Andante 8


 一分の隙も惜しむかのように、細い路地に沿って細く高く建て連ねられた家の一つに入り、軋む階段を上って一室にたどり着く。
 雨音の満ちる暗い空間に、彼は眠っていた。
 薄いカーテンを透かして洩れこぼれる青白い街灯の灯りに、古びたベッドに横たわる姿をぼんやりと浮かび上がらせる彼は、何か近寄りがたい清浄な気配に包まれていた。その姿はどこか、教会で柩に納められる弔い人を思わせた。
 磁器人形ビクスドールのような寝顔に眼を奪われたまま、ヒイロはネジの切れかかった人形のようにぎこちなく歩みを進めた。枕元にたどり着き、しばらく茫然と彼を見つめ、トロワに言われてようやく側にあった椅子に腰を下ろした。
 手を伸ばせば届く距離に彼がいる。無防備な、胸が締め付けられるような静謐な寝顔で。
 かつての日々を取り戻したかのようなほのかな喜びを押さえられない一方で、ここまで引き堕とされた彼が哀しかった。おとしめた自分自身の愚かさに、身が切り裂かれる思いだった。
「じきに薬は切れるが、起こすか?」
「いや。いい」
 隣に立つトロワを振り返ることもせず、ヒイロは吸い込まれるように彼を見つめる。
「しばらく……こいつが起きるまでは、このままでいさせてくれないか」
「構わない」
 察してくれたのか、トロワはサイドテーブルの小さな灯りをともすと、窓際の椅子に腰掛け、カーテン越しに外の見張りを始めた。
 糖蜜色の灯りに彩られ、青みを帯びていた彼の頬がふんわりとぬくもりを取り戻したように見える。
 黄泉の不可侵の存在から、現世の人へ。
 その静かな寝顔を見つめているうちに、ふと、同じようにこの横顔を見つめた遠い日の光景が蘇った。
   ヒイロ、この曲を知っているか?
 あれはいつの時だったか、弾き始めた曲の途中で、彼は傍らでピアノに寄りかかるヒイロに、そう悪戯っぽく問いかけた。
 優美なダンスを思わせる曲調は、明るい中にもどこか艶やかな響きがして、リズムに合わせてかすかに上肢が揺れる彼のおもてには、いつもの儚げな微笑とは少し違った、優しい笑みが浮かんでいた。
 ヒイロが知らないと答えると、彼はくすくすと笑って、
『エリック・サティの曲で、タイトルが"je te veux"  フランス語で「きみがほしい」という意味なんだ』
 優美に音色を奏でながらヒイロを見遣った。
 笑みに細められた眸はうっすらと艶を引いていて、ヒイロは跳ね上がった動悸に動揺し、咄嗟にまともな返答を返せなかった。彼の唇が紡いだ「きみがほしい」という言葉の響きが、痺れのように耳の奥から離れない。うなったような生返事をして顔に血を上らせるヒイロに気づかずに、彼は陽の光に揺れる髪をほのかに煌めかせながら、楽しげに眼を伏せた。
『ピアノをたしなむ人の中には、この曲を弾いて好きな相手に告白する人が多いらしい』
 彼の言葉にどう反応していいのか分からず、結局ぶっきらぼうにヒイロは口を開いた。
『そんなキザなことをする奴がいるのか』
『私の大学の同級生が、先日その手で婚約したそうだよ。それで思い出したんだが、私もこの曲でプロポーズされたことがあった』
『プロポーズ!?』
 それまでの緊張が吹き飛んで、思わず大きな声を上げる。すくい上げるようにしてその顔を見遣った彼は、こらえ切れなかったのか珍しく曲の途中で手を止めてしまい、声を立てて笑った。
『もう10年以上も前の話だ。それがプロポーズだなんて、全く分からないような年頃だったよ。……確か私が7歳だったから、彼は12歳だな。全く、子供相手に何を考えていたんだか、あの人は』
『彼……って、男にプロポーズされたのか、お前!?』
 ますます血相を変えるヒイロを前に、彼はころころと笑う。
『彼は、そういうことには無頓着な人なんだよ』
 相手の性別まで考えていなかったんじゃないかな。そう言って無邪気に笑いながら、彼は再び優雅な旋律を奏で始める。
『無頓着……なのか?』
 その横顔を眺め、ヒイロは先程の緊張の反動でどっと押し寄せてくる徒労を感じた。
 鈍いのか、気づかないふりをしているのか、それとも他人の感情に関心がないのか。
 慌てる自分を悟られなかったことにほっとしつつも、全く気づこうとしない彼がその時は憎らしかった。まるで無警戒なそんな無邪気さを向けられることに、密やかな喜びを感じる一方で、同時にそれがヒイロへ向けられている信頼、それ以上の想いではあり得ないということも、分かっていた。
 分かっていてそれでも、あの日の未熟な感情は消し切れずに心の内に巣くっていたのだろう。それが今になって憎悪という形に歪められ、ヒイロの心を覆ったのだ。
 ヒイロは艶やかな真珠色の髪にそっと手を伸ばした。滑らかな長い髪の感触は、確かに彼が想い出ではなく、現実に目の前に存在している証だった。
 この美しい人を、この世のしがらみから解放してやりたかった。
 あの時。己の中に鬱積した様々な因縁や愛憎や閉塞する自分の全てを許せなくなって、単身SISへ乗り込もうとしたあの時、《アルファロ》を道連れにしてやろうと冥い眼をしてジャケットの中で銃を握りしめながらも、その裏で《アルファロ》が消えれば彼は自由になると思っていた自分がいた。
 結局、どんなにあらがってももがいても、彼を傷つけてさえ、自分はここに帰ってくることになったのだろう。たとえ偽った感情であれ、どんなに憎んでも否定しても、彼を自分の心から殺すことは出来なかった。
 出来るはずがない。彼を否定することは、あの日々の自分を否定することだ。これまでの人生の中で最も純粋だったあの記憶を消したなら、それは自分の存在全てを否定するのと同じことだ。そんな単純な事実を、こんなに遠回りして気づく自分が愚かしく哀れで、ヒイロは眉を寄せる。
 いっそ、このまま彼を連れて逃げようか。己を喰い破るような緊張がとぎれた今は、そんなことを考えてみる。彼を《アルファロ》から、あの男からも逃がしてやりたい。何の苦痛も苦悩もない場所へ、存在するなら彼岸のような楽園へ、彼を連れて行けたら……このままさらって行けたら……
 髪から頬へ触れていく。確かなぬくもりを感じるすべらかな肌。この硝煙の染みついた手で、彼を犯し汚れたこの手で触れるのは罪だと分かっているのに、それでも求めずにはいられない。
「ゼクス……」
 無意識に名を呟いていた。その声に揺り動かされたのか、伏せられた睫がかすかに震えた。ヒイロははっとする。見つめるまなざしの前で、うっすらと淡い色の瞳が開かれた。



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