恋々


 視界が暗く歪んで見えた。
 聞こえていたはずの鳥のさえずりや風のそよぎが、すぅっと遠ざかる。
 感覚のなくなった手から、木刀が取り落ちた。玉砂利の上に落ちた鈍いその音さえ聞き取れなかった。
 耳が自分の荒い呼吸だけを朦朧と聞いている。
 相手をしていた悪奴弥守が、木刀を下げて訝しげに覗き込んできた。
 大丈夫だと言おうとした。だが唇が動かなかった。
 表情を変える彼の声を聞き取れないまま、朱天はその場にくずおれた。




「おぬし、まさか人の言葉が分からぬとでも言うつもりか」
 目いっぱい不機嫌な顔で睨み付けると、布団に寝かされた朱天がしゅんと眼を伏せた。
 「済まぬ」と殊勝な顔を見せるのは結構だが、本気でそう思っているならこう同じことを何度も繰り返すはずがない。
 朱天を担ぎ込んだ当の悪奴弥守も、那唖挫の顔を見るなり状況を察してさっさと姿を消してしまった。あいつも同罪だ。あとでしっかり絞ってやらねばなるまい。
「おぬしは、何度俺の手を煩わせれば気が済むつもりだ」
 これで三度目だ。まったく、何故まだ肌寒い早朝から、自室を開放して自業自得の患者の面倒を見なければならないのか。
 朱天が倒れたのはいずれも剣の稽古中で、悪奴弥守が二度運び、一度は迦遊羅が一人では連れてこれずに使いが出され、那唖挫が出張する羽目になった。
薬草を煎じる複雑な匂いの湯気と、開け放った障子から流れ込む朝の冴えた空気が、複雑に入り交じり鼻孔をかすめる。
 那唖挫は思い切り溜息をついて、まだふらつく朱天を手伝って上肢を起こし、煎じた薬湯の湯飲みを差し出した。湯気の立つ湯飲みを見つめ、朱天がかすかに顔をしかめる。毎回同じ顔をするのは分かっているが、良薬は口に苦し、だ。患者の立場で文句を言ったらどうなるか、それは朱天も心得ているだろう。
「鍛えても無駄だと言っただろう。いい加減諦めろ」
 追い打ちをのように言葉をかけると、彼はますます渋面になった。
「……まことに、おぬしの言う通りなのか」
 ぽつりと返す。現に何度も倒れておきながら、それでも朱天はそのたび尋ねる。
 那唖挫はそっけなく、きっぱりと答えた。
「そうだ」
「万が一、ということはないのか」
「ない」
 朱天が口をつぐんだ。哀しい顔をして薬湯を見つめる。これではまるで那唖挫がいじめているようではないか。実際、腹を立ててはいるが。
 溜息をついた。
「おぬしは死にかけた時に、全ての力を使い切ったのだ。身体そのものがいくら回復しようと、もうかつての力は戻らぬ。いくら鍛えようとしたところで、鬼魔将であった頃のように暴れることは出来ぬ。いい加減にせねばせっかく拾った命を落とすことになるぞ」
 聞き分けのない子供に言い聞かせるように説明するのだが、その横顔はいっこうに面を上げない。
 気持ちは分かる。だが現実は現実だ。
 仕方なく、しょんぼりとする朱天の肩をぽんと叩いた。
「おぬしは、既に役目を果たしたのだ。それで良しとしろ」
 それでも朱天は、素直に頷こうとはしなかった。




 かつてこの妖邪界を支配していた阿羅醐との最後の戦いの時、朱天は妖邪に操られていた迦遊羅を命を賭けて呪縛から解き放った。
 全ての力を使い果たし一度は死の淵に落ちたものの、仲間の尽力で辛うじて命は取り留め、朱天は戦いが終わってのち一月ほど昏睡状態にあった。
 ようやく目覚めた時、誰もが喜び、一人死に急いだ朱天を責めた。
 この妖邪界は、現世界で死んだ魂が浄化され生まれ変わるまでの滞在場所、霊界の片隅に、阿羅醐が作り上げた異空間である。
 現世界の乱れは、そのまま妖邪界の乱れに反映される。
 戦争が勃発して多くの命が失われたり、世界各地で治安が悪化してむごい殺され方をする者が増えれば、妖邪界にも汚れた魂が集い、妖邪となって戦乱が起こる。
 逆に、妖邪界を含めた霊界が乱れれば、魂が完全に浄化がなされないまま転生してしまい、現世界の乱れにつながる。
 現世界は今乱れているのだろう。阿羅醐亡きあとも妖邪界に平穏は訪れなかった。
 目的を失い、元の世界にも戻ることの出来ない魔将達にとって、浄化の力を持つ鎧玉を用いてこの魂の世界の守人となることが、新しい任となっていた。
 だが、朱天はその任に加わることを許されなかった。身体が癒え、一応は不自由なく動き回ることができるようになっても、討伐に加わることはことごとく止めおかれた。
 剣を取り戦うことは出来る。だが体力が続かずすぐに息が切れる。剣を支えられなくなる。以前では考えられなかったことだ。朱天が拝命した鬼魔将の名は、一の魔将として他の魔将の上に立つものだった。トルーパーと刃を交えるまで、ただの一度もその名を汚したことはなかった。
 あり得ないはずの現状を、どうしても朱天は認めることが出来ずにいる。
 命をかけて使命を果たしてもなお、己を恥じている。
 ゆえに、無理をしてでも稽古に励むのだろう。何度倒れ、そのたび那唖挫に諭されても。 それが性分ならば余人が口を挟むことではないが、恥じるがゆえに思い詰めた方向へ傾いてしまうのではないか。
 きっちりと伸ばした背筋を見つめていると、時折痛みに似た危惧が過ぎる。




 渡り廊を渡ったころから昼日中にはまったくふさわしくない物音が聞こえてきて、悪奴弥守は顔をしかめた。
 耳がいいからこんな場所からでも直接目撃する前に気づくことが出来るのだが、あえて耳をそばだてて聞きたい音でもない。僚友の淫卑な睦言など。
 廊の端から悪奴弥守は怒鳴った。
「螺呪羅ー!」
きゃあ、という若い女の声が上がり、ごそごそという衣擦れのあと、襟元を乱したままの乱れ髪の女が部屋から飛び出した。
 真っ赤になってすれ違い走り去る女を溜息で見送っていると、開いたままの障子に手をかけ、乱れた着流し姿の長身の男がさも面倒くさげに顔を出した。
「何だ」
 硬質の藍玉色の右眼を悪奴弥守に向け、不機嫌きわまりない声で言う。顔の左半分はだらりと落ちた淡い銀髪に半ば隠れているが、その下の隻眼を隠す眼帯さえ彼の美貌の妨げにはなっていないようで、いつ来ても女共が入れ替わり立ち替わり彼の部屋には入り浸っている。
 つくづく嫌味な顔だ。
「邪魔して悪いな」と思ってもいない言葉を挨拶代わりに口にしながら、悪奴弥守は彼の部屋の前まですたすたと歩み寄った。
「朱天のことだが」
 髪を掻き上げる螺呪羅に、前置きなしで言う。
「あいつ、また倒れたぞ」
 彼は特に表情を変えなかった。
「そうか」
「そうかじゃねーだろ。昼間っから女といちゃついてないで、お前もちゃんとあいつに言って聞かせろよ」
 螺呪羅はだらしなく柱にもたれかかり、腕を組む。
「どうせ、お前らが散々言っているのだろう?」
「それでもあいつが言うことを聞かないから、年長者のお前に説得しろって言ってんじゃねぇか!」
 螺呪羅は鼻先で笑った。
「あれが、人の言うことなど聞くものか」
「……あのなぁ」
「放っておけ。そのうち諦めもつくだろう」
 他の誰でもない螺呪羅と話をしているのだから、これでも最初から随分諦めてはいるのだが、それでもこめかみがひくついてくる。朱天が死にかけていた時、他の誰よりも蒼白な顔でずっと朱天の側に付いていたのはこの男なのだ。だからこそ、誰よりも親身になって彼の心配をしてくれるだろうと思っていた。朱天も、最年長者だからかこの男の意見は聞き入れることが多いのだ。
「お前、朱天のことを何とも思わねぇのか。病み上がりなんだぞ。この間まで死にかけていた奴が、やっとどうにか助かったっていうのに、お前、あいつが本当にくたばってもいいのか」
 それでも螺呪羅は眉一つ動かさず、冷めた藍玉の隻眼で悪奴弥守を見遣った。
「お前らの誰かが、いつでもあれに付いて面倒を見ているのだ。倒れたところで野ざらしになることもあるまい。お守りはお人好しなお前らに任せる」
 ぷつ、と我慢の糸が切れた。元々、悪奴弥守の持っている糸は細いものだから、切れるのも早い。
「ああ、そうかよ。お前はそういう奴だったな」
 まったく、こんな面倒くさがるのが特技の男に相談したのが間違いだった。こいつは冷徹で他人に無関心な人非人だ。思い出すのが遅かった。わざわざ真面目に話をしに来た自分自身に腹が立つ。
 悪奴弥守はくるりと踵を返し、足音荒く歩き出す。
「あーあ、ああいう冷てー奴にはなりたくねーな」
 腹立ち紛れに大きな声で言うと、背後で障子の閉まる冷たい音がした。



 随分暖かく、静かな夜だ。
 蔀戸を上げたままで夜更けを迎えた寝所に、細く開いた障子の隙間から柔らかな風がふわりと肌を撫でる。
 月の蒼さが、障子を通して畳から床までを格子に切り取っている。今宵は満月だ。
 本当なら障子を開け放って縁側で眺めたいのだが、身体に障るからと近侍が少しだけしか開けていかなかった。
 その隙間から、藍色に透き通った夜空に丸い金の月が浮かぶ。
 実際、床から起きあがるのはまだ辛い。倒れたのは早朝だというのに、まだ回復しようとしない身体に、朱天は溜息をついた。
 本当に弱ってしまった。何の役にも立たない身になってしまった。
 本当にもう、元のようには戻れないのだろうか。どんなに努力ようと、ただ周りに迷惑をかける結果にしかならないのだろうか。
 廊の板張りを踏む音が遠くから聞こえて、朱天はふと我に返った。こんな時刻に自室を訪れる者はそうはいない。
 隣の間を開く音がして、仕切のふすまが開かれる。朱天は伏したまま顔を向けた。こんな風に唐突に彼が訪れることは珍しくはないが、小袖の襟元が緩んでいないのは珍しかった。藍玉の隻眼を見ても、酔ってはいないようだった。もっとも、この男の眼が焦点を結ばないほど泥酔しているところなど、朱天は見たことがないが。
 そうしてきちんとした格好をしていると、誰もが一目置きたくなる隙のない男だった。
 螺呪羅は黙ったままふすまを閉め、朱天の枕元へ腰を下ろすと手を伸ばしてきた。前髪を掻き上げ、繊細な指と大きな掌がひんやりと額に触れた。
「熱はないようだな」
 朱天が倒れたことを知っているらしい。聞いたのか? と尋ねると、
「悪奴弥守が俺がお前に言い聞かせろと、押し掛けてきた。おおかた那唖挫あたりに、何故倒れるまで止めなかったと責められでもしたのだろうな」
 薄い笑みを浮かべて言った。
 今朝のことで、悪奴弥守に迷惑をかけてしまっていたのか。
 何度も休憩を入れようと言う彼の気遣いを押し切って稽古を続けたのは朱天なのだ。彼が責められるいわれはない。
 朱天は眉を寄せ、眼を伏せた。
「悪奴弥守に非はない。あやつには申し訳ないことをした……」
 もう誰かを付き合わせるのは止めようと思った途端に、螺呪羅の声が釘を差した。
「一人ではやるなよ」
 見透かしたように隻眼が朱天を見下ろす。
「身体をいじめたいのなら好きにしろ。だが一人きりで倒れても手当は受けられぬぞ」
 螺呪羅はいつも、すべてを悟ったような話し方をする。朱天などよりずっと頭の切れる、聡い人間なのだ。だからつい、堂々巡りの心をゆだねるようなことを口にしてしまった。
「おぬしもそう思っているのか? 私がもう、元のようには動けぬと」
「薬師殿がそう見立てたのだ。否やはあるまい」
「それなら、螺呪羅……私に、生きている意味はあるのか? こうして皆の手を煩わせるだけの私が、生きていても……」
「言うな」
 突然、掌で口を塞がれた。その強さと、怒りをあらわにした眸に、思わずびくりとした。
「それ以上、口にすることは許さぬ」
 低く言い放ち、睨み付ける。口を押さえられたまま、茫然と見つめ返した。戦場以外でこんな激しい表情を見せる彼を、朱天は一度しか知らない。彼のもう片方の手が朱天の上掛けを剥いだのを見て、その時の感情が押し寄せてきた。
「螺呪羅……?」
 くぐもった声が、みっともなく震える。
「よせ」
 襟の合わせ目をはだけられ強引に手が差し入れられる。その手の冷たさに震えながら押しのけようとする。同じだった。あの時の冷たい手と。
 抗う両手首を掴まれた。眼を逸らせない間近で、藍玉の隻眼が朱天を射抜く。
「お前は二度、我らを裏切った」
 低く怒りを込めた声に、心の臓までも射抜かれた気がした。
「一度目は、我らに黙って阿羅醐の許を去り、迦雄須のまねごとを始めた時。二度目は……お前一人で勝手に死に急いだ時」
 返す言葉がなかった。
「済まぬ……」
「許さぬ」
 呟きを強い声が掻き消す。
「二度と許さぬ。生きる意味が見つからぬと言うなら、生きて我らに償え。お前の裏切りを、俺に、償え」
 何を、と訊こうとした刹那に、ぶつかるように唇が彼の唇に塞がれた。思わず声を上げるが、それも喉の奥に封じられてしまう。彼の舌が荒々しく、奪い尽くすように口腔を蹂躙する。状況を判断するより恐怖が先に立った。抗おうとするが、彼の身体の下でがっちりと押さえ込まれて、わずかに身じろぐことしか出来ない。
 みるみる増していく混乱と恐怖と息苦しさに涙が滲んだ時、唐突に彼が顔を上げた。その肩を無意識に押していた両腕が他人のもののようにぱたんと落ちて、朱天は咳き込み、喘いだ。
 のしかかっていた重みが引いて、身体が軽くなる。半ば放心しながら、彼と触れていた肌にひんやりと空気が撫でるのを感じた。
 彼が立ち上がり、寝所を後にする。ふすまを閉じ、隣の間の障子を開け閉てする音が消えて、朱天はぼんやりと眼を開き、暗い天井を見上げた。
   俺に、償え
 彼はそう言った。
 それがこの行為なのか?
 不意に、胸の奥からどっと感情が押し寄せてきて、朱天は腕を上げて目頭を覆った。
 裏切った代償が陵辱なのか。
 彼にそうして償うことが、己が生きる意味なのか。
 はだけられた胸が冷えていく。それでも、怒りに満ちて触れてきた手や腕の残像が、まだ身体を締め付けているような気がする。
 無性に苦しかった。
 涙があふれそうで、込み上げてくる嗚咽を何度も飲み込んだ。




 螺呪羅は、吐息して廊に落ちる蒼い月光を仰ぎ、熱のない光に眼を細めた。
 あのままあの部屋にとどまれば、きっと情欲が理性を凌駕しただろう。
 胸の奥がキリキリと痛んだ。何がそれほど痛むのか、自身でも分からなかった。
 ただ、感傷を厭うように、月から眼を逸らし、その場を離れた。
 足を向けたのは、彼を喜んで受け入れる多くの女のうちの一人だった。






表紙次頁









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