Andante 3


 曇天の下のカルディナル・ルモワール通りは、相変わらず雑多な賑わいに満ちていた。まるでここを離れた3年前が昨日であったかのように、飛び交う声や活気や、壁のくすみ具合や、売られる果物の匂いさえ、同じように思えた。
 呼び込みの声やすれ違う顔に覚えのある者もいて、ヒイロは目深にかぶった帽子のつばを下げ、奇妙に込み上げる郷愁の思いを邪険にしながら、足早にすれ違う人を避けて歩いた。
 細い路地の一つに入るまでに尾行と監視の有無を確認し、喧噪に混じって聞こえてくるピアノの音から意識を背けながら、かつてよく通ったアパートの斜向かいの建物へ滑り込んだ。
 彼の部屋と同じ4階分の階段を上ってドアを叩き、返答を待って開けると、カーテンを引いてある窓の側にトロワが座っていた。窓の外をうかがっているのではなく、かたわらのテーブルにおかれたノートパソコンを見遣っている。画面に映されているのは、外にいくつか設置された監視カメラの映像だ。
 彼の周囲の状況を探り、接触のタイミングを図る為にこの場所へ移動して、丸一日が経つ。
「不審人物はいたか?」
 モニターで既にヒイロを確認していたのだろう、トロワは顔も上げずに画面を見つめながら声をかけてきた。
「東洋系の男が2人、ゼクスのアパートを見張っていた」
「どこだ?」
「俺が見た時は、路地の入り口付近を2度往復していた」
 トロワは通りに面した監視カメラの画像を呼び出すと、顎に手を遣った。
「この男……L5コロニーで見かけたことがあるな」
「コロニー?」
「華僑を中心とした中国出資のコロニーだ。……厄介だな。中国が手を出してきたか」
「どういうことだ」
「ヒイロ・ユイ暗殺によって、当時コロニーに大きな動乱が起こった。一つの連合国家として独立しようとしていた各コロニーは、統率者を失って内乱状態におちいり、そこに連合の介入を受けて政治経済は壊滅的な打撃を受けた。統一独立後を見越してコロニーに投資していた組織や個人の損失額は、合計すれば大国の数年分の国家予算額を上回ると言われている。特にヒイロ・ユイの出身がL1コロニーだったことから、その母体であるアジア地区の出資者は際立って多い。華僑もその組織団体の一つだ」
「報復するつもりなのか」
 ああ、とトロワは眉を寄せて頷いた。
「あの人種は民族  彼らは同胞と呼んでいるが  そういう絆ですべてを結びつけていて、その結束は堅い。投資の損失が元で首を吊った同胞の死を、彼らは決して忘れることはない」
 ヒイロもあの民族のことは知っている。JAPにも華僑はおり、その闇の世界に通じる独自の組織はJAPを牛耳る江口組をもしのぐものだった。何よりその結束の強さは、背を向けた途端に銃口を突きつけられるようなすさんだ人間関係の中で生きてきた者にとっては、不可解というより不気味なものがあった。
 口調だけをわずかに悔しげに変えて、トロワが言う。
「ここ数年は目立った動きもなかったのにな。彼らが出てきたとなれば、調査の続行はトラブル発生につながりかねない。いったん本国に報告して、指示を仰がなければならないか」
「奴ら、どうする気だ」
「ニュースソースは我々と同じだろう。とすれば、我々と同じようにゼクス・マーキスを通じて黒幕を探るか。あるいは……」
 表情のないトロワの頬がぴくりと動いた。
「車だ」
 苛立ったようなクラクションが通りの方から聞こえた。トロワの肩越しにモニターを覗くと、いくつかに分割された画面の一つに通行人を蹴散らす黒塗りのリムジンが見えた。まるで3年前の再現のような光景だが、乗っているのはあの時より、より直接的に危険で厄介な連中だろう。
 リムジンはアパートに面した路地を塞ぐように止まり、中からスーツ姿の東洋人の男が3人、ばらばらと出てきた。そしてその後から、ゆっくりとした動作で髪の長い女が姿を現した。
「レディ・アンか」
 淡々とトロワが呟く。見張りの者らと合流して玄関ドアに消えた男達に半ば気を取られながら、ヒイロは状況説明を促した。
「何者だ」
「中国のスパイだ。本人はオーストリアの出身だがな。今はルクセンブルク公爵夫人に収まっていて、ロームフェラ財団幹部の夫の代わりに手広く財団の事業を取り仕切っている。社交界にも顔が広い。スパイとしてのコネクションは完璧に近いだろう。うかつに手は出せない」
 ヒイロは顔を上げる。カーテンに遮られた窓の外には、同じ階にある彼の部屋が見えるはずだった。彼はきっとまだピアノを弾いているだろう。ピアノに向かっている時の彼は反応が鈍くなる。自分の持てるすべてをピアノにぶつけるようにして全力で集中する為に、外部に対してまるで無防備になるのだ。今にもそのドアを開き、彼を拘束しようとしている複数の存在にも、全く気づいていないだろう。
「ヒイロ」
 トロワの声を無視して、ヒイロは窓に歩み寄りカーテンの隙間を覗いた。向かい合うアパートの一室で、ピアノから立ち上がる彼が数人の東洋人に囲まれていた。一人が彼の腕を掴みかけ、彼がそれを毅然と払いのける。カーテンの細い隙間からは死角となる場所に話す相手はいるらしく、彼は凛とした眸を  おそらくあの女に向けながら何事かを短く話し、自らドアへ向かった。
 彼の姿が視界から消える前に、ヒイロは踵を返していた。
「ヒイロ」
 前より強い調子の声に、ドアの前で振り返る。
「奴らはゼクスをどうする気だ」
「殺しはしないだろう。SISのスパイを殺すということは、今は連合を敵に回すのと同義だ」
「奴を殺すのは俺だ」
「少し落ち着け、ヒイロ。彼も拷問に対する免疫は持っているはずだ」
「だから、ただ見ていろというのか」
「俺の立場からは、そうだとしか言えない。下手に介入すれば、国家間の問題に発展する。今から始まることは、俺達には手出しの出来ない領域なんだ」
「俺には国も政治も関わりない」
「お前は俺に協力すると言っただろう」
 無言で睨み返す。殺気さえこもるその視線に、それでもトロワは淡々として言った。
「計画は続行する。中国側との接触は避け、秘密裏にゼクス・マーキスと接触を図る。その際、情報提供との交換条件として彼から身の安全を提示されれば、要求に応じて彼を我々の保護下におく」
 ヒイロの表情が変わるのがおかしかったのか、トロワは珍しくわずかに笑顔を見せた。
「以後の行動は俺に従ってもらうぞ。フライングだけはするな、ヒイロ」
 トロワは猫のように気配のない動きで歩み寄り、ヒイロが手をかけていた階下へのドアを開いた。




 ゼクスが連れ込まれたのは、建設途中で放棄された廃ビルだった。
 周囲の建物からは庭を隔てて距離もあり、監禁のたぐいを行うにはうってつけといえる場所だった。現に入り口には、2人の中国人が見張りに立っていた。
 明らかに懐に銃を呑んだ男2人に両脇を固められ、さらに数人に背後から監視されながら、打ちっ放しのコンクリートで区切られただけの何もない空間をいくつか行き過ぎ、一番奥の部屋へ通されると、先を歩いていたレディ・アンがヒールの音を立てて踵を返した。
 むき出しのコンクリートに靴音が反響する。
「わたくしの言葉に従ってくださるとは思っておりましたが、ここに連れ込まれるまで何の抵抗もなさらないほど、愚かな方とは思いませんでした」
 いつもは何も映さない無彩色の眸を、ゼクスはきつく見返す。
「トレーズが待っているというのは、嘘か」
 レディ・アンは口許に手を遣りながら、くすりと笑った。
「まさか、信じていらっしゃったのではないでしょうね」
「私が君の言葉に従ったのは、君と話がしたかったからだ」
「わたくしとお話を?」
 ゆるく首を傾げた彼女は、微笑んだまま夢見るようなぼんやりとした声を発した。
「何を話すというのです? 貴方とわたくしは、まるで違う人間ですのに」
「君はいつまでこんなことを続けるつもりだ。君に不幸な過去があることは知っている。抗えば苦痛が伴うとも聞いたことがある。だが言われるがままただ従っているだけでは、君は永遠にそこから解放されることはない。
 君は現状に満足しているのか? 自らの意思を自らが決定する、人としての当然の自由を取り戻したくはないのか?」
「何がおっしゃりたいの?」
 彼女は少女のような笑みをたやさない。ゼクスはかすかに胸の痛みを感じながら続けた。
「君には苦楽を共にすべき夫がいる。伴侶である君が不幸のままであることを、彼は決して望んではいないはずだ。君が求めさえすれば、彼は必ず君を救ってくれる。それなのに、君は何故彼の期待を裏切るような真似を続けるのだ」
 わずかな沈黙があった。
  本当に愚かですのね、貴方は」
 レディ・アンの眸が細められ、唇の端が上がった。
「期待を裏切る、ですって?」
 カツン、とヒールの音を立て、レディ・アンはゆっくりとゼクスに歩み寄った。
「わたくしはあのお方の期待に応えるべく、日々相応の行動を取っているのですよ。貴方に意見されるいわれはありません。何も知らない……ただあのお方に守られるだけで、無知な貴方になど」
「君が彼の周囲にきな臭さを近づけてどうする。君には、トレーズの生活を守る義務があるだろう」
「貴方には何もおっしゃる資格はないと、先程から申しておりますでしょう? 愚かなのは、やはりその淫らな身体だけではないようですね」
 目前で彼女の足が止まる。静かな目配せが飛び、左右に付いていた男達がゼクスの腕を取り、頭を押さえつけた。2人がかりで床にひざまづかされ彼女を見上げると、マニキュアに彩られた、ほっそりとした指が伸ばされてきた。
「スパイに選ばれた者に自らの意思など……あろうはずがないでしょう。わたくし達は道具なのですよ。道具の立場をそろそろわきまえたらいかがです、ゼクス・マーキス。貴方というその愚かな存在こそが、すべての元凶なのです」
 頬をなぞる指が、ゆっくりと爪を立てていく。
「その口が、あのお方の名を語ることは許されない」
 語尾がわずかに強まり、直後、一瞬止まった爪先が強く横に払われた。顎の辺りに鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめる。
 眸に過ぎった感情は刹那に消えて、彼女は無表情にゼクスを見下ろした。
「本当ならば、貴方のそのふしだらな部分を切り取って差し上げてもよろしいのですが、それでは≪アルファロ≫がさぞ嘆かれるでしょうから、後はこの方々にお任せすることに致します」
 ゼクスを戒めている男達から、卑猥な笑い声が上がった。状況を察し、咄嗟に立ち上がろうとしたが、両脇からねじ伏せられ身じろぎ程度にしかならなかった。どうすることも出来ずに唇を噛みしめる。その様子を、彼女は高みから侮蔑するように表情もなく見下ろしていた。
  君は≪アルファロ≫から離れなければ駄目だ」
「これ以上、貴方とお話しすることは何もありません。言いたいことがおありなら、貴方のお相手を務めてくださるこの方々にどうぞ。きっと貴方の淫らな願いは、心ゆくまで叶えられるでしょう」
「レディ・アン!」
 彼女はおぼろげな笑みを浮かべると、ゆっくりとした歩調でゼクスの横を行き過ぎた。
「待て、レディ・アン!」
 背中越しに声が聞こえた。
「地獄に堕ちなさい。貴方お一人で」
 靴音が遠ざかっていく。振り返ろうとした髪を鷲づかみにされ、ぐいと引かれて顔が上向かされた。両脇から押さえつける2人の男の顔が、いやらしげに歪んでゼクスを見下ろしていた。壁際でレディ・アンとのやり取りを見物していた残りの3人も、下品な笑いを漏らしながら近寄ってくる。
「おっかねぇ姐さんだぜ、相変わらず」
「けど、案外すんなり帰ったじゃねぇか。俺はてっきり、こいつが犯られてんのを見物してくのかと思ってたぜ」
「あんな女に見られてんじゃ、勃つもんも勃たねぇよ」
 げらげらと笑いが起こる。
「顔だけならいい線いってんのに惜しいねぇ、頭がイカレてんじゃ。おまけに嫉妬狂いときてる」
「ああ? ありゃ、こいつに妬いてたのかよ」
「話聞いてなかったのか、お前。この美人の兄ちゃんはなぁ、あの女の亭主のコレなのさ」
 笑い声に混じって尻上がりの口笛が上がる。下卑た笑いで覗き込んでくる顔を、ゼクスは渾身の力を込めて睨み付けた。
「おーおー、おっかねぇ。美人が睨むと凄みが増すなぁ」
「離せ」
「そうはいかねぇ。お楽しみはこれからなんだぜ」
「離せ」
 全力でもがくゼクスを幾本もの腕が押さえ込み、笑い混じりのかけ声が身体を持ち上げる。宙づりにされたゼクスは、部屋の隅のパイプベッドに放り投げられた。反動で跳ね上がった上肢は抵抗する間もなくのしかかってきた男に押し倒され、別の男に掴み上げられた両腕は、手錠をかけられベッドの柵につながれた。
「おい、お前一人で楽しむなよ」
「早いとこやっちまえ。次がつかえてるんだぜ」
 下品な笑いの渦の中で、無骨な手が胸を這い、乱暴に衣服がはぎ取られていく。手をつながれ、両足もそれぞれ別の男の手で動きを封じられながら、それでもゼクスは懸命に抗った。そのたびに手首に手錠が食い込み、鋭い痛みと鎖の音がその行為の無意味さをを嘲笑う。
「嫌がる顔もなかなかだな」
「ひょっとして、もう感じてんの?」
「こんな顔して相当淫乱だな、おい」
 無理矢理開かされた両足の間に、無遠慮な手が触れてくる。嫌悪に肌が粟立ち、必死に逃れようとするゼクスを眺め、男達が笑う。
「さっさと諦めちまえよ。無駄な体力使うと、後で後悔するぜ。あんたを心ゆくまでかわいがってやれっていうのが、上からのお達しなんだからよ」
 抵抗すればするだけ男達の嗜虐性を刺激するだけだ。分かってはいても、震えさえ伴うこの現実から逃れたい意識を押さえ込むことが出来ない。
「怖がることぁねえさ。いつも通り、いい声上げてよがってりゃいいんだからよ。≪アルファロ≫やレディ・アンの旦那相手に、どんな手でたらしこんでるんだ? ここ触られただけで、女みてぇにもだえるのか?」
 スラックスが脱がされ、あらわにされた中心を鷲づかみにされる。止めろといいかけた声が途切れて、息が止まった。その手が乱暴に蠢きだしただけで、痺れのようなものが全身に広がり、たやすく四肢の力が抜けていく。
 聞こえる男達の息が、荒くなっていく。
 無数にも思える手が、胸に、手足に、身体の中心に絡みついて、ゼクスを辱めていく。その手の意図するままに反応し、変化をきたし、声さえ上げそうになっている自分自身の身体が、ゼクスには信じられなかった。
 自分の意志さえ受け付けないこの身体は、一体誰のものなのか。どうあがいたところで、所詮抱かれてしまえば≪アルファロ≫が植え付けた意思のままに踊らされる操り人形に過ぎないのか。
 込み上げてくる吐き気と自分自身への猛烈な嫌悪に、もろく崩されていく矜持の壁へ、狂いそうな愛撫の刺激が襲いかかってくる。
 荒い息づかいと卑猥な笑い声の中で、服を裂かれる音が耳に届く。
 ゼクスは叫んでいた。
「やめろ   !」



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