神の影 8
蒼い月明かりが、まっすぐに続く夜道を白く浮かび上がらせていた。まるで蒼く沈む水の中のようだった。人影はなかった。闇に溶け込みそうな黒馬に乗り先を行く彼を追いながら、ゼクスは肌寒さを覚えて肩を抱いた。彼は決して振り向こうとしない。ゼクスが立ち止まれば、そのまま置いて行き去るのではないか。全てを拒絶するような背中を見ていると、冴えた夜気が肺に突き刺さるように息苦しかった。 黒馬は白い石門にさしかかり、その中に消えていく。その風景に見覚えがあることに気づいて、ゼクスはようやく通ってきた道筋にも憶えがあることに気が付いた。 向かっていた、レティア宮と呼ばれるゼクスの廟だった。 ステンドグラスがはめ込まれたドームから白い意志の床に、水の揺らぎのように月光が落ち、その光の中に立つ彼の横顔は、ひんやりとした廟の空気に浸されて、大理石の彫像のように蒼白く研ぎ澄まされていた。 ゼクスは瀟洒な扉に一歩踏み入れたまま、それ以上近寄ることが出来ずに立ち尽くした。 「 彼は床に安置された柩に眼を落とし、口を開いた。囁くような声音だったが、石造りの廟に声は微かに響いた。 「護るべき唯一の存在を護ることが出来なかった。その現実は私を変えた。眼に映るものすべてが、その色彩を消した。私自身を含めた全てのものが熱をなくした。この、月に支配された蒼い闇のように……それは、価値を見い出すことが困難な、孤独な世界だった」 蒼ざめた横顔が振り向き、初めてゼクスを捕らえる。月の光を受けた瑠璃の双眸が、ゼクスを見つめる。 「君が私に光を与え、そして闇を与えた。君が私を変えたのだ。その答えを、私は君に求め続けていた」 「……答え?」 声がかすれた。 「君が私に与えた希望と絶望の意味を」 蒼い月光を反す艶やかなまなざしに、吸い込まれていきそうになる。ゼクスはその錯覚に抗おうとして、微かに首を振った。 「私には、解らない……私には、過去の記憶がない……」 彼はふっと口許を緩めた。 「 「トレーズ……」 ゼクスには、答えるべき言葉がなかった。確かに残酷なのだろう。あの彼が、ここまで心情を吐露している。それなのに、ゼクスは彼に応えられない。どうしたら、何を伝えたら彼を救えるのか、ゼクスには解らなかった。 彼は眼を細め、囁くような声で問いかける。 「何故、私達は再会したのだ。何故君は、凍てついた私を再び溶かした?」 見つめられる苦しさに、喘ぐようにして答える。 「貴方が……貴方自身が、そう望んだからだ。心を溶かすことを……」 「そうだ。私は友を求めていた。かつての、君と共にあった日々を取り戻せるとは思わなかったが、この色と熱のない世界に僅かでも変化を与えてくれる存在を、私は望んでいた」 たまらなくなり、ゼクスは声を上げた。 「トレーズ、私は……私も王位を戴いた者なのです。誰かの庇護を受け、その下で安穏と生きるのは私のあるべき姿ではない。私は、貴方と対等な位置に立って同じ目線で向き合わなければ、貴方を受け入れることも、貴方に言葉をかけることも出来ない。だから私は、貴方から離れなければならないと思ったのです。決して貴方を疎んでいるのではない」 彫像のような頬が動いて、彼がうっすらと笑った。 「いっそ君を腕ずくで従わせてしまおうか。そうすれば、君を縛るものは私だけになる」 その笑んだ眸には、冗談とも本気ともつかない光が潜んでいた。ゼクスは背筋が冷たくなるのを感じながら、低く言った。 「私を隷属させる、と……?」 笑みは止まない。 「そうだ、と言ったら?」 ゼクスは息を止めた。会話が途切れ、廟は静まり返る。ひっそりと笑みを湛えた彼から、眼が逸らせなかった。彼も闇のような深い眸で、ゼクスを見つめ返している。 「来たまえ、ゼクス」 誘うように、彼が囁いた。ゼクスはぴくりと背筋を震わせた。逡巡しながらも、抗うすべはなかった。ドームの天井にためらいがちな靴音が、こつり、と響く。彼のまなざしに捕らえられたまま、ゼクスは歩みを進めた。冴えた空気が肌に痛い。手の先から熱が失われていく。彼の前で立ち止まる。彼の手がゆっくりと上がる。その指先が頬に伸び、ゼクスは身体を強ばらせた。 しなやかな指先が、頬に触れる。 「そんな顔はしなくていい」 微笑みは優しかった。そして、哀しげに見えた。 「君の翼を手折ることは、私には出来ないのだよ。君のその傲慢さも、高貴な精神も、君の全てを私は愛しているのだから」 怯えを拭うように、両手がゼクスの頬を包む。 「ただ、憶えていてほしい。私には君が必要だということを。どこにいても、それだけは忘れないでくれ」 最後は唇に吹き込むように呟きながら、彼はゼクスに口吻けた。ゼクスは彼に応じて舌を絡め合わせ、背に腕を回して抱き締めた。口吻けは優しかった。幾度も口吻けの角度を変えながら、彼の手がゼクスの身体の稜線を辿って降りていく。腰から太股の内側に手がするりと入り込んで、ゼクスは口吻けを離れて小さな声を上げた。指先が衣の上からゆったりと熱を煽り始める。声を上げた唇はすぐにまた口吻けに塞がれ、ゼクスは背をしなわせた。 緩やかに掻き起こされる快楽に、身体はすぐに追いついて焦れ始める。ゼクスは息を継ぐ間に声を漏らして喘いだ。布越しの彼の手の中で、既にそれは熱く彼への情熱を訴えているに違いなかった。ゼクスは彼にしがみつく腕に力を込め、身をよじった。足を浮かすようにして、持て余す下肢をすり寄せる。彼が微かに笑う気配が唇越しに伝わった。 彼はゼクスの背を抱きながら、ゆっくりと自重をかけてきた。後退ろうとして、足に何かが当たる。ゼクスはそのままその上に仰向けに横たえられた。硬く冷たい感触が背に伝わる。確かめた掌に細かな文様が刻まれた、石の冷たさがあった。そこは柩の上だった。 「トレ……ズ……」 息を乱したゼクスの髪を撫で、微笑みで安心させると、彼はゼクスの衣の裾を分け、広げさせた両足の間に顔を埋めた。 「あっ……」 咄嗟に声が上がる。柩の上につく両手に力が込もる。彼が口吻けた先端から、鋭い痺れが全身を突き抜け、肌が粟立った。 「あ……ああっ」 唇が奥深くまでを飲み込み、ゼクスは身をのけ反らせた。まるでその刺激から逃れたいように首を振る。何も考えられなかった。真っ白になった脳裏に火花が散っている。これまで感じたことのない激しさだった。無意識のうちに彼の身体を挟み込むようにして足を上げ、たがが外れたように大きな声を上げていた。追い打ちをかけるように、彼の腕が腰を抱きかかえ、双丘の狭間へ指が伸ばされる。ゼクスは身をよじらせたが、腰を掴む手がでそれを制し、愛撫の指先が中へ入り込んで、ゼクスは悲鳴を上げた。 前後から与えられる刺激に、身体の身長はあっという間に限界に達する。 「あ…あ……トレ…ズっ……!」 魚のように身体が跳ね、彼の口腔に欲望の証が放たれる。ゼクスは大きく喘ぎながら、ぐったりと柩の上に横たわった。朦朧とした意識はあったが、眼は開けられなかった。ひやりとした彼の手が衣を取り去った胸を撫でていく。上気した頬に掌が触れ、口吻けが降りてきた。彼の吐息が濡れた唇に触れた。 「 囁きに、ゼクスは眼を開けた。胸を掴むような瑠璃の眸がそこにあった。 「ミリアルド……」 言葉が出なかった。その名で呼ばれた少年は、既にゼクスの中には存在しない。だが、記憶のかけらすらもないはずの、その名を呼ぶ響きは、ゼクスの動悸を激しく掻き乱した。 彼のまなざしが伏せられ、茫然としたままの唇に重ねられる、髪の中に手を差し入れられ、濃密な口吻けを交わしながら、不意に激しい衝動がゼクスを襲った。果てたばかりの身体が、一瞬にしてカッと燃え上がる。今すぐに彼が欲しいと思った。今彼を受け入れなければ、身体が耐え切れずに裂けてしまいそうだった。ゼクスは首を振って口吻けを逃れ、息を乱しながら言った。 「抱いて……くださ…い……」 彼が軽く瞠目した。ゼクスは彼の肩に縋り、震える喉で息をすすり込んだ。 「お願いです、トレーズ……気が…狂う……っ」 縋り付く首根を抱いて、彼が髪の中に口吻ける。それから片足が持ち上げられ、開かされた。ゼクスは息を詰め、細く呻いた。きつく眉根を寄せ、唇を噛みしめる。入り込んできた彼は、信じられないほどの快楽をゼクスに与えていた。 「あ…あ……あ……っ」 抱き締められた腕の中で、ゼクスは全身をきつくしならせた。足先までが反り返る。抱き締めた背に爪を立て、声を上げた。貫かれて気を失いかけ、引き戻されて嬌声を振り絞る。強すぎる快感を受け止め切れずに身体が暴走していた。 爆発しそうなほどに高鳴る鼓動と、自分自身のあられもない声の向こうで、どこか遠いところから声がしていた。 懐かしい、暖かな声。大好きだった…… 甘い声が呼んでいる。 「ああぁっ」 髪を跳ね上げながら、ゼクスは叫んでいた。 「トレーズっ……!」 身体中が痙攣し、身体中の熱が放出していく。 極限まで張りつめていた全身から力が抜けていく。その途中で身体の奥に彼が放つのを感じ取り、ゼクスは小さく声を洩らした。胸が千切れるほどの至福を感じた。 しがみついていた手足から力が抜け切ってずるずると落ちていく。力をなくして柩に打ち付けているはずの頭は、彼の手が抱いていた。 「ミリアルド……」 微かにかすれた、甘い声。 自分は本当に、この声と温もりから離れることを望んでいるのだろうか。 遠く霞んでいく意識で、ぼんやりと考える。 本当に、離れても後悔しないだろうか。 答えは出ないまま、意識は急速に広まっていく闇に吸い込まれた。 ソレルが座るソファの周囲を、老人は苛ついた足取りで歩き回っていた。 「凶星が遠ざかるだけでは、何故駄目なのだ」 「距離は問題ではないのです。離れていても、大きな星は強い光を放つものです」 ソレルはゼヴィアスに話しかけながら、窓の外に眼を遣っていた。夜の闇が濃く漂う室内には、他に人の姿はない。窓からは眩しいほどの月明かりが、床へ斜めに降り注いで留まっていた。部屋の灯りも邪険にしたくなるほどの蒼さだ。こんな夜は人の心も解放される。ソレルは月の光を浴びたくなった。 「では、どうあってもあの男は殺さねばならぬということだな」 ソレルは老人に視線を戻した。 「運命の成就まで、あまり時間は残されてはおりません」 「なに?」 老人は白い眉を吊り上げた。 「その日はいつだ?」 「あと7日」 ソレルは艶やかな唇に笑みを浮かべ、歌うように言った。 「あと7日のうちに、陛下の御身に不幸が訪れる。それを退けるのはとても難しいですわ」 殺気立った声がソレルを遮った。 「教えろ。あの男を殺すには、何をすればいい」 「さあ。一介の占い師の身には判りかねます」 「ソレル!」 普段はトレーズとの関わりを配慮して敬称を使っているゼヴィアスが、荒々しくソレルを呼び捨てた。 「そなた、陛下から賜った御恩を忘れた訳ではあるまいな」 鉱石のような苛烈なまなざしを差し向けられても、ソレルは悪びれた様子もなくにこにこと笑みを浮かべた。 「とんでもございません。この命は陛下に戴いたもの。どんな些細なことでも陛下のお役に立つことが、わたくしの使命ですのに」 「ならば、今役に立たずにいつ働くつもりだ。陛下の御身に関わる大事だと言ったのは、そなたではないか!」 ソレルは軽く肩を竦めた。 「わたくしに、ゼクス様を殺める方法など判りません。ですが、ゼクス様に悪い影響を与える星が、今あの方の側にあることは判ります」 「星?」 「ゼクス様がお助けになった、チャクナーの兵士」 老人ははっと表情を変えた。 「そうか。あの瀕死の男を襲えば、奴は必ず庇う」 「お役に立てましたか?」 ゼヴィアスは険しい表情を一層引き締めて、頷いた。 「これで奴を仕留めることが出来る。いや、陛下の御為に必ず仕留めてみせる」 「ご武運をお祈りしております」 「ああ」 老人は毅然とした決意をぴしりと伸ばした背筋に漂わせ、部屋を出ていった。 ソレルは立ち上がり、微かに夜風の入り込む窓際に立った。月光が彼女の漆黒の衣を艶やかな藍に染める。 沈黙のうちに天井を支配する、欠けるところのない満月を見上げ、ソレルは眼を細めてそれに両手を伸ばした。 「あと少し。もうすぐ貴方の最後の予言は成就しますわよ、母様。ご感想はいかがです? これで貴方の恨みは晴れますか?」 さんさんと熱のない光が、白い両腕に、黒髪に、身体の上に降り注ぐ。 ソレルは気持ちよさそうに冴えた空気を吸い込んだ。 |