Allegro non troppo 5 単調なまでに規則正しかった彼の日常にひびが入り始めたのは、それからまもなくのことだった。 その日も晴れ上がった空の下、ゼクスのアパートの前に白い高級車が止まっているのを見かけたヒイロは、不審に思いその場に立ち止まった。突然止まったために、後ろを歩いていた男が声を上げたが、無視した。朝ここを通りかかった時にはなかった車だ。立ち並ぶ露店とこの人混みの中を、どうやってここまで乗り付けたのか。 ヒイロの元々きつい顔をどう見たのか、車のすぐ横に開いていた露店主がヒイロに声をかけてきた。 「その車、図々しいだろ? クラクション鳴らしっぱなしでここまで乗り込んできてさ、俺らが邪魔だから、どけって言うんだよ。そこの場所で店開いてた爺さんが「冗談じゃねぇ」って頑張ったら、あいつらそのまま轢こうとしたんだぜ。全く、お貴族様ってのは、俺らをアリか何かと勘違いしてんじゃねぇのか」 改めて怒りのやり場がないといったように、露店主は吸いかけの煙草を路面にぐにゃりと押しつぶす。その周りには既に折れ曲がった煙草が10本近く、同じ格好で転がっている。 「いっそ、その車廃車にしてやろうか」 息巻く露店主を「やめておけ」と素っ気ない返事で制して、ヒイロは男に問いかけた。 「乗っていたのはどんな奴だ? どこへ行った」 「頭の足りなさそうな女さ。それもあるく宝石店みてぇに全身馬鹿馬鹿しいほど飾ってやがる。ええと何て言ったっけな、ほら、そこのやたら綺麗な兄ちゃん。あの兄ちゃんが騒ぎ聞きつけて慌てて出てきてな、周りに頭下げて女を中に引っ張って行ったっきりだ。……前々から変わった兄ちゃんだとは思ってたんだが、あんな女と付き合うようじゃなぁ」 その刹那、頬の産毛が逆立つような感覚を覚え、ヒイロははっと身構えた。誰かがヒイロに視線を向けている。見られている。 どこだ? 江口組の鉄砲玉か? そう思い全身を硬くしたヒイロが死角を探そうと動きかけた時だった。頬に当たっていた視線がふっと逸れ、ゼクスのアパートの扉が開いた。 濃いサングラスをかけ、ショールで髪を覆った女が現れる。その後に続いてゼクスの姿が見えた。遠巻きに囲む人々から、一斉に非難と嫌悪の視線が向けられ、罵声が飛ぶ。女はそれら一切をはねつけるように、高いヒールを鳴らしながらベンツに乗り込んだ。ドアが閉められた後ウインドウが下げられ、サングラスをずらした女が歩み寄ったゼクスと二言三言、言葉を交わす。 高い陽の下でも透けるような肌のゼクスは、見たことがないほど厳しい表情をしていた。女の不躾な行動に憤っているのではない、張り詰めた緊張感がそこにはあった。 車は再びけたたましいクラクションを張り上げて、通行人を蹴散らしながら走り去る。見送りもせずアパートへ戻るゼクスの、その後ろ姿を注視する者がないか、ヒイロは周囲の人間に目を配った。 ヒイロではない。監視されていたのはゼクスだ。 確信が不安を誘った。 「いくらなんでも、葬式出す家に入るってのはマズイよな」 そう言いながらデュオが新聞を差し出したのが、数日後のことだった。誌面の隅の方に小さく交通事故の記事が載っていた。『マーガレット・スティング女史、事故死。原因は運転手の飲酒運転』 侯爵家の出で、社交界でも名の知れた人物であったらしく、小さく顔写真まで載っている。その顔に見覚えのあったヒイロは、思わず眼を見開いた。ゼクスのアパートに白の高級車で乗り付けていた、あの女だった。 「前から眼ェ付けてたんだけどなぁ。このおばさん派手好きでさ、パーティがあるたびに新しいダイヤ買い付けてたんだぜ」 ふくれっ面でデュオが悔しそうに言う。それなら、計画通り頂戴してくればいいものを、こういうところで筋を通すのが他の泥棒とは少し違う彼らしいところだ。 ヒイロは改めて女の写真を見直した。格別というほどではないが、大きな眼が特徴的な美人だ。この顔で宝石に身を固めれば、あの露天商が『頭の足りなさそうな女』と言ったのもうなずける、そんな容姿だ。 この場面で、偶然は考える必要はないだろう。飲酒運転が原因の事故死に見せかける方法や手段はいくらでもある。 何故、女は殺されたのか。 彼を取り巻く背後の力が動いたのか。 とすれば、女と直接接触したことで、彼のそれまで置かれていた状況が変わる。 彼の身に、あるいは危険が及ぶ可能性がある。 「ヒイロ? おい、どこ行くんだよ」 「ちょっと出てくる」 ブルゾンを掴み、ヒイロは足早に部屋を出た。 夕暮れが近づき閑散とした通りをいつしか駆けるようにしながら、ヒイロは路地を曲がり彼のアパートの階段を上がった。だが扉を叩いた部屋には誰もおらず、アパートの周囲にも監視の目は感じられなかった。 すでに何らかの事が起こってしまったのか。想定する最悪の事態を打ち消すように、ヒイロは彼が立ち寄りそうな所を思い浮かべ、街を走った。 自分自身も命を狙われている身であり、目立つ行動は出来る限り控えなければならない。関わるなという本能の警鐘が、ヒイロの頭の隅で鳴り続けている。だが、立ち止まってさえいられなかった。すでに人一人が消されている。今、この瞬間にも、何かが起こるかもしれない。もう起こっているかもしれない。 焦る気持ちのなかで、彼が大学の帰りによくセーヌ川沿いの並木を散歩していたことを思い出し、ヒイロは近くの植物園の裏を抜け、川沿いの道に出た。 夕暮れの寒々しい風が吹き抜ける路上は立ち並ぶ木立の影が長く伸び、人々がコートの襟元を押さえて背を屈めながら足早に行き交う。 彼は、並木の陰に隠れるようにして、川面を見つめていた。 歩み寄ると一瞬鋭い視線で振り向いたが、相手がヒイロだということに気づくといつもの表情に戻り、控えめに笑いかけた。 「君も散歩か?」 何か言葉を返そうとして、息が詰まった。何かが胸の中で膨れ上がり、いっぱいになって言葉が出ない。 「ヒイロ?」 走り詰めで、まだ僅かに肩を上下させているヒイロをいぶかしんで、彼が顔を寄せてくる。その胸に黒っぽい毛の固まりが動いているのが目に入り、ようやく声が出た。 「……どうしたんだ、それ」 「拾ったんだ」 彼は事もなげに言って、その毛の固まりを撫でた。黒の眸が二つ、毛の中からぱっと開いて甘えた声が上がる。どうやら仔犬らしい。 「この辺りの人に訊いたら、昨日からうろついていたというから、きっと誰かに捨てられたんだろうな。腹を空かせているようだったからパンを買ってやったら離れなくなってしまったんだ」 足から力が抜けていく。緊張が途切れ、ヒイロはその場に座り込みたくなった。この男はまるで普段と変わっていない。 「……どうするんだ」 「アパートに連れ帰ってやりたいんだが……私はしばらく留守にしなければならないかもしれない。君が犬嫌いでなかったら、しばらくこいつを預かってくれないか?」 冷えた風が、川面から吹き上げ彼の髪を乱す。暗くなっていくオレンジの斜光に染まりながら、仔犬を石畳に降ろした彼は、穏やかな表情でヒイロを覗き込んだ。 夕映えの翳りで深い色に見える双瞳が、静かに密やかな厳しさを秘めていた。 「ゼクス……」 ヒイロはたまらなくなって彼の腕を掴んだ。 「ゼクス、お前が心配だ」 驚いた彼の髪がヒイロの頬をかすめる。他に言葉が見つからないまま、ヒイロは食い入るように彼を見つめ続けた。 セーヌの中州、サン・ルイ島へ架かるシュリー橋から、風に乗って車の喧噪が聞こえてくる。遠くクラクションが響いて、ゼクスはゆっくりとヒイロのかけた手に自分の掌を重ねた。 「ありがとう、ヒイロ。私は大丈夫だ」 重ねられた温もりが、手から力を抜いていく。そっとヒイロの手を外し、彼は足許にじゃれつく仔犬に屈み込んだ。暗い光に煌めく髪が、さらさらと肩を滑って滑り落ちる。 無力感に立ち尽くしながら、それでもその髪に触れたい衝動に指先が震える。拳を握り締め、ヒイロは仔犬を抱き上げる彼の横顔を見つめた。逸らさなければならない。だが、眼が逸らせない。 「帰ろうか。こんな所にいつまでもいたら、風邪を引いてしまう」 ヒイロの葛藤にもまるで気づかない風に、ゼクスは先に立って歩き始めた。セーヌの川面を撫でた水の匂いのする風に吹かれながら、独り言のように彼が言う。 「小さい頃、よく言われたな。風邪を引くから早く家の中に入れと。いつまでも言うことを聞かずに遊び回って、熱を出した枕元で母に散々叱られたものだ」 懐かしげな眸の彼を見上げると、彼はくすりと笑った。 「子供の頃は身体が弱かったんだ。すぐに熱を出して、それでもベッドに入るのが嫌ですぐに抜け出していたからなかなか治らなくて。年中風邪を引いているようなものだった」 「全然変わっていないな、その性格は」 「そう言われるよ、今もよく」 何を思い出したのか、彼の眸に一瞬切なさが滲む。かと思うと不意にまっすぐに顔を上げ、その視線を鋭く変えた。 「君にまだ訊いていなかったな。動物は嫌いか?」 「いや」 ヒイロも前方を睨む。車のエンジン音が近づいてくる。 「逃げればいい、ゼクス」 「それは出来ない」 ゼクスは首を振って、腕の仔犬をヒイロに押しつけた。 「エレクトラ嬢はしばらく来ないだろうから、悪いが預かってくれ。多分、数日で帰ってこられると思う」 「ゼクス」 「離れてくれ、ヒイロ」 ゼクスはそれだけ言うと、足早に歩き始めた。2、3歩追いかけようとし、ヒイロは立ち止まる。通りの角を曲がり、かなりのスピードで車が飛び出してきた。ゼクスの前で車は止まり、後部座席から黒服の男が降りてゼクスに話しかける。ゼクスは表情を変えず一言短く口にし、乗り込んだ。後部座席にはもう一人乗っており、ゼクスを挟むようにして男が乗り込むと、ドアを閉める音と同時に車は急発進した。 時間にして30秒もなかっただろう。ヒイロは一部始終を凝視していた。車がヒイロの横を走り抜ける。二人の男に挟まれ無表情のゼクスが、すれ違う一瞬、ヒイロと視線を重ね心配そうな顔をした。こんな状況で他人の心配をする馬鹿がどこにいる。ヒイロは振り返った。後ろに座る男の一人がちらりと背後を振り向いた。四角張った顔の男。ヒイロは眼を見開いた。ヒイロのフランス入国と隠れ家の手配をした男だった。 街灯が灯り始めた黄昏の街に、スピードを上げて車は紛れていく。 茫然と立ち尽くすヒイロの腕の中で、仔犬がいぶかしげに鼻を鳴らした。 |