恋々 燭台のゆらめく灯に切り取られた影が、絡み合い障子に揺れる。 風の音もない夜半に、聞こえるのは衣擦れと乱れた呼気。時折、かすれた細い声が混じる。 敷布の上に組み敷かれ晒された朱天の肌は、糖蜜色の光の下で白く浮き上がって見える。濡れて艶めいて見えるのは口吻けの跡だ。点々と紅い鬱血が刻まれた胸は、浅い呼吸に上下している。与えられる刺激から逃れるように揺れる腰。汗ばむ首筋に絡む紅い髪。あがく足を掴みその太股の内側にきつく口吻けられて、顎を跳ね上げ、耐えかねたような高い声を上げる。 「もう……やめ……っ」 「欲しいか?」 低く囁かれた声に涙が滲む。早く終わらせてしまいたい。 「……も……いや…だ……」 螺呪羅は殊更ゆっくりと朱天を抱く。焦らすというより朱天の痴態を観察しているかのようで、無理矢理掻き立てられた欲求をいつまでも遂げられない苦しみと、羞恥だけが募る。 こんな逢瀬は苦痛でしかない。 それなのに、待ちわびたその場所に触れられると、脳裏が真っ白になるほどの快感に酔わされる。もっと触れてほしいと、深く奥まで抉ってほしいと、我を忘れて縋り付いてしまう。 「あっ……あああ……!」 侵入してきたその衝撃と圧迫感に、朱天は意味をなさない悲鳴を上げる。 螺呪羅のなすがままに翻弄される身体は、朱天の意思など置き去りにして全身で彼を欲していた。 あの夜以来、毎晩彼の屋敷に通い、抱かれた。 まだ陽の高いうちから彼が朱天の部屋を訪れ、求められる日もあった。 幻覚を見せられたのは始めの数度だけだったが、身体は簡単に彼の手管に流されるようになった。 抱かれるのは怖かった。幻術に堕とされ朦朧とした意識の中での行為とは違って、触れられる感触もおのれの痴態も螺呪羅の冷ややかなまなざしもはっきりと認識してしまう。乱れる朱天を組み敷く彼は対照的に至って冷静で普段と全く変わらない。ただ、閨に朱天の喘ぎだけが流れる。 螺呪羅に抱かれた後は、搾り取られたように心も身体も全てが虚ろになる。冷えていく身体を感じながら、同じように心も冷えていく。それが苦しく、情けなかった。 それでも、それが彼への償いであり彼がそれを求めている限り、朱天は彼の許に通い続けなければならない。 夕刻まで伏せって、ようやく起き上がれるようになった身体を引きずり、自室を後にする。螺呪羅はいつものように杯を片手に部屋で待っているはずだ。 怠さと目眩とで、まっすぐに歩くことも辛い。 見かねた近侍が何度も那唖挫を呼ぼうとしたがかたくなに拒み、さしのべる手を振り払って、一人で彼の部屋へ向かった。ただ歩くだけで息が上がり、渡廊を渡ったところでこらえきれずに蔀戸にもたれかかった。視界が暗く歪む。頭が重い。 ずるずるとその場に膝をつく。 「おい、どうした!」 自分の鼓動の向こうから聞き慣れた声がした。肩を掴まれ、吐息が頬に触れる。声の主が朱天の顔を覗き込んでいる。顔を上げて見上げたつもりだったが、暗く霞んだ視界でははっきりと彼の顔を見分けることが出来なかった。 「悪奴…弥守……」 「お前、また無茶したのか」 ふわりと身体が持ち上げられる。横抱きに抱き上げられて「那唖挫のところへ連れて行くぞ」と告げられ、朱天は手探りで彼の襟を掴んだ。 「降ろしてくれ。しばらく休めば収まる」 悪奴弥守がいぶかしげに立ち止まった。 「診てもらえ。顔色悪いぞ、お前」 「大袈裟にしないでくれ。本当に大したことではないのだ」 暗がりから戻ってきた視界を埋めるように悪奴弥守が覗き込んでくる。朱天は眼を伏せて首を振った。 しばらくそうして朱天を見つめていた悪奴弥守は、小さく吐息して朱天を抱え直すと歩き出した。 「悪奴弥守」 「俺の部屋へ行く。お前の部屋より近いだろ。少し休んでいけ」 呆れた口調で続ける。 「どうせ言い出したら聞かないんだろう。まったく……螺呪羅の言う通りだな」 鼓動がびくりと乱れる。何故そこで螺呪羅の名が出てくるのか。 風呂上がりなのだろう。悪奴弥守の髪から温かな湯の匂いがする。口を引き結んだ横顔はそれ以上の言い分は聞いてくれそうになく、朱天はぎこちなく彼の肩にもたれかかった。 悪奴弥守の屋敷は天守閣を中心として北側にある。四魔将の屋敷は天守閣の四方に配されていて、朱天の屋敷は東、螺呪羅は反対の西、那唖挫は南にあり、それぞれが城と渡廊でつながっている。 屋敷はそれなりの広さがあり、屋敷内で不自由なく暮らすことも勿論出来るのだが、皆なんとなく二の丸の広間で食事を摂ったり飲んだりたむろしている。いつでも入れる広い湯殿も二の丸にあり、悪奴弥守もそこで湯を使ったようだった。 悪奴弥守は北の屋敷に入り、既に用意されていた床にそっと朱天を横たえる。普段のがさつな言動とはかけ離れた動作に意外に思って見上げると、悪奴弥守は眉間にしわを寄せながら、傍らにどっかりと腰を下ろした。 「軽すぎる」 何のことを言っているのか分からず瞬く。悪奴弥守は無造作に手を上げて朱天の頬に伸ばした。触れる温かな掌の感触に、意識とは無関係に身体がぴくりと緊張する。 「やつれた顔しやがって。大の大人がこんな軽くてどうするんだよ。ちゃんと寝てんのか。飯は食ってんのか」 見つめてくるその顔は真剣で、本気で朱天を案じていることが伝わってきて、我が身を省みて居たたまれなくなった。 「……んな顔すんな。俺が虐めてるみたいじゃねぇか」 頬から離れた掌が、頭をくしゃくしゃと撫でる。 「……済まぬ」 「訊かれるの、嫌か?」 かすかに頷く。悪奴弥守は溜息をつき、頑固者めと呟いた。 「言いたくなった時でいいから、なんか悩みがあんなら言えよ。聞くから」 「済まぬ」 「謝んなって」 憮然としたように視線を逸らす悪奴弥守の横顔を見て、何故か急に身体の力が抜けた。急に眠気が漂い出す。先刻まで床に伏していたというのに。たったあれだけ歩いて、疲れてしまったのだろうか。 「朱天?」 眼を閉じてしまった朱天に悪奴弥守が声をかける。どういう訳かまぶたを開けることも叶わなくなってしまって、朱天は口だけを開いた。 「少し……眠らせてくれ」 「疲れてんならいいけど……大丈夫か?」 「ああ」 引きずり込まれるように眠りに落ちていく。ああそうか。悪奴弥守は眠りの闇を守護する鎧玉の持ち主だったな。 ぼんやりとした思考もすぐに溶けるように霧散した。 意識が戻ってはっとした。辺りはしんと静まり、燭台の灯りが天井から部屋の隅に濃い闇を淀ませていた。 「起きたか?」 上肢を起こすと、刀の手入れをしていた悪奴弥守が顔を向ける。抜き身の刀身が灯りを弾いて、眩しくて眼を細めた。 「少しは顔色もよくなったみたいだな」 「どのくらい、眠っていた?」 「そうだな……もう子の刻あたりだから、二刻ほどか?」 血の気が引く。朱天は慌てて立ち上がった。 「朱天?」 「用があったのだ。済まぬ。邪魔をした」 「おい、待て。お前大丈夫か」 悪奴弥守が呆れたような顔で呼び止めたが、済まぬ、と振り返るのもそこそこに部屋を後にした。 頼りない灯籠の灯りが揺れる廊下を急ぐ。いつも彼の屋敷へ向かう刻限より随分遅くなってしまっている。もう待っていないかもしれないし、怒ってどこかへ行ってしまっているかもしれないが、とにかく交わした約束は守らなければ、と早足は小走りになった。 渡廊を渡り、西の屋敷にある彼の居室の前まできた時には情けないことに少々息が上がっていた。 開けようとして、先に開いた障子に驚いて手を引く。螺呪羅がそこにいた。 「どうした」 謝罪を口にしようとしてそれも先を越され、朱天は息が上がっていることもあって口ごもってしまった。螺呪羅が腕を伸ばす。守るように室内に引き入れられ、顔を覗き込むその藍玉の眸は常とは違い、ひどく真剣だった。 「何があった」 朱天を案じている───? 遅れたことへの懸念だと思い、朱天は慌てて口を開いた。 「済まない、少し眠ってしまって遅れてしまった」 「……それで走ってきたのか」 「済まぬ」 螺呪羅は意外なものを見るような顔をして、それから溜息をついた。 「そんなことで息を切らせて走るな」 確かに、こんな夜更けに何事かと思うだろう。人騒がせも甚だしい。もう一度済まないと謝罪しようと口を開きかけたその頬に、右手が触れた。頬にまつわりついた髪を払い、大きく温かい掌がそっと包むように撫でた。 「身体は、大事ないか?」 その感触も声もひどく優しくて、さらに不興を買ったとばかり思っていた朱天は、ふっと気が抜けそうになった。 「朱天? どうした」 顔を上げていられなくなり、面を伏せ、首を振る。 こんな風に声をかけられたことなど、いつぶりだろう。どうして。どうしてたったそれだけのことで、こんなに心が乱れるのだろう。 俯いたまま、触れあう彼の袖の端をそっと握った。それ以上は近づけない。自分から寄り添うことも出来ない。 「螺呪羅……済まなかった」 狡い謝罪の言葉は、ともすれば涙が混じりそうで、何度も息を飲み込んだ。 螺呪羅は黙って肩を抱いていてくれた。 |