Allegro non troppo 2


 ゼクス・マーキスは奇妙な人物だった。
 下町、カルディナル・ルモワールのアパートの4階に住むにはあまりにも浮いた容姿で、街を歩く彼はどんな格好をしていても、周囲のくすんだ風景から浮き上がるようにして眼を惹き付けた。
 すらりとした長身痩躯に、腰の辺りまで伸びた淡いプラチナブロンド。色素の薄い肌と、空の色をした眸。人形のように整った顔立ち。歩く仕草さえ、すれ違う普通の通行人とはどこか違う気品があった。
 近所に住む人々は、彼をどこかの貴族のご落胤だとか、金持ちの囲われ者だとか、好き勝手に噂していたが、彼はその辺りの身の上は誰にも洩らさず、好奇の視線にも知らぬふりをしていたのかそれとも気づいてさえいないのか、飄々として暮らしていたから、事実は誰も知らなかった。
 ただ、彼の部屋から毎日流れてくるピアノの練習は素人の演奏などではなく、ヒイロは彼がプロのピアニストだということを本人から聞き知っていた。そういえば、彼のアパートの前には月に1、2度場違いな黒塗りのリムジンが乗り付けてくる。あれが演奏会への送迎なのだろう。
 ヒイロと彼が知り合ったのは、仕事帰りのヒイロが偶然、数人の酔っぱらいに絡まれていた彼と鉢合わせしたからだった。
 路上での口論など日常の光景だったが、3人の男に囲まれている人物が彼だったことで、ヒイロの足は自然に止まった。他人に興味を持つような生い立ちでも性格でもなく、その当時は自分に危害を加える以外の者に眼を向けるほどの精神的余裕もなかったはずが、何度か通り過ぎる姿を見ただけの彼は、ヒイロの記憶に奇妙に鮮明に残っていた。あれほどの容姿を持った人間を他に見たことがなかったというだけの、単なる俗物的な記憶だったのかもしれないが。
 とにかく、しばらく足を止めて事の成り行きを傍観していたヒイロは、酔っぱらい達が強引に彼を口説こうとし、彼がそれを冷ややかに拒絶する様子を見て、男達に近づいた。
「なんだ、お前」
 後ろを向いていた男の肩を掴み、男が振り向きざまにその顎を殴り飛ばす。鈍い音が弾け、男の身体が宙に浮き、飛んだ。いきなり現れた少年が、それより10センチ以上も長身の男を見事に路上にひっくり返したのを見て、居合わせた全員が一瞬唖然とした。
「な、なにしやが……」
 仲間を伸された事実を時差をおいてようやく理解し、顔を真っ赤にした髭面の男の腹を、ヒイロは足蹴りで払った。その動作の流れで、掴みかかろうとする3人目の男の首筋に手刀を叩き込む。
 ほとんど一瞬の間だった。あっさりと片は着き、ヒイロは軽く息を吐いて彼に向き直った。彼はぽかんとしてヒイロを見つめていた。驚くのも無理はないだろう。どの男もヒイロより長身で身体つきは逞しかった。だが、そんな表情の彼を見ていると、ヒイロはおかしいような気分になった。息をしているのが不思議なくらいの磁器人形ビクスドールのような顔でも、こんな表情をするのか。
「迷惑だったか?」
 ヒイロの声に、彼はようやく口許をほころばせた。
「いや、困っていたんだ。助かった」
「なら、無駄ではなかったな」
 言って、そのまま踵を返す。弾みで助けてしまったが、それ以上関わるつもりはなかった。だが、彼の声がそれを止めた。
「礼をしたいのだが……」
 必要ない、と断るつもりで振り向いた。その途端、何故か彼から眼が逸らせなくなった。
「私はゼクス・マーキスという。この近くに住んでいるんだが、家で一緒にお茶でもどうだ?」
 必要ない、と今度こそ言おうとして、ヒイロの唇は別の言葉を紡いでいた。
「……あんたの部屋で?」
 眩しくて、声がかすれた。薄い陽の光が、控えめに微笑む彼を包んでいた。
「あいにく、この本を買って今持ち合わせがないんだ」
 腕に抱えた紙袋を見せ、彼は困ったように肩を竦めた。
 長い髪が金色に輝いて揺れた。それが眼に焼き付いた。
 
 
 
 ヒイロがパリに来たのは半年前のことだった。理由は旅行でも就労でもなく、地球圏統一連合の将校の証明書1枚でフランス政府は何の手続きも踏まずにヒイロの入国を許可した

 連合の将校という証明書は偽造ではなかったはずだ。それを用意し、JAPからの出国を助けたのが連合内部の情報局(SECRET INTELLIGENCE SECTION)だという話が出任せでないのなら、正式な経過を経て作成されたものに間違いはないのだろう。
 逃亡、というのが実際のところの来訪の目的だった。『世界最低の治安レベル』というレッテルを貼られ、現実は治安などという言葉すら存在しないJAPの貧民街で生まれ育ったヒイロは、他に収入を得る方法を知らないという理由から殺し屋になり、そして半年前、いつものように仕事を請け負い、エンドウという人物と、その場に居合わせたヒイロの仕事の仲介者であるサエキという男を射殺した。
 ヒイロの仕事の仲介者は『佐伯』、エンドウは本来『遠藤』と書く。さかのぼって第二次世界大戦の敗戦から200年近く、アメリカなど4カ国に占領され今は連合の直轄地となっているJAPは、既に民族性も文化も荒廃し、言語は世界共通語が使われ、混血化が進んで名前も日本独特のものは一部を除いてはまず見当たらない。
 その一部というのが、ごく少数の名門旧家とヤクザだった。ヤクザの構成員は組に入るとその証として組から漢字の名を拝名する。だから一般的にJAPで日本名の者と言えば、まず間違いなく極道関係だ。そしてヒイロの殺した遠藤は、JAPの半分を支配下に置くといわれる江口組の組長江口隆義の妾腹の息子であり、その有力傘下の組長だった。
 江口組の人間を殺すことは、組に挑戦状を叩きつけることに等しい。まして遠藤は組長の息子なのだ。数日のうちに犯人が割り出され、鉄砲玉と呼ばれる組の突撃隊の連中がヒイロの許に殺到して、ヒイロはJAPを離れなければ翌日までの命も危ぶまれるような状況に陥ってしまったのだった。
 そしてその状況は、今現在も何ら変化はなかった。たとえパリに逃げたところで、江口組がそのメンツにかけてヒイロを血祭りに上げようとしている事実は変わりようがなく、彼らがいつヒイロを捜し出し、路上ですれ違った瞬間に銃弾を撃ち込んでくるか判らない。
 それは骨身に刻んで自覚していることであるのに、パリでの日常は怖いほどに穏やかだった。パリは決して、治安が良いと言えるほどの街ではない。それでも、朝起きて、夜眠る。そうした規則正しい生活など、ヒイロは体験したことがなかった。考えてみなくともJAPでパリのような生活をしようとすれば、1日で3回は身ぐるみはがれて死体で路上に転がされる羽目になる。
 何もかもが中途半端に浮いたような空虚な日常の流れを、ヒイロは無為に眺め、やり過ごした。逃走資金は充分にあり、安全な住みかも提供されている。だが暇が出来たからといって、何か新しい事を始める気にはなれなかった。ヒイロは人殺し以外の何も知らない人間だった。JAPではそれで生き延びてこれたが、ここでは静かな虚しさや息苦しさにすり替わり、意識が砂に変わっていくようだった。
 乾いて、崩れていく。それが失望だと、考えることすら疎ましいような。
 弄ぶだけの非日常のなかで、だからこそ彼だけが色を持っていたように見えたのかもしれない。彼の生み出すピアノの音色が乾きを潤し、崩れていこうとする心をそのたび生き返らせていたのかもしれない。



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