Andante 7 促されるまま車に乗り、トロワの運転する車は帳の降りた夜の路を走った。互いに何も喋らず、沈黙した車内はタイヤの跳ね飛ばす水しぶきの音であふれ続けた。 沈黙が長く続いた後、唐突に思い出したようにトロワが口を開いた。 「ゼクスはあのまま睡眠薬で眠らせてある。外傷に大したものはなかったが、一応手当はしておいた」 闇を切り裂いていくヘッドライトの光に眼を向けていたヒイロは、鈍い動きでようやくトロワへ顔を向けた。 「……アメリカは、手を引いたんじゃなかったのか」 「ああ」 前を見つめるダーク・グリーンの眸に何の表情も見せず、彼は淡々と言った。 「本国への帰還命令は出ている。だが俺は、命令には従わないことにした」 「……何を言っている?」 「調査は続行する。俺は《ベガ》からも、お前からも離れるつもりはない」 「当局に背くつもりなのか」 かたくななその横顔に、それまではなかったものが感じられた。 少々型を外れたところはあったにせよ、トロワの自国への忠誠心は、確かに彼の人格の一端をになうものであったはずだった。彼の《ベガ》への関心が、仕事に対する熱心さ以上のものだということには気づいていたが、まだ青年とも呼べないような年齢でCIAに所属し単独行動を許されているほどのエリートである彼が、それと祖国への忠誠を天秤にかけるような真似をするとは、常識で推し量るならあり得ない話だった。 優秀な諜報員としてあるまじき言葉を吐くその裏には、相応の外的内的要因が存在しているに違いなかった。 「本国との利害が一致しなくなった。それだけのことだ」 ヒイロの思いとは逆に素っ気なくそう言った後で、トロワは少し間をおいて、ぽつりと言った。 「……以前の俺には、感情と呼べるものがなかった」 ヒイロが黙って視線を寄越しているのを感じ取り、続ける。 「俺はL3コロニーにある、ある私設で育った。IQ130以上の人間から選別された精子と卵子を人工授精させて、知能や身体能力に優れた人間を養成する施設だ。所員は単にセミナーと呼んでいたが、俺はそのセミナーで作られた。両親はいない。俺は愛情という感情の存在を知らなかった。その代わりに祖国への忠誠を徹底的に覚え込まされた。祖国に奉仕し、祖国の為にのみ生き、祖国の為にのみ死ねとな。保育器に寝かされた時に耳許で流れていた養成プログラムの文句を、今でも鮮明に憶えている」 彼がその年齢で、しかも単独で諜報活動を行っている理由はそういうことだったのか。 彼はまるで他人事のような顔で、淡々と続けた。 「自分が機械のような人間だということは感じていた。指令を受け、それを忠実に効率よく実行し、結果を出す。それで何も問題はないと思っていた。俺の中ではそれが当たり前だった。 セミナーを出所した俺はL3に潜伏するテロリストの調査を担当することになって、ある劇団に潜入した。その劇団員達は皆全くの他人同士だったが、家族同然のつきあいをしていて、俺に対しても同じように接してくれた。最初のうちは迷惑にも思い戸惑ったが、やがて俺は彼らから感情の元のようなものを学んでいった」 それはヒイロにも覚えがある。何もかもが殺伐としていたJAPを離れ、パリで2人の人間に出会った。その存在が他人に無関心だったヒイロの心を、僅かずつ変化させていった。 今は知っている。その存在がどれだけ救いになったか、愛おしかったか、失った時の絶望が、どれほど深いものか。 「5年前のヒイロ・ユイ暗殺事件の直後、介入してきた連合の治安維持特別措置法によって、コロニー建設出資国からの独立を求める個人や団体が一斉摘発され、一掃された。少しでも抵抗した者は危険人物と見なされ、その場で銃殺された。 俺のいた劇団は実際はテロリストではなく、政治的な行動すら何も行っていなかった。それは本国にも報告済みだった。それでも連合の連中は彼らを連行しようとし、1人が暴力的な行為に抗議した。それだけのことでその場にいた全員が殺された。……俺だけが本国の保護下にあって、生き残った」 平坦な口調で話すその横顔には、それほどの悲愴をうかがわせるものは何も見えなかった。その胸の深い場所に傷を隠しているのか、それとも傷が痛んでもそれを表すすべを持たないのか、淡々と彼は語る。 「あの一連の事件は、連合のシナリオだったんだ。コロニーの出資国支配からの独立を阻止する名目でヒイロ・ユイを暗殺し、そして軍事介入の果てに出資国からもコロニーを乗っ取り支配下においた。 俺は……連合のやり口の卑劣さや、支配力の増大や、そんなものには関心がない。ただ、個人的感情としての怒りや恨みは、どうしても消えないし、消せないと思った」 当然の結論を感じながら、ヒイロは確かな返答を訊く為に口を開いた。 「その為に、今までの自分の生き方を変えてもか?」 「ああ」 答えに躊躇はなかった。 「俺といれば、いろいろなところから追われることになる。生き残れる可能性は少ない」 幾つめかのカーブを切り、車はどこもあまり代わり映えのしない下町に入り込んだ。 「俺はお前を見届けたいんだ」 前方に視線を据えたままで、トロワは初めて小さく笑った。 「お前は俺とどこか似ていて、しかも俺の一歩先を歩いている気がする」 つられてヒイロもかすかに頬を緩め、頬も口許も随分強ばっていたことに気づいた。きっと長い間トロワのいう、ひどい顔をしていたのだろう。 「馬鹿なことをしているのは、同じか」 「ヒイロ、ひとつ訊いていいか?」 「なんだ?」 「お前、あの時、死ぬ気だったのか?」 車が減速し、静かに停止する。エンジンが切れ、急に押し迫ってきた静寂に飲まれながら、ヒイロはぽつりと言った。 「俺自身が生きていることが、多分許せなくなったんだろう」 「……そうか」 降りしきる雨音に混じって、どこかの家から子供の泣き声が聞こえてきた。 不意に現実感を感じて、死に損ねた胸が痛んだ。 |