Allegro non troppo 7


 流れる旋律を描いてピアノの音色が降りてくる。
 ……ああ、そうか。アラベスクだ。ベルガマスク組曲と同じ、ドビュッシーの曲だ。
 まるで青い水の流れのように、揺れそよぐ薄絹のように、彼の手から生まれる旋律は、空に様々な音の弧を描いて流れていく。
 意識がはっきりしてくるとともに鈍い頭痛が疼き、ヒイロはゆっくりと眼を開いた。
 そこはカルディナル・ルモワアーヌの彼の部屋ではなく、見憶えのない場所だった。壁も天井も白く、一瞬ここが病院かと思ったほど殺風景で何もない。当たり前だ。あれから数日後に、彼が落ち着くのを見計らってヒイロはパリを発ったのだ。以来3年間、今回の仕事を受けるまで、パリへ戻ったことも彼に会ったこともない。
 僅かに周囲に首を巡らせたヒイロに、不意に声がかかった。
「いい曲だな。ピアニストの腕のせいもあるんだろうが」
 咄嗟に身構え、その途端左腕に激痛が走った。
「その左腕だが、銃弾が食い込んで骨折していた。完治するまで2ヶ月だそうだ」
「誰だ」
 その男は壁際の椅子に膝を組んでいた。傍らのスチールテーブルにはノートタイプのパソコンとそれに接続された小さなスピーカーがあり、ゼクスのピアノはそこから流れていた。
 曲はアンダンティーノ・コン・モートが終わって、もう一つのアラベスク、アレグレット・スケルツァンドに変わる。
 男はヒイロと同じくらいの歳の青年だった。細身の身体つきマスタード・ブラウンの髪。ダーク・グリーンの眸には、奇妙に落ち着いた雰囲気がある。
「トロワ・バートンだ」
 彼は静かに答えた。
「CIA(アメリカ中央情報局)に所属している。今調査しているのは、ヒイロ・ユイ暗殺の真相についてだ」
 淡々と正体を明かす彼を、ヒイロはベッドにうずくまったまま不審げに見遣った。
「5年前暗殺されたコロニーの指導者だ。知っているか?」
「……L1コロニーの代表だった男」
「そうだ。宇宙コロニー群の初代大統領になるはずだった男だ。お前と同名の」
「俺とは何の関係もない」
 どういう訳か、ヒイロは既に彼に対しての警戒心を解いていた。よく判らない男だが、ヒイロに危害を加えるつもりであの屋敷から拾ったのなら、とうに実行済みのはずだ。何かヒイロから情報を引き出すつもりなのだとしても、この男の態度に後ろ暗いところはない。
 トロワは真面目な顔で首を振った。
「彼の血縁を調べているんじゃない。お前が4年ほど前に暗殺を依頼され実行した、サエキという男のことを訊きたい」
 ヒイロはトロワの顔を凝視した。ヒイロがエンドウを殺したことなど、JAPのヤクザに訊けば誰もが知っている。だが、あえてサエキの名前だけを出してきたこの男は、一体何を嗅ぎつけてきたのか。
 トロワは相変わらず淡々とした口調で続けた。
「彼はヒイロ・ユイ殺害に関する重要参考人だった。お前は《ベガ》というコードネームに聞き覚えはあるか?」
 跳ねるように軽快な、アラベスク2番が終わった。



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