとしている。《ベガ》、ゼクス・マーキス、JAP。いや、まだ何かが足りない。 「貴方はAC190年の4月1日、JAPへ渡航している。その時のことか」 「……そうだろう。その年JAPでリサイタルをしたはずだから、間違いないと思うが」 AC190年、4月1日。それはSISデータベースのファイルに記されていた日付だ。ヒイロははっと顔を上げた。 「お前がサエキと会った日か」 「サエキ……?」 ゼクスは訝しげにヒイロを見遣った。 「君が何故その名を知っている?」 「SISの機密ファイルに、お前が接触した男の名前があった。その男は俺のJAPでの雇い主だった。俺が3年半前に《アルファロ》の依頼で殺した男だ」 彼は眼を瞠った。 「君の……」 まなざしを鋭くさせていく彼の脳裏では、目まぐるしい疑問が駆けめぐっているようだった。 「……ディスクの受け渡しは、ホテルのフロントに預けて相手の呼び出しをかけるものだだったんだが、その時に使った名前が『ヒロヨシ・サエキ』だった」 ヒイロは思わず息を飲んだ。謎解きの最後のパーツが現れたのだ。 「サエキが《ベガ》だったのか!」 トロワが珍しく感情的な声を上げる。だがヒイロはそれを即座に否定した。 「違う、それは別人だ」 トロワが驚いて振り返った。 「どういうことだ、ヒイロ。JAPにはサエキと同名が多いのか?」 ヒイロは首を振った。 「名字も名前も格別珍しくもないが、そう多いものじゃない」 第一、名字を持っている人間の方が少ない地域だ。ましてチェックの厳しいホテルへ入り込めるほどの、身分証明がある人間となれば、ヤクザの中でも限られてくる。 ヒイロの知ってるサエキは、殺しの請負を生業とする以前は組の人間だったらしく、その名字も元々は江口組から拝命したようなことを言っていた記憶がある。直接的には組から独立していた当時も、懇意にしていたエンドウを通じて江口組とつながりがあり、また表向きは貿易商などの仕事も手がけていたらしく、チェックをパスするだけの身分証明は持っていたはずだった。 だが、どう考えても違うのだ。 「俺の知っているサエキ・ヒロヨシは、ヤクザの世界にならどこにでもいそうな、小狡そうな眼をしただけの、40間近の男だった。特に特徴と言えるものはなかった。痩躯でもなかったし、声が甲高いという訳でもなかった。肌の色は、東洋人にしてはむしろ色白の部類だった。俺が知っている奴の姿は、ゼクスが合った時とは多少時期がずれているが、人間の特徴や声は、変装でもしない限り1、2年では変わらない」 トロワが腕を組み、後を続ける。 「変装して周囲の眼を気にする必要は、この場合はまずない、か。だが何故だ? 偶然の一致ではないと仮定して、何故《ベガ》がサエキの名を語る必要がある?」 トロワは、ヒイロやゼクスに投げかけるように、自問した。 「そもそも、《ベガ》とサエキはどんな関係にあったんだ?」 沈黙が降りた。それぞれが新たに示された疑問を心の内に繰り返し、静寂の中を雨の音が満たす。その時だった。 3人は同時にはっとして身を硬くした。降りしきる雨音に混じり、微かな耳慣れた金属音を聞いたからだった。 |