Allegro appassionato 5 翌日、デュオが無事な姿を見せた。大袈裟なほどに再会を喜ぶ彼は、いつも通りの騒々しさで、そのじゃれつく仔犬のような表情に、ヒイロはようやく何週間ぶりかの笑顔を浮かべることが出来た。少し離れたところで、トロワが意外そうな顔をしていた。 彼のはしゃぎぶりがいくらか落ち着いたところで、ヒイロは改めてトロワに頭を下げた。 「いろいろ世話をかけた」 腕組みをして壁にもたれていた彼は、身を起こしまなざしを緩めた。 「気にするな。これも条件の内だ」 「何だよ、条件って」 傍らのデュオがヒイロを見る。それには答えず、ヒイロはトロワから視線を外さなかった。 「俺が知っている事実は多くない」 「サエキについてのことを教えてくれればいい。あの男は、背後を探る重要な鍵だ」 ヒイロは1歩、話に踏み込んだ。 「俺もお前の調べに協力させてほしい」 「ヒイロ?」 デュオが眼を丸くしている。 「パリ市警に手配中の上に、今はまだ自由にならない身体だ。足手まといにしかならないかもしれないが、俺は奴に2度利用されて、2度追われる羽目になった。これ以上、奴の好きにさせるつもりはない」 トロワは特に感情をうかがわせない眸で、ヒイロを見返した。 「俺の調査は、個人を糾弾するものじゃない。俺を派遣したアメリカの目的は、端的に言えば、連合を各国の意向の下に機能していた従来の組織に戻すことだ。独自の意見を持ち、独立の組織として暴走している今の連合は、各国の脅威になっている。ヒイロ・ユイ暗殺に始まったその暴走の背景を調べ、本国に報告することが俺の任務内容だ。お前の報復の手伝いにはならないと思うが」 「CIAの講釈を聞くつもりはない。トロワ、お前はヒイロ・ユイを殺した≪ベガ≫の正体を突き止めたいと言った。あの言葉は、アメリカ諜報員として言ったものではないはずだ」 しばらくじっとヒイロを見つめていたトロワは、眼を伏せ、それまでの姿勢を諦めたように口許を緩めた。 「動機と目的は別、か。……分かった。協力を要請する」 「感謝する」 トロワのまなざしが、ふと心配げにかげった。 「だが、ヒイロ。お前はそれで本当にいいのか?」 デュオが、話の半分も分かっていないような顔をして、それでもどこかしら不穏な空気を感じて、不安げにヒイロを見つめている。 ヒイロははっきりと頷いた。 「俺は1度逃げた。だが、それで何一つ解決したものはなかった。これ以上眼を逸らしても無駄だということを知っただけだ」 トロワがぽつりと言った。 「きっと辛いぞ」 「ああ」 答える言葉は、それ以外になかった。 軽やかにキーボードを叩く音で眼が覚めた。 室内は暗い。窓にもブラインドが降ろされている。わずかに、部屋の中央に運び込まれた簡易式のテーブルの上が明るいだけだ。 デュオ、と呼びかけると、彼はピアニスト並みの早さで動かしていた両手を止め、凝視していたパソコンのモニターからひょいと顔を上げた。 「悪ぃ、起こしちまったか?」 「何をしている?」 「パスワードを探してる最中」 デュオは、持ち込んだ自前の機器の前で、ばつの悪そうに笑いながら頭を掻いた。 「パスワード? デュオ、お前……」 つい数時間前まで、彼はヒイロが事件に深入りすることを強硬に反対していたのだ。ヒイロは彼にSISにハッキングをかけるよう頼んだのだが、当然それも拒否されていた。 「ヒイロの決めたことに、俺が口出しすんのもおかしいよな、と思い直してさ」 その心境の変化が理解できず、ヒイロは訝しげに彼を見遣った。 「お前にもお前の考えがあるだろう」 「俺は、お前についていくって決めてんだよ。初めて会った時からな。それに……」 彼はらしくなく、うつむき加減に眼を逸らした。 「ヒイロがヤバい目に遭ったのは、俺のせいだからな」 「……どういうことだ?」 ベッドから肘をついて上肢を起こし、彼を見る。スタンドの灯りに頬を青ざめさせて、彼はモニターを睨み付けるようにしながら一気に話し始めた。 「俺、知ってたんだよ。ヒイロが受けた仕事の標的が、3年前に死んだマーガレット・スティングって女の元旦那ってこと。パリにいた頃、あのおばさんに当たりつけてたことがあったからさ。だからヒイロの仕事の内容聞いた時、俺何度か言おうとしたんだ。けどお前、あの女が死んだって聞いた時、血相変えて出て行ったじゃねーか。そのこと思い出しちまって、言えなかったんだ。 ……あん時お前、ゼクス・マーキスのとこに行ってたんだろ?」 思いがけない名前を聞き、驚いて眼をみはった。デュオは顔を上げて、頼りない笑みでヒイロを見つめている。 「1回、お前に黙って会いに行ったことがあるんだ。なんていうか、教会のマリア像みてぇなツラの男だったけど」 本人が聞いたらさぞかし機嫌を損ねる比喩だなとぼんやり思いながら、ヒイロはようやく口を開いた。 「それで?」 「あんたはヒイロの恋人か、って訊いて、どこをどうしたらそうなる、って答えられた」 ストレートな言葉にどきりとしたものの、ゼクスのいかにもそれらしい返答に、ヒイロは小さく吹き出した。 「ヒイロ……俺、至ってマジだったんだぜ」 「確かに、奴ならそう言うだろうな」 笑みの名残に目許を緩ませながら、ヒイロは斜にデュオを見た。 「お前が気にする人間ではないはずだ」 「お前はどう思ってるんだよ」 ベッドを降りて歩み寄るヒイロを、彼は睨み付ける。 「……過去のことだ」 いくら心が揺れようと、もう逢うつもりはない。それだけは決めていた。 「本当か」 「ああ」 ほつれ髪がかかる頬へ手を伸ばす。椅子を立ったデュオが中腰になり、ヒイロは身をかがめ唇を重ね合わせた。 何度も舌を絡ませながら、デュオが身体をすり寄せてくる。そのストレートな意思表示に苦笑しながらも、身体は素直に熱を感じ始める。 動かせる方の手を腰から双丘の谷間に滑らせ、衣服の上からなぞっていく。深く触れるたび喉と身体を震わせながら、デュオはヒイロのズボンの内側に手を差し入れてきた。 互いに互いの手管にあおられ、吐息混じりの声が口吻けの合間に漏れ始める。 と、うっとりと陶酔の表情を浮かべていた彼が、不意に顔を上げた。 「……ヒイロ、待てよ…待てって……モニター……んっ」 「どうした?」 意地悪げに愛撫を続けるヒイロを、彼は無理矢理突き放した。 「ったく。作業が終わってる。パスワードが見つかったぜ。これでいつでもハッキングできる」 瞬間的に、情欲が消えた。 「よし、今から始める。デュオ、頼むぞ」 そのあからさまな態度にムッとするデュオのことなど知らず、ヒイロは隣室で休んでいるトロワを呼びに行った。 「よし、開いた」 3年前、どれだけキーを叩いても無駄に終わったSISのデータベースへのアクセスは、何桁ものパスワードを何度も入力していくデュオの手により、いともたやすくヒイロの前に開かれた。 「さて、お2人さん、何を出してほしいんだ?」 デュオはどういう訳か、あまり虫の居所がよくないらしい。彼の後ろからモニターを見守るトロワが口を開いた。 「≪ベガ≫について」 「はいはい、双子座だか射手座だかの星座のヤツね」 「琴座だ」 「りょーかい」 カタカタとキーボードを鳴らしてキーワードを入力したデュオは、無造作に実行キーを押した。 固唾を飲むそれぞれの前で、画面は該当なしのエラー表示を出した。 「削除されたか……」 「特殊な検索システムを入れているのかもしれない。個別のファイルから洗い出していかなければならないようだな」 同じような冷静な口調を左右から聞かされて、デュオが肩をすくめた。 「まったく、ヒイロが2人いるみたいだぜ。で、次のキーワードは?」 自分が2人いるようだと言われて、やっぱりそうなのかと思いながらヒイロは指示を出した。 「≪アルファロ≫のファイルを出してみろ」 「へいへい」 今度はエラーもなく、顔写真つきの詳細な文章が現れた。本名や出身地の下に、彼が連合軍に入隊してからの経歴と業績が続いている。デュオに「データを落としておけ」と言いながら、大量に続く文字の群れをざっと読み流していったヒイロは、『サンクキングダム吸収計画立案』とあるのに目をとめた。A.C.179年。16年前だ。 「サンクキングダム? 連合が国を潰したのか?」 「……噂はあったが、まさか事実とはな」 トロワは顎に手を遣りながら、モニターを見る眼を鋭くした。 「あの小国は、クーデターで国内が混乱したところを連合に介入されて、今はJAPと同じ、連合の直轄統治地域になっている」 「北欧だったな……確か、大規模な鉱脈があると聞いたが」 「それにサンクキングダムの国王は、当時完全平和主義を提唱していた。字のごとく、妥協や例外を許さない完全な平和を目指す主義だ。追随する国家も相当数あった。それが武力主義の連合幹部の危機感をあおったのだろう。王家は、確か一族全員が惨殺されたはずだ。……いや、王子と王女が行方不明だったか」 「トロワ、少し調べてみてもいいか?」 トロワが怪訝な顔を向けた。 「気になることでもあるのか?」 「確か、ヒイロ・ユイも完全平和を主張していたと思うんだが」 「そうか……その関連は考えられるな。そのどちらも≪アルファロ≫が関わっているとなれば……」 「デュオ」 「ワードは『サンクキングダム』?」 モニターに別画面が表示される。サンクキングダムの項目で出てきたのは、16年前に仕組まれたクーデターの全貌だった。政府機関の中枢に武力をちらつかせて揺さぶりをかけ、あくまでも完全平和を貫こうとした国王をクーデターで抹殺させたところで、今度は内部対立を作り、内戦状態におちいらせる。 トロワの記憶通り、王国のピースクラフト王家一族はことごとく処刑、またはクーデター直後に不審な事故や病気によって死亡していた。それらを無表情に読み飛ばしていったヒイロは、最後の一文を見、息を飲んだ。 『 ヒイロは身を乗り出し、キーボードに手を伸ばした。デュオが驚いて何かを言ったが、耳を貸す余裕もなく文字を入力し検索する。ピースクラフト王家に関するデータは多くはなかった。写真も国王夫妻と幼い王女のものしかなく、しかし北欧人特有の色素の薄い髪や肌、特に王妃の髪と眼の色はまさに彼と同じプラチナブロンド、そして空色の眸だった。 大きくなる混乱に鼓動を早めながら、今度は『ゼクス・マーキス』を検索する。該当なしの表示が現れて、眉を引き絞った。 「コードネームは≪セレス≫だ」 静かな声にはっと振り向くと、トロワが腕組みをしたまま画面を見つめていた。激高の熱がすっと退き、ヒイロは軽く頭を振った。 「……済まない、勝手なことをした」 「かまわない。好きにしてみろ」 ヒイロは画面に眼を戻し、再びキーボードを叩いた。新しく画面が引き出され、彼の情報が現れる。スパイとしての経歴は、先日見たCIAの調査内容とほぼ同じだった。ただ、詳細不明となっていた活動を始めた頃の記録は、はっきりとした文面で記されていた。やはり、彼は14歳でスパイになっていた。そして、それ以前の過去は空白だった。 「……なんなんだよ、ヒイロ」 かすかに動揺したデュオの声が遠いところから聞こえ、ヒイロはようやくモニターの前から身を退いた。 「ヒイロ」 「なんでもない」 振り返る不審のまなざしから眼を逸らす。気まずさが重い霧のように2人の間に漂い、デュオが睨むようにして口を開きかけた時、トロワが独りごちた。 「この男は怪しいな」 はっとして視線を返した。トロワは食い入るように画面を見つめていた。 「A.C.189年頃から何度かJAPを訪れているのは、こちらも調査済みだが 「ヒイロ・ユイの暗殺は……」 「コロニーの時間で5月5日だ」 「こいつがその≪ベガ≫ってヤツなんじゃないのか」 デュオが突然口を開いた。 「≪ベガ≫がヒイロ・ユイを殺したんだろ? これ見りゃ、指図したってのが一目瞭然じゃねーか。それにあのマーガレット・スティングっていうおばさんも、こいつと関わった後に殺されてる。その元旦那だって、殺したことになってんのは、こいつと仲がよかったヒイロだ」 「何が言いたい」 デュオは勢いよくヒイロを振り返った。 「騙されてたんだよ、お前。なんで分かんねぇんだ? 奴がお前に近づいて手なづけたのも、全部芝居だったんだよ!」 黙ったままのヒイロの胸ぐらに手をかける。 「なんで何も言わねぇんだよ、ヒイロ。利用されて悔しくねぇのか? それともあいつに弱み握られて何も言えねぇのかよ!」 その時だった。最初に異変に気づいたのはトロワだった。 「なんだ……?」 危険を察した声に、掴み合いになりかけていた2人の動きも止まる。何の指示も与えていないのに、アクセスランプが点灯していた。画面が高速でスクロールを始める。下部からぞろぞろと現れたのは、ゼクス・マーキスの経歴とは明らかに無関係な意味をなさない文字列だった。 「ウイルスか?」 「これは……ただのウイルスじゃねぇ!」 デュオが声を上げた。 「接触した端末を汚染して、場所を特定するんだ。逆に仕掛けられてた。この場所が向こうに知れるぜ」 トロワが素早くパソコンの電源を落とした。だが、それでもアクセスランプは消えず、画面は狂ったようなスクロールを続ける。 「こっちの指示を受け付けないか」 「デュオ、探知されるまで、どのくらい時間がかかる?」 「SISなら性能がいいだろうから、1分以内だ」 「トロワ」 「分かった、すぐに車を回す」 トロワが身をひるがえす。足のつきそうなものを素早く片づけに入ったヒイロは、デュオが再びパソコンに取りつき始めたのを見て振り返った。 「デュオ、何をしている」 「まだ、なんとかウイルスを分離できるかもしれない。ヒイロ達は先に行ってくれ。どうしても駄目だったら、俺も逃げるから」 「相手は連合の情報局だ。居場所が特定されれば、数分で取り囲まれる」 「こいつは俺の商売道具なんだぜ。放って逃げられるかよ」 「デュオ」 「誰かがいた方が連中の目を引きつけられるだろ。早く行けよ。お前は怪我してるんだから」 「デュオ、もういい」 肩に手をかけようとしたヒイロを、彼は鋭い目つきで振り返った。それが、ふっと微笑む。 「人の厚意は素直に受け取らないと、罰が当たるぜ」 再び画面に眼を戻し、猛烈な勢いでキーボードを叩き始める。ヒイロはなすすべもなく、1歩後ずさった。ウイルスの侵入から、まもなく1分が経つ。 「……必ず逃げろ」 「了解」 顔も上げずデュオが答える。 「いつもの場所に24時間後。いいな、デュオ」 「お前もちゃんと逃げ切れよ、ヒイロ」 画面に眼を据えたまま笑みを浮かべる彼を、一瞬眸に焼き付けるように見つめ、ヒイロは完治していない足を引きずりながら踵を返した。 |