Allegro non troppo 6


 いぶかしむデュオに何も説明しないまま、ヒイロは彼の部屋で彼の帰りを待ち続けた。
 その間、無駄と知りつつあちこちに探りを入れてみたが、彼に関する情報はやはりどこからも得られなかった。彼を連れ去った車のナンバーは警察に登録されてはおらず、情報局(SIS)にハッキングを仕掛けようにも、ガードが厳重でヒイロの腕では侵入することができない。デュオなら可能だったかもしれないが、彼に事情を話したくはなかった。
 数日が無為に過ぎ、ゼクスが戻ってきたのはそれから5日後の夜だった。
 アパートの前まで車に送られてきた彼は一見普段と変わらないように見えたが、憔悴しているのは明らかだった。車が走り去ってからアパートの前までヒイロが出迎えると、彼は辛そうな眼でヒイロを見た。
「ヒイロ……」
 肩を貸しながら、ヒイロはあえて彼が言おうとしていることとは別の話を口にした。
「お前の犬は元気だぞ。俺の手にはとても負えない」
「そうか……済まなかった」
 彼は立っているのもままならない状態で、階段を一段登るたびそのほとんどの体重がヒイロの肩にかかってきた。彼の方が身長がある為に何度かバランスを崩しながらも最上階の部屋に辿り着いたヒイロは、彼を寝室まで引きずりなんとかその身体を横たえた。
 帰りを待ちかねていた仔犬が、喜んで足許に飛びついてくる。その襟首を掴んで隣の部屋へ放り込み、彼の状態を窺うと、ベッドサイドの明かりだけでは判然としないが、それでも顔色が悪いのははっきりと見て取れた。
「何か飲むか?」
「ヒイロ」
 キッチンへ行こうとして、腕を触れられた。指先が微かに震えていた。
「君はもう、私と関わるな」
 冷たい指先に、ヒイロは掌を重ねる。
「薬を打たれたのか?」
「はぐらかさないでくれ、ヒイロ」
「判っている」
 薄暗闇の中で僅かに上肢を起こした彼の双眸は真剣な色を帯び、糖蜜の光に煌めくその眸は、憔悴していながらもひどく美しかった。
「このままでは君にまで迷惑がかかる。私のことのに君を巻き込みたくない」
「判っている」
 ヒイロは彼の手を握り込んだ。
「だが、こんな状態のお前を放っていく訳にはいかないだろう」
「私のことはいい……」
「ゼクス」
 彼の言葉を遮って、ヒイロは強いまなざしで彼を制した。
「俺の好きにさせろ」
 驚く彼から離れ、キッチンでグラスに水を注ぐ。寝室に戻ると彼は身を丸めるようにして自分自身の身体を抱き締めていた。徐々に震えが大きくなっていく。何かの薬  恐らくは麻薬の禁断症状が現れ始めているのだ。
「ゼクス、大丈夫か?」
 覗き込むヒイロを拒み、彼は微かに首を振った。
「こないでくれ……見られたくない……こんな………」
 びくり、と身体が小さく跳ねた。その拍子に袖口から傷付いた手首が覗く。鎖かヒモのようなもので戒められていた痕だ。しっとりと浮かぶ額の汗に髪をほつれさせながら、彼はうっすらと眼を開き、懇願するようなまなざしでヒイロを見上げた。
「ヒイロ、出て行ってくれ……君に見られたく…ないんだ……」
 彼の身体が再び震え、引きつったように息を詰める。彼の身体は麻薬の途切れ間に何かを思い出そうとしている。苦しげに上がる吐息があまりに艶めかしくて、ヒイロは息を飲んだ。彼はただの拷問を受けたのではなかったのだ。漠然と予想はついてたが、それでもヒイロは動揺した。ナイフを突き立てられたかのように胸が痛んだ。
 ヒイロは動揺を押し殺して首を振った。ゼクスの身体が身震いするように震え、ぎゅっと眼が閉じられる。
「頼む…から……ヒイロ……っ」
 ゼクスの喉奥から、耐えかねたような小さな声が上がった。自身の腕を抱く爪の先が、シャツに食い込んで震えている。
 まるで抱かれているようだ。一瞬の錯覚が脳裏をかすめる。男の腕の中で、執拗にいたぶられ焦らされて悶える、その仕草。
 乱れ髪を首筋に絡ませ、眉を寄せて堪え忍ぶ表情は鳥肌が立つほど妖艶だった。それなのに娼婦のような淫らがましさは微塵もない。
 まとわりつく思いを無理矢理振り払い、ヒイロは彼の手首を掴んだ。反射的に彼の身体がびくりとし、かすれた叫び声が上がった。
「触るな!」
「ゼクス!」
 払いのけようとする手首をさらに強く握り締める。必死の思いで見つめていると、不意に彼は抵抗の力を抜いた。
「ヒイロ……私は………」
 荒い呼気に胸を上下させながら、ゼクスは捕らわれていない方の手で額を覆った。
「君に、隠していることがある」
 突然、不安が胸に突き上げた。「誰にでも、隠し事はある」と話を逸らそうとしたが、彼は自虐の笑みを浮かべながらヒイロを見上げた。
「私が…今日までどこにいたか知っているか? 君も名前だけは聞いているだろう。それとも、直接会っているかもしれないな。……私は《アルファロ》の自宅に監禁されていたんだ」
 ヒイロは眼を瞠った。半年前ヒイロに接触し、殺しを依頼した人物。使いの者を寄越しただけで、コードネームしか知らないその相手の名が《アルファロ》だった。
「あの男の趣味は最悪だ。絶対にすぐには尋問しない。散々いたぶって、相手の意識がおかしくなるまで手を緩めない。あの男は私を飼っている気でいるから、なおさらそうなのかもしれないが……必ず私の方からねだるよう仕向けてくる。私が哀願して縋り付くまで、あの男は……」
 ゼクスの身体が小刻みに震え出す。
「もういい、ゼクス」
 顔色が蒼白になっていた。ゼクスは震えながら寒いと呟いた。毛布を重ね暖房を入れてもそれでも寒いと言う。ヒイロは自分自身に確かめた。感情に流されないだけの強さが、今の自分にはあるだろうか。
 一度きつく眼を閉じて、ヒイロは靴を脱ぎゆっくりとベッドに上がった。重みがかかった瞬間、ゼクスの身体が大きく跳ねた。
「やめろ……っ!」
 悲鳴を上げて逃れようとする彼を、毛布の上から抱き締める。
「ゼクス、心配ない。お前の身体を暖めるだけだ。何もしない」
 その声に初めて気がついたように、ゼクスの動きが止まり、顔を上げる。
「ヒイ……ロ……?」
「そうだ、俺だゼクス。判るか?」
「触れ…るな。私は汚れている」
 抗おうとする手をヒイロは掴んだ。
「汚れてなどいない、ゼクス」
「違う! 言っただろう、私があの男と何をしたのか……14の時からだ。この身体と引き換えに、私はあの男と契約した……私はあの男の玩具だ……身体も、心も……!」
「自分を傷つけるのはやめろ!」
 渾身で発した声に、腕の下の身体がびくりとした。
「もうこれだけ傷つけられているんだ。それ以上、自分をえぐるような真似はよせ」
 囁くような声で顔を寄せる。
「お前は汚れてなどいない。俺には見えない。お前はこんなに……苦しんでいる」
 彼の眸が、泣き出しそうに揺らいだ。決して視線を合わせようとしないまま、彼はきつく眉を寄せていく。
「違う……私は………」
 突然、ゼクスは身体を震わせた。小刻みな震えが全身に広がる。
「ゼクス」
「っ……く…ぅ………」
 唇を噛みしめた顔が大きく反り返る。シーツの上に長い髪を乱しながら、彼は身をのけ反らせた。
「あ…ぁ……やめ……いや…だっ……!」
「ゼクス!」
 薬の幻覚に犯され、脅える腕がヒイロを押し退けようと胸を突く。だが震える腕の力は弱々しく、逆に縋り付くかのような拒絶の仕草は、ヒイロの男としての本能を激しく煽った。身体の芯が熱く燃え上がる。それでも目眩がするほどの灼熱をこらえ、ヒイロは暴れて自分自身さえ傷つけかねない彼を押さえ、抱き竦めた。
「ゼクス!」
「いやだ……やめて…くれ…もう……っ」
「ゼクス……!」
 悪夢に犯される彼を腕に抱きながら、ただ名を呼ぶことしか出来ない。何も出来ない痛みに飲み込まれて息が詰まる。ヒイロは無力感に陥った。自分では、彼を楽にしてやれない。ここにいるべきなのは、彼が求めているのは自分ではないのだ。
 その時、あの名前が脳裏に浮かんだ。あの奇妙な出で立ちの紳士が囁いた名。
「ミリアルド……」
 彼の抵抗が止まり眸が、ふ、と動いた。絹糸の髪がまつわりつく顔が、ゆっくりとヒイロを見上げる。
「……トレーズ……?」
 束縛から逃れた手が、まるで手探りのようにヒイロの頬に伸ばされる。
 触れる指先から震えが伝わり、ヒイロはその手に強く自分の掌を重ねた。
「トレーズ……?」
 鍵盤に触れるたび物哀しく美しい音色を紡ぐ、しなやかな指。その感触を確かめながら、軋みを増す胸の痛みをこらえ、ヒイロは幻を追う彼の為にもう一度、名を呼んだ。
「ミリアルド」
「トレ……ズ……トレーズ……」
 両手がヒイロの肩に回る。それまで頑なにヒイロを拒み続けたその身体を、ヒイロは苦しさに押しつぶされながら抱き締めた。
「もう、誰も何もしない……もう大丈夫だ……」
 子供のように手がシャツを握り締めてくる。その懸命な指先の力が哀しい。
「大丈夫だ、ミリアルド……」
 悪夢にむしばまれ震えながらうわごとのように名を呼ぶ彼を、ヒイロはきつく抱き締め続けた。




 白々とした朝の光の中、ようやく眠りについた彼を見つめる。
 一晩中うなされ極限にまで憔悴した身体に生気はなく、昏々と眠るその寝顔は本当に魂のない人形のようだ。
 ヒイロはシーツに散らばった彼の髪に手を伸ばした。おぼろげな朝陽を受け、透き通るように煌めくその一房を掌に掬い上げる。
 さらさらと指の間から、髪はこぼれ落ちていく。
 ヒイロは強く掌を握り締めた。そして静謐な寝顔へ覆い被さるように頬を傾ける。
 血の気の引いたその唇へ、己の唇をそっと重ね合わせる。
 ただ一度だけの口吻けは、胸が引き裂けるほどに痛かった。


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