恋々


 その日も朝餉を済ませた後、朱天は本丸に向かった。
 この元は煩悩京と呼ばれた町や、この邸内に明確な自治組織は存在しないのだが、金銭のやりとりや揉め事などの雑事を取り仕切る者は必要で、魔将達が交代でその役についていた。
 とはいえ、邸外に出る仕事は他の魔将が受け持つ為、快復してからはもっぱら雑事を引き受けるのが朱天の役目になっている。
 それはそれで構わない。文机の前に座り書簡に目を通して片づけることは苦ではない。
 ただ、何か取り残されたような気分になるのも否めなかった。
 だからこそ無理にでも鍛錬を積もうとしていたのだが、あの日以来、それも出来なくなった。
 自室とこの執務の部屋を行き来する他は、ほとんど籠もりきりになっている。
 実務以外のことで、誰とも接したくなかった。他愛のない会話ですらほんの少しでも心を許してしまえば、今顔を覆っている無表情の仮面は簡単にはがれ落ちてしまいそうだった。
 朱天は未だ決心がつかずにいた。螺呪羅の要求に対して。
 自分が慰みものになることに対して。
 だから誰とも会いたくなかった。




 日も暮れかけた頃に、帳簿が合わないところがあると話を持ってこられ、仕事を片づけるのが遅くなった。
 灯籠に照らされた廊下を渡って二の丸の広間を通りかかると、ちょうど都の外での小競り合いを収めてきた悪奴弥守と螺呪羅にかち合った。
 反射的に足が止まり、螺呪羅と視線が合う。藍玉の隻眼は無表情に眇められ、す、と逸らされた。
「朱天!」悪奴弥守が歩み寄り、親しげに肩を抱く。
「大丈夫か、お前。しばらく見ないうちに、なんかやつれてないか?」
 覗き込まれて、かろうじて唇を動かす。
「いや…何ともない。迷惑を掛けた…」
 視線が逸らせなかった。彼の深い怒りに触れた気がした。
 胸底から身体が冷えていく。
 自分は憎まれているのだ。
 心配する悪奴弥守の言葉は聞こえなくなっていった。




 袖から入り込んだ夜風が肌を冷やしていく。必要以上に肌寒さを感じる腕を押さえて、粟立ちそうになるのを押さえた。
 彼の部屋へ赴こうと決めたのは、普段ならとうに床につく刻限だった。
 夕刻見たあの冷えたまなざしが脳裏にちらつくのが、耐えられなかった。憎まれたことが過去なかった訳ではない。朱天が主君を裏切り彼らと袂を分かった時、彼が朱天に向けたのは怒りだった。連れ戻され水牢に投獄された朱天の前に現れた彼は、冷徹なまなざしで激高していた。その笑みさえ浮かべた藍玉色の隻眼を思い出す。
 あの時は、それでもいつかはわかり合える日がくると信じていた。たとえ敵対しようとも仲間であることは変わらないと、その気持ちに揺らぎはなかった。
 だが今は。
 散々逡巡し、止まってしまいそうになる足を叱咤して、ようやく彼の部屋の前に辿り着く。
 声を掛けてから障子を開けると、螺呪羅は床柱にもたれ、だらしなく手酌を傾けていた。
 ちらりとこちらに眼を向けただけで、また無関心に杯をあおる。
 ここにきてまで怖じ気づく身体を無理に動かし、中へ入って障子を閉める。向き直る。それでも彼は視線もくれない。二人の間に積もる沈黙が痛い。燭台の蝋燭が燃えるかすかな音がやたら大きく聞こえて、追い立てられるように口を開いた。
「螺呪羅」
 かすかに脅えた声だったかもしれない。名を呼ぶと、ようやく顔をこちらに向け正面から朱天を見返した。
 その、決して酔わない眸が、いつぶりかで朱天をまっすぐに見つめる。
 燭台の灯りに光を弾く、冷たい隻眼。
「何だ」
 朱天は軽く拳を握った。
「そなたに言われたことを、ずっと考えていた。確かに私の行為は、そなた達には許し難い裏切りだっただろう。迦雄須の務めを継いだことはともかく、迦遊羅を助ける為にしたことは、確かに私の独りよがりだったかもしれない。そして今の私には、もはや何の力もない。戦に出ることも出来ぬ。
 償う方法は……そなたがそれを望むのであれば、そうするしかない。だから、」
 どうしても震える息を吸い込んだ。
「抱かれに来た」
 螺呪羅は眉を寄せて朱天の話を聞いていたが、わずかに沈黙した後、
「……ほう」
 ニヤリと唇を歪めた。
「それはたいそうなご決断だ。わざわざ己が身を差し出しに来た、とな?」
 杯を置いた朱塗りの御膳を乱暴に押しのけ、立ち上がる。
「償いか。確かに、俺はそう言ったな」
 皮肉げに口の端を上げたまま歩み寄り、いきなり朱天の顎を掴んだ。
「償ってくれるというなら、ありがたく施しを受けるとしよう」
 藍玉の隻眼が鋭利に朱天を刺す。何故かその眸に苛立ちがあった。反射的に引きかけた身体を腕を掴んで引き寄せ、螺呪羅は酷薄に笑った。
「たった今から、お前は俺のものだ」
 後悔の文字が脳裏を過ぎった。あの水牢でのことがよみがえる。咄嗟に離れようとしたが、うまく足を掬われあっという間に床に押し倒された。
 彼の重みが身体にかかり、肌が粟立つ。
「やめ……螺呪羅!」
「案ずるな。馴れぬ者をいたぶる趣味はない。幻に堕としてやる」
 螺呪羅は幻術の使い手だ。幻に堕とすという言葉にはっと身構え、皮肉げに笑う瑠璃の隻眼から眼を逸らそうとした時には、身体がふわりと浮き上がっていた。いや、五感がそう錯覚している。
 酔ってしまったような緩慢な意識を振り払おうと頭を振ったが、たよりなく視界が揺れただけだった。急速に五感が遠くなる。視界はおぼろげにぼやけ、衣擦れや自分の息づかいも聞こえなくなっていく。それなのに触れられることで与えられる、身体の芯が痺れるような感覚だけは、鋭敏に意識を刺激した。
 胸や内股をゆっくりとなぞられる。それだけで頭が痺れて、無意識に声が洩れる。それも身体の奥底から競り上がってくる熱に溶かされて、すぐに何もかも分からなくなった。
 ただ、快感の坩堝に墜ちてしまったように、身体中が刺激に震え、喘ぎ、歓喜する。
 何をされているのかも分からないまま、朱天は貫かれ、受け止めきれない快感に啜り泣いた。
 螺呪羅に縋りつき、甘くかすれた艶声を上げながら。



 



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