Allegro appassionato 2


  その日の夜、SIS本部にも近いプレジタン・ウィルソン通りのバチカン大使館で開かれた晩餐会に、ゼクスは楽士として出席した。
 出席者はロームフェラ財団関係者が中心で、その中には《アルファロ》やトレーズの姿もあった。
 緩慢に起こる談笑やグラスの触れ合う音の中で、ゼクスはショパンのノクターン集を弾いていた。周囲に一切気を散らすことなくひたむきに鍵盤に向かうその姿に、華やかに飾り立てた女性達の熱っぽい視線が投げられる。演奏は言うまでもないが、ゼクスはそのたぐいまれな容貌においても常に衆人の注目を浴びる存在だった。
 その日の彼は、いつもにもまして表情がないように見えた。肌はシャンデリアの光に透けるように白く、鍵盤を指が走るたびに揺れて煌めく髪の下の蒼い眸は、まるで何も映していないかのように茫洋としていた。それでいて、そこから生み出されるピアノの旋律は、静かでありながら聴く者の心を揺さぶる強い波動が秘められ、痛みを覚えるほどの切なさを呼び起こさせる。まるで彼の魂が身体から抜け出て、その全てが音色に乗り移っているかのように。
 聞き惚れる貴婦人方の様子につられて、一人二人とピアノの音色に耳を傾ける者が増えていく。ノクターン変ニ長調を弾き終えた時には会場の半数余りが演奏に聴き入り、鍵盤から静かに手を引いた彼に大きな拍手が向けられた。
 感嘆と拍手の音の中、しばらくぼんやりと動けずにいたゼクスは、ようやく椅子から立ち上がり人々に会釈を返した。流れるプラチナの髪がさらさらと頬に零れ、それを待ちかねていたかのように女性達が彼に群がる。
 だが、彼が取り囲まれようとした一瞬先、彼を護るように手を差し伸べた男がいた。
「失礼、ご令嬢方。彼は具合が悪いようだ」
 ゼクスの肩を抱く優美な所作に、彼女達の足が止まる。
「まあ、お加減が悪いのですか?」
「それは大変だわ」
 トレーズはされるがままの彼を支えながら、女性を魅了するには充分すぎるほどの涼やかな視線を彼女達に向けた。
「失礼を承知で申し上げるが、今は彼を静養させたいのです。お話はまた後日ということで、お許し頂けるでしょうか」
 常にアルコールと共にある、それでも優雅で話術に長けた酒飲みの、珍しく冴えた表情を見て取り、彼女らは否応なく申し出を承諾した。
   今日のトレーズ様は、いつもにもまして素敵でいらっしゃるわね」
   ゼクス様のご友人で、あの方のマネージメントもされておいでですもの。ご心配なのでしょう」
 そんな会話を背後にゼクスを抱き寄せ玄関へ向かうトレーズは、さんざめく人混みの中から鋭い視線を感じて、まばゆい光に満ちた会場をまなざしで撫でた。今日の主催者を囲む数人の話の中で《アルファロ》と目が合う。一瞬、互いに険しい視線をぶつけ、だがトレーズはそれきり何事もなかったかのように彼を連れて大広間を出、大使館を後にした。
 ピアノを弾くことに、身体も精神も持てる全てを出し尽くしてしまったのだろう。郊外の私邸でシャトルに乗り換えルクセンブルグの城館に着くまで、彼はトレーズにもたれかかったまま一言も口にしなかった。自分がどこに連れられてきているのかも知らないように、導かれるまま玄関ホールから階段を上りトレーズの寝室へと足を踏み入れたゼクスを、トレーズは改めてそっと抱き締めた。
 力なく胸に身体を預けるゼクスを全身で包み込み、トレーズは密やかに眉を寄せながら呟いた。
「かわいそうに……」
 彼が初めて言葉を発した。
「哀れみ、ですか……?」
「ミリアルド」
 トレーズは艶やかな彼の髪を、愛おしく撫でる。
「言葉というものは、本来胸の内の想いを伝える手段では有り得ないのだよ。発される言葉は、本心でありながら同時に偽りでもある。だからこそ、人は孤独なのだ」
 掌に滑る髪の感触が心地いい。ゼクスはその手の下に、じっと身をゆだねている。
「……それでは今の言葉も……言葉で語られるものは、全てが偽り……幻、ですね」
「ああ、そうだ」
「貴方も、幻ですか?」
 トレーズは彼の頬へと手を滑らし、包むようにして顔を上げさせた。
「……そうだよ、ミリアルド。君を戒めるもの全ては偽りだ。今夜の私も、私の言葉も……だから案ずることは何もない。君は安心して私に溺れておいで」
 ゆっくりと頬を傾け、軽い口吻けを繰り返す。触れ合うたび微かな音を残しながら口吻けはいつか深まり、息が上がるほどの絡み合いに変わっていく。足の力が抜けかけた彼の身体を掬い上げてようやく唇を離したトレーズは、彼を寝台に運ぶと漆黒のジャケットを脱ぎ、横たわる彼に身体を重ねた。
 唇に頬に口吻けを贈りながら、正装のジャケットを脱がせ、タイを外し、無防備な胸に手を滑らせるようにしてシャツのボタンを外していく。愛撫に身をまかせるゼクスは泣き疲れた子供のように眼を閉じ、だがトレーズの指先が下肢にまで降りるとびくりと身体を震わせた。
 急に強ばる身体を優しく抱いて、トレーズはその頬に手を差し伸べる。
「怖がらなくていい、眼を開けてごらん」
 うっすらと開いた蒼氷の眸を、微笑んで覗き込む。
「ここにいるのは私だ。こうして君を抱いているのは、他の誰でもない、君だけの私なのだよ」
「私の…トレーズ……」
「そう。力を抜いて……」
 絡みついてくる指に喘ぎ、ゼクスは呟いた。
「貴方は、優しすぎる……」
「そんなことはない」
 下りたジッパーの隙間から指先を滑り込ませる。布越しではない直接触れられた腰が反射的に跳ねる。ゆったりとした愛撫で彼を燃え立たせながら、トレーズは感じるたびに甘い色香を深めていくその表情を間近に見つめる。
「優しすぎるのは、君の方だ……」
 何度か色づいた声が上がり、彼の手が愛撫するトレーズの手に重ねられた。
「ぁ……トレ……ズ………」
 トレーズは彼の耳許に息を吹きかけるようにして囁いた。
「乱れていいのだよ。私の前で、なにも堪えることはない」
 震えの波が背筋を走る。そのまま耳朶に下を這わせ、堪らず嬌声を上げてよじる身体を抱き締めながら、衣服の下のトレーズの指はゆるやかに彼から理性の枷を取り去っていく。
「あ……はぁ……ぁ……」
 切なげに眉を寄せるゼクスの表情を見て取り、トレーズは上肢を起こした。細く溜息を洩らすその足に絡まるスラックスを取り払い、長くしなやかな足の内側を唇に触れ、そして両足の中心に息づく欲望の証に口吻ける。
「あっ……!」
 敏感な反応に眼を細めながら、トレーズは震えるそれを口内に含み入れた。手首にシャツが絡んだままのゼクスの手が、耐えかねたようにトレーズの髪に伸ばされる。トレーズを楔に開かれた両足は小刻みに震え、途切れのない艶やかな喘ぎ声にトレーズの唇から洩れる水音が重なる。
 透けるような白さの肌がほのかに染まり、しっとりと汗ばんだ首筋に乱れた髪を絡ませながら何度も首を振るゼクスは、昇りつめた瞬間、声を途切らせしなやかに身を反らせた。
 放たれたものを飲み干し、身を離す。長い髪をシーツに散らし、暴かれた裸体にシルクのシャツをまとわりつかせて放心している姿は、限りなく扇情的で同時に抱き締めずにはいられない、込み上げるような愛しさを覚えさせる。
 自らの衣服を脱ぎ捨てたトレーズは、再び彼に身体を重ね、その背を抱き上げて最後に残されたシャツを腕から落とし、隠すもののないあらわな肢体を抱き締めた。眼を閉じた彼の頬に頬を寄せ、しっとりと汗にけぶった肌に触れ合う。薄く開いた唇に唇を重ねると、受け入れた彼は従順に応えてきた。幾度も角度を変え絡ませ合いながら深く浅く互いを求め、目眩に似た光彩を脳裏に描き合う。
 口吻けを交わしながら、トレーズは背筋から腰へ指を滑らせる。そのまま双丘の谷間へと落ちると、封じられた喉の奥で声が上がった。彼の舌の動きが鈍り、僅かに顎が上がる。苦しげなその唇を逃さないまま、トレーズは彼の体内へ指を分け入らせた。
 内部は既に熱を持っていた。一旦は反射的に指を吐き出そうとし、だが強引に奥へ進めていくとすぐに内壁の緊張はゆるみ始め、やがてとろけるような熱さで貪欲にトレーズの愛撫を飲み込んでいく。
 口吻けから逃れようとする仕草も消え、とろとろと応じながら時折腰を震わせるゼクスは、酔ったような恍惚とした表情でうっすらと眼を開いていた。
「ミリアルド……」
 長い口吻けから顔を上げ、かすれた声で耳許に囁くと、彼は感じやすい箇所に触れられた時のように、細かく全身を震わせた。
「愛している」
「トレーズ……」
 両足を肩にかけ、浮き上がった箇所に腰を当てる。触れ合っただけで鋭い痺れが走り、トレーズは眉を寄せながら体内に挿し入った。
「あ…あああ……っ!」
 ぴんと身体が張り詰める。長い絹糸の髪が乱され、のけ反った喉から押し出される声に欲情が絡みつく。それでもトレーズはゆっくりと身体を進め、焦れる彼を散々に乱しながら時間をかけて全てを埋め込んだ。
「あ……や……トレ……っ」
「ミリアルド、おいで……」
 身悶えるゼクスの腕を取って肩に回させ、腰を揺らし始める。肩からずり落ちた足がトレーズの腕に折れ、半ば宙に浮くような形でしがみつくゼクスは、ただ感じるままのなまめかしい声を上げた。
「ミリアルド……」
 意識の枷が薄れ、徐々に突き上げの激しさが増していく。互いの鼓動の高まりを感じながら、トレーズは彼の頬を包むようにして口吻けた。強く唇を重ね突き上げると、唇がわななく。腕の中でトレーズの愛撫をねだり、拒む仕草に、痛いように愛しさが募る。
「は……あぁ…あああっ!」
 きつく眼を閉じ叫びを上げるゼクスへ、びくびくと震える内壁に、トレーズは溢れるほどの愛欲のしるしを注ぎ込んだ。



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