Allegro appassionato 3


 眼を覚ましたのは、時計の針が午後を指してからだった。
 広い寝台に独り身を起こしたゼクスは、そこが見覚えのある懐かしい場所であることに気づいて、ゆっくりと瞬きをした。夢の中のような霧がかった昨夜の記憶が、おぼろげに蘇ってくる。うつむいて溜息を洩らすと、髪を掻き上げながら寝台を立ち、ローブを羽織る。
 シャワーを浴びたあと、バスローブ姿のまま部屋続きの隣室へ足を向ける。そこには傷一つない漆黒のグランドピアノが置かれていた。かつてロシアの将軍の持ち物だったもので、その名前を取って『ステッセル』と呼ばれている。古い型だが、今では現存数も少ない貴重な名器だ。
 重厚なおもむきをたたえるピアノに歩み寄り、椅子に腰を下ろす。白鍵に指を触れる。ひんやりとした感触がシャワーに打たれた指先に心地よい。確かめるように数音弾いて、ゼクスは両手を鍵盤に乗せ、背筋を正した。
 幾つもの音の羅列がハープのように紡がれ、繊細な流れとなって室内に溢れ出す。
 ショパン12の練習曲、第1番変イ長調。『牧童』または『ハープ』とも呼ばれ、穏やかな曲調の中に牧歌的な雰囲気と、どこか切なさを誘う幻想的雰囲気が美しく溶けあう。川の流れのような優しげな曲だが、弾きこなすにはそれなりの手腕が要求される曲だ。
 それをこともなげに弾き流すゼクスは、緩くうつむき加減の頬を午後の光に染めながら短い曲を終え、立ち戻った静けさの中をそっと手を引いた。
 小さく吐息した背に、穏やかな声がかかった。
「……随分、哀しげな牧童だね」
 ゼクスはゆっくりと振り返った。寝室の方ではない、廊下に通じる扉に背を預けた軍服姿の青年が、優雅に身を起こしゼクスの許に歩み寄る。軍服の青紫せいしが眼に鮮やかだ。
 トレーズはロームフェラ財団が全面的に出資している士官養成所の所長であり、養成所出身兵を主力とした連合内の独自組織、SMSスペシャルズの長官でもあった。
 貴族然とした容貌と乱れた日常からは想像もつかないが、彼がこうして軍服を身にまとった時、彼が持つ優雅さと軍人独特の厳しさはぴたりと一致する。
 不意に現れた存在にも、ゼクスはいつもと変わらぬ声で問いかけた。
「軍の視察ですか?」
「ああ、早朝だったのでね。君を起こさないようにしたつもりだが……よく眠れたかね?」
「ええ」
 背後に回った彼の腕が、椅子に座るゼクスを包む。ゼクスはその温かな胸に頭をもたせかけた。
「……私は、ピアニストには向いていないのでしょう。以前にも言われたことがあります。陰気なピアノを弾いていると。作曲者がその曲に込めた想いより、その時の自分の感情が出てしまうというのは、未熟というより適正に欠けているからなのでしょうね」
「そんなことはない、ミリアルド」
 トレーズは彼の髪に口吻けながら言葉を返した。
「君の演奏は聴く者の心を打つ。何千もの聴衆が君の音色に酔いしれ、喝采の拍手を惜しむことはない。なにより私の心を動かすのは君の演奏だけだ。私は君がピアノを弾いてくれるたびに、魂の至福を感じるよ」
 包み込む腕の温かさに眼を閉じた。
「私は貴方のピアノが好きでした。貴方のように弾きたいと思ってピアノを始めたのに、何故辞めてしまったのです?」
「嬉しいことを言ってくれるね」
 笑みを含んだ声が、柔らかな光のように降りてくる。
「だが、君のようなすばらしいピアニストが側にいるのだから、私が自ら弾く必要はないだろう?」
「鍵盤が重くなっています。たまには誰かが弾いてやらないと、このステッセルがかわいそうだ」
「このピアノは君でないと良い音色を出さないのだよ。君に恋しているからね、私と同じに」
 耳元に囁きが落ちる。
「帰ってくればいい、ミリアルド。そしてここでまた、ピアノを弾いてくれないか?」
「……何を言っているのです」
 頬をなぞる手に手を重ねながら、ゼクスは素っ気なく言葉を返した。
「少しはご自分の保身を考えてください。こんなことをしていては、貴方に不要な嫌疑がかかる。彼の執拗さはご存じでしょう? それともまた酔っていらっしゃるのですか?」
「今日はまだ素面だよ。酔った姿で兵士達の前に出る訳にはいかないからね。それとあの男には、君をここへ連れてくることは承諾させている。君が心配することは何もない」
 ゼクスは驚いて眼を開いた。トレーズは変わらない柔らかな笑みで見降ろしている。
「本当ですか?」
「あの男はあの男なりに心得ているのだよ。契約に縛り続けるだけでは、必然的に使う人間の反発を招くものだ。彼が私を利用し続けるつもりならば、時には幾らかの手心も講じるだろう。……尤も、友人を自宅に招くのに、他人の許可が必要だとは、私は思っていないがね」
「トレーズ」
 ゼクスはとがめる視線で彼を見上げた。彼は悪戯好きの少年の眸で笑って、それから、ふ、と眼を細めた。
「そんな顔をしないでくれ。大丈夫だよ、ミリアルド。君が悲しむようなことはしない」
 見上げるゼクスの胸に、痛みに似た切なさが滲む。ゼクスは身を起こし、振り返って訴えた。
「私は一人でやっていけます。どうか、私に構わずご自身を大切になさってください。ご心配は要りませんから」
 腕を解いたトレーズが、ゆっくりと身を屈め、頬を寄せる。
「……判った」
 間近に見つめ合う眸の中に、互いに同じ痛みを見る。自ら進んで運命の糸に囚われる人を、その苦しみから解き放つには離れるしかないと知りながら、それが出来ずにいる、想い故の自責。
 彼の掌が頬に触れ、痛みを噛みしめるようにして眼を閉じたゼクスは、柔らかに押し包む口吻けの感触をその唇に受けた。
 声もなく静かに唇を重ね合い、やがて舌が絡み深まる愛撫に吐息が洩れる。
 カタ、と扉の動く音がした。
 視線を感じて彼から身を離すと、戸口に女が一人、扉に手を触れるようにして立っていた。
 同じく振り返ったトレーズが彼女を見留め、穏やかな声をかけた。
「レディ、何かあったのかね?」
 彼女の眸は無彩色だ。眼にするたびゼクスはそう思う。だが、先程の彼女は確かにトレーズではなくゼクスを見ていた。
「……いえ」
 細い声で、彼女は左右に首を振った。ブラウンの長い髪が、揺れて首に絡む。鈍い動作。変わらない表情。か細い声。まるで操り人形だ。痛ましい思いに、ゼクスは椅子を立ってトレーズから離れた。
 トレーズは彼女にもそんなゼクスの反応にも気を留めていないように、変わらないまなざしを彼女に向けている。
「レディ、ブランデーを持ってきてくれるよう頼んでくれないか? 彼にはフルーツジュースを」
 ブラウンの髪をたおやかに揺らして、彼女は頭を下げた。
「かしこまりました、トレーズ様」
 現れた時と同じように音もなく退がるレディ・アンを、そして己の妻の姿を穏やかに見遣るトレーズを、ゼクスは複雑な思いで見つめた。 



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