神の影 7
まとわりつく宵闇の影に頬を青ざめさせて、彼は竦んだ唇からかすれた声を上げた。 「それでは……私は…なんなのです。……私は、一体………」 危うさを感じ彼を抱き留めようと動きかけたが、途端にびくりと震える彼の過剰な反応を目にして、トレーズはその場に留まった。 手を差し伸べる代わりに、激しく動揺する彼を真摯なまなざしで包む。 「ゼクス……私も君は既にこの世の人ではないと、君を亡くしたあの日からそう信じてきた。だが、そうではなかった。9年前のあの日、君は……」 続けようとして、はっとした。転瞬、腰の剣を抜き、彼に斬りかかるように足を踏み出した。 彼が眼を見開く。彼の前で向きを変えながら、唸りを上げて飛んできた矢を一閃する。両断された矢が足許に落ちる前に、返す刃を再び振り払った。鋭い金属音と衝撃が刃に弾けて、続けざまに射掛けられた矢が跳ね飛ぶ。 トレーズは窓の外に眼を向けた。闇に飲まれかけた残照の中、中庭を挟んだ斜向かいの塔に黒いシルエットが複数見えた。 精神的な衝撃から我に返った彼が、庭へと飛び出す。トレーズと同じものを見たのだろう。 「ゼクス!」 トレーズは声を上げた。 庭を横切り、塔へと続く廊下へゼクスが飛び込んだ時、弓を手にした3人の男は既に5、6人の兵に囲まれていた。 逃げ場を失った男達は弓を投げ捨て、剣を抜いて斬りかかる。だが、取り囲む兵士の腕は、明らかにただの衛兵ではない、選び抜かれた者達の手並みだった。あっという間に2人が血を吹いて倒れ、残る一人も腕を斬られて剣を振るえなくなる。戦闘能力をなくした男へ、それでも容赦なく突き出される刃に、ゼクスは叫んだ。 「やめろ!」 だが、兵士は一瞬その動きを緩めたものの、結局止めることはなくそのまま男の腹に剣を突き立てた。 呻きが上がり、刺された男がくずおれる。ゼクスは駆け寄った。兵士らはみな無表情にゼクスを見遣っている。先に倒された二人は血糊に浸りぴくりとも動かなかったが、3人目の男はゆるゆると血を流しながらもまだ生気があった。ゼクスが男を助けようと身を屈めた時、それに気づいた兵士の一人が、いきなり剣を振り上げた。 ゼクスは咄嗟に抜刀し、とどめを刺そうとする兵士の剣を低い体勢で払いのける。 剣と剣がぶつかる鋭利な金属音が上がった。 「この男にはまだ息がある。医師を呼べ」 兵士らは、戸惑うような迷惑がっているような表情を見せた。ゼクスは声を張り上げた。 「早くしろ!」 気迫に負けて、兵士らは煮え切らない動きでのろのろと散っていく。ゼクスは膝を付き、男を抱き起こした。土気色の額に汗を浮かべ朦朧と瞼を開いた男は、ゼクスを見、途切れ途切れに呻いた。 「……おのれ、トレーズ……われらの恨みは……決し…て……」 最後まで言い切れず、男は気を失った。 ゼクスはじっと男を見つめた。この男達が狙ったのは間違いなくゼクスだ。彼ではない。 兵士が医師を連れて戻ってくる。 ゼクスは彼らを見据えた。 翌日の朝見に、昨夜の暗殺者の一件を持ち出したのはゼヴィアスの方からだった。 トレーズが座する玉座の前にうやうやしく礼を取った老臣は、いつもながらの厳しい眼で主君を見上げた。 「陛下。陛下を害する者には死罪が通例となっているはず。昨夜陛下を襲った輩にも、誅 するべきが当然と心得ますが」 トレーズは冷淡な視線をゼヴィアスに向け、答えた。 「あの者にはまだ聞きたいことがある。お前こそ、何故そのように小者の死にこだわる?」 「わたくしの耳には、ゼクス・マーキス殿があの侵入者の助命を嘆願したと聞こえておりますが」 「それが、どうしたと?」 トレーズは表情も口調も崩さない。見る者を突き放すような傲然としたまなざしは、それ故に多くの羨望だけでなく反感をも生み出すことをトレーズは知っていたが、それを改めるようなことはしなかった。そういう面には、トレーズはひどく無関心だった。不満や恐れに竦む者は切り捨てればいい。ついてくる者だけを信用し、登用する。 そういった意味では、ゼヴィアスはトレーズの信用に足りる人物だった。トレーズのまなざしにも一歩も引かず、いつでもまっすぐに見つめ返してくる。普通の者なら萎縮してしまうところを平然と口を開くその頑強さは、トレーズがまだ一介の小領主だった少年の頃から変わりない。もっとも、9年前までのトレーズには、これほどの冷淡さはなかったが。 「ゼクス・マーキス殿お一人の為に、ザインの秩序が乱れておるのではないか。わたくしはそう危惧しております」 朝見の間に集まった者達の間にざわめきが起こった。トレーズの彼に対する執心は、今や周知の事実となっている。それに意見するゼヴィアスへの、感心と危惧の両方のざわめきだろう。 トレーズはそれでも眉一つ動かさなかった。 「ゼクスが助命を求めたのは事実だが、あの者への治療を命じたのはあくまで私の意志によるものだ。あの者が何を不満に感じて私に弓矢を向けたのか、それに耳を傾けようとすることがザインの秩序に反する行為か?」 「賊の言葉など、陛下のお耳に入れるほどの価値などありますまい。人の上に立たれるお方には、望まずともあらゆる遺恨が集まるもの。そのような些細なことを気にかけておられては、強き国の統治は務まりませぬぞ」 朝見の間は張りつめた緊張に静まり返った。皆、息を飲んで二人のやり取りと聞いている。 「 トレーズが冷笑を浮かべた時だった。 不意に、緊張の糸が揺れて、入り口辺りの者がざわめきだした。ざわめきは波のように玉座に近づいてくる。トレーズは顔を上げた。立ち並ぶ人の群れが二つに割れ、その中を彼が静かに歩いてきていた。 トレーズと視線が合っても、彼は表情を変えなかった。何かをその奥に秘めたまなざしが、じっとトレーズを見つめ返すだけだった。 ざわめきに振り向いたゼヴィアスが彼を見、険しい声を発した。 「朝見の間は客分が立ち入る所ではない。戻られよ、ゼクス殿」 彼はゼヴィアスを見ることもなく玉座の前まで歩み寄ると、ゼヴィアスの隣に静かに膝を折った。白い衣の裾がふわりと舞い、真珠の艶を帯びた髪がその上に降りかかる。 「皇帝陛下に嘆願したきことがあり、この場に参上いたしました。不躾はお許し下さい」 トレーズは彼の澄んだ天色の眸を見つめながら口を開いた。 「嘆願とは?」 彼もまた、トレーズから眼を離さない。 「昨夜、陛下のお命を狙った者は、かつての我が国、エレミアの者です」 周囲が再びざわめいた。だが、それ以上に反応したのは、彼の隣にいたゼヴィアスだった。 彼は続ける。 「彼らを治める立場であった者として、彼らの罪は私が償うべきもの。また、かつての領民を救うことも、王であった私の責務です。陛下、私を亡き国の王とお認め戴けるのならば、私の命を引き換えに、あの者が犯した罪をお許し下さるよう嘆願申し上げます」 朝見の場がどよめいた。ゼヴィアスが呆気に取られた顔で彼を凝視し、トレーズを振り返る。 彼の眸は動かなかった。澄んだ淡い眸には揺るぎない強い意志と、トレーズに向ける彼の想いが見えた。信じている。そう眸は語っていた。 トレーズは静かに言った。 「よかろう。我が友である貴殿の意志を尊重し、申し入れを聞き入れよう」 「ありがとうございます」 「だが、貴殿の命を賭けるには及ばない。私を襲った者は既に深い傷を負い、たとえこの先生き延びても、その身に回復し得ない障害を抱えることになるだろう。あの者は既に罰を受けている」 ゼヴィアスがその言葉に口を挟む前に、彼は凛とした声を発した。 「それでは、私に死の次に重い罪をお与え下さい。私が陛下のお側にあれば、私を慕うエレミアの者達がまたいつ同じようなことを繰り返すやもしれません。陛下に危害の及ばぬ地へ私を追放下さりますようお願い申し上げます」 人々のざわめきが大きく膨れあがる。トレーズは僅かに眉間を寄せ、眼を細めた。それを一瞬で消し、ざわめきを振り払うように口を開く。 「それが貴殿の望みであるなら、そう計らおう」 彼はふっと微かな笑みを浮かべ、頭を下げた。 「わがままを聞き入れて戴き、感謝致します」 ゼヴィアスが信じられないものを見るように彼を睨み付けている。 「今日の朝見はこれまでだ」 トレーズは席を立った。 規則的な寝息が、時々苦しげに乱れる。宵の訪れた寝室はその他の物音もなく、ひっそりとしていた。 ゼクスは自分の私室に刺された男を運び込ませていた。男の顔に血の気はない。治療た医師の話では、腹部が深く傷付いており、助かる見込みは五分ということだった。あとは、男が生きていては都合の悪い人間がもう一度剣を突き立てるようなことをしなければ、男自身の気力が生死を決めるだろう。 靴音がして、入り口のドレープが揺れた。ゼクスは寝台の脇の椅子に座ったまま振り向き、呟いた。 「トレーズ……」 「容態はどうだ?」 彼はゼクスの側に歩み寄り、静かな声で言った。 「今は落ち着いていますが、生き延びるかどうかはこの男次第だそうです」 「この者は君の知り合いか?」 「いえ」 ゼクスは首を振った。 「では、君の王としての意識が、この者を庇ったのか」 「……どういう意味です?」 彼を振り仰ぐ。彼はいつもと変わらない穏やかな表情に微かな苦さを滲ませて、寝台に眠る男を見つめていた。 「エレミアの抵抗は、ルシュナの一件で潰 えた。たとえ生き残った者がいたとしても、そう簡単に宮殿の中まで侵入出来る力も時間もなかったはずだ」 「ご存じだったのですか……」 逆に考えれば、手引きする者がいれば厳重な警戒の宮殿内部にも侵入することは容易い。そして標的の顔を偽って教えられれば、手引きした者の意図通り、狙った人物を暗殺しようとする。 ゼクスは薄く微笑し、寝台にまなざしを戻した。 「彼はどこか……エレミアと同じようにザインに滅ぼされた国の民なのでしょう。貴方への恨みは消えないと、気を失う前にそう言っていました」 「君もそうだと?」 ゼクスは再び首を振った。 「いい機会だと思ったのです。貴方の側を離れるきっかけが出来たのだと。私は、貴方の側にいては何も出来ない。そういう自分を責めることが辛かった」 囁くように、彼が言う。 「私の存在が、君には負担だった?」 「違います。貴方には心から感謝しています。ただ、私にはエレミア王としての立場が染み付いているのです。そこから離れることも忘れることも、結局出来なかったのです。……たとえ私に、王家の血が流れていなくとも」 「ゼクス」……?」 ゼクスは薄く自嘲した。 「私なりに冷静になって考えてみました。貴方の言葉が正しいのなら、王家の嫡子である私が9年前に敵国の地で貴方と会っているはずがない。だから、私は王家の血筋ではないということになる。少なくとも先代の王の息子ではない。私に9年前以前の記憶がないことら考えても、この地で葬られたというのも正しいのでしょう。ただし、死んだというのは貴方の思い違いで、私は生きていた。その辺りの事情は判りませんが、何らかの理由であの柩を出た私はエレミアに渡り、本当の ゼクスは彼を振り返らなかった。代わりに、彼の手がそっとゼクスの肩に置かれた。 「君は毒を飲まされたのだよ」 彼は静かに言った。 「9年前、私が東国へ遠征中に、君を殺そうと謀 ったエレミアの者がいた。その者は私の部下と通じて君に毒を盛り、君を病死に見せかけようとした。遠征から戻った私が見たのは、冷たくなった君の遺骸だった。息もなく、硬くなった肌は蝋のように透き通っていた。……あの時私は、自分が泣くことの出来る人間だと初めて知った」 ゼクスは眼を見開いた。彼はゆっくりとゼクスの背に回り、椅子越しにゼクスを抱き締めた。 「だが、君が飲んだのは本物の毒ではなかった。君を殺そうとした者の仲間の中に、先代エレミア王側の臣下の手の者が紛れ込んでいた。その男は君に飲ませる薬を、仮死状態になる薬とすり替えていた。君が柩に収められた後、男は君を救い出しエレミアに連れ帰って、王位継承争いの収拾がつくまで匿っていた。君に私の記憶がないのは、その後遺症なのだろう」 彼の唇が髪を食み、耳朶に触れる。微かに疾る背筋の甘い痺れを遣り過ごして、ゼクスは言った。 「……それは、貴方の創作ですか?」 「君と共に捕虜になった、老将から聞いたのだよ。彼は君の傅役 だったそうだね。私がザインにいた頃の君を知っていると聞いて、彼は全てを話してくれた」 ゼクスは胸を抱く彼の腕に手を触れた。温かな腕。彼は低く耳許に囁いた。その声に、どこか隠し切れない哀しげな響きがあった。 「君が生まれた時、占い師が君の未来に凶事を予言したのだそうだ。君の父君と母君は、王位をめぐる争いに君が巻き込まれることを恐れて、君が自分の身を守ることが出来る年齢になるまで、国の外に君を隠した。いずれ時期がくれば、君を王位継承者として迎えるつもりだった。君が私の家の領地に名を変えて暮らしていたのは、そういう理由だったのだよ」 「それでは、私は………」 ゼクスはようやく彼を振り返った。ほの暗い灯りに煌めく瑠璃の眸が、すぐ間近にあった。 「君は間違いなくエレミアの王だ。私と共にあるより、王としての生き方を選ぶほどに」 「トレーズ……」 彼の眸は暗い感情を宿しているように見えた。その感情を押し止めようとする苦痛が見えた。 「君は私にもう一度味あわせるつもりなのか。君を失う苦痛を、悲嘆を、再び与えるというのか」 「トレ……っ」 低く呟いた唇に唇を奪われ、ゼクスは息を止めた。荒れ狂う激情を伝えるように口吻けは荒々しく唇を割り、逃れようとする舌を捕らえる。 「う…んんっ……」 掻き起こされる目眩に眼も開けていられない。翻弄される身体から力が抜けていく。呼吸が苦しくなる頃にようやく顔を上げた彼は、崩れるようにして肩で息をするゼクスに、低く言った。 「 腕の温もりが遠ざかり、ゼクスは眼を開ける。背を向けた彼は部屋を出て行こうとしていた。 「トレーズ……」 彼は振り返らない。ゼクスは席を立った。 「トレーズ!」 このまま彼は二度と振り返らない。そう思うと、急に足許が揺らぐような不安が襲った。身体が竦みそうになる。あの暗闇の夢を見た夜、恐ろしくて泣くことさえ出来なかった幼い頃の、このまま独り取り残されてしまうのではないかと脅えた、あの総毛立つ感覚が蘇った。 彼が立ち止まる。だが、振り向かない。 「この部屋は信用出来る者に警備させている。来たまえ、ゼクス」 冷淡な声を残してドレープを割り、姿を消す。 ゼクスは竦む足で闇を掻き分けるようにして、後を追った。 |