Allegro non troppo 1


 薄暗闇にカチリと小さな金属音が響く。
 その先が闇に飲み込まれて見えない長い廊下には、他に物音も動くものもない。
 防犯システムのダウンと同時に侵入して1階で別れたデュオは、既に目当ての部屋へ辿り着いているだろう。派手な悲鳴が聞こえないところをみると、見回りの使用人にも発見されてはいないようだ。
 ヒイロは、ロックの外れた扉を苦もなく押し開けた。
 この屋敷の主人が外部からの侵入に対してかなり神経を尖らせていたことが窺われる。普通、貴族階級の人間は自室に鍵をかけて就寝するようなことはしない。余程生命の危険を感じたか、使用人も含めた自分以外の者を信用しない人間かのどちらかなのだろう。ここの主人は恐らく前者の意識を持っていたに違いない。そしてその判断は正しいと言えた。
 だが、これだけ厳重な防犯システムでも、必ずセキュリティーの不正侵入口は存在する。
 ヒイロはこの屋敷の主人と面識はない。知っているのはその名前と所在地、顔。一日の行動パターン。爵位。だが、彼が何を思い、どんな言動をした末のどういった経緯で、殺しの標的になったのかは全く知らない。興味もない。
 破格の報酬という条件がなければ、この仕事を受けるつもりはなかった。パリに来ることもなかっただろう。この街には、もう二度と戻るつもりはなかった。
 だが3年ぶりにあの男からコンタクトを受けこの仕事を依頼された時、それまでヒイロの中にチリのように鬱積されてきた現在の自分への否定の感情が、明確な形となって目の前に現れたのだった。
 これを最後に殺しから身を退く。殺し屋など辞めて、前々からデュオに誘われていた彼の仕事のパートナーになればいい。そう考えた時、パリで最後の人殺しをするということに、何かの因果と意味があるような気がした。この3年間絶えず胸にあり続けた感情を清算して、報酬を元手に全てをそこから始めたかった。
 分厚い絨毯を踏み室内に入ったヒイロは、壁伝いに奥の部屋へ進んだ。そこにも電子錠は付けられていたが同じようにロックは解かれており、しばらく中の様子を窺った後、ゆっくりとノブを回した。
 薄く扉が開いた時、ヒイロの脳裏に警戒音が鳴り響いた。
 臭いがする。濃い血の臭いが。
 瞬時に全神経を周囲に尖らせる。人の気配はない。遠く、屋敷の外で隣家の犬の鳴き声がする。興奮したような吠え声。家の周囲に何か異変が起こっているのだ。
 どういうことだ。
 ヒイロは一気に扉を開けた。明かりのない広い寝室の中央に、天蓋付きのベッドが据えられている。ヒイロは駆け寄り、寝台を確認した。俯せになったなった男が頭部をクッションの下敷にして横たわっていた。穴が穿たれ羽毛の飛び出たクッションの下から、闇に黒く映るものが大量にシーツを染めていた。
 殺されている。
 ヒイロははっとして振り返った。静寂の邸内を乱すように、幾つもの靴音が近づいてくる。靴音の群れはそれでも音を殺しながらまっすぐにここへ向かってきていた。 ここで何が起こっているのか、足音の持ち主達は知っているのだ・・・・・・・
 ヒイロは左手の腕時計に「撤収しろ」と囁き、窓へ走り寄った。
 邸内の異変にデュオは気づいているだろうか。この場所が彼らの標的ならば、合図の後でもデュオには逃げ延びるチャンスがある。
 窓越しに潜む人影を捜し、それがとりあえず見える位置にないこことを確認して窓を開ける。万一の逃走経路として調べておいた樫の木が、飛び移れるぎりぎりの距離に梢を差し出している。外へ身を乗り出したヒイロは、間をおかず足を掛けた窓枠を蹴った。
 硬く突き出した小枝の束を掴んだのと、寝室の扉が蹴破られる音が同時だった。ヒイロを受け止めた樫の梢は幹から裂けていきながら大きくしなり、窓際へ殺到する男達の前で無惨な悲鳴を上げて地面に落ちた。同時に、男達の手から闇に火線が走った。狂ったような発砲音のこだまを合図に、屋敷の外で待機していた者も一斉に突入を開始する。
 ヒイロは庭の暗闇を走った。四方から足音や声がする。犬でもけしかけられれば厄介だと、ヒイロは思った。左腕を打ち抜かれている。骨が折れたか砕けたかしたのはいいが、血の臭いはごまかしが利かない。
 背面から声と共にいきなり銃弾が飛んできた。身を屈めながら振り向きざま、反射的な速度で打ち返す。2発。相手がのけ反るのが闇目にもはっきりと見えた。土に伏した身体を無理矢理引き起こして再び走った。どこか右のふくらはぎの辺りに弾がかすったらしい。だが痛がっている暇はない。
 永遠に続くかに思えた木々の森が唐突に消え、屋敷を囲う柵が目の前に現れる。それを乗り越えずり落ちるようにして外の路地に降りたところで、再び誰かの声を聞いた。直後、向けられた銃口から遮るように猛スピードの車がヒイロの前に突っ込んできた。
 蹴飛ばすように助手席のドアが開けられ、「乗れ!」と若い声が飛ぶ。
 相手が何者なのか確かめる間もなく、ヒイロは中に転がり込んだ。急発進で車はタイヤの軋みを巻き上げる。追っ手のわめき声と何発かの銃声を遠ざかる背後に聞きながら、残された渾身の力でドアを閉めると、ヒイロはずるりとシートに沈み込んだ。
 一瞬前までの喧噪と入れ替わるように、低いうねりが流れてくる。痛みとも痺れともつかなくなった肉体の疲労に眼を閉じると、そのうねりははっきりとした形になり、鮮やかな旋律でヒイロの脳裏を満たし始めた。
 伸びやかに起伏するメロディ。光が舞い踊るように流れる音色。音の連なりと羅列に命を吹き込む、軽やかな指の動き。差し込む穏やかな斜光に縁取られ、長いプラチナブロンドが鍵盤を駆ける旋律に合わせて優雅に揺れそよぐ。
 この曲は何だったか。確か彼が好きだと言った……
 思考は最後までまとまりを持たないまま、暗闇が全てを覆い尽くした。



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