Andante 2 見慣れた光景が眼下にひしめいていた。汚水の垂れ流れる通りを、くすんだ色合いの人々がごみのように行き交っている。うずくまる浮浪者。汚れた壁の、意味のない落書き。一方で肩がぶつかったと口論が始まり、一方でなけなしのはした金を掏られたと怒声が上がる。 ここがどこであろうと、貧民街の風景はどこも同じだ。 窓枠に片足を乗り上げ、ヒイロは黙然と人々の往来を見下ろしていた。 約束の場所にデュオはこなかった。3日後、遺体がセーヌ川に浮いた。それを知ってゼクスに問いただそうと飛び出し、トロワに無理矢理引き戻された時の激高はもうない。 2ヶ月という時の流れを経て、それは虚無と脱力と戸惑いと、理解の出来ない静かな怖れのような感情となり、ヒイロの中にわだかまっていた。 かたわらにデュオがいない。その事実は、まるで片腕が痛みもなく唐突に抜け落ちてしまったかのような困惑をヒイロに与えていた。知らぬ間に、あの根っからの明るい男は、自分の半身のようにヒイロに馴染んでいたらしかった。出会ってから4年近く、そういえば仕事も私生活もほとんど離れることがなかったと、いなくなって初めて思い至る。 このパリから逃げるように離れたあの時も、デュオの姿は変わらずヒイロの隣にあった。お節介と紙一重の世話を焼く姿は、その間の記憶に途切れることはない。デュオという存在が、あらゆる意味でヒイロの一部になっていた。そういうことだったのだろう。 寂しいという言葉さえ知らずに、ヒイロはそう思う。 連合情報局(SIS)データベースへのハッキングが失敗し、SISに急襲されてから2ヶ月。初めの1ヶ月ほどは、数日ごとにトロワの提供する隠れ家を転々としていたが、捜査の手がゆるめられたのか、ここ半月ほどはずっと同じ場所にとどまっている。その間、ヒイロはただ街を眺めて過ごしたことになる。何もしなかったというより、何もしたくなかったというのが正解かもしれない。半身を殺された怒りは、日を追うごとにそれと入れ替わっていく虚脱感となって、ヒイロを押しつぶしていった。つぶされた手足や臓腑が腐り、端から砂に変わっていく。そんな馬鹿げた幻覚が頭を浮遊していた。 内に抱える漠然とした感情の処理が分からず、後にも先にも動くことが出来なかった。 それがただの逃避であることは馬鹿馬鹿しいほどに分かっていたが、砂に埋もれた心の深部を暴くだけの力を、ヒイロはどこかに置き忘れたようだった。 どこかに そう思うと、唐突に人形のような寝顔が脳裏を過ぎった。伏せられた長いまつげ。白いなめらかな肌。淡く輝く長い髪。血の気の引いた、蝋のような唇。 何故今になって思い出すのかと、自分自身に問いかける。それでも過去の幻影は消えることなく、五感すべてであたかもそこに存在するかのように蘇らせるのだ。掌にすくった髪の感触を。肌に宿るぬくもりを。かすかな鼓動を刻む胸を。無防備にさらされた唇の、冷たさと柔らかさを。 何故、忘れてしまわなかったのだろう。何故、自らをはずかしめるような記憶を思い返すのだろう。 何度も逡巡しているうちに、ふつりと、怒りに似た感情が湧く。 殺しておけばよかったのだ。 それは、脳裏に言葉として思い浮かべた途端に、ウイルスに汚染されていくコンピューター画面のように瞬時に全身に広がり、指先までをぴりつかせた。 そうだ、殺せばよかったのだ。今まで殺してきた無数の標的と同じように、彼をあの場で撃つべきだったのだ。 それが出来なかったというならせめて、今この場で彼を殺すべきなのだ。脳裏に巣くう残像に意識を乱し身体を熱くするなど、自分自身が許せない。 怒りのような感情は、完全に変質し、本当の怒りとなる。 そうだ、許さない。 憎むべきは彼だ。 殺すべきは、彼だ。 かちゃり、とドアの開く音がした。ヒイロは握りしめていたこぶしから力を抜いた。 「腕の具合はどうだ?」 淡々とした口調で歩み寄るトロワを振り返る。 「……出て行けというなら、すぐに用意する」 表情の変化にとぼしい彼は、それでも軽く眼をみはった。 「お前の怪我を気遣っただけだ」 ヒイロは頭を振った。吐息する。 「……銃身を支えるのにはもう支障はない……済まない、どうかしていた」 「いや」 トロワは殺風景な壁によりかかり、長い足と腕を組んでヒイロに向き合った。 「今のお前に言うのは酷かもしれないが、状況が変わった。出来れば同行してほしい」 「何だ」 「ゼクス・マーキスに接触する」 ヒイロは息を止めた。 トロワはわずかに眼を細める。 「無理にとは言わない。お前がまだこの事件に関わる気があるなら、協力してほしい。彼はお前と面識がある。お前がいれば、彼を応じさせやすくなる」 ヒイロはしばらく息を止めたまま、自分の中の流れのようなものを感じていた。今までよどみながらも一定の方向に向いていた流れが、一斉に向きを変えて襲いかかってくる。そんな感覚だった。 ゼクスに会う ヒイロは表情を消してトロワを見つめた。 「お前は、奴が≪ベガ≫だと思っているのか? 奴がヒイロ・ユイを殺したと?」 向かい合うトロワは真摯な眸で見返した。 「特定はしていない。だが、彼の周囲には≪ベガ≫に関した死が多すぎる。≪ベガ≫の名を洩らしたマーガレット・スティングは、彼と接触した直後に事故死し、その夫フィリップ・フェネシスは≪ベガ≫に殺されると脅えながら、何者かに銃殺された。彼と接触し≪ベガ≫を知っていたらしいサエキも、その情報をCIAが入手した直後に殺されている」 「サエキは俺が殺した」 ヒイロは淡々と低く口を発した。 「フィリップ・フェネシスも俺が殺したことになっている。このまま≪ベガ≫に関わりを持つ者をもう一人殺したとしても、大差はない」 「ヒイロ、お前……?」 俺は人殺しを辞めるためにパリへ来たんじゃなかったか ヒイロをじっと見つめていたトロワが、哀しげな顔をして言った。 「お前のゼクス・マーキスを、俺が汚してしまったのか?」 その言葉に、少し驚いて眼をみはる。だが、すぐに口許を引き締め、首を振った。 「違う。いずれこうなることだった。それだけだ」 4年近くの間、自分という存在のどこかを占領され、絞め続けられてきたこの閉塞が、彼を消すことで終わるのなら、彼を憎むことが出来るのなら、傷が一つ増えることなど、どうということはない。 「ケリをつける。何もかもに」 自らに突きつけるように、ヒイロは静かに言い切った。 |