恋々




 ぐっと肩を引き寄せられて、顎が仰け反る。意識は朦朧としていて、視界が大きくぶれたこともよく分からずにいた。
「朱天」
 どこか切羽詰まった声が朱天を呼ぶ。身の内からの刺激の他は何もかもが遠いのに、口から洩れ続ける意味をなさない声に掻き消されてしまっているはずなのに、その声だけは不思議と聞き取れる。
「朱天」
 強く腕に抱き締められる。硬い筋肉に覆われた汗ばむ肌が朱天を包む。その熱さにわずかに意識が戻り、名を呼んだ。かすれてほとんど声にもならなかったが、彼は応えるように腕をゆるめ、顔を寄せて唇で唇を塞いだ。
 彼に与えられる熱に、かすかに残った意識が溶かされていく。指先ひとつ満足に動かせないのに、身体はきつく張り詰めて、彼を貪欲に飲み込みなおも快楽を貪ろうと蠢いている。
 それほどまでに、彼が欲しい、と。
 呼吸を奪うような口吻けが離れて、突き上げる力が増した。下肢から体内を貫く狂いそうなほどの刺激に、何も分からなくなる。
「朱天……」
 熱い吐息と共に耳許で囁かれる、低い声。
 悲鳴のような声を上げながら、その余裕のないかすれた声に身体を震わせた。




 肌に心地よい風が開け放した障子から吹き込んで、朱天は庭に目を向けた。白砂や松の濃い緑にきらきらと光が満ちる。穏やかな午後の風景。遠乗りにでも出掛けたらさぞ気がすくだろう。
 そんな陽光の下で身体を動かすことが出来ないのを寂しく思いながら、突っ伏してしまいたくなる身体を叱咤して、文机に向かう。
 昨夜の彼の訪問でいつものように寝込んでしまい、登城出来ずに処理しなければならない書類がたまっていた。このところ魔将に反発する輩が雑兵と何度か小競り合いを起こし、悪奴弥守から近々の出兵に備えて兵糧や武器の手配も頼まれている。荊木がしきりと身体を休めるよう進言していたが、そうも言っておられず、すぐにでも指図が必要なものは屋敷に持ち込ませていた。
 さやさやと木の葉が揺れる。淡々と書類を片付けていくその耳に、眠りを誘うような葉音に混じって、板張りを踏む堅い足音が聞こえてきた。
 側に控えていた荊木が表情を硬くし腰を浮かしかけたところへ、足音の持ち主はいつものように着崩した着流し姿で現れた。
 朱天はすぐに荊木を下がらせた。懸念を見せはしたものの、朱天の動揺のない表情を見遣ると荊木は黙って頭を下げ退出した。
 改めて訪ね人を見上げる。整ったその顔は相変わらず無表情に見えるが、以前ほどは恐れも身体の強ばりも感じない。それまで窺えなかった彼の温かみのある言動に少し触れたことで、朱天は随分と落ち着いて彼と向き合えるようになっていた。
 それにしても毎回、唐突な訪問だ。いつもならこの刻限には朱天は城に詰めているのだが、何故ここにいると知ったのだろう。
「螺呪羅?」
 銀の髪が落ちかかるその顔色が少し悪いような気がして、声をかける。彼は答えずに無言のまま歩み寄ると、文机から向き直った朱天の許に不意に身を屈め頭を抱え込むようにして口吻けた。
 乱暴に唇を割り、一方的に口腔を蹂躙していく。反射的に身体が逃げを打とうとしたが、顎と首根を押さえ込まれて身動きが取れない。その激しさに飲み込まれそうな恐怖を感じながら、同時に身体が浮き上がるような、じわりと遠ざかっていくような不思議な感覚に捕らわれた。意識と五感が急速に薄れていく。気を失ってしまいそうな朦朧とした状態にまで陥ったところでようやく彼が顔を上げ、朱天は身体中の力が抜けきってしまい、支えられるまま彼の胸に崩れるようにもたれかかった。
 かろうじて意識だけが身体の隅に引っかかっていた。一体、どうなってしまったのだろうかと、緩慢な思考がぼんやりと浮かぶ。
「朱天」
 独特の低い声が促すように名を呼ぶ。とくんと鼓動が応えた。心の臓の鼓動は徐々にはっきりと脈打ち、五感と意識を覆っていた霧が晴れていく。それと一緒に澱のようにまとわりついていた身体の怠さも薄れていく。眼を開けられるほどになった時には、明らかに違う身体の軽さにむしろ戸惑った。
 そろそろと身体を起こし、螺呪羅を見上げた。
「そなた、何を……」
 言いかけてその顔色の悪さに驚く。
「螺呪羅? どうしたのだ」
 朱天の回復を見届けて眉根を寄せて眼を閉じた螺呪羅は、朱天の肩に頭を預けた。ゆるく癖のある髪が頬をくすぐった。
「……少し休む」
 それだけ言い置いて、そのままずるずると落ちていく身体を慌てて支える。
「螺呪羅? どこか悪いのか? 大事ないのか?」
 問いかけても答えは戻らず、力の抜けた重い身体を抱えきれずに、朱天は仕方なく身体をずらし彼の頭を膝に乗せた。
 那唖挫を呼んだ方がいいのだろうかと思いながらも、眠ってしまった彼を起こすのは気が引けて、朱天はそのまま膝の上で眠る横顔を見つめていた。
 綺麗な顔だな、と思う。
 人の容姿の美醜にはあまり関心がないのだが、そんな朱天でも綺麗だと思わせるほどの彼は、きっと誰が見ても美しいと認めるだろう顔立ちをしている。それゆえに、元々感情の起伏が少ないこともあって表情が乏しく、少々機嫌が悪いだけでもより冷淡な印象を周囲に与えてしまう。誤解されやすいのだ。そして彼もそれを訂正しようとしない。
 下々の者からは幻魔将を恐れる声をちらほら耳にする。荊木などは彼を必要以上に恐れているように見える。
 本来の彼は、そのような男ではないのに。世界を斜に眺めているようなところはあるにせよ、それほど周りと違うはずもない。喜びも悲しみも痛みも、そして優しさも、彼が持ち合わせていることを朱天は知っている。そう、知っているのだ。ただそれ以上に彼の怒りに真正面から晒されたことが苦しくて、その激しさに萎縮してしまっていた。それがより一層彼の怒りを煽っていたのかもしれない。
 逃げるような真似をして申し訳なかったと、ようやく冷静になれた今は思う。
 静かな寝息を立てる無防備な横顔。
 ひどく違和感を覚えて何故だろうと考え、そういえばこの男の寝顔をほとんど見た記憶がないことに思い至った。だらしのない格好でいつも手酌を傾けているか、女御を寝所に連れ込んでいるかしか印象のない螺呪羅だが、この男が他人に隙を見せたところは見たことがない。朱天と閨を共にしても、朱天が目を覚ました時には姿を消していることがほとんどで、まれに隣に気配を感じて眼を開けると黙って朱天を見つめていた。
 朱天の前で眠ってしまうほど、疲れているということだろうか。眠ればこの顔色の悪さは少しは解消されるのだろうか。何故、彼はこれほど消耗しているのだろう。
 閉じた瞼から頬にかかる髪が寝苦しそうでそっと指先に払う。眉根が寄り、かすかに声が洩れて、慌てて手を引いた。
 その時、胸騒ぎのような感覚が過ぎり、朱天は息を止めた。気配を殺す。何かの物音。かすかな声。粘るような、目の前が暗くなるような圧迫感。
 ぞわりと肌が粟立った。この気配。忘れようもない、まさかこれは。
 ───……はどこだ
 おぞましささえ感じる声が、聞こえた。
 ───いつまで楯突く気だ……を出せ。我に差し出せ……
 地の底から這うような声が、耳に反響する。
 眩しいほど明るい庭先から、ひよどりの甲高い声が裂くようにこだました。




 螺呪羅が目を覚ましたのは、陽光が力をなくし空が葡萄色から暗い茜に染まる刻限だった。
 それまで息を殺すようにして気配を窺い気を張り詰めていた朱天は、彼のまだ目覚めきっていないぼんやりとした藍玉の眸を見てようやく肩から力を抜いた。今の自分では何の役にも立たないだろうが、それでも彼が眠りから覚めるまでは、代わりにその身を守らなければと思っていたのだ。
 朱天の膝に頭を預けたまま、螺呪羅が無意識のように朱天の手を探り指を絡め合わせる。が、その掌が緊張からうっすらと汗ばんでいることに気付き、眸から気怠げな眠気の色が瞬時に消えた。
「……どうした」
 身体を起こし、朱天を覗き込む。
「何かあったのか」
 その切迫した声と眸の真剣さに驚いた。
「螺呪羅……?」
「大事ないのか、朱天」
 螺呪羅のなまなざしが胸を突く。冴え冴えと鉱石めいたいつもの隻眼とはまるで違う、食い入るような追い詰められた眸。こんな表情など見たことがない。
 戸惑いに言葉が詰まり、結局首を振った。
「何も……」
「……まことか?」
 彼の手が頬に触れる。恐れるように、手探りで確かめるように、両の掌が、指が、ぎこちなく顔の稜線をなぞっていく。そしてそっと包み込み、彼の額が額に押し当てられた。
 触れる肌から伝わるぬくもりに、ようやく安堵したのか吐息が洩れる。
「朱天」
 名を呼んで、口吻ける。何度も触れるだけの口吻けを繰り返して、胸に抱き締め肩に顔を埋める。まるで縋るように。
「朱天」
 耳許に呼ぶ声は苦しげで、朱天は訳も分からずただされるがままに胸に抱かれているしかなかった。




 



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