Andante 5 気を失ったままの彼をシーツにくるんで抱き上げ、血まみれの死体が転がる部屋を出ると、廃ビルの入り口 「殺したのか シーツに埋もれて腕の中にあるゼクスを、トロワが見つめる。ヒイロはかすかに首を振った。トロワはしばらく無感情めいた眸でヒイロを見遣っていたが、わずかに顎を動かして建物の奥へヒイロをいざなった。 「向こうに車を回してある」 先に立って歩く彼に無言で従い、裏口のようなところから工事フェンスの中へ乗り入れてあった車の後部座席に、ゼクスを横たわらせる。 息をしているのか分からないような血の気のない頬へ手を伸ばし、まつわりついたプラチナブロンドをそっと払ってやると、ヒイロは車を降りドアを閉めた。 既に運転席で始動させていたトロワが、訝しげな顔を向ける。ヒイロはトロワが開けた助手席の窓から、覗き込むようにして声をかけた。 「お前には散々迷惑をかけた。迷惑ついでにもう一つだけ、頼みを聞いてくれ」 「なんだ」 「しばらくでいい。お前の手で、ゼクスを安全な場所にかくまってほしい」 トロワは片眉を上げた。 「お前はどうする」 「俺はすることがある。俺に突然銃を向けられたことにしろ。ヒイロ・ユイはノイローゼがこうじて精神錯乱に陥ったんだと。それでも迷惑をかけることには違いないが、当局には話はつくだろう」 「ヒイロ、お前……」 「勝手だが、お前との契約は反故にさせてほしい」 そう一方的に言い切り、踵を返そうとするヒイロに、トロワが鋭く声をかけた。 「≪アルファロ≫は駄目だ。彼はSISの長官であるだけでなく、連合の最高幹部の1人なんだぞ。連合内の権力の均衡が崩れれば、戦争さえ起きかねない。その責任がお前に取れるのか」 ヒイロは無言で見返した。互いに何も言わず、険しい視線をぶつけ合う。 しばらく睨み合いが続いたあと、ヒイロに押されるようにトロワが口を開いた。 「彼は《ベガ》と深いつながりがある。ヒイロ・ユイ暗殺の計画立案の中心人物であったことは間違いない。謎が明らかになるまでは、絶対に死なせる訳にはいかないんだ」 「殺しはしない」 低く、ヒイロは言った。 「頭と喋れることの出来る口は残しておく。それでいいだろう」 「ヒイロ」 「ケリをつけたい。なにもかもに」 「ヒイロ!」 振り返らず、ヒイロは歩き出す。 「俺はお前を切る気はない。事が済んだら戻ってこい!」 強く吹き始めた風に流されながら、遠く声が聞こえた。 プレジタン・ウィルソンに建つ、一見して軍部のものとは思えない瀟洒なビルの前には、黒光りする1台のリムジンが止まっていた。 既にジャケットの内に銃を掴んでいたヒイロにはそれはただの背景でしかなく、だが入り口の扉へと向かっていた意識は、後部座席のウィンドウが下り、乗っていた人物の顔が見えた瞬間に引き戻された。 「君の姿は一度、見かけたことがある」 ゆったりと座席に身体を預け、男はそう言い笑みを浮かべた。氷を思わせる冷艶な微笑だった。 こいつは酔っぱらいなどではない。驚きよりも危機感に近い直感が走った。男は初めて目撃した時とは全く異なる、強大なものの気配を放っていた。男から感じる、焦燥を感じるほどのプレッシャーと、同時に蘇った、ゼクスに口吻けのように囁いていた3年前の情景に激しく動揺しながらも、それらをすべてねじ伏せて、ヒイロは平静を装い、男を正面から見返した。 「貴様と会ったことなどない」 「だが君は私を知っているようだ」 ヒイロは、低く威嚇するように声を発した。 「何の用だ」 「君は、何の用でSISの本部を訪ねて来たのだね?」 ヒイロを見つめる青の双眸が強さを増す。深淵のような冥さを眸に湛え、見るものすべての真実を見通すかのように、トレーズ・クシュリナーダはゆったりと口を開いた。 「乗りたまえ」 絶妙のタイミングで、車を降りた運転手が後部座席のドアを開く。 荒立てられることなど生涯ないのだろうとまで思わせる声は穏やかではあったが、有無を言わせない強さがあり、ヒイロはいったん銃から手を離しそれに従った。ドアを閉められると、わずかな振動もなく特殊シートに覆われた窓の外の風景が動き出した。 「どこへ連れていく気だ」 「あのまま止まっていると不用意に目立つのでね。他意はない」 向かい合って座るトレーズから、痛いほどの存在感を感じる。ヒイロを凝視している訳でもないのに、微笑みさえ絶やさない彼の威圧は圧倒的だった。掌に汗が滲んで、ヒイロはかすかに奥歯を噛みしめた。 「……俺を見たと言ったな」 「ああ。以前彼のアパートの前でね。3年前と比べると、君は随分精悍になった」 あの時か。軋む脳裏に再び3年前が過ぎる。そうだとすれば、ヒイロもまたこの男に見られていたということになる。動揺し、茫然と立ち尽くしていた姿を。 目前で余裕に満ちた表情を浮かべるこの男に、憤然と怒りが込み上げた。 「貴様……ゼクスが今、どこにいるか知っているのか」 感情に流され、言うつもりもなかった言葉が口を出る。 「ゼクスが何をされたか、知っているのか」 彼は眉一つ動かすことをしなかった。 「君が今ここにいるのならば、トロワ・バートンと言ったか。そのCIAエージェントのところだろう」 予測しなかった返答だった。一瞬の間をおいて、まさか、という思いが黒い影のように脳裏に覆い被さってきた。 「何故……知っている?」 「あの男の考えそうなシナリオだ」 流れゆく街並みに眼を遣りながら、トレーズは淡々と言った。 「これでアメリカは、ヒイロ・ユイ暗殺に関する疑惑の一切から手を引かなければならなくなった。中国も今回はアピールのつもりで彼を誘拐したのだろうが、その報復は相応に受けたことになる。 そして君は……生き延びる道を、自らさらに険しくした」 あまりの衝撃に、目の前が暗くなった気がした。何度か息を吸い込み、吐き出し、ようやくしぼり出した声は、呻きのようだった。 「俺は……また、はめられたというのか」 トレーズは眼を伏せていた。 「君の彼への想いが、見抜かれていたということだ」 反射的にカッとして睨み付ける。 「見抜かれていただと!? だったら俺が、撃ち殺した中国人の代わりにゼクスを犯ったことまで見抜いていたというのか。貴様はどうなんだ、トレーズ・クシュリナーダ! それを知っていても奴に売女の真似をさせて、俺に講釈を売るというのか!」 我を忘れて声を荒げるヒイロへ視線を返し、トレーズは双眸をすぅっと細めた。 「……私への無礼は寛容してもいいが、彼を傷つけるような発言は慎みたまえ」 喉元に剣を突きつけられたような、冷徹な視線だった。口を開くことが出来なくなったヒイロに、トレーズは感情の片鱗も窺わせない静かな声を向けた。 「君がプレジタン・ウィルソンに現れた目的を訊こう。返答によっては、君をこの車から降ろす訳にはいかなくなるが」 ヒイロは残された気力を振り絞って、トレーズに対峙した。 「人間を2人、殺す」 「ほう」 驚きもせず、トレーズは組んだ膝の上で指を組み合わせる。 「1人は≪アルファロ≫のコードネームを持つ男。もう1人は……《ベガ》」 言いながらジャケットの内側に手を差し入れ、掴んだ銃をトレーズに振り向ける。安全装置を外す音が車内に小さく響いた。 「貴様を殺す」 肌に突き刺さる沈黙の中を、銃口を挟んで向かい合う。 突きつけられた銃口がありながら平然としてヒイロを眺め遣ったトレーズは、ふ、とおもしろがるような笑みを浮かべた。 「何がおかしい」 「それは君個人の推理かね?」 「そうだ。貴様は≪アルファロ≫とゼクスを知っている」 そして何よりこの男は、最もゼクスの信頼を得ているはずの人間だった。この男の指示ならば、彼が従っても不思議はない。だが、トレーズの表情は優雅なまま変わらなかった。 「残念ながら、君の標的は私ではない」 「ならば誰だ」 「世に存在する事象は、そう単純な仕組みで成り立っているものばかりではないのだよ」 彼は静かに断言した。 「君に《ベガ》は殺せない」 一瞬、嫌な想像が肌を駆け抜けた。ではやはりデュオの言ったように、《ベガ》はゼクスなのか 「貴様が《ベガ》なら、今ここで殺せる」 「確かに、君が望むのであればそれは可能だろう」 彼の口許から、すっと笑みが消えた。 「だが、今はその時期ではない」 すべての言動を無にさせる言葉と双眸だった。ヒイロは壁のように立ちはだかる男の気配の強大さを、改めて臓腑に感じた。 だが容赦なく打ちのめされるヒイロとは関わりなく彼は変わらず貴族然としており、その非の打ち所のない典雅さにヒイロはさらに打ちのめされた。 「 優美な声が告げ、ヒイロは伏せていた眼を上げた。彼を狙っていたはずの銃は、今は力なく膝の上に落ちていた。 「真実を求めるならば、その舞台に来るがいい。ゼクス・マーキスの奏でるピアノの音色が、真実へのプレリュードとなる」 沈黙したヒイロの耳に、かすかに雑踏の音が聞こえてきた。どうやらリムジンは、どこかに止まったようだった。 |