Allegro non troppo 3


 その日も、カルディナル・ルモワールを歩いていたヒイロは、通りの喧噪に混じって微かなピアノの音を聴き留め、立ち並ぶ露店の間を縫って細い路地に入った。
 彼の住むアパートは、通りから少し入った細い路地に面している。彼はパリ大学の音楽院生でありながら同時に助教授で、週3回通う大学にもここから歩いて通える距離にある。万事物事に執着しない彼は、それでこのごみごみとした街に住むことを決めたのだろう。
 聞こえてくる陰鬱な曲は、アパートの玄関をくぐり軋む階段を登るごとに音の輪郭をはっきりさせていく。彼は選曲するのも面倒なのか、ショパンのポロネーズ全曲を作品番号順に弾き流しているらしかった。その音色は喧噪の中で聴いた時から曲調に関わりなくひどく鬱々としていて、彼がいつもの彼でないことはすぐに判った。
 彼は時々、こういうピアノを弾く。
 ポロネーズの第5番が終わったところでちょうど彼の部屋の前に着き、ヒイロは軽くノックをして返事を聞かずにドアを開けた。
 彼の部屋は、開けるとまず漆黒のグランドピアノが目に入る。このピアノの重厚さに居間は占領されていて、かなりの値が張るだろうアンティークのテーブルセットやデスクも、隅の方に小さく追いやられてしまっているように見える。毎日昼前にはやってくる家政婦のエレクトラ・ラッセルが、念入りに磨き上げていつも曇り一つないそのピアノに向かった彼は、ぼんやりと手許に目を落としていた。
「随分、陰気なポロネーズだな」
 声をかけると、まるで絵の風景のように、窓からの淡い光のなかで身じろぎもなかった彼は、ようやく顔を上げてヒイロを見た。
「……ヒイロ?」
 夢から浮かび上がったかのように、ゆっくりと瞬く。ヒイロはピアノの側まで歩み寄って、彼を見下ろした。
「ショパンなんかを弾いているからだ。お前にはもっと、貴族趣味のモーツァルトやシューベルトでも弾いている方が似合いだろう」
「……そうか?」
 人形じみている彼の顔に、ようやく表情らしきものが戻ってくる。ゼクスはゆるく首を傾げてヒイロを見返した。
「個人的にシューベルトはあまり好みじゃないんだが……だが良く知っているな、ヒイロ。ショパンのポロネーズを聴き当てるなんて」
 興味があるのか? そう訊いてくる彼から不器用に視線を逸らす。
「別に……」
 ショパンに興味がある訳ではない。ただ、ゼクスの演奏が収録されているクラシックディスクの、手許にある数枚の中にショパンのポロネーズ全集があって、それを何度か聴いていただけだ。
「……お前が前にも弾いていたのを、聴いたことがあるだけだ」
 ふうん、と彼はそれ以上は追求せず、微かな笑顔を浮かべた。だが、すぐにそれは力なく宙に吸い込まれて消える。
「君がきてくれて良かった。6番の前で指が止まってしまっていた……」
 ポロネーズの第6番は『英雄』というタイトルが付いている。いかにもその名にふさわしい、猛々しさと華麗さを併せ持ったショパンの代表だ。ゼクスが弾くこの曲を初めて聴いた時、その音色に込められた気迫のようなものに、ただ圧倒されたのを憶えている。
 その曲が弾くことさえ出来ないほど、彼は疲労しているということだろう。それとも、何か特別な思い入れがあるのか。
「お茶でも飲んでいくか? エレクトラ嬢がまだきていないから、味は保証出来ないが」
「そんなもの、初めから期待していない」
 そうは言いながら、ヒイロには紅茶の味などどんな入れ方をしたところで、せいぜい濃いか薄いかの判別しかつかない。
 何年独り暮らしをしているのかは知らないが、相変わらず危なっかしい手つきでキッチンからティーセットを運んでくる彼を眺めながら、ヒイロは手にしていた紙袋をテーブルの上に置いた、
 手を止め、彼が怪訝な顔を向ける。ヒイロは目線で中身を指した。
「お前が載っている」
 一瞬複雑な表情を過ぎらせたゼクスは、無言で中の雑誌を取り出した。
「……文芸誌? こんなものを読んでいるのか? ヒイロ」
 妙なところを勘ぐる男だ。
「俺への詮索はいい。お前の事を言っているんだ」
 記事は1ページの小さな扱いで、『謎の深窓ピアニスト』というタイトルの下に、ゼクス・マーキスの簡単な経歴と、彼がパリの、それも一部の上流階級だけを対象とした演奏会しか開かないことへの不満が痛烈に並べられていた。書いた記者は恐らくゼクスのピアノのファンなのだろう。演奏そのものに対しては史上最高の天才などと評しながら、それだけに聴衆の前に出てこようとしないゼクスへの酷評には容赦がなかった。選民思想を持つ者にピアノを弾く資格はないとまで書かれていて、その一文に目を落としたゼクスは、口許に苦い笑みを浮かべた。
「反論の余地もない論評だ」
「お前の才能を認めているからこそ、その記者は腹を立てているんだ」
 彼の表情に、ちくりと痛みを感じる。やはり、見せるべきではなかったか。
「……だが、私からピアノを無くしたら、後には何が残るのだろうな……私はそれを知るのが怖いのだろう。怖いからピアノにまだしがみついている……」
 唇の笑みは自虐の笑みだ。自分の手首を切るように、そうして彼は自らを辱める。心臓の鼓動がおかしくなるくらい寂しげなそんな表情を、ヒイロは正視出来ない。
「ゼクス」
 ヒイロはテーブル越しに、彼の雑誌を持つ手を掴んだ。
「そいつはそんな事を言わせたくて、記事を書いたんじゃない。お前のピアノが好きで、お前を待っている者がいることを伝えたかったんだ。お前はこんなゴミ溜めの街で、陰気なピアノを弾いているべきじゃない」
 言い切ってしまった後で、背筋がぞくりとした。言葉の半分は本心でも、もう半分は違っていた。彼の過去も現在の境遇にも触れたくはなかった。眼の端に雑誌の文字が映る。ゼクス・マーキス。A.C.アフター・コロニー173、ドイツ、ケルン生まれ。2歳でピアノを始め、17歳の時ショパンコンクールで優勝。同時にプロデビュー。一躍世界の脚光を浴びる    .
ヒイロの知っている彼と、誌面の彼とはまるで違う世界の住人だった。
 彼はあの控えめな笑みを浮かべながら、伏せ目がちにそっとヒイロの手を外した。
「ありがとう……」
 そして結局、彼はヒイロを退け何も語らず己の中に全てを閉じ込めていく。どんな非難を受けても、好奇の目を向けられても、そうして知る自己への失望に心を傷つけていっても。
 彼と自分は似ているのだ。雑誌を閉じるゼクスを見つめながら、ヒイロはそう感じた。
 ゼクスがふと、溜息をつくようにして呟く。
「この雑誌が廃刊に追い込まれるようなことにならなければいいが……」
 
 
 
「なに調べてんだ? ヒイロ」
 3社目のコンピューターにハッキングをかけているところを背後から覗き込まれて、ヒイロは眉をしかめた。
「あー、なに露骨に嫌がってんだよ。俺に知られちゃマズいことでもやってんのか?」
 デュオは湯気の香るコーヒーのカップをキーボードの脇に置いて、快活な紫の眸を意地悪に歪めてヒイロの顔を覗き込んだ。夕食の後、ヒイロが端末の前に座っている間にシャワーを浴びたらしく、普段は三つ編みで一つにまとめられた栗色の長い髪が解かれ、身体からボディソープの匂いがした。
「仕事に関係したことじゃない。あっちに行ってろ、気が散る」
 数字や記号が目まぐるしく乱舞する画面に視線を向けたまま言うと、デュオの頬がふくらむのが見えた。
「はいはい判りましたよ。まぁったく、いつまで経ってもつめてーんだから」
 珍しくあっさり引き下がったデュオは、そのまま後ろのソファに寝転がってしまったらしい。
 逃亡生活を送るためにパリへきて、ゼクスと出会ったことも予想外の出来事だったが、このデュオと知り合ったのもヒイロにとっては予定外の出来事だった。
 彼とはたまたまある高級住宅街の一角で、彼が塀を乗り越えて出てきたところにヒイロが居合わせたという巡り合わせだった。ヒイロは万一のために街の地理を把握しておこうと、運動を兼ねて歩き回っていただけなのだが、彼の方は仕事の最中であり、目撃者は口封じをするという彼の仕事の鉄則に従ってヒイロを脅そうとし、逆にねじ伏せられたのだった。 以来、何故か彼はねじ伏せられた相手を気に入ってしまったようで、ヒイロは仕事の相棒になってほしいとしつこく付きまとわれる羽目になり、気が付くと彼がヒイロのアパートに住み着いて現在に至っている。
 彼が生活面のほぼ全てをこなしてくれるお陰で、ヒイロのそれまでの殺風景な生活は、標準以上の水準にまで改善された。食事は待っているだけで三食食べられるし、こんなふうに食後のコーヒーまで出てくる。ただ、彼がしつこくやかましいのは相変わらずで、ヒイロは今でも仕事のパートナーになってほしいと誘われては、押し切られて手伝いを引き受けさせられている。
 デュオが入れてくれたコーヒーを口許に運びながら、ヒイロは侵入を果たしたある出版社の人事のページに目を走らせた。ここも数ヶ月前に、音楽雑誌編集の数人が飛ばされている。
 その前に検索した2社の音楽雑誌の編集部でも、臨時の人事異動が行われていた。そして、1社では雑誌そのものが廃刊になっていた。それまでの売り上げは決して悪くはなかったのに、だ。
 3社とも人事異動があった月の、雑誌のバックナンバーや記事は保管されてはいなかったが、内容は想像がついた。
 こんなことを調べてみる気になったのも、今日の彼の言葉が気にかかったからだった。
     この雑誌が廃刊に追い込まれるようなことにならなければいいが……
 恐らく、この3社も同じようにゼクス・マーキスの特集を組み、彼が突然公演活動を辞めてしまったを論じたのだろう。そして何らかの圧力を受け、社内処分されたのだ。
 それは、彼がただの1ピアニストではないという事実を意味する。彼は何らかの理由で公演活動を停止せざるを得なくなり、その事実を公にはしたくないある力が、個人であれ組織であれ彼の背後に存在しているのだ。
 アクセスを切ったヒイロは、不意に思いついてゼクスの所属するレコード会社にアクセスした。
 昼間、雑誌に載っていたのと同じようなゼクス・マーキスの個人データが画面上に現れる。ただ、雑誌に載っていた略歴よりずっと細かく、詳細な演奏記録まで見ることが出来きた。
 彼は半年前までは世界各地でコンサートを開いていた。コロニーでも、そしてJAPにも彼は足を運んでいたらしい。
 JAPという地域はその大半が腐敗したスラムだが、厳重に守られたごく一部の都市では、連合の総督府や、外国人入植者、数少ないJAPの旧家などの超高級住宅地などがあり、上流階級の人間は実はかなり多く在住している。
 自分の故郷の名が出て、一瞬感慨めいたものが過ぎったヒイロだったが、彼が接したJAPと自分の住んでいたゴミ溜めとは全く別の場所だと思い至って、すぐに頭から消去した。
 彼のフランス国外での記録は、ニューヨークのカーネギーホールを最後に半年前で途絶えている。半年前に何が起こったのか。そう考え、漠然と半年前に起こった事件を思い出そうとして、ヒイロの思考はつまずいた。その頃ヒイロは世界情勢など知るよしもない立場にいたのだ。エンドウとサエキを殺し、エグチ組に追われて命を削った日々。それがヒイロが知る唯一の半年前の出来事だったが、そんな辺境の事件がゼクス・マーキスと結びつくはずはなかった。
「ヒイロ、まだそれ、時間かかるのか?」
 ディスプレイを凝視しながら考え込んでいると後ろから声がかかり、ヒイロはようやく我に返った。振り向くと、ソファから乗り出したデュオが背もたれに両腕を乗せてヒイロを見ていた。
「いや」
 急に馬鹿馬鹿しくなって電源を落とす。過去など知りたくもないと思っていたのは、つい半日前のことだ。彼もきっと詮索などしてもらいたくないに違いない。
 椅子を離れると、それまでふてくされていたデュオの表情がぱっと変わった。
「なあ、今日はヒイロ疲れてないんだろ?」
 ヒイロは呆れて彼を見る。ねじ伏せられた男を気に入って付きまとう男、というのもよく分からないが、男に抱かれて喜ぶ男というのもヒイロには理解出来ない。彼に言わせれば「惚れた奴と寝たいって思うことのどこがおかしいんだ?」ということになるらしいが。
「変な奴だな、お前は」
「俺は、お前の方が変だと思うけど」
 笑いながら隣に立つデュオは、洗いざらしの髪が頬にかかって、普段の三つ編み姿とは全く違う印象を受ける。不意に、ゼクスの、陽に透ける首筋の白さが目に浮かんだ。ヒイロはデュオの後ろ髪を引き、驚いて上向いた唇に口吻けた。抵抗なく開かれた唇を割り、野性的な激しさで口腔を貪りながら、力の抜けかけた彼をソファに押し倒す。
「……ちょ……まて…よ、ヒイロ……ベッドあっち、だろ……」
「ここじゃ、不服か?」
「そんな……いきなりか…よ……あっ」
 身体の下でデュオが身をよじる。火のつくように脳裏を過ぎった淫卑な想像を打ち消したいように、ヒイロはデュオを荒々しく暴いていった。



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