神の影 6
ふんわりと羽根に埋もれているような温もりがゼクスを包んでいた。泥のように身体が重い。だが、全てを温もりに委ねた意識は、それさえ心地よさにすり替える。 指先や身体の端々が溶けてしまったような感覚に浸りながら、深い眠りと微睡みの狭間に揺られる意識は徐々に覚醒を始める。 遠く、朝の白い光をまぶたに感じて、そこから逃れるようにゼクスは温もりに頬をすり寄せた。だが、羽根だと思っていたそれから奇妙に堅い感触が伝わってきて、目覚めに傾いたゼクスはぼんやりと眼を開けた。 「……起きてしまったか?」 顔を上げると、彼がすぐ側に見つめていた。彼の胸で眠っているうちに、いつの間にか朝を迎えてしまったらしい。昨夜何があったのか、ぼんやりとしか思い出せないまま身じろぎかけて、ゼクスは小さく息を飲んだ。 彼はふわりと微笑んだ。ゼクスだけに見せる顔だ。 「無理もない。昨夜は少し、手荒に扱ってしまった」 ゼクスの頬をそっと撫で、顔を寄せる。 「おはよう」 彼の髪が頬をくすぐる。唇に触れてくる柔らかな感触に、ゼクスは眼を閉じた。忍び込んでくる舌を受け入れ絡み合わせていけば、背筋は緩やかにしなり彼の愛撫に順応する。もう何度も彼を受け入れた身体は、すっかり彼に馴染んでしまっていた。まるで、それがずっと以前から続いていた、ごく自然なことのように。 彼と肌を重ねるたびに例えようのない安堵感を覚えた。与え合う快楽以上に、それはゼクスを引き込んだ。まるで幼子のように無防備に身体を投げ出し、安らぎの中に眠る。それは、これまで無意識のうちに求め続けていた、癒しだった。 優しい口吻けから顔を上げた彼は、後を追ってうっすらと眼を開けたゼクスを甘いまなざしで見つめ、囁いた。 「こうして君に触れていると、もう一度愛してしまいたくなる」 ゼクスは微かに笑った。 「ご冗談を」 「私は本気なのだがな」 苦笑してゼクスの額に口吻けを落とすと、彼はすっきりと鍛えられた肢体をさらして寝台を立った。 「身体が辛いなら横になっているといい。後で食事を運ばせよう」 「いえ」 ゼクスは多少の痛みを感じながら上肢を起こした。肩にかかっていたシーツが滑り落ち、しなやかな肢体があらわになる。 「食事は結構です。あまり食欲がありませんので」 衣に袖を通していた彼は、振り返ってゼクスの許に歩み寄ると、膝を付きゼクスの顔を覗き込んだ。 「あまり食事を取っていないと聞いている。どこか具合が悪いのか?」 彼に手をすくい取られるままにしながら、ゼクスは首を振った。 「いえ、そういう訳ではないのですが……」 困ったような顔に何を見て取ったのか、彼はゼクスを見つめて言った。 「考え過ぎるのは、君の悪い癖だ」 一言で確信を言い当てられ、はっとする。彼はゆったりと笑みを浮かべ、すくった手の甲に口吻けを落とした。 「君には考える時間が充分にある。だが、それは君を追いつめる為のものではない。あまり突き詰めて考えては、返って何も見えなくなるものだ。もう少し、他のものにも眼を向けてみればいい」 「他のもの、ですか」 「宮殿が気詰まりならば、街へ出かけてもいいのだよ。たまには気分をかえることも必要だ」 ゼヴィアスの部下を斬り殺したあの一件の後、彼はゼクスの処分と追放を求めるゼヴィアスの進言を一蹴し、逆にゼクスに帯刀を許し宮殿の外をも自由に出歩くことを許可した。剣があればゼクスは自分の身を守ることが出来るからだ。だが実際のところ、ゼクスがこの部屋から出ることはまれだった。 扉の向こうで近侍が朝見の時間を告げる声がする。彼は立ち上がる間際にゼクスの唇軽く唇を合わすと、優雅にマントを翻し部屋を後にした。 彼の言葉は理解出来る。だが、ゼクスの感情はそれを否定し続けている。だから食事も喉を通らない。 これでは彼に甘えて縋っているだけだ。責務から逃れて自分は一体何をしているのだ。エレミアの為に生きると誓った自分はどこへ行ってしまったのだ。 国土回復を求めるエレミアの残存勢力は、ルシュナで一掃されたと聞いた。彼の統治が完璧なものである以上、エレミアの民はあえてそれ以上の反抗を望まないだろう。だからといって、エレミアから逃れていいのかという自分自身の声を、ゼクスは無視することも出来ずにいる。ルシュナで死んだオットーやノインを、裏切ってもいいのか? 彼らはゼクスの為に死んだというのに。 裏切るというならせめて、彼らの望みに背くだけの代償がなければ、ゼクスは永遠に彼らにわびることも出来ず、トレーズを友と認めることも出来ないのだ。 「ゼクス様は、よほど考え込まれるのがお好きなようですね」 すぐ側に声を聞いて、はっとして顔を上げた。目の前にソレルが立っていた。いつの間にか、ゼクスは蔓薔薇の東屋で考え事に没頭していたらしかった。 薔薇の香りもソレルの気配も、感じる余裕がなかったらしい。 「ああ、済まない。ここは君のお気に入りの場所だったな」 立ち上がろうとするゼクスを、彼女は仕草で止めた。 「陛下のご寵愛を一身に受けておいでのお方が、まだ何をお悩みなのです?」 寵愛、という言葉にぴくりとする。ソレルはまるで悪気もない、無邪気な顔で微笑んでいる。確かに、端から見ればそう見るのが当然なのだろう。今のゼクスは彼の囲われ者だ。 今は蜂起の計画もなく、ゼクスの周りには誰もいない。 そう思い、半ば投げやりにゼクスは言った。 「私の力がないばかりに、国を滅ぼし大切な者達を死なせてしまった。それを憂えない王などいない」 ソレルはふっと笑みを深くした。 「それは貴方のお力が足らなかったからではありません。陛下が貴方を越えるお力を持っておいでだったからでしょう?」 「そんなことは判っている」 口の中に苦いものが滲む。ソレルが一歩足を進め、二人の距離を縮めた。 「いいえ、貴方はご存じないはずです。ご自分の星を」 「私の星……?」 「貴方は王として生きる運命にはなかったのですよ、ゼクス様」 彼女が何を言い出したのか、判らなかった。 「……なにを言っている?」 「貴方の運命が大きく変わったのは9年前のこと。そして貴方は、父君の突然の死によってエレミア国の王位を戴冠された」 「だからなんだというのだ」 父は次期王位継承を巡っての、勢力争いに巻き込まれて殺されたのだ。王位を争った者らは結果共倒れになり、そしてまだ幼かったゼクスが担ぎ出された。当時ゼクスは10歳だった。 くすり、と笑っただけでソレルは答えず、代わりに悪戯っぽくゼクスを覗き込んだ。 「一つ、ご忠告差し上げましょう。ゼクス様、ソレルをあまり信用なさってはいけません。わたくしは、陛下やゼクス様を困らせる為にここにいるのですから」 あまりにも少女じみた表情に戸惑いながら、ゼクスは彼女を見返した。 「困らせる? どういう意味だ」 「そう、例えば、先日ゼクス様の近侍の方が、女性を連れて宮殿をお出になられたのをゼヴィアスに知らせたのは、このわたくしです」 「な……!?」 少女のものだった微笑が、不意に艶然としてゼクスを見下ろしている。ゼクスは思わず大きな声を上げた。 「何故、そんなことを!」 「それは、わたくしが陛下と同じに、複雑で淋しい人間だから。……わたくしをお斬りになる?」 ゼクスは横に置いた剣に手を伸ばしていた。だが、それ以上動くことは出来なかった。 「君の行為がどれだけの命を奪うことになったのか、判っているのか」 「ええ。ザインに身を置く者として、それは当然のことでしょう? わたくしは、いつまでも強い陛下であって戴きたいのですもの」 ゼクスは唇を噛みしめた。悪びれもない彼女の言葉が理解出来なかった。からかうようにソレルが言う。 「貴方はお優しいから、わたくし一人を殺せないのですね。陛下と反対。わたくしは、陛下が愛された貴方なら、それでも構いませんのに」 ゼクスは微笑む彼女を睨み付ける。 「君が理解出来ない」 ソレルはまた、くすりと笑った。 「それで構わないのですよ。だからこそ、陛下は貴方にご執心される」 「一体なにが言いたいのだ!」 ゼクスは立ち上がった。 「君にこのようなことをされる憶えはない」 彼女の横をすり抜ける。その背にソレルの声がかかった。 「ゼクス様、ご存じですか? レティア宮の柩に眠る方のことを」 肩越しに振り返る。 「トレーズの大切な人だったと聞いた。それがなんだ」 ソレルの艶めいた唇が魅惑的な弧を描いた。 「あの美しい宮殿は、陛下が貴方の為に心を砕いてお造りになったのです」 一瞬、己の耳を疑った。ソレルは続けて言った。 「あの柩に収められたのは貴方なのです、ゼクス様」 「なにを……言っている?」 振り向いたゼクスに、ソレルがゆっくりと歩み寄る。こつり、と石造りの床に靴音が落ちる。 「陛下のお心を奪ったまま、貴方は9年前に亡くなられたのです」 「……私は生きているではないか。9年前とは、なんだ」 「本当に?」 魅惑的な微笑みが間近で止まり、伸ばされた細い指先が頬に触れる。 「本当にそう思われる? では、貴方はご自分のお小さい頃のことを憶えていらっしゃいますか? 父君や母君にかわいがられた記憶はお有りになる? ご兄弟やご友人と遊んだご経験は? 貴方は、9年前までの記憶を持ってはいらっしゃらないのではありませんか?」 ゼクスはソレルの微笑みから、僅かに後退った。 「それは、私が熱病にかかって、それまでの記憶を……」 「それは人から聞いたこと。貴方はそのことすら憶えてはいらっしゃらない」 「有り得ない……嘘だ、そんなことは………」 ソレルの冴えた指が、ゆっくりとゼクスの頬をなぞる。ゼクスはそれを払いのけることさえ出来ない。 「確かめてご覧になればお解りになることです。あの柩に誰が眠っているのかを」 まるで暗示にかけるように、彼女は囁いた。 「行ってごらんなさい。レティア宮へ」 ゼクスは二、三歩よろけるようにして後退り、踵を返した。東屋を出た足取りは徐々に速まり、いつの間にか駆け出していた。ソレルの言葉を否定出来るものが、ゼクスの中には何もなかった。馬を駆りレティア宮に辿り着くまで、混乱にした頭の中は同じところをぐるぐると回っていた。 そんなはずはない。確かに幼い頃の記憶はない。だが私が死んでいたなど、有り得るはずがない。私はエレミア王家直系の嫡子だ。以前にこんな国外の領地にいたはずがない。 だが、では何故、あの初めて逢った時、彼はゼクスを見てこう呼んだのだ。『ミリアルド』と。 夕刻を迎え、レティア宮はそこここに濃い影が取り付いていた。精緻 な細工に飾られた扉を押し開け、ゼクスは薄暗い廟に足を踏み入れた。無人の空間はひんやりとした静寂が漂い、息を切らせたゼクスの呼吸だけが、それを乱して響いた。 廟の中心に安置された、白い石造りの柩に歩み寄る。美しい装飾細工が施された柩の蓋を見下ろして息を飲み、そのためらいを振りほどくように、手をかけ力一杯押した。 廟の中より冷たい、湿った空気が溢れ出し、手の甲から足許を撫でていく。ゼクスは眼を見開いた。そこには敷き詰められた大輪の花が色あせて枯れていた。柩に入れられていたのはそれだけだった。埋葬されたはずの人の姿はどこにもなかった。 ゼクスは絶句し、その場に立ち尽くした。 トレーズが軍議を終えて私室に戻ったのは、陽も落ち、残照が西の空を赤く染めていた染める頃だった。部屋に彼の姿はなかった。どこかへ出かけたのだろうか。そう思い近侍を呼ぼうとした時、乱れた足音がドレープを割って飛び込んできた。 「ゼクス?」 暗い中でも、肩で息をする彼の表情ははっきりと青ざめて見えた。 「どうした。何があったのだ」 乱れた真珠色の髪を頬にまつわりつかせながら、彼は息を整えるように黙ったままトレーズを見つめた。自らを叱咤するような険しい表情は、同時にトレーズに救いを求めるようにも見えた。 近づこうとしたトレーズを恐れるように彼は壁際に後退り、そうしないと崩れ落ちてしまうかのように壁に背を張り付かせる。 「トレーズ……」 ようやく発した声は、かすれていた。 「あの柩は何なのです」 はっとする。彼は必死なまなざしで食い入るようにトレーズを見つめていた。 「貴方は、あの廟を大切な者の為に造ったと言われた。それなのに。何故柩の中が空なのです。何故遺体が納められていない。貴方の大切だった者とは、一体誰なのです」 トレーズは、す、と眼を細めた。 「 「誰でもいい、答えてください!」 彼が知りたいと問うのなら、隠すつもりはなかった。 トレーズはゆっくりと口を開いた。 「彼は今、私の目の前にいる」 彼は息を飲み、眼を見開いた。 「私が昔、唯一愛した人は、9年の月日を経て再び私の前に姿を現した。ゼクス・マーキス。そしてミリアルド・ピースクラフト。あの柩に私が眠らせたのは、君だ」 硬直した彼は、言葉を忘れたように愕然としてトレーズを凝視していた。 その長い髪先が、微かに震えていた。 |