Allegro non troppo 4 その朝は、少し大きな仕事にかかるというデュオに付き合い、プロヴァンスの豪邸から盗んだ車を走らせてきた帰りだった。 まだ陽も昇っていない早朝の街には、うっすらと蒼いヴェールがかかり、ひんやりとした朝霧が漂っていた。動いているのはゴミをあさっている野良犬やカラスぐらいで、人影のない静まった街はひどく広くがらんとして見えた。 あと数時間もすれば市が立ち、まっすぐには歩けなくなるほどの人混みに変わるムフタール通りを何気なく歩いていたヒイロは、カルディナル・ルモワール通りに入ったところで靄の中の人混みに気づき、足を止めた。 差し込んできた朝陽が、靄を掻き消していく。 細い路地を塞ぐように黒塗りのリムジンが横付けされ、その前にいたのはゼクスだった。彼の視線は隣に立つさらに長身の男に向けられ、ヒイロはその見知らぬ男の異装に眉をひそめた。男はコック長が被るほどの大きなシルクハットに、古い吸血鬼の映画に出てくるようなマントを羽織っていた。その下はテイルコートの正装だ。まるで仮装パーティーにでも出席するようないで立ちで、だがその雰囲気は、今彼の部屋から降りてきたというようにしか見えない。 ゼクスの様子が普段と違っていることに、ヒイロは一目で気づいていた。彼の周りに漂う気配がまるで違う。彼は他人をこんなに側に近づけたりしない。 リムジンの運転手が後部座席のドアを開け、ゼクスが一歩身を退いた。それで陰になっていた男の顔がヒイロの位置からはっきり見えた。深いブルーの眸に、綺麗に撫で付け、整えられた亜麻色の髪。鼻筋の通った秀麗な面立ち。男が貴族であることがすぐに判った。デュオの仕事や自分の仕事でも、上流階級の人間に接することはたびたびある。この独特の優雅な雰囲気は、一部の生まれながらの特権階級以外、真似をしようとしても発することは出来ない。 男は一度リムジンに乗り込もうとして、ふい、と身体を戻し、ゼクスの耳許に頬を寄せた。 ヒイロはただ、自分の鼓動が跳ね上がるのを感じた。 耳朶に触れるほど間近に唇を寄せられても、ゼクスはじっとしている。口吻けかと思うほどの距離で、男の唇が優雅に言葉を刻む。『また来る、ミリアルド』と。 男の身体が離れ、リムジンに乗り込み、ドアが閉められ、車が動き出す。冷たい朝の空気の中を白い排気を残して車が走り去り、しばらく見送っていた彼が溜息混じりに踵を返した。 それで、彼はヒイロの姿に初めて気が付いた。 どこからか小鳥の声がしていた。 「……早いんだな。いつもこんな時間に出掛けるのか?」 驚いた表情を控えめな笑みに代えて、ゼクスが声をかける。見ていたことをとがめられるかと思っていたヒイロは、咄嗟に口ごもるような声しか出せなかった。 「いや……今は仕事の帰りだ」 「仕事? 徹夜の仕事なのか?」 彼はヒイロが何者であるかも、何をしているのかも知らない。自分のことを話さないのと同じように、彼はヒイロのことも何も詮索しなかった。 「ああ、昨日は特別だったんだ」 「大変だな」 「そうでもない」 ゼクスはふと、何かを思いついた顔をして、ヒイロに歩み寄った。 「それなら、朝食はまだ?」 訳もなく鼓動が乱れる。 「……ああ」 「よかったら、私の朝食に付き合ってくれないか?」 「お前の? ……朝食って、お前が作るのか?」 彼が調理ナイフを握ったところで、天才ピアニストの手が血塗れになるだけではないだろうか。 彼は苦笑しながら首を振った。 「残念ながらエレクトラ嬢の作り置きだ。私が作ると、どうもいただけないものばかりが出来上がるんでね」 「賢明だな。無駄な努力は止めた方がいい」 「随分だな」 彼はくすくす笑いながらヒイロをいざなった。本当のところは、肉体も精神も今すぐにベッドに潜り込みたい状況だったが、彼の笑顔と、ついさっきまであの男がいた彼の部屋への興味にずるずると引きずられてしまい、ヒイロは彼の後についてアパートの階段を昇ってしまった。 部屋に入ると、微かに甘い香りが漂っていた。何かの花の香りか、コロンか。どちらにしても普段そういう香りとは縁のないゼクスの部屋は、それだけでどこか雰囲気が違ってみえた。 テーブルに一つだけ残されていたグラスと、見慣れないアルマニャックのボトルをすぐに片付けて、ゼクスは代わりにサンドイッチの皿とグラスを並べた。キッチンから冷えたボトルを出してきて、二つのグラスに注ぐ。 「ジュースなんか飲むのか?」 「甘いものは嫌いか?」 「そうじゃないが、お前が飲むようには見えない」 グラスを手にしたゼクスは、いかにも貴族然とした端正な顔を、子供っぽくきょとんとさせた。 「朝は冷たいものの方が眼が覚めるだろう?」 言って、グラスを口許に運ぶ。こくり、と飲み下す喉の動きが妙になまめかしい。白い首筋。張り詰めたような線を辿って形の良い頤から、唇へ。柔らかに朱を帯びた唇が、なめらかに動いて言葉を刻む。 「やはり一人で食べるより、誰かがいてくれた方がほっとするものだな」 ヒイロは呪縛から逃れるように眼を逸らす。間際に一瞬過ぎった彼の眸が切なげに伏せられて、ヒイロの意識を掻き乱そうとする。 訊いてしまいそうになる。さっきまで一緒にいた男は誰だ? この部屋でお前とあの男は何をしていた? 皿の上のサンドイッチを無理矢理喉に押し込んで立ち上がった。ゼクスが見上げてくる。 「帰るのか?」 帰る、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。 「少し、眠らせてくれないか」 窓際の大きなソファに移動して、ヒイロは仕方なくそこに腰を下ろした。疲れているのは事実だった。 「それは構わないが……そこでいいのか?」 「ああ」 間違っても彼のベッドで眠るなど、出来る訳がない。彼は寝室から毛布を持ってきてヒイロに手渡した。好意を突っぱねる訳にもいかず、仕方なく抱える。この部屋に客間などない以上、これは彼が使っているもので、勿論昨日……今朝も使っていたはずだ。考えたくもない。 ゼクスが悪戯めいた顔で覗き込んでくる。長い白金の髪が目の前で揺れる。 「君は音がすると眠れないタイプか?」 「……いや」 「では、子守歌を弾いてやろう」 「子守歌……!?」 唐突な言葉に、思わず眼をみはった。 「コンサートでもこの曲を弾くと、必ず何人かが舟を漕ぐんだ。私も小さい頃はよくこれを聴かされて眠ったものだよ。ベルがマスク組曲というんだが、何故か気持ちよく眠れるんだ」 「好きにしろ。とにかく俺は寝る」 「じゃあ好きにするぞ」 笑いながら彼はピアノに歩み寄る。ヒイロはその横顔を見遣った。彼は今きっと淋しいのだ。だから、妙に楽しがっているふりをしているのだろう。ヒイロが帰りそびれてしまったのも、その寂しさを隠した眸のせいだ。彼は今、誰かに側にいてほしがっている。満たしていた存在が消えて、空いてしまった胸の空洞を塞ぐ為に。 ソファに横になった途端、手足からじわりと疲労が滲み始めた。 静かに音色が降りてくる。子守歌らしく小さな音量に抑えられた旋律は、緩やかに、夜の神秘的な光景をまぶたに浮かばせる。 この曲は知らないな……眼を閉じて、ぼんやりと思う。彼は多分、この曲のディスクを出していないのだろう。 毛布の中で心地よい温もりに包まれ、昨日からの映像がモザイクのように浮かんでは消えた。真夜中の闇に白く空いた月。車に積み込む美術品。運び込んだ画廊の、すぐ側の川。そこで別れたデュオの、揺れる三つ編みの髪。青の底の街。朝霧の中の二人。男の唇。『また来る、ミリアルド』 お前の名前なのか? 降り積もるピアノの音に問いかける。お前は、誰なんだ? 絡みついてくる眠気に意識をゆだねながら、ヒイロはうつらうつらと彼のピアノを聴いていた。 |