Andante 1


「来ないでください……」
 残照の窓を見つめ、背を向けたゼクスが呟く。
 暗く毒々しく窓を埋め尽くす夕焼けは、血のように紅い。灯りのない室内には、全てに濃い影が取りつき、闇と溶け合っている。ただ、部屋のほぼ中央に置かれた漆黒のピアノだけが、外のかすかな明かりにぼぅっと輪郭を白くしている。
 扉の前に立っていたトレーズは、ゆっくりと歩を進めた。
 こつり、とかすかな靴音が上がる。
「来ないでください、トレーズ。私は汚れている……」
 震えてしまいたい衝動を抑え、それでも彼は凛として立っていた。その身にまがまがしいまでの血の色を浴びて。そうするのは彼の贖罪であり、自虐だ。
「そう思うのは、君だけだ」
「事実です。ですからお願いです、その手で……私に触れないでください」
 かたくなに冷たく強ばるその背を包むように、ゆっくりと腕を伸ばした。
「君はいつもそうして、自分を傷つけていく……」
 指が触れた瞬間、びく、と身体が震えた。息を詰めて身を竦める彼の肩を抱き、柔らかな髪のかかる首筋に頬を寄せてトレーズは囁いた。
「それほどまでに純粋な生き方をする人間を、私は他に知らない。自らを傷つけ、血を流すことを選び、それでも君は前を見ることを止めない。君のその高潔さは、たとえどんなけがれた意志を持ち、どんな卑劣な手段を使おうとも、決して汚すことの出来ない聖域だ」
 血の気の引いた唇に触れる。
「そんな君だからこそ、私は惹かれ続けるのだよ。たとえこの命が尽きようとも、永遠に……」
 頬へ口吻ける、かすかな音が暗がりに消える。
「ミリアルド、君を愛している……」
 残照の紅に立ち尽くしていた彼は、ようやく振り返った。
「トレーズ……」
 暗い蒼氷の眸から、耐えきれない想いが堰を切る。想いの全てを受け止めるように、トレーズは彼を抱き締め、唇を重ねた。
 唇を、ぬくもりを通して、ゼクスの震えが伝わる。その心を、その深くえぐれ血を流す傷の痛みを分け合う為に、トレーズは抱く腕に力を込めのめり込むように口吻けを深めていった。
 上がる水音の下で、小刻みに震える彼の手が背に縋り付いてくる。小さな子供のようにその手は硬く握りしめられ、口吻けの合間に息を継ぐたび、ぬくもりから離れたくないように、苦しい呼吸を殺して彼は自らトレーズの唇を追った。
 どんな凄惨な目に遭おうと、卑劣な手段で辱められようと、彼はトレーズの前に涙を見せることはない。胸の内に全てを秘め、自らを卑下することで己を切り捨てながら、醜悪な現実に耐え生き長らえている。だからトレーズまた、彼をその苦悩から救えない苦悩を告げはしない。
   許してほしい、と。
 ただ、彼を案じている者がいることを、必要としている者がいることを、それだけを言葉と肌のぬくもりで伝えるしか、トレーズに出来ることはないのだ。
 窓の外にはいつか残照さえ消え、無数の街の灯が白く夜空を遠ざける。
 窓際の壁にゼクスを預けながら、トレーズは常にはない激しさで唇をむさぼり、肌を暴く。
「トレ……ズ……」
 濡れた唇が、髪が、街下の白い光に照らされ淡い艶を放っている。潤んだ眸が苦しげに閉じられる前に、トレーズは再びその唇を塞いだ。
「今は何も考えなくていい。私が側にいる。君はただ、私を感じていればそれでいい」
 腕の中で快楽にくずおれる彼は、声も上げず、涙も流さず、ただ激情を押し殺すように泣いていた。



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