Andante 4


 ゼクスの叫びを、ヒイロは廃ビルの工事フェンスの陰で聞いた。
 それはよほど張りつめていなければ聞き取ることは出来ないような、鳥の鳴き声にも似た遠い声で、隣にいたトロワには何も聞こえなかったようだった。
 悲痛なその声を耳にした一瞬、ヒイロの頭は真っ白になった。
「ヒイロ!」
 トロワの声も聞こえなかった。咄嗟に押しとどめようとする彼の腕を夢中で振り払い、ヒイロは廃ビルの入り口へ走った。見張りをしていた男2人が、突然飛び込んできた侵入者に驚いた顔で胸のホルダーから銃を抜きかける。それより早く、背中からベルトに挟んだ消音器付きの銃を引き抜き、立て続けに引き金を引いた。あっけなく眉間から血を吹いて、2人が同じように倒れ込む。振り返りもせず走った。ゼクスの声がする。複数の卑猥な辱めの声に混じって、ゼクスの悲鳴が聞こえる。コンクリートの廊下を全力で抜け、突き当たりの部屋へ飛び込んだ。飛び込んだ視界の中で、ゼクスの白い肢体に男達が群がっていた。それを目にした瞬間、全身が硬直し、そして震え出した。
 身体中の血が逆流していた。腹の底から激震が駆け上り、訳の分からない獣のような声を上げていた。何事かを叫びながら、ヒイロは銃を乱射した。ゼクスを拘束する4人の男の頭を速射で吹き飛ばし、彼の身体に突き立てていた5人目を力任せに引きはがすと、突き倒しざまにその顔のまんなかに撃ち込んだ。情事に気を取られ、ろくに反応する間もなかった男の顔はスイカのように弾け、血や脳髄が派手に飛び散った。
 頬に返り血を浴び、ヒイロは振り返った。
 物音が消え、一転して痛いほどの沈黙が訪れる。肩を揺らして自分の荒い呼吸を聞きながら、無惨なその姿を眼に映す。
 パイプベッドに両手首をつながれたゼクスは、眼を見開き茫然とヒイロを見つめていた。腕に裂かれたシャツの一部が絡んでいるだけで、彼はほとんど全裸の状態でその肢体をさらしていた。
 首筋や胸に紅い痣が浮かび上がっていた。3年前と変わらない透き通るような肌が、淫らにけがされていた。
 銃を下げた手が、小刻みに震えた。
 ヒイロは一歩、ベッドに歩み寄った。こつり、と靴音が上がった。
「これが、お前の正体か」
 彼は動かなかった。両手を手錠につながれ、淫らに、誘うように、愛撫の跡を残す肢体をさらけ出したまま。
「何も知らないような顔をして、俺を騙していたのか。3年以上も」
 血の気の引いた唇が、かすかに動いた。
「……ヒイロ」
 かすれたその声を聞いた瞬間、渦巻いていたものが炸裂した。
「よがったその声で俺を呼ぶな! 俺はお前の客じゃない!」
 荒々しくベッドに足を乗り上げ、握りしめた拳銃をその胸に突きつける。
「男に抱かれるのがそんなにいいか。娼婦のように男の前に這いつくばるのが、そんなに好きか」
 押さえきれず、声が段々悲鳴のように高ぶっていく。
「こんな姿をさらしてまで生きていたいのか! お前はそれほど淫乱だったのか!」
 激高が思考を、視界を焦げ付かせていた。煮えたぎる血液が狂ったように鼓動する心臓から全身へ押し出され、爪先の毛細血管までが火の手を上げていた。彼は何も言わず激高するヒイロを見つめていた。その青ざめた顔に絶望を浮かべて。
 自らを責めるような、自らの胸を切り裂くようなそんな悲痛な表情が、ヒイロの激情をさらに煽り立てる。
「お前にそんな権利があるのか! 何故、俺から奪うんだっ……デュオも……昔のことも、何もかも……!」
 引き金にかけた指に力がこもる。ヒイロの指が動くのを見て、ゼクスは静かに眼を閉じた。
 銃口が小刻みに震え出した。
 動悸が激しくなる。銃を握る手が痛いほど強ばる。ヒイロは歯を食いしばり眼を見開いて、ゼクスを睨み付けた。一言の弁明もなく罪に殉じようとする姿は、彼の住まう西洋の世界観で言うならば、無垢で無力な子羊だった。そんな無防備な姿をさらし、彼はヒイロに罰を乞うていた。それは眼が眩むほど卑怯なことであるのに、息を止めてしまうほどの魔力を持って、彼は美しかった。
 血が滲むほどに唇を噛みしめ、ヒイロは最後に残された糸を自分から引きちぎるように、ロックを戻して銃を投げ捨てた。
 もどかしく引き裂くようにして自らのジャケットとシャツを脱ぎ捨て、ゼクスの身体にのしかかる。驚いて身をよじろうとしたその喉を掴み、ベッドにぶつけるようにして押しつけた。
「ヒイ…ロ……!?」
「お前に拒む権利などないんだ!」
 組み敷いた彼の全身が、びくりと震えた。
 そのまま乱暴にベルトを解き、ジーンズのジッパーを降ろす。喉を掴み顎を上向かせて、無意識にあの眸を自分から遠ざけながら、彼の片膝を引き上げて腰を浮かせたヒイロは、一気にその奥を貫いた。
「やめ……あ…ああっ!!」
 両手を頭上に戒められたまま、上肢が弓なりに反り返る。淡い金の髪が波打ち、掴んでいた喉が震える。ヒイロは食い破るような激しさで挿出を繰り返した。何の前戯も行われないまま、両足があまりの衝撃に痙攣している。ゼクスは声にもならないようなかすれた悲鳴を上げ、髪を乱し、無意味なあがきに手錠の鎖を鳴らした。
 互いの呼吸が絡み合い、身体がぶつかり合い、肌が汗ばむ。突き上げるたびに手錠が重い音を立て、抱く胸が肩が震え、それでも時が経つにつれ、おおよそ男とは思えない嬌声がその濡れた唇から上がり、内壁は離したくないというように、淫らな収縮で深くヒイロをくわえ込んでいく。
 彼を蹂躙し続ける荒れ狂った激情のただなかで、強烈な目眩に襲われヒイロは呻いた。彼を憎むだけでは足らない何かが、ヒイロを埋め尽くそうとしていた。それを振り払う為に口を開いた。
「お前は……誰でもいいんだろう……相手が行きずりの男でも、こいつらでも……俺でも……あの男でも……」
 深く抉り込み、悲鳴と共にゼクスの身体が跳ねる。それでも何か言いたげに震える唇を動かそうとするのを、ヒイロは掌で塞いだ。
「お前は許さない……お前は……お前…だけは、絶対に……」
 塞ぐ掌に彼の吐く息が触れ、こもった声が上がる。痛みなのか悦びなのか、閉じられては開く眸は切なげに潤んでヒイロを映し続け、間近に顔を寄せるヒイロは、急激に身体の熱が跳ね上がるのを感じた。
 身体中が火のように熱い。心臓が滅茶苦茶な速度で鳴っている。
 ヒイロはゼクスの両足を抱え上げ肩にかけながら、彼の上肢を抱き締め激しく攻め立てた。苦しい姿勢で最奥を貫かれ、ゼクスが振り絞るような声を上げる。それがさらにヒイロの目眩を加速させる。
「あ…あ……っ」
 揺さぶられ、腕の中で狂おしい快楽に溺れながら、彼は苦しげなまなざしでうっすらとヒイロを見つめた。それを拒むようにヒイロはさらに動きを強め、高ぶる己を突き立てた。
「ヒイ……ロ……!」
 裏返った嬌声を殺して、彼が叫んだ。瞬間、電流のように痛いほどの痺れが全身を走り、思考が飛んだ。
 深く貫いた彼の体内に、己の欲望が注ぎ込まれていく。同時に彼も自らを解放し、その張りつめた身体から力が抜け落ちて、ベッドに沈み込んだ。
 チャリ……と鎖が鳴った。
 ヒイロは肩で息をしながら、しばらく放心して彼を見ていた。彼は気を失ったのだろう。それきりぐったりとして動かなかった。長い髪に眼を閉じた顔は半ば隠されている。髪は戒められた両腕にも絡みつき、シーツに散らばっている。指先から力の抜けた手首には、食い込んだ手錠が傷を付け、血がしたたっていた。よほど激しく手を引いたからだろう。そんなことをぼんやり思っていると、不意に胃が締め付けられるような、吐き気のようなものが競り上がってきて、ヒイロは呻きながら口を押さえた。
 彼はヒイロの名を呼んだのだ。他の誰でもなく自分の名を、彼は呼んだのだ。
 肩が震えた。
 俺は何をしているのだろう。
 視界が滲み、押さえた口許から声が洩れる。
「ゼクス……」
 震える唇をこじ開けると、声も頼りなげに震えた。いつかの同じ人形じみた寝顔に、頬から滑り落ちた雫が、ぽたりと落ちた。
 彼がけがれたのではない。そんなことは初めから分かっていた。分かっていた。
「ゼクス……」
 ぎこちなく腕を伸ばし、力ない身体を抱き締める。艶やかな髪に頬を寄せて込み上げる嗚咽をこらえ、顎から頬へそっと手を触れた。
 頬を寄せ、唇に触れる。
 彼も、優しい記憶も、汚してしまったのは彼ではなく、誰でもないこの自分だったのだ。
 どうにもならない自分への絶望に打ちひしがれながら、ヒイロは意識のない彼を抱き締め、救いを求めるように何度も唇を重ねた。



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