Andante 10


 ヒイロとトロワは素早くドアの両脇に身を寄せた。刹那、叩きつける勢いでドアが蹴破られた。目出し帽をかぶった男達がなだれ込んでくる。彼らが構えた銃の引き金を引くより早く、二人は両脇から発砲した。
 雨音の静寂を突き破り、銃声がこだまする。先頭にあった二人が、頭蓋を真っ赤に破裂させ、倒れ込む。ヒイロ達の畳みかけるような迎撃に、出鼻を挫かれた侵入者らは咄嗟に一度は退いたが、即座に体勢を立て直し応戦に移った。
 双方の銃弾と銃声が交錯する。激しい報酬に、朽ちかけたアパートの一室は砲火の海となった。銃声の轟きが空を震わせ、身体の底を縮こまらせるような圧迫感で、その場にいる者を恐怖させ、高揚させる。
 しかし、多勢に任せた敵方の弾幕は圧倒的で、弾切れの隙に押し込まれたヒイロは、持ちこたえられず、銃弾の雨をかいくぐりながら隣室に飛び込んだ。
 銃がなく、先に避難していたゼクスが心配げに駆け寄る。顔も見ずに「大丈夫だ」と一言応えながら、空の弾倉を入れ替える。孤立したトロワが危うい。敵との間合いを見計り、援護の為に再び飛び出そうとしたヒイロの腕を、その時ゼクスが止めた。
「私を人質にしろ」
 絶え間ない銃声の中、ヒイロは思わず眼を見開いた。
「何を言っている」
「彼らは私を殺せない。私を盾にして逃げろ、早く」
 危険だ。そう言いかけた言葉を飲み込み、ヒイロは傍らのゼクスを改めて見返した。彼の厳しい蒼氷の眸は、既にヒイロの知っているピアニストのものではなかった。
 この状況を突破する手段を、逡巡している余裕はない。ヒイロは唇を引き結び、彼の肩へ乱暴に腕を伸ばして、片腕で彼を背中から引き寄せた。ふわりと舞った長い彼の髪が、場違いに優しくヒイロの頬を撫でた。
「発砲を止めろ! こちらには人質がいる!」
腕で首を締め上げ、柔らかなプラチナブロンドの中へ銃口を突き入れながらゼクスを前へ押しやる。開いた扉の前に拘束した姿をさらすと、彼が示唆した通り銃声は止んだ。
 困惑したような眼出し帽の連中を、ヒイロは無表情に睨み付けた。部屋の隅にまで追いやられていたトロワが、すぐにこちらの意図を悟りヒイロの許へ歩み寄る。目の端でその歩く姿に負傷のないことを確認しながら、低く恫喝した。
「全員、銃を床に置いて壁際で手を挙げろ」
 部屋の外から、新たな声が上がった。
「その必要はない」
 開いたままの扉へトロワが銃口を向ける。無遠慮に入ってきたのは、それまでの特殊部隊風の者とは違って、スーツ姿の男だった。その服装も身のこなしも、ごく一般的なビジネスマンといった風情だったが、ヒイロにはその四角張った顔に明確な記憶があった。
「貴様……」
「《エルスト》!」
 腕の中でゼクスが呟く。男はゼクスを見、わずかに唇を歪めると、平坦な口調で言い放った。
「構わず拘束しろ。その男に《セレス》は撃てない」
 ヒイロを見る沈着なブルーの眸には、微少の侮蔑があった。ヒイロは感情を表に出さないよう抑えながら、《エルスト》と呼ばれた男を睨み付けた。
「なんだと……俺を誰だと思っている」
「ならば撃ってみるか?」
 《エルスト》はあくまで冷静だった。
「《セレス》は私達と同じ組織に属しているが、今現在背信の疑いをかけられている。本人も粛正の覚悟は出来ているだろう。……いや」
 溜息のように言葉をつなげて、その侮蔑のこもったまなざしがまた少し、細められた。「君にとって、この男は『ゼクス・マーキス』か」
 頭の血がカッと沸き上がる。ヒイロは奥歯を噛みしめた。周囲の張りつめた空気が自分から遠ざかり、読みとれなくなっていく。それを断ち切るように、拘束した腕の中からゼクスが声を上げた。
「《エルスト》! 私にかけられた背信の疑いとは何だ」
「中国との内通だ」
「なっ……!?」
 ゼクスが絶句する。
「レディ・アンからの報告だ。あの人形は嘘をつかない」
 ゼクスは険しい声で反論した。
「彼女は人形などではない。自分自身で思考し、自らの意志で言葉を発する人間だ」
「《セレス》」
 男は冷めた眼でゼクスを見遣った。
「いい加減、つまらんヒューマニズムは捨てるんだな。特別待遇を笠に着た君のその身勝手な言動が、まさに今のような状況を作り出しているんだ。君の不手際どれだけの不調和をもたらすか。マーガレット・スティングの件、忘れたとは言わせんぞ」
 ゼクスの身にかすかなふるえが走ったのを、ヒイロは身体越しに感じ取った。
「あれはすべて、君の見通しの甘さと、そのふざけたヒューマニズムが原因だ。あの一件にどれだけの人員が割かれ、事の収拾をつける為に何人が死んだか。君はまたもあの状況を再現しようとしている。
 ひとつ忠告しておこう。まるで他人事のような顔をしているが、くだんの機密が流出すれば、君自身だけでなく君の大切な「彼」の身をも危うくなる。個人的には君のおかげで誰が殺されようが、君がどんな粛正を受けることになろうが関心はないが、面倒を起こされては収拾をつける私達にしわ寄せがくる。迷惑なんだよ」
「それでも私は……これ以上、自分を偽ることはしたくない」
「永遠の平行線だな」
 男はふん、と鼻を鳴らしゼクスから視線を逸らすと、ヒイロへと振り向けた。
「さて、ヒイロ・ユイ。無駄話はこの辺にして話を元に戻そう。時間は貴重だ。君にゼクス・マーキスは撃てまい。こんな茶番は止めにしてもらおうか」
 ヒイロは険しく睨み返した。
「挑発する気か? ゼクスを殺せば貴様の首が飛ぶだろう」
「そうかもしれんが、ここで時間を浪費しても同じなんでね」
 男は声のトーンを上げた。
「全員を拘束しろ」
 目出し帽の男達が動き出す。ヒイロはゼクス突きつけた銃口をわずかにずらしながら、引き金にかけた指に力を込めた。だが、銃弾が発射される寸前で勝手に指が止まった。「撃て」とゼクスが小声を発する。それでも指が動かなかった。殺すのではない。相手を牽制する為に少しの傷をつけるだけでいいのだ。そう焦った理性が叫んでいるのに、硬直した腕と指先はがんとして意思を無視し続ける。
「ヒイロ!」
 ゼクスの叱咤に、ヒイロはただ眼を見開いた。このままでは確実に拘束される。躊躇している余裕はないのだ。グリップを握る手に汗が滲む。何をしている。俺は何を脅えているんだ。早く撃たなければ、彼を撃たなければ   
 パン、と乾いた銃声が響き、風を切る音が耳元をかすめた。敵の動きが止まった。同時にヒイロの呪縛も弾け飛んで背後を振り返った。トロワが構えた銃口は、まっすぐにゼクスに向けられていた。
「動くな。次は頸動脈を狙う」
 ゼクスを振り返る。髪の乱れた首筋に銃痕が走り、鮮血が流れ出していた。ゼクスは呼吸も乱さず、微動だにしなかった。
「ヒイロ!」
 トロワの声に我に返り、ゼクスを戒めたまま隣室へと後退する。側へ近づくトロワがヒイロとそしてゼクスにも聞こえるように囁いた。
「あの部屋のパソコンを爆破させる。それと同時に後ろの窓の非常階段から脱出しろ」
 何気ない動作で振り向いたトロワは、転瞬開いたドアを蹴り飛ばした。けたたましい音を立ててドアが閉まる。「走れ!」という声を聞きながらヒイロとゼクスは駆け出した。どおん、という爆音と共に激しい振動が床と空から襲い来る。爆風で再び弾かれたドアから、火だるまになった男が吹き飛ばされてくる。振動の激しさに足を取られそうになりながら、ヒイロは衝撃で割れた窓を格子ごと蹴破り、さびた非常階段へと飛び出した。その後にゼクスが続き、トロワが追う。きしむ階段を落下するように駆け下りて、未だ雨の降り続く水浸しの路地へ飛び降りる。前後に伸びる暗い路地のどちらから敵が来るのか、咄嗟に逡巡した。
「伏せろ!」
 凛とした声が飛び、続いて飛び降りてきた影にぐいっと肩を押さえつけられた。ゼクスが覆い被さってくる。頭上で壁に着弾する乾いた音が数回弾ける間に、伸びた彼の手がヒイロの銃をするりとり取った。銃声が途切れた刹那、ゼクスが上肢を起こし発砲する。向かい側の家の屋根から黒い物体が転落し、路地にどさりと鈍い音を立てた。ヒイロはそれを頬に触れる長い髪越しに見ていた。
「ヒイロ!?」
 動きの止まったヒイロを撃たれたと思ったのか、彼が覗き込んでくる。はっとして感傷とも呼べないような想いに首を振り、返された拳銃を握りしめて走り出した。
 爆発の衝撃で稼いだ数秒が過ぎ、降りしきる雨をかすめて銃弾が降ってくる。視界もろくに定まらないような雨の中を、路上の水を蹴散らしながら銃弾の方向と発砲音を頼りに撃ち返した。路地を曲がり、建物の陰に隠れ、味方を援護しながら背後を撃つ。敵に命中しているのかは判然としない。雨がますます勢いを増した。路面を叩き、耳を叩く雨音に混じって、乾いた銃声が連続する。突然、雨煙からカッと強烈な光が2つ浮かび上がった。雨音に掻き消されながらも、エンジン音が響いた。
「その先のパサージュアーケイドに走れ。劇場から地下道に抜けられる」
 眩しい光点が強まり、エンジン音が近づいてくる。道案内のトロワを先に行かせて、ヒイロは光の中心に何発か撃ち込んでから走った。濡れた髪が雫をしたたらせて額に張り付く。眸に落ちかかるのを払う間もなく疾走した。
 錆び付き、ペンキの剥げ落ちた看板をくぐると、廃墟のようなわびしいパサージュが続いていた。埃にまみれた外灯のあかりは薄暗く、床のタイルは多くがはがれ、店舗の壁は崩れ、屋根のガラスは至るところが割れ落ちて、したたる雨が割れた床のタイルを濡らしている。
 数少ない通行人や店の人間が疾駆する3人に驚き、その手に拳銃が握られているのに気づいて慌てて散っていく。通路の両側に放置されているテーブルや椅子の間をぬい、蹴散らす勢いで走った。前を行くゼクスの薄い金の髪が、ぼんやりした光に彩られ淡く輝いて揺れている。その光景に一瞬眼を奪われ、追ってくる足音に気づくのが遅れた。
「ゼクス!」
 追撃者が引き金を引こうとするその殺意を背中一面に感じ、ヒイロは総毛立った。切迫したその声を聞いて、側の店の陰へ身を伏せようとしたゼクスの前に、その時、異様な雰囲気に興奮したのか走り出た仔犬を追って、店の中から子供が飛び出した。
 パンッと銃声が響く。仔犬を捕まえた子供を、ゼクスは咄嗟にかばい抱きしめながらその場にうずくまった。淡い金の髪が肩から路面にこぼれ、その髪先に銃弾が弾ける。銃弾は次々と浴びせられ。砕けたタイルの破片が跳ね回った。その一つが左足に穿たれ、ぱっと鮮血が散った。
「ゼクス!!」
 駆け寄ろうとした腕を捕まれた。
「離せ、トロワ!!」
 振りほどこうとして、渾身の力で引き留められた。
「逃げなければ殺される!」
「駄目だ、ゼクスが……」
「行くんだ!」
 続く銃撃の中、顔を上げたゼクスが叫んでいた。
「行くんだヒイロ、早く!」
 強く、凛とした声だった。ヒイロは茫然とした。その腕を掴み、トロワが走った。傾いていたガラス扉を蹴破って劇場のロビーへと引きずられ走りながら、ヒイロは割れたガラス越しに路上を振り返った。幼子を抱いてうずくまる彼に、車のヘッドライトが照射され、銃を構えた男達が駆け寄る。取り囲まれ、彼の姿が見えなくなる。凛とした眸がヒイロの視界から消されてしまう。
「ゼクス……!」
 悲鳴のような叫びが口をつき、崩れかけたロビーに反響する。
 兵士らがヒイロに気づく前に折れた奥の廊下へと引きずられ、ヒイロの視界から彼の姿は消えた。



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