恋々




 乳鉢で薬草をすりつぶすごりごりという音に遠くからがさつな足音が混じってきて、那唖挫は作業を続けながら眉をしかめた。
 足音は部屋の前で止まり、障子がやはりがさつに開けられて予想通りの男が現れる。顔も上げずにいると、悪奴弥守は乱暴に隣に腰を下ろした。
 どうやらあまり機嫌がよくないらしい。
「相変わらず変な臭いさせてんな。何の薬だ」
「試してみるか?」
 悪奴弥守は思わず身を引く。
「だ、だから、何の薬だよ」
「何だと思う?」
「なにって……」
 この男には以前、とある薬の調合中に邪魔され駄目にされた腹いせに、三日間効く眠り薬の実験台になってもらったことがある。無論、事後承諾で。
 露骨に脅える顔を横目に見て、那唖挫は手を止め顔を上げた。
「……で、何の用だ」
 悪奴弥守はほっとして少し、表情を改めた。
「螺呪羅の奴、のことだけどよ。あいつ、何をしているんだ?」
「何、とは?」
「城の塀のところから、ところどころあいつのにおいがするんだ。なんか置いてったみてぇに。気になって辿ってみたら城を一周した」
 意味がよく分からず、那唖挫は首を傾げる。
「においとは何だ?」
「なんていうか、気配? 鎧玉を使ってる時に感じるみたいな……何かの術を使ってるんじゃねぇかと思うんだけどよ」
「術?」
 那唖挫にはそういった気配を察知する能力は薄い。それぞれの鎧玉の特性にもよるのだろう。那唖挫が持つのは毒や薬という物質を操る力だが、闇や幻といった空間を支配する力を持つ鎧玉の持ち主は、その空間ににじみ出る気配や力を察する能力に長けているのではないかと思う。
 悪奴弥守の場合は「におい」などと言っている当たり、野生の勘、という至って原始的なものなのかもしれないが。
 城を取り囲むような術の痕跡。となれば、
「そういえばあやつ、陰陽師に関する書物を漁っていたな」
「何がしたいんだ、あいつ」
「結界、か」
「結界? 何の為にそんなもん……」
 元を正せば妖邪界、煩悩京と呼ばれたこの世界も、阿羅醐が妖邪門という結界の要を使って切り取った異界だ。
 何の為と言われれば、この空間を支配する為、そして外敵から守る為に、だろう。一つの例外を除いては、何もかもに対して無関心なあの螺呪羅に支配欲があるはずもない。とすれば答えは一つ。
「朱天は、このところどうしておる?」
 話題を変えると、悪奴弥守は気味悪げに那唖挫を見た。
「お前、読心術でも身につけたのか」
「……お主と考えることが一緒とはな」
「なんだその嫌そうな顔は」
「言わなければ分からぬか?」
「いや、結構です」
 鼻で笑ってやって、話を戻した。
「俺は最近籠もりきりで、朱天の身体の調子のことしか知らぬからな。あやつ、随分参っているようだが」
 悪奴弥守はふいと視線を外した。
「俺のところへ時々来てる。眠れねぇんだとよ」
 お陰で遠出も出来やしねぇとぼやいて頭を掻く。来るか来ないか分からない相手を律儀に待っているらしい。
「横恋慕か?」
 からかってみたら「ハァ!?」と盛大に切れられた。
「朱天は俺の弟分だ! 大体、誰があんなヤバい奴敵に回すか!」
「分かっておればいい」
 那唖挫は踏み込むように悪奴弥守を見た。
「螺呪羅を刺激するなよ。あやつはあやつで、二度朱天を失いかけて、今ぎりぎりのところにいるのだろうからな」
 那唖挫どころか鈍い悪奴弥守まで螺呪羅の恋情を知っている。恋情というより執着なのかもしれない。端から見ていても分かりすぎるほどに、螺呪羅の視線の先には常に朱天がいた。それなのに、あれほど色事にだらしないあの男が、那唖挫の知る限り朱天に手を出すことはなかった。
 その希有とも言える想いが下界での戦いで朱天が寝返り、そして朱天が長く生死の境を彷徨ったことで、均衡を失いかけている。実際、朱天が昏睡状態にあった時から彼の様子は明らかに危うかった。何かの拍子に心の天秤が大きく傾いて壊れてしまうのではないか。そうなれば、あふれたその激情の矛先は朱天に向けられる。
 那唖挫は文机の上にあった天秤を引き寄せる。かたかたと秤は左右に振れる。
 もうすでにそうなってしまっているのだろうとは思っている。那唖挫が定期的に朱天を診察しているのは分かっているはずなのに、螺呪羅はまるでみせつけるように、彼の身体にいくつもの跡を残している。あれほど大事にしていたものを。那唖挫にはそれは狂気にも思える。
 そんな自分も相手も身を削るような真似をして、果たしてどちらももつのか。
「朱天は、大丈夫なのか」
 悪奴弥守がぽつりと言った。
「あいつ、眠れないってふらふら俺のとこまできて、死んだみたいに寝ていくんだよ。大丈夫なのか。眠れないほど惨い目に遭わされてるんじゃないのか」
 那唖挫は溜息をついた。
「耐えきれぬほどなら、我らに助けを求めてくるだろう」
 実際、なんでも抱え込む性格の朱天がそうするかは分からない。
「螺呪羅を信じるしかあるまいよ」
 言って、乳鉢の中身を紙を敷いた秤皿に手際よく乗せ量っていく。
「朱天の薬だ。様子を見るついでに持って行け」
 きっちりと一包ずつ折りたたんで紙袋に入れ、手渡した。
「それから、城の外を調べろ。何かあるはずだ」
 悪奴弥守が呆れたような視線を向ける。
「なんだよそれ、漠然としすぎだろ。何か、って何だよ」
「螺呪羅が危惧を抱くほどの相手───敵か、死霊か」
 自分で発した言葉にぞくりとして、那唖挫は眉を寄せた。




 ぴしゃん、と水滴が水面に落ちる。
 くりぬいた岩と鉄格子で仕切られた薄暗い牢に、朱天は頭上で手首を鎖で戒められ壁に吊されていた。
 地下に作られた牢には水が引かれていて、腰まで水に浸かっている。濡れた髪や着物が不快に肌に張り付いて、体温を奪っていく。
 聞こえるのは滴る水の音と、かがり火にくべられ時折はぜる薪の音。そして彼の息づかい。
 その怒りに空気が震えていた。
「なんのつもりだ、朱天」
 ようやく開いた彼の口から、低い、無表情な声が発せられる。
「なんの飯事だ」
 かがり火が彼の姿を影にして、その表情は分からない。
「螺呪羅……」
 水には気力を吸い取る呪詛が施されていて、顔を上げることも辛い。朱天は懸命に口を動かした。
「軽々しい気持ちで離反したのではない。気付いたのだ。阿羅醐と我らがなそうとしてきたことは、間違いだった」
「主君と我らを裏切るというのか」
「違う」
 朱天はきっぱりと言い切った。
「そなた達にも目覚めて欲しい。この戦いは誤りだ。我らは阿羅醐に謀られていたのだ」
 藍玉の隻眼がすっと眇められた。
「世迷い言を」
 螺呪羅が牢の中へ足を踏み出す。ぴしゃり、と水が跳ねた。
「謀られたのはお前だろう。あの雲水や小童どもになにをたらし込まれた?」
 水音が深くなっていく。彼は頓着なく水を分け入り朱天へと歩み寄る。
「螺呪羅、この水には呪いが……」
「答えろ、朱天。あの者らに何を仕込まれた。抱かれてよがりながら腰を振りでもしたのか?」
「なっ」
 朱天は眼を見開いた。
「誰がそのようなこと!」
 ばしゃり、と水面が揺れて波が身体を打つ。目の前に立った螺呪羅の眸は凍っていた。その怒りに笑みさえ浮かべて。
「裏切りなど許さぬ」
 手が伸ばされる。濡れた指がゆっくりと頬を伝い、脅えに呼吸を速くする唇をなぞった。
「俺にも腰を振ってみせろ」
 咄嗟に身をよじった。腕に力を込めて鎖をほどこうとしたが、無駄なことは分かりきっていた。
 ばしゃばしゃと、しぶきが上がる。
「螺呪羅……よせっ」
 薄笑いを浮かべながら力まかせに襟元を開き、帯を外して袴を落とすと、膝で足を割って手を差し入れてくる。
 全身が粟立ち、悲鳴が上がる。
「やめ…ろ! 離せ! はなせっ!」
 冷たい手が水の中から朱天を陵辱していく。乱暴に、痛みだけを与えるかのように。
「や……嫌だ……!」
「許さぬ」
 下肢の中心を強く扱かれて顎を跳ね上げる。その視界に藍玉の凍った眸が、間近でひたと見据えていた。
「俺を……裏切るな、朱天」
 痛みと恐怖に息が出来なくなった。




「鬼魔将様!」
 声と身体を揺さぶる感触が同時に意識に飛び込んできて、朱天は身体をびくりと硬直させた。
 開けた視界に、見慣れた近侍のほっとした顔が見えた。
「ようやく眼をさましてくださいましたか」
 意識と感覚が分離したような感覚に陥って、朱天は声も出せず、しばらく荒い呼吸で瞬きを繰り返した。
「大事ござりませぬか?」
 心配げに覗き込む横顔を、かがり火ではなく燭台の蜜色の灯りが揺らしていた。室内は暗い。ここは朱天の見慣れた屋敷だ。水牢では、ない。
 朱天はようやく身体の力を抜き、息をついた。
「荊木……」
「随分とうなされておられました」
 朱天をいたわるように柔和な笑みを浮かべる。この荊木は朱天の右腕であり、朱天が最も頼りにする配下だった。剣の腕も立ち、頭も切れる。本来ならば、朱天のような武将の身の回りの雑事を務めるのは小姓の仕事なのだが、それも自ら荊木が願い出て世話を焼いてくれている。朱天が気を遣わずにいられるよう、影のように仕える近侍だった。
 朱天の寝所からは少し離れた部屋で休んでいるはずだが、そこまでうなされる声が聞こえたということだろうか。
 朱天はまだ痺れたようになっている身体をそろそろと起こした。荊木はその背を支えるようにそっと手を添える。
「済まぬ。起こしてしまったか」
「滅相もございません。わたくしこそ無断でご寝所に立ち入ってしまいました。お許しください」
 その微笑む顔を見ているうちに不意に苦しくなって、朱天は俯き口許を押さえた。眉間が痛い。喉が痛い。手が震えそうで、きつく握りしめた。
「鬼魔将様……?」
 俺を裏切るなと言う彼の声が、未だに耳に残っている。
 あれは朱天が阿羅醐の許を離反して捕らえられ、水牢に投獄された時の記憶だ。朱天は鎖に吊されたまま、気を失うまで嬲るように犯された。
 生々しく再生された痛みと恐怖の記憶に感情が制御出来なくて、嗚咽をこらえ必死に息をする。無理矢理にでも呼吸をしないと、窒息してしまいそうだった。
 ふと、ぬくもりと重みが肩を覆った。びくりとして身を硬くする。「鬼魔将様」と優しい声音が耳許でした。
「辛い夢をご覧になりましたか」
 顔を上げると、すぐそばに荊木の眸があった。切れ長の澄んだ黒の眸が、朱天を映し穏やかに微笑んでいた。
「お一人で堪えなくてもよいのですよ。わたくしがお側におります」
 そっと引き寄せられ、そのぬくもりに一瞬気が弛んで涙が滲みそうになる。堪えようと眼を閉じる。衣擦れがして、ふ、と吐息が唇に触れた。
 がらり、とふすまが開く音がした。弾かれたように身体を起こす。間をおかずに部屋の障子が無遠慮に開いた。
「螺呪…羅」
 全身が強ばってかすれた声しか出せなかった。着流し姿の螺呪羅が睥睨するように朱天を見る。代わりのように、荊木が螺呪羅の前に駆け寄り膝を付いた。
「鬼魔将様はお加減が優れませぬ。なにとぞ、今宵はご容赦くださりませ」
 螺呪羅の視線がうずくまる男に向けられる。藍玉の隻眼が冷たく凍る。
「なんだ、貴様」
「お願いでございます、幻魔将様。今宵ばかりはなにとぞ」
「貴様に指図されるいわれはない」
「お願いにございまする」
「くどい!」
 螺呪羅が荊木の肩を蹴った。背後に飛ばされるように崩れる姿を一瞥もせず、螺呪羅は朱天に歩み寄る。
 朱天は瞬き一つ出来なかった。その眸に射貫かれて、心の臓が狂ったように早鐘を打つ。朱天の前に膝を付いた螺呪羅は、無言のまま手を伸ばし、硬直した朱天の頬をなぞった。その手が頤にかかる。
「幻魔将様、おやめください!」
 荊木の切迫した声にやっと我に返った。彼を振り返り、声を張る。
「下がれ、荊木」
「鬼魔将様」
 このまま荊木が食い下がれば、螺呪羅に斬られかねない。
「お前が口を出すことではない。下がれ」
 荊木はひどく悲しげな顔をしたが、朱天の表情を見て取り、そのまま顔を伏せた。
「……かしこまりました。差し出がましい真似をして、申し訳ありませぬ」
 障子の開け閉てする音を聞いて視線を戻すと、眼前の螺呪羅は酷薄な笑みを浮かべていた。
 また早まる鼓動が朱天の思考を乱していく。
「いい雰囲気のところを邪魔をしたようだな」
「邪魔……?」
「俺では物足りなかったということか? それは済まなかったな」
「何の、ことだ」
 螺呪羅はゆっくりと笑う。
「これでもお前の身体を気遣って、加減してやっていたのだぞ。お前がおのれの手の者にまで手を出すほど色狂いと知っておれば、毎夜喉が嗄れるほど鳴かせてやったものを」
 朱天は眼を見開いた。まるで同じ顔をしていた。あの時と同じ表情。同じ責めの言葉。その指がざらりと頬を伝い、唇をなぞる。凍った眸が朱天を刺す。
 違う。心が悲鳴を上げる。もう嫌だ、同じことを繰り返すのは。
 夢を、過去の記憶をなぞる恐怖から、身体を縛り上げる硬直を必死で振り払い、朱天は叫んでいた。
「違う!」
 睨むようにして彼を見る。
「私が閨を共にしたのはそなただけだ! 昔も今もそなたしかおらぬ。なのになぜ……!」
 言葉が続かない。視界が揺らいでいく。堪えようとしても、吹き出した感情の抑えが効かない。
 子供のように涙が頬を滑り落ちて、嗚咽の声が漏れた。こんな醜態を彼に見せたくはないのに。俯いて顔を手で覆う。それでも涙が止まらない。苦しい。いっそ消えてしまいたい。
 舌打ちの音がして、肩を乱暴に掴まれた。びくりと身体が跳ねる。引き寄せられながら片手で頤を持ち上げられ、顔を上げさせられた。
「泣くな」
 間近で見つめるその眸から、凍てつくような光は消えていた。どこか戸惑ったような顔をしながら、節ばった長い指が涙に濡れた朱天の頬を拭う。
「もう泣くな。俺が悪かった。言葉が過ぎた」
 彼の手が後頭部に触れ、大きな手が、そっと、ぎこちなく髪を撫でる。
「螺呪…羅……」
 泣くなと言われたのに、涙がまた溢れ出す。一度外れてしまった箍が元に戻せないまま、朱天は彼に手を伸ばした。その背に手を回し広い胸に顔を埋める。ずっとこうして触れたくて、だが許されないと思っていた。
 螺呪羅が朱天を抱き締め返す。髪に埋めるように頬を寄せて、もう一度呟く。
「悪かった」
 彼のぬくもりが、身体中を包む。それだけで、気が遠くなるほど救われた気がした。




 



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