Allegro appassionato 4


 1週間は、何事もない静かな日々が続いた。
 もちろん、外界の動静はその間も刻々と変化を続けていたのだろうが、傷の為に発熱を繰り返し、眠りと覚醒の狭間を行き来していたヒイロの耳に雑音は一切届かなかった。朝夕診察にくる老齢の医師と、大抵決まった時間に顔を見せるトロワ・バートン。その2人の訪問が1日のスケジュールの全てだった。
 身体が損傷部分の再生に全力を上げている間、ヒイロは硬いパイプベッドの上で彼のピアノを聴いていた。ここで最初に眼が覚めた時聴いたドビュッシーをきっかけに、ヒイロはトロワに頼んでゼクス・マーキスの演奏が収録されているディスクを片っ端から集めてもらった。おかげで、CIAの所有だというこの殺風景な白い部屋も、ヒイロが起きている間は鮮やかな音の色彩に満たされた。
 あの日以来、彼のことは一切忘れたつもりで過ごしてきた。捨てられずにパリから持ち出した彼のディスクをかばんの奥に押し込めたまま、ピアノにもクラシックにも一切触れない生活を3年続けて、その反動が今、ここで溢れ出てきたのかもしれない。このパリで彼のピアノを聴いてしまったことが、堅く閉ざしたはずの心の扉を一度に決壊させたのかもしれない。
 ゼクスのピアノは、他のどんなピアニストのものとも違って聞こえる。情熱的に、繊細に、さまざまな色を帯びて起伏する旋律は、それがどんな曲であっても、なにか心の根底を揺るがす力をひそめている。戦慄してしまうほどのひたむきな力。はっと眼を見開かされる、魂を揺さぶられる、そういう気高く神々しいまでの強さがある。
 それはヒイロには痛みだった。懐かしさの中に響く音色は、ほっとさせると同時に胸を潰すほどに心を打った。
 ピアノの調べが胸を打つたび、逢いたい、と思う。それと全く同じ強さで、逢いたくない、と思う。そして結局、本当は過去を美化したいだけの現実逃避ではないのかと自嘲する。
 そろそろ身体も落ち着いてきた頃、いつものようにトロワが訪れた時もそうだった。
 ちょうどこの部屋で初めて聴いたあのディスクがかかっていて、小型のスピーカーからはドビュッシーが終わり、ラヴェルの曲が流れていた。
 外の冴えた空気を身にまとわりつかせた彼は、新しいディスクのパッケージをコートのポケットから差し出した。
「多分、これで最後だろう。先月出された新譜だ」
「先月? まだディスクを出していたのか?」
 確かにプロのピアニストであるとはいえ、彼の周囲は、彼の存在が公に立つようなことを好まないはずだ。
「彼のマネージメントをしている人物が、かなり変わっているんだ。欧州を牛耳っているロームフェラ財団の、多くの事業に携わっている男だが、それは名目上のことで実際はその夫人が全てを取り仕切っている。本人は酒瓶を手放したことのない、社交界でも有名な酔っぱらいだ」
 酔っぱらい、という言葉で、ヒイロは3年前に見たあの早朝の光景を思い出した。酒を飲むところを見たのではなかったが、あんな奇異な格好をする人間はおおよそ酔っぱらいだ。
「だが、これも自分の管轄下にある音楽プロダクションには、自分が社長になってそれらしいこともやっているらしい。ゼクス・マーキス個人のマネージメントも、社長自らだという話だ。よほど彼を評価しているか、個人的に親しいか、なんだろう。彼のディスクを出せば、当然その筋から圧力がかかるはずだが……そういえば、あの男はSISの長官とも面識があったな」
 ヒイロはかなりの確信と胸の軋みを抱えながら、トロワに尋ねた。
「その男の名は?」
「トレーズ・クシュリナーダ。ルクセンブルク公爵家の現当主、連合軍の将校でもある。ロームフェラの私設部隊の長官もやっていたな。まあ、名誉職のようなものだろうが」
 彼があの時、すがるように呼び続けた男の実体を、ヒイロは初めて知った。3年という時間の経過も全てを忘れようとしてきた努力も、何の効力も持たなかったことを痛感する。まるで時の流れを越えて、今があの時であったかのように、胸が痛い。
「……一度、訊きたいと思っていたんだが」
 気が付くと、トロワがじっと見つめていた。
「なんだ」
「お前はこのピアニストが好きなのか?」
 咄嗟のことに、ヒイロは思考回路を混乱させながら彼を見上げた。
「……どういう、意味だ」
 ダーク・グリーンの眸は、戸惑い混じりの疑問を浮かべていた。
「彼のことを話す時のお前はひどい顔をしている。曲を聴いている時はそれ以上だ」
 一瞬、意外な指摘に眼を見開いたヒイロは、眼を伏せて口許に薄い笑みを浮かべた。
「確かにそうだろうな」
「憎んでいるのか?」
 淡々としたトロワの声に、それ以上の意図は見えない。ヒイロは笑みを消して再び彼に視線を向けた。
「どこまで知っている?」
「俺が読んだ資料ではA.C.192の11月頃、ゼクス・マーキスのアパートにお前が頻繁に出入りしていたことが記載されていた。それ以上のことは俺は知らない」
 トロワは、問われればあけすけなまでに機密事項を話す。事実かどうかは確かめようもないが、それがヒイロを信用させる為か、それとも隠す必要を感じていないかとなれば、ヒイロはごく自然に後者の方ではないかと思っていた。彼とは、根の深いところが同じ形をしているような、そういう気がする。だからあまり他人といる時のような緊張感がない。彼もおそらく同じではないかと思う。
「CIAがゼクスを監視していたのか」
「彼はSISのスパイだ」
 気づいていたとはいえ、改めて言葉として突きつけられた事実に息が止まった。
「当時、彼と接触していた女が事故で死亡した。女からのアプローチがあって、CIAが彼女と接触しようとしていた矢先のことだ。当然当局は彼女の死因をただの事故死とは思わなかった」
「……それで、ゼクスとは接触したのか」
「いや、彼はSISからも監視を受けていて、近づくチャンスもなかったようだ。数日、どこかに監禁されていたこともあったらしいしな」
 ヒイロは表情の変化を隠すように顔を逸らした。外からは中が見えない特殊構造の窓には、夕暮れの木立が風に吹かれている。
「その女は何を持っていたんだ」
「≪ベガ≫だ」
 はっとして振り返った。トロワの表情は厳しいものに変わっていた。
「CIAに漏らしたのはその名前だけだ。だが、女はその名を口にした為に、交通事故を装って殺された」
「……≪ベガ≫?」
 胸に冷たいものが伝った。トロワは表情を変えず続ける。
「≪ベガ≫という名を口にしたのは、その女が初めてじゃない。3年半前にも、その名前が情報網に引っかかったことがあった。JAPに入植したアメリカ系移民が情報源だ。その男に話を漏らした『サエキ』という男は、直後に江口組の有力者『エンドウ』殺害の巻き添えとなった形で死んでいる」
「待て」
 ヒイロは愕然として口を開いた。
「確かに、親しくしていたエンドウを同時に殺して、サエキの殺しをカモフラージュするように指示されたのは事実だ。依頼したのもお前が考えている通りSISの人間だった。だが……」
「≪ベガ≫とゼクス・マーキスは、一本にしろ複数にしろ、つながった線上にある。お前が恐れているのはそれか」
「俺は……認められない」
 眉根を寄せるヒイロの肩に、トロワは静かに手を置いた。
「お前を追いつめる気も、巻き込む気もない。事実を知りたくなければ眼を瞑っていればいい。俺が追いつめたいのは≪ベガ≫だ。ヒイロ・ユイを殺した人間が何者なのか、どんな裏の駆け引きの果てに彼が殺されたのか、その真実を突き止めたいだけだ」
 沈黙した2人の間に、胸を掴むような物哀しいメロディが流れる。ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。繰り返しつむがれていく静かな音の流れに、彼はいったいどんな想いを込めて弾いたのだろうか。狂おしいまでに、メロディは切ない。
「……ゼクスはいつからスパイをやっていた?」
「いいのか?」
 ヒイロは迷いを断ち切る為に、きっぱりとトロワを見据えた。
「交換条件だ。お前達の要求は全て飲む。その代わり得た事実は俺にも知らせろ」
 彼は逸らすことなくヒイロの視線を受け止め、頷いた。
「隠すつもりはない。お前が知りたいのなら」
 トロワはディスクを再生中のパソコンに手を伸ばし、キーボードを叩いた。画面にめまぐるしい文字が競り上がる。それを眼で追い、処理していきながら、口を開いた。
   ああ、言いそびれていた。その交換条件一つだが、デュオ・マックスウェルと接触が出来た」
 物思いに沈みかけていたヒイロは、はっと顔を上げた。
「無事か」
「ああ。向こうもお前を捜し回っていたらしい。今は市内の安全な場所にいる」
 肩から力が抜けた。
「そうか……」
「市警の動きがまだ慌ただしい。ここへ連れてくるのは明日になると思うが」
「分かった」
 画面が検索のスクロールに入ったらしく、トロワはちらりとヒイロに視線を向けた。
「お前は知らずに引き受けたのだろうから、これも言っておく。さっきの話には、まだ続きがある。ゼクス・マーキスと接触して殺されたマーガレット・スティングという女は一度離婚していたが、当時その相手と慰謝料の額を巡って裁判中だった。もめていた元の夫の名はフィリップ・フェネシス侯爵。2週間前、お前が死体で面会した、あの男だ」
「なに……」
 言葉を失った。ヒイロが殺す前に殺されていた男と、あの女はつながっていた?
「フィリップ・フェネシスは、マーガレット・スティングの一件以来CIAが懐柔しようとたびたび接触を図ってきた男だ。フェネシスは接触するたび、身の危険を感じて怯えていたらしい。一度≪ベガ≫に殺されると、漏らしたことがある」
 プリンターが作動し始める。
「お前が侵入直後にフェネシスの屋敷を取り囲んだ市警の連中は、フェネシス側の依頼や通報などで動いたのではないことは、CIAでも確認済みだ」
 ヒイロは毛布の下で右のこぶしを握りしめた。撃ち抜かれた左手は、まだギプスに覆われて動かすことも出来なかった。
「俺は、替え玉にされたのか……」
 トロワはプリンターから吐き出された書面をヒイロに差し出した。端正な顔写真と身体的特徴の下に続く長い文字の羅列は、ゼクス・マーキスのスパイとしての隠れた経歴だ。
「まだ訊いていなかったな。フィリップ・フェネシスの殺しをお前に依頼したのは誰だ?」
 紙面に眼を釘付けにしたまま、ヒイロは低い声で答えた。
「≪アルファロ≫だ」
    AC187、189頃からフランス、ドイツ、中国などの政府要人に対する、重要機密文書の受け渡しを行っていたとみられる。詳細は不明    .
 当時、彼は14、5歳だ。
 あの時の彼の言葉が蘇る。
    14の時からだ。この身体と引き換えに、私はあの男と契約した   .
 ヒイロは引き裂くように虚空を睨んだ。
「ゼクス・マーキスをスパイに仕立て上げた、SISの男だ」



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